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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第六章 北限の防人
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三十一 壁

「何か気づかれましたか? 自分は何も……」

 工作員の男がすばやく身を寄せ、小声でささやいてきた。


 一方、フランツの返事には、緊張感というものがない。

「いや、そういう気がするだけだ。まぁ、勘ってやつだな」


「中尉殿、悪い冗談は止めてください」

 男の張り詰めた雰囲気がわずかに緩むが、その間も彼の瞳は、油断なく左右に動いている。


「冗談なものか。〝勘〟が気に入らないなら、〝殺気〟と言い換えてやろう。

 お前、西部戦線の経験はあるのか?」


 男は小さく首を横に振った。

「いえ、自分は最初から情報部でしたから、戦場には出ていません。

 ですが実戦なら、それなりに経験しているつもりです」

「ああ……それじゃあ、大軍に囲まれた時の感覚は分からないか。

 何ていうか、首の後ろの毛が逆立って、ひりつくんだ。

 別に信じなくてもいいぞ。どうせ、すぐに――」


 ひゅん!

 突然、彼らの目の前を何かが掠めた。


 一瞬で空気を切り裂いていく感覚は、フランツにとって馴染みのものだ。

「いきなり射掛けてくるか……礼儀もクソもあったもんじゃねえ。なぁ、そう思わねえか?」

 フランツが同意を求めるように横を向くと、そこにいたはずの工作員の姿が消えていた。


 矢が擦過した瞬間、男はその場から飛び退いていたのだ。

 彼は巨木の幹に背中を押しつけ、散らばっている部下たちに向け大声で怒鳴った。

「敵襲! 全員、樹木を背にして盾を構えろ!!」


『なるほど、言うだけのことはある。いい動きだな』

 フランツは工作員の評価を少し改めた。部下に対する指示も適切だった。

 情報部員、特に敵地に潜入する者たちは、厳しい訓練を経て選抜されている。速成訓練を受けただけで、戦場に送り込まれる兵士とは、能力が段違いだった。


 だが、統制の取れた動きを見せる工作員たちの中で、一人だけ狼狽うろたえている者がいた。

 通信魔導士である。

 昨今は人材不足が深刻になっており、軍の採用基準も昔に比べ、かなり緩くなっている。彼らはその基準にすら達しない落第生だった。


 取りあえず、念話と呼ばれる技術を身に着ければ、あとはどうでもよい――通信魔導士とは、そんな投げやりな方針で生産される消耗品であった。

 だからろくな教育を受けておらず、戦場では足手まといにしかならない。


 フランツは溜息をついた。あんな奴でも、いなければ困る。新兵だと思って面倒を見てやるしかないだろう。

 中尉は通信魔導士の腕を引っ掴むと、手近な木の幹に向けて突き飛ばした。

 そして彼を庇うように、その前に立った。


「俺の背中から出るんじゃねえぞ!」

 叫び声が敵の注意を引いたのか、フランツの身体を目がけ、一斉に矢が飛んできた。


 しかし、それらはフランツの身体に突き刺さる寸前で弾かれ、ばらばらと地面に落ちた。

 足元を見ると、やけに短い矢であった。黒い矢羽根がついていて、石を加工したやじりは、切っ先が茶色く濡れ、てらてらと光っていた。毒矢の特徴である。


 工作員たちは盾を構え、防御に徹していた。

 敵の矢の威力は弱く、鏃も粗雑な作りだったので、帝国の盾や兜、革鎧を貫通する心配はなかった。


 雨のように矢が飛んできたのは最初だけで、一分もしないうちにまだらになった。

 フランツはマジックシールドと呼ばれる、自動発動型の防御魔法をまとっているため、矢を気にすることなく悠然と立っていた。

 敵の矢の勢いが失われると、彼は工作員のリーダーに向けて怒鳴った。


「こいつは王国軍の攻撃じゃねえな!

 今時石器の矢を使うとは、どこの蛮族だ!?」


 工作員は盾の陰から怒鳴り返した。

「人間じゃありません!

 恐らくはゴブリン、この近くに巣穴があるんでしょう」

「これは現地の工作員が構築したルートなんだろう? 何だってそんな物騒なものがあるんだ、糞ったれ!

 敵の規模は分かるか!?」


「ゴブリンの巣穴があるなんて、自分も初耳ですよ!

 多分、最近になって棲みついた集団でしょう。だとしたら、五、六十人がいいところです!」

「奴らの戦法は!?」


「そんなものはありません!

 今の攻撃を見たでしょう? 後先考えないから、一瞬で打ち止めです。

 次は数を頼りに突っ込んでくるに決まっています。

 馬鹿ですが、それだけに厄介ですよ!」

「よぉし、それだけ聞けば十分だ!」


 フランツは怒鳴り合いを終わらせると、二、三歩前に出た。

 工作員の男も、盾を構えたままで近寄ってきた。


「一体、何をされるつもりですか?」

「決まっているだろう、俺はお前らの護衛魔導士だぞ?

