三十三 待ち伏せ
「カイラ村に入るに当たって、我々が利用している基地は四か所あります」
工作員のリーダーが地面に地図を広げ、指で示しながら説明を始めた。
リスト王国に密入国してから六日目の朝、一行は最後の中継野営地を発とうとしていた。
今日の夕方には、辺境に侵入するための前線基地に到達する予定であった。
およそ四十キロ弱の距離である。
フランツ中尉の任務は、その拠点を防衛しきることで完了する。
工作員たちは一般市民に姿を変え、一人ずつ目立たぬように辺境に侵入して、親郷カイラ村で現地工作員と落ち合う計画である。
フランツとしては、基地を出ていった者たちの安全には、一切関知しないことになっていた。
彼を除く全員が辺境に入ったことを確認しさえすれば、来た時と同じ経路をたどって帰国してよい――そう言い含められていたのだ。
現在行われているのは、最終の打ち合わせである。
「今回は四つの候補のうち、北から二番目の地点を利用する予定です」
「毎回、場所を変えているというわけか? 用心深いな」
「前にもお話ししましたが、王国側はカイラ村の出入りの方に神経を尖らせていると思われます。
対象となる全域で網を張るだけの、人員を投入する余力がないからです。
辺境を管轄する第四軍は、全職種をかき集めても、わずか一万五千人に過ぎないのです」
「俺たちからしたら信じられない寡兵だな。逆に言えば、それで今まで何とかなっていたというのが凄いな」
「奴らは召喚士の能力を過信しているだけですよ。
金を惜しむあまりに国防を疎かにするなど、愚か者のすることです」
工作員の評価は手厳しかった。
「そんなわけで、中尉殿のお手を煩わせる懸念は薄い……そう、我々は見ております。
ただし、一つだけ警戒すべき点があります」
「ほう、教えてもらおうか」
「どの拠点を選択したにしても、そこから辺境を目指すには、必ず抜けなければならない森があります。
そこに、ユニという女召喚士が住みついているのです」
「ユニ? はて、聞き覚えがある名前だな……」
「マグス大佐の顔に傷跡を残した人物――と言えば、思い出しませんか?」
「ああ、あれか!
大佐に殺されたはずなのに、何故かまだ生きている召喚士だな?」
「そのとおりです。
ユニは国家召喚士ですらありません。使役している幻獣も、身体が大きいだけで特殊能力を持たない、ただのオオカミです」
「それが森にいるとして、どこが問題なんだ?」
「オオカミは鼻が利きます。我々工作員にとっては、天敵のような存在です。
ユニはそのオオカミを、九頭も引き連れています」
「ちょっと待て。幻獣ってのは、一体だけしか召喚できないんじゃないのか?」
「はい、その理由は不明ですが、現実にそうなのですから仕方ありません。
したがって、オオカミどもと戦闘になる可能性だけは、頭に入れておいてください」
「今までそういうことがあったのか?」
「いいえ。ユニは森にいることの方が珍しいのです。一年の大半は、オオカミの群れを引き連れて、どこかに出かけています。
今回も、事前の現地情報では不在ということでした。
ただし、これは二週間以上前の話ですから、現在もそうなのか、確証は持てません」
「分かった。
ただ、お前たちの予測を信じないわけじゃないが、俺としては王国軍による待ち伏せも、可能性の一つとして残しておきたい」
それまで無表情に説明を重ねていた工作員の顔に、初めて感情が浮かんだ。明らかにむっととしている。
「それは、なぜですか?」
「威力偵察部隊を無力化したという、例の魔導士のことが気にかかるんだ。
その魔導士が派遣されているとしたら、どうだ?。ああ、馬鹿げていると言いたいのは分かる。
だが、感知魔法が使える魔導士なら、単独でかなりの範囲をカバーできる。
俺たちが通信魔導士を連れていることは、向こうだって承知だろうから、あり得ない話じゃないだろう?」
工作員は思わず吹き出し、慌てて弁解をした。
「失礼しました。決して、中尉殿を馬鹿にしたわけではありません。
ですが、辺境には蒼城市により近い親郷が、何か所か存在します。どうして我々がカイラ村を目指すと分かるのでしょう?
