三十四 異変
思いがけない言葉に、工作員の男は驚いて足を止めた。
だが、フランツは彼を追い越し、どんどん前へ進んでいく。
「お待ちください中尉!
敵魔導士の待ち伏せがあるというなら、ここで作戦を練り直すべきです!」
後ろから声をかける男に対し、フランツは振り向きざまに怒鳴った。
「馬鹿野郎、足を止めるな! 対策なら歩きながらでも話し合える。
とっとと俺の横に並べ!!」
置き去りにされるわけにもいかないので、男は慌てて中尉に追いつき、横並びで歩調を合わせた。
「今は何時だ?」
唐突な質問に面食らいながら、男は空を見上げた。
曇っているとはいえ、どうにか太陽の位置は確認できる。
「午後二時半くらい……でしょうか」
フランツはうなずく。
「そうだ。昼食休憩なんざ、とっくに終わっている時刻だ。
目的地は目前、せいぜいあと二時間足らずだ。恐らく到着は四時過ぎだから、日没まであまり時間はない。
それなのに、ここに留まって悠長に対策会議か?
俺たちが突然動きを止めたら、敵の魔導士はどう思う?
相手も感知魔法を使ったと判断するに決まっているだろうが!」
「あ……!」
「やっと分かったか。
いいか、俺たちは敵魔導士の存在など想定していない。感知魔法も使わず無防備に前進している。
相手にそう思わせておけば、裏のかきようなどいくらでもある」
「自分の考えが足りませんでした。
ですが、だからと言って、このまま敵の罠に飛び込む……わけではありませんよね?」
「当たり前だ、馬鹿野郎!
その前に、敵の女魔導士――確か、課長はエイナとか言ってたな。
クソっ、こんなことなら、課長にもっと詳しく訊いておくんだった……」
「中尉殿は、感知魔法で相手の特定まで可能なのですか?」
「馬鹿、何を感心している。そんなわけねえだろう。
感知魔法で測れるのは、あくまで相手の位置と魔力量の多寡に過ぎん。
だが、その魔力がとんでもない強さだった。カーン少将に劣らないレベルだぞ?
王国が魔導士の養成を始めて、まだ十年足らず。配置が始まってからは三、四年しか経っていないはずだ。
そんな連中に、あの〝子どもおばさん(カメリアの渾名)〟並みの化け物が、何人もいてたまるか!
お前はエイナという女魔導士に関して、何か知っているか?」
工作員はきょとんとした表情を浮かべた。
「自分も課長と同じです。つまりその、カーン少将の報告書を読んだ程度ですが……。
ひょっとして、中尉殿は読んでおられないのですか?」
「悪かったな、俺は現場主義なんだ。それで、その女魔導士の得意魔法は何だ?」
「報告書では、火系と水系の攻撃魔法、それと防御魔法も使うようです。
いわゆる〝万能型〟と呼ばれる魔導士ですね。
ただ、得意とするのは水系、中でも凍結魔法のようです。
ですから、ヨーゼフ中尉の威力偵察部隊も、凍結魔法の不意打ちを喰らって行動不能に陥った――というのが、我々情報部の見立てです」
「その女、カーン少将と直接やり合ったんだよな?
どんな戦闘だったんだ?」
「カーン少将は採石場跡の地下空洞に潜み、投石魔法で攻撃したようです。
エイナという魔導士は、これに対して強力な凍結魔法で対抗、身の危険を感じた少将は脱出した……というのが、戦いのあらましです」
「いくら強力な凍結魔法でも、地下にまでは届かんだろう?」
「それが……想像を絶する極低温で大気が液状化し、それが地下空洞に流れ込んだらしいです」
「はぁ!? 空気が液化するって何だよ?」
「自分に言われても知りません。報告書にはそう書いてありました。
まさか、カーン少将ともあろうお方が、話を盛るとも思えません」
「それって、絶対零度の実現じゃねえか! 人間技じゃねぇぞ……マジもんの化け物か!?」
フランツは衝撃を受けながらも、歩みだけは止めなかった。
「まぁいい。俺は通信魔導士を連れて、このまま目的地へ向かう」
「囮になられる……ということですか?」
「おお、さすがに察しがいいな。
地図を貸せ。俺が感知した敵の魔導士の位置を書き込んでやる。
お前たちは迂回してその側面か、できれば背後に出て、敵魔導士が呪文の詠唱に入ったところを襲え。
詠唱中は無防備だ。向こうもそれを知っているから、兵を前面に出して防衛線を構築しているだろう。
敵の攻撃は俺が引き受けてやるから、うまくやれ!」
工作員たちには、位置を捕捉されてしまったフランツと通信魔導士を囮にして、目的地を変更するという手段も残されていた。
だが、通信魔導士を欠いたままでは、本部の機能麻痺は解消されない。ここは一蓮托生である。
工作員たちは、魔力を持たないが故にエイナに感知される恐れがない。
彼らは二手に分かれることを選択し、それぞれの道をを進んでいった。
* *
「何で別の魔導士がいるんですか?」
ケヴィンが不思議そうな顔をした。
うんざり顔のコンラッド曹長が、エイナに代わって答えた。
「護衛に決まっているだろう、馬鹿! っていうか、何でお前は持ち場を離れてついてきたんだ?」
「だって、面白そうじゃありません?