 小鬼どもを魔法で殲滅してやる!」


「ちょっ、ちょっと待ってください!

 まさか、ゴブリンを焼き払うとか言わないでしょうね?」

「ん? 別に構わんだろう」


「山火事になります!」

「細けえ奴だな、火事くらいいいだろう」


「駄目です! 煙を見つけられたらどうします」

「お前なぁ……ここが辺境からどれだけ離れてると思っているんだ?

 煙なんか見えるわけがねえ」


「いいえ、王国には飛行能力のある鳥型幻獣がいて、ボルゾ川の上空を、頻繁に監視しているんです」

「ボルゾ川からだって、五十キロは離れていているぞ?」


「鳥の視力を舐めないでください!」

 男の声には無視できない凄味と、強い苛立ちがあった。

 もう言葉遊びは止めてくれ、と迫っているのだ。


「分かったよ。どうせ俺はファイアボールを使えんしな」

「え? 中尉殿はマグス大佐の教え子だと聞きましたが……?」


「しょうがねえだろう。俺は土系の魔導士なんだから」

「そ、それは知りませんでした。土系ということは、重力魔導士ですよね?」

 フランツは鼻白んだ表情を浮かべた。土系=重力魔導士という偏見は、うんざりするほど浴びてきたのだ。


 現代の戦争は、重力魔導士なしには成立しない。

 軍需物資を運搬する輜重隊、そして戦場で橋や塹壕、宿舎を建設する工兵隊にとっても、重力魔導士は欠くべからざる人材だった。


 重力魔導士は、体内に構築される魔導回路が非常に強固であるため、他系統の魔法を扱えないことが多い。

 専門職種である点では通信魔導士に似ているが、段違いに多くの魔力と才能を必要とされる。

 そのため需要に供給が追いついておらず(魔導士は皆そうだが)、部隊同士の取り合いで戦闘が発生したことがあるくらいだ。


 だから重力魔導士の待遇はよく、一般兵からも大切に扱われている。

 ただ、経験の浅い若い兵士の中には、攻撃に参加しない彼らを馬鹿にする者もいた。


「重力魔法は、土魔法の一系統に過ぎねえんだぞ。

 お前だって、カメリア・カーン少将の名前は知っているだろう?

 マグス大佐を別にすれば、今の帝国軍で最大の攻撃力を持っているお方だが、彼女だって土系魔導士だ。

 俺が土系だからといって軽く見たら、後悔することになるぜ」


 フランツが脅すように睨んでも、工作員はひるまなかった。

「敵を撃退してくれるのなら、中尉殿が何系でも自分は気にしません」

「馬鹿野郎、〝撃退〟じゃねえ! 俺は〝殲滅〟と言ったはずだ!?」


 その時、周囲から甲高い叫び声が一斉に湧き上がり、敵の突撃が開始された。

 灌木や雑草の中から、多数のゴブリンが飛び出してきたのだ。

 彼らは百二、三十センチの矮躯で、手には石斧や石のナイフ、棍棒などを握りしめている。

 まばらな髪の大きな頭、血走った金壺眼、鷲鼻、黄色い乱杭歯を剥き出しにした、醜い小鬼であった。


 四方八方から殺到するゴブリンたちを目の当たりにしても、フランツは全く動じなかった。

 工作員たちは戦闘の覚悟を決め、剣を抜いて身構えている。


 両者の距離が十メートルほどに迫った時、いきなり地鳴りとともに、目の前の地面が盛り上がった。

 それはどんどん高さを増し、あっという間に三メートルほどの壁となった。

 目の前だけでなく、工作員たちの左右、背後でも同じ現象が起こった。

 規模は小さいが、彼らを中心とした円形の城壁が生まれたようなものである。


 分厚い土壁の向こうから、ゴブリンたちの甲高い叫び声が聞こえてきた。

 彼らの言語など分かるはずもないが、憤怒を意味しているのは間違いない。


 工作員たちは武器を手にしたまま、呆気にとられていたが、その現象が魔法によるものだとすぐに理解した。

 高い壁が日を遮り、彼らは薄暗い牢獄に閉じ込められた気分だった。

 例のリーダー格の男が、必要もないのに声を潜めた。


「中尉殿、この程度で奴らが諦めるでしょうか?」

「悪かったな、〝この程度〟で。

 ちょっとの間、奴らを逃がさないだけなら、これで十分なんだよ」


「逃がさない? これは防御壁ではないのですか?」

「ああ、お前らには見えないだろうが、ゴブリンどもの背後にも壁を作った。

 一匹たりとも逃がしゃしないぜ」


「しかし、ゴブリンは生まれついての〝穴掘り屋〟です。

 土壁に穴を空けるくらい雑作もないでしょう?」


 ゴブリンについて無知なのではないか、と疑っているような質問だった。

 だが、フランツはにやにやと笑うばかりである。


「そんな時間はやらねえよ。

 ほら、よく聞いてみろ。かなり騒がしくなってきたぞ」


 中尉が指摘したとおりだった。

 土壁に前後を遮られ、退路を失ったゴブリンたちは、キイキイと叫び声を上げ続けていた。

 その声が、さらにやかましくなったのだ。


 それが怒号であることに変わりなかったが、先ほどまでは威嚇や挑発であったはずだ。

 そこに驚き、困惑、そして恐怖の色が混じっていた。土壁の向こうで、明らかに異変が起きているのだ。


 敵の陥った状況を知りたくても、高い土壁によって何も見えない。

 分厚い土が遮って、物音もよく聞こえない。


「一体何が起きて――いや、中尉殿は何をされたのですか?」

「何度も言わせるなよ。俺は奴らを殲滅すると言ったはずだぞ?