それが推測できたとしても、四つの拠点候補のどこを選ぶのかは命令になく、私が昨夜決断したことです。
それを知る術など、絶対に存在しません。この広大な森の全域を感知するなど、あのマグス大佐でさえも不可能ででしょう。
中尉殿は考えすぎです」
「そうだといいな。俺は臆病で凡人だから、保険はいくらでも掛けておきたいんだよ。
済まなかった。野営地の偽装も終わったようだ、もう出発しよう」
フランツは立ち上がり、尻についた土をぱんぱんと払った。
* *
兵たちが日課となっている朝稽古に精を出していると、森の茂みから突然オオカミが飛び出してきた。
「トッド! ユニ殿を呼んで来い、急げ!」
間髪を入れずに曹長が怒鳴った。
命じられたトッドは、慌てて小屋に向かって走り出した。
エイナは自分に向かって体当たりをしてきたオオカミを抱きとめたが、勢いあまって尻もちをついた。
「シェンカじゃない! 何かあったの?」
オオカミたちとたびたび行動を共にしていた彼女は、群れ全員の見分けがついた(これにはユニも驚いていた)。
シェンカはこの世界で生まれた、若くて快活なメスのオオカミである。
彼女は双子の姉であるジェシカと組んで、北から二番目の経路を見張っていたはずだった。
ユニを呼びにいったトッドは、短い木の階段を駆け上がり、小屋の扉に手をかけようとした。
その扉が中から勢いよく開き、トッドは撥ね飛ばされ、悲鳴を上げて階段を転げ落ちた。
ユニが小屋から飛び出してきた。哀れな兵士は無視されてしまった。
「エイナ、曹長! みんなも聞いて!
敵が網にかかったわよ!!」
ユニは小屋にいた時点でシェンカの報告を受けていた(彼女は多少離れていても、オオカミたちと自在に通信ができた)。
ユニはエイナの小隊を集め、車座となって座らせた。そしてオオカミがもたらした情報を話して聞かせた。
「敵の人数は七名、第二候補の野営地から二十数キロの森を西進中よ。
大体、この辺りね」
ユニは地面に広げた地図の一点を指さした。
「ここから野営地までは、およそ八キロ。これから出発しても、余裕で間に合うわ」
「シェンカはもう戻っていいわ。すぐに増援を送るけど、それまでジェシカと二人で頑張って。くれぐれも相手に覚られないようにね!」
「ライガ! あんたは他の班への連絡。シェンカたちとの連絡が取れるよう、中継を配置してちょうだい」
矢継ぎ早に指示を受けた二頭のオオカミは、あっという間に森の中に姿を消した。
エイナも部下たちに命令を下す。
「総員、戦闘装備で行軍準備! 曹長は兵たちの装備を確認後、この場に整列させよ。
これが実戦であることを忘れるな!」
「はっ!」
部下たちが跳ね起きて敬礼し、装備を取りに走り出した。
「道案内はあたしがするわ。気楽にいきましょう!」
ユニがエイナの背中を叩いた。
* *
「あれが野営地ですか?」
単眼鏡に目を当てたエイナが、隣りのユニに訊ねた。
ユニが指さしたのは、どう見ても野イバラの茂みにしか見えなかった。
「まぁね、あんな棘だらけの灌木に入っていく物好きはいないから、隠れ家としては理想的だわ。
外からは分からないけど、中はイバラが刈り取られていて、小さな空き地ができているの。
地面を掘り返すと、保存食料とか寝具が入った木箱だとか、竈を作るための石なんかが埋めてあるわ。
ちょっと先には小さな泉もあるしで、いかにも男が喜びそうな秘密基地よ」
エイナの小隊は、ユニの先導で敵の野営候補地に到達していた。小屋からは三時間ほどしか要さなかった。
もちろん野営地には踏み込まず、遠巻きに窺うだけである。足跡をつけたりしたら気づかれるだけである。
敵の人数が七名ということは、エイナの小隊(八名)との戦力差はないと言ってよい。
むしろ十分な戦闘訓練を受けている工作員に比べ、新兵揃いのこちらの方が不利であった。
包囲はどう考えても無理なので、エイナは部隊を二手に分け、野営地の少し先を挟むように配置した。
部下たちの指揮は曹長に任せ、敵の背後を突いて混乱させる役目を与えたのだ。
ただしそれは最後の手段であって、エイナは経験の浅い兵たちに白兵戦をさせる気などなかった。
あくまで攻撃の主体は、エイナの魔法である。