そんなことより、敵にも魔導士がいるってことは、向こうだって小隊長のことに気づいているんじゃないですか?」
生意気な部下への叱責は後回しにして、曹長が確認するようにエイナを窺う。
「いや、その気配はないな。
敵は真っ直ぐに目的地へ向かっている。こちらに気づいたら、何らかの動きがあるはずだ」
「では、兵たちの配置はどうしますか?」
「配置も何も、敵が気づいていないんだったら、小隊長が魔法で攻撃すれば、一発で片が付くでしょう?」
ケヴィンの軽口に、エイナと曹長は呆れたように顔を見合わせた。
「あのなぁ……、そんな簡単な話ではないんだ。
敵が固まっていてくれたら、確かにケヴィンの言うとおりだ。
だが、敵は私という魔導士の存在を想定していないだけで、無警戒というわけではない。
魔導士は切り札だ。工作員は前衛として盾になり、魔導士は距離を置いて安全な位置から攻撃をする――それが常識的だ。
そしてまず間違いなく、彼らは斥候を先行させているだろう。
だからいくら不意を突いても、攻撃できるのは分散している部隊の一部だけになっていまう。
しかも、肝心の魔導士が射程に入るより、斥候と接触する方が早いはずだ」
「なるほど、だから自分たちは前衛ではなく、側面に配置されたのか……。
では、現状の配置で待機、ということでよいのですね?」
だが、エイナは首を横に振った。
「いや、敵に魔導士、それもとびきり強力だと予想されるからには、話は別だ。
恐らく魔力量からして、簡単に倒せるような相手ではないだろう。
私が囮になって敵魔導士を食い止めるから、お前たちは回り込んで敵の背後を突いて欲しい」
「突撃するのはいいですけど、魔法で焼き殺される最期はぞっとしませんね」
エイナは苦笑いを浮かべた。
「そうさせないように、指揮官がいるのだ。
曹長、兵たちは君に任せる。どうするかは分かっているな?」
コンラッドはうなずいた。
「はい。敵魔導士が呪文詠唱に入ったことを確認して突入――ということでよろしいですな?」
ケヴィンが「うへぇ……」と小声で感想を漏らしたが、エイナは一顧だにしなかった。
「そうだ。強大な魔法ほど呪文詠唱には時間がかかる。
私がどうにかして、それを使わざるを得ない状況にしてみせる。頼んだぞ、曹長!」
「お任せください! では、自分は兵たちを連れて出発します」
曹長はエイナに敬礼をしてから、ユニの方に向き直った。
「ユニ殿のオオカミたちには、我々の少尉殿を守っていただかねばなりませんが、それを承知でお願いがあります。
ここを離れてしまうと、我々は敵の位置を知る術を失います。
ですから、一頭でよいのでオオカミを貸していただけませんか?」
「そんなに畏まらなくていいわよ。ジェシカとシェンカに同行を命じておくわ。
あの子たちはある程度人間の言葉が分かるから、簡単な命令なら言うことを聞くはずよ」
「ありがとうございます」
ジェシカとシェンカのオオカミ姉妹は、帝国工作員の一行を発見して監視を続けていた。
しかし、かなり距離が近づいたことで、ユニが応援に行かせたハヤトとトキに後を任せて戻ってきていたのだ。
ちなみに、中継役に出ていた女衆もミナだけを残し、ヨミとヨーコはユニのもとへ戻っていた。
ユニが姉妹を呼んで、曹長以下の兵たちを案内しつつ、護衛するよう命じると、二頭は嬉しそうに尻尾を振った。
何だか面白くなりそうな予感がしたからだ。
『まー、ユニ姉ちゃんがそう言うなら、しょーがないわね! 特別に引き受けてあげるわ!』
『いざとなったら、あたしたちに頼りたいのは当然よね! うんうん、分かるわぁ!』
二頭は勝手なことを言っていたが、しばらくして人間たちの準備が整うと、先頭に立って森の奥へと消えていった。
* *
帝国側がとる経路を迂回して、その背後に出るといっても、道があるわけではない。オオカミ姉妹は気を遣い、人が歩けそうな場所を選びながら進んだ。
彼女たちはゆっくり歩いているつもりだったが、それでも人間たちは遅れがちになる。
そのため、二頭は時々立ち止まって、彼らが追いつくのを待たねばならなかった。
『人間って、どうしてこうノロマなのかしら。やっぱり二本足だから?』
『そうよねぇ。せめて移動する時だけでも、四つん這いになればいいのにね。
面相臭いのかしら?』
オオカミ姉妹の後を追う曹長たちに、二頭のお喋りが聞こえないのは幸いであった。
だが、振り返って人間をじっと待っているその目に、憐みの感情が溢れていることは、よく伝わってきた。
デカいだけのオオカミに見えるが、あの二頭は本来、異世界に棲息する幻獣なのだ。
幻獣が人間と同程度、あるいはそれ以上の知能を持つことを、王国民である兵たちはよく知っていた(姉妹が〝おバカ〟なのは、ユニしか知らない)。