 俺のやり方に文句をつけんじゃねえ」


「ですが、中尉殿が動かした土砂は、膨大な質量を持っています。

 前後の壁を一気に崩せば、敵を全員圧死させられる……違いますか?」


 工作員の言葉は、質問というより非難に近かった。

 この壁の向こうで、中尉は何か非道なことを行っている気がしてならない。

 その証拠に、聞こえてくる敵の叫び声は、どんどんその数を減らしている。


「確かにな。壁を倒せば、ゴブリンどもは全滅するだろうよ。

 だが、奴らはふざけた真似をしやがった。俺たちを取り囲んで毒矢を射かけ、襲いかかってきたんだぞ?

 その落とし前をつけずに、楽に死なせてやるほど、俺は優しくねえんだ。

 まぁ、すぐに片が付くだろう。そしたらお望みどおり、壁を崩してきれいに埋め戻してやるから、心配するな」


 工作員のリーダーは溜息をつき、高くそびえる壁を見上げた。

 すると、ひときわ甲高い悲鳴とともに、何かが壁を越えて降ってきた。

 男は反射的に避けようとしたが、間に合わない。びちゃっという音がして、顔に液体がかかった。


「うわっ!」

 男が思わず声を上げ、目を庇った腕で濡れた頬を拭った。

 その腕を見ると、深緑色の軍服が鮮血を吸って黒く染まっていた。


「ざまぁねえな」

 フランツは笑って、工作員の背をドンと叩いた。

 もう壁の向こうからは物音ひとつ聞こえず、静まり返っていた。

 中尉は笑顔のまま、土壁を振り返った。

 

「終わったようだな。

 中からの報告じゃ、ゴブリンどもは男ばかりだそうだ。

 ここの後始末が終わったら、奴らの巣を探しに行こう。

 どうせ足跡を隠す知恵もないだろうから、すぐに見つかるさ」

「や、やはり……この壁の向こう側には、処刑人がいるのですね?」


「いや、誰もいねえぜ。人は(・・)、な」


      *       *


「その情報部が見せてくれた、敵の侵入経路ってどこなの?」


 ユニの小屋では、作戦会議が続いていた。

 エイナは懐から折りたたんだ地図を取り出し、テーブルの上に広げた。

「原本は焼却されましたので、記憶をもとに地図に書き入れてみました」


 地図といっても集落や街道、主要な地形が描かれているのは、辺境の部分だけである。

 大森林に関しては、そうした情報がないので真っ白であった。


 上空からの観測によって、山や川、湖沼などの位置が明らかにされた地図も存在するが、それは軍事機密として一般には秘匿されていた。

 エイナの所持している地図は一般に流通しているもので、そこに手描きで沼や小川、目印となる樹木を青インクで、情報部の予測経路は赤インクで記入してある。


 ユニの評価は手厳しかった。

「何これ? 本命のルートはかなり正確だけど、あとは真っ白のままじゃない」

「他にも候補となる経路がある、ということですか?」


「当たり前じゃない。野営が可能な水場はいくつもあるわ。

 ちょっと、みんな来てくれる?」

 ユニが呼びかけると、寝そべっていたオオカミたちが立ちあがり、のそのそと集まってきた。

 彼らはテーブルの上から地図を覗き込んだ。


 ユニも立ち上がり、机の上からペンとインク壺を持ってきた。

 そして再び椅子に座ると、オオカミたちの説明を聞きながら(エイナたちには何も聞こえないが)、さらさらと地図に情報を書き入れていく。

 情報部の予想経路に、あっという間に三本のルートが加えられた。


「まだ何通りかあるんだけど、人間が使っているのは、これだけだそうよ」

「人間が使っているって……そんなことまで分かるのですか?」


「当たり前じゃない。帝国の連中が通ったり野営したら、どんなに隠してもオオカミの鼻はごまかせないわ」

「つまり、オオカミたちは工作員が実際に使った侵入路を、すべて把握しているのですね?」


「そうよ。カイラ村を含めると、あたしたちはもう、二十年もこの辺で暮らしているのよ。

 オオカミたちにとって、この森は自分の庭のようなものだわ。

 他人が入り込んだら、すぐに気づくわよ」


 エイナはいきなり立ち上がった。

 ユニが驚いて見上げると、エイナの顔が怒りで紅潮していた。


「ユニさんは軍にも通報せず、工作員の侵入を見過ごしていたのですか!?」

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