不意打ちで魔法攻撃を仕掛け、敵の戦闘能力を奪う。
しかるのち兵たちに敵の武装解除をさせ、拘束するという手筈である。
要はボルゾ川の警備で、敵の威力偵察部隊に行った作戦の再現であった。
小隊を配置する間にも、オオカミたちからの状況報告は続々と入ってきた。
ユニとオオカミたちは、見通しが利けば、最大で三キロほどの距離でも通信できる。
だが、オオカミ同士だと五キロ以上、しかも見通しが利かなくても、簡単な意思疎通ができる。
現場との通信の中継は、ヨミ、ミナ、ヨーコの女衆に任され、ライガはすでにユニのもとに戻っていた。
ハヤトとトキのオス二頭は、ジェシカとシェンカ姉妹の援護についていた。
工作員の部隊は、オオカミたちの監視にはまったく気づいていないようだった。
彼らは何の疑いもなく、野営地に向かっていた。
このままであれば、あと五時間あまり――つまり、日が落ちる前には到着することになる。
それまでは、ひたすら待機である。
どうせ兵たちは、エイナの指示があるか、曹長が状況判断で命令を下すまで動けない。
気楽と言えば気楽だが、確実に敵が来ると分かっていて、じっと待たねばならない重圧は、想像以上に精神を消耗させた。
配置について二時間後、曹長の指示で昼食となった。
もちろん、火を使って料理をするなど論外である。
携帯食の乾パンを数個、やたらと塩辛い干し肉を一切れ、それが食事のすべてであった。
どちらも口中の唾液を残らず奪い取るので、水筒の水をちびちび飲んで、どうにか喉を通した。
昼食からさらに数時間が過ぎ、オオカミたちの連絡で、敵との距離が十キロを切ったことが知らされた。
エイナが感知魔法に最大魔力をつぎ込めば、どうにか敵を捕捉できる範囲に入ったということだ。
「取りあえず、一回敵の位置を確かめてみます。
その方が直感的な相対位置を掴みやすいので……」
エイナはユニの顔を見て、少し詫びるように言った。
ユニはそれを笑い飛ばす。
「あたしのオオカミたちに、気を使わなくていいわよ。
でも、この距離で魔力反応を探れるなんて、凄いわね。
エルフのアッシュ女王のこと覚えているでしょ? 彼女くらいよ、そんなことができたのは」
緊張していたエイナの頬も緩んだ。
「ええ、あのお方なら容易いでしょうね。
でも、私は人間ですから、気合を入れてやっとです」
彼女はそう言うと目を閉じ、ぶつぶつと呪文をつぶやいた。
感知魔法は、地下風水のいずれの系統にも属さない(精霊の力を借りない)、変わった魔法だった。
これの魔法は、エルフが人間に伝えたものではなく、人間の魔導士が独自に生み出したものだと言われている。
つまり、エルフはこの魔法を人間から学んだことになる。
エイナは目を閉じたまま、魔法に集中していた。
その目がいきなり大きく見開かれ、彼女はユニの両肩を掴んで叫んだ。
「敵に魔導士がいます!」
ユニはきょとんした表情を浮かべた。
「いや、だから……魔導士がいるから、感知魔法を使ったんでしょう?」
「そうじゃないんです!
確かに通信魔導士の波動は、酷く微弱でしたが捉えました。
でも、それとは別に、強い魔力反応がありました。
これは一般の魔導士官、いえ、それ以上に強大な……。冗談じゃなく、異名持ちレベルです!」
* *
先頭を行く工作員のリーダーが、傍らの巨木の幹に手をかけた。
よく見ると、樹皮には薄っすらと傷がついている。
「中尉殿、あと五キロほどで目的地です。
やはり、何事もありませんでしたね」
フランツは天を仰いだ。
巨大な針葉樹は、冬でも深緑の葉を茂らせ、そのわずかな隙間から灰色の空が見えた。
「てぇことは、明るいうちに着くんだな。まぁ、それに越したことは……」
彼はそう言ったきり黙り込んだ。
不思議に思った工作員が、振り返って中尉の方を見ると、フランツは唇をわずかに動かしている。
工作員は納得した。
『ああ、念のために感知魔法を使っておられるのだな。用心深いことだ』
彼はわずかに口角を上げ、再び前を向いて先を急ごうとした。
だが、その肩がいきなり掴まれ、引き留められた。
「おい、ヤバいぞ!
魔導士が待ち伏せていやがる。それも……とびきりの化け物だ。
こいつは冗談抜きで、異名持ちレベルだぞ!」