姉妹が案内しているルートは、帝国側の進路から二百メートルほどしか離れていなかった。
森は見通しが悪いから、あまり距離を取る必要がないからだ。
したがって、ミナ(姉妹の母親)が中継する声は丸聞こえである。
おかげで彼女たちは、刻々と変わる敵の位置情報を把握しながら進むことができた。
敵と曹長たちの相対距離はどんどん詰まっていくから、一行は長距離を移動する必要がない。
ある程度進んだところで停止し、敵を通過させてから、その後方につけばよかった。
出発してから一時間も経たないうちに、オオカミ姉妹は歩みを止め、その場にぺたりと伏せた。
これは事前にユニから説明されていた合図で、そこで待機することを意味した。
* *
姉妹と交替したハヤトとトキは、敵の監視を続けていた。
監視と言っても、敵の姿を直接視認したのはジェシカとシェンカであって、それも最初の一度きりである。
万が一にも尾行を気取られてはならないから、その後は十分な距離を取っていたのだ。
例え敵の姿が見えなくても、風下にいるだけで臭いが嗅ぎ取れる。敵の位置など手に取るように分かる。
人間たちは森を歩き続けることで、冬でも大汗をかいていた。
しかも森に入って数日が経過しており、その間水浴びを一度もしていない。
彼らは臭いに鈍感なくせに、自分たちの体臭を隠そうとしなかった。
人間の歩みは呆れるくらいに遅いこともあって、オオカミたちには楽な任務であった。
ハヤトとトキの二頭は、のんびりと歩いていた。
相手の臭いさえ捉えていれば、後は十分置きに敵の位置を送ってやればいい。
退屈であるから、その間はたわいもない雑談が交わされていた。
『しかし、まだるっこいなぁ。
敵はたったの七人なんだろう? 俺たちだけで襲って、全員噛み殺した方が早いぜ。なぁ、そうしないか?』
気性の荒いハヤトが、物騒なことを提案してきた。
穏健派のトキは〝信じられない〟という目でハヤトを見る。
『冗談だろう、ユニの命令に背く気か?
相手には魔導士がいるんだ。もし、しくじったら折檻されるぞ』
『そこなんだ、問題は。せめてどいつが魔導士か、俺たちに判断がつけば、真っ先にそいつを狙えるんだがなぁ……』
『ユニの折檻は問題じゃないのかよ?
まぁ、人間の臭いなんて大差ないからな。エイナだって魔導士だけど、ユニとそんなに違わないだろう?』
『馬鹿言え、目をつぶっていても嗅ぎ分けられるぜ。
第一あの二人じゃ、年齢が全然違うだろ。何て言ったかな、〝加齢臭〟だっけ?』
『ハヤト、お前それ、ユニの前で言ったら殺されるぞ?
いや、臭いの違いと言えば、ちょっと気になることがあるんだが、聞いてくれ』
『気になる臭いって、加齢臭か?』
『違うよ!
実は双子から監視を引き継いでから、ずっと違和感が消えないんだ。
あいつらは、敵の人数が七人だと言ってたよな?』
『ああ、それがどうした?』
『それにしては、風にのってくる臭いが単調なんだよ。
七人もいたら、もっとこう……複雑な臭いがすると思うんだ』
『距離を取っているせいじゃないのか?』
『俺たちは敵の姿を見たわけじゃない。なぁ、一回確認してみないか?』
『馬鹿、気づかれたらどうする。それこそユニに折檻されるぞ!』
『う~ん……だが、どうしても気になるんだよなぁ』
トキは風上に当たる敵の方角に目を向けた。
もちろん密生する巨木に遮られ、人間の姿など確認できなかった。
* *
オオカミ姉妹と、人間の兵士たちが待機態勢に入って、十五分ほどが経過した。
およそ五百メートル先を敵が通過するのも、もう間近であった。
その証拠に姉妹の鋭敏な嗅覚が、人間の臭いを早くも嗅ぎ取っていた。
『来た来た! 敵の通過まであとちょっとね』
『…………』
『ん、どうしたのシェンカ? あんた、変な顔してるわよ』
『ねぇ、シェンカ。なんか、臭いの方角が変じゃない?』
『は? そんなはずあるわけ……』
ジェシカは伏せた姿勢のまま顔を上げ、くんくんと臭いを確かめた。
その表情が、みるみる強張っていく。
『ホントだ! 方角がずれてるっていうか、真っ直ぐこっちに向かってきてない?』
『でしょでしょ? どういうことかしら、敵が進路を変えたなら、父ちゃん(ハヤトのこと)が知らせてるはずよ』
『取りあえず人間たちに知らせないと! でもどうしようジェシカ、言葉が通じないよ!!』
『落ち着いてシェンカ、少なくとも危険を知らせることはできるわ!』
姉妹はすでに跳ね起きていた。
人間たちは〝何事か?〟という顔で、こちらを見ている。
ジェシカはいきなり曹長に向かって飛びかかり、凄まじい表情で牙を剝いた。