三十 協力要請
ライガの名を口にした瞬間、オオカミたちの身体がびくっと反応した。
彼らは一斉に顔を上げ、エイナに視線を向けてきた。
まるで言ってはならない言葉を使った子どもを叱る、親のような表情だった。
ユニは何も答えずに、うつむいたままだ。
「これって〝里帰り〟ですよね? ……初めてですか?」
エイナがさらに問い詰める。
ユニはのろのろと首を横に振った。
そして、観念したように顔を上げ、長い溜息をついた。
「そうよね、あんたは素人じゃないんだし、バレて当然か。
初めてじゃないわ、これが二度目。……だからまだ、時間はあるわ。
今まで何度も見てきたことだし、ちゃんと覚悟はしてたつもりだったの。
でも駄目ね。実際に体験すると、これが想像以上にしんどいのよ」
* *
召喚士候補生は十八歳を迎えると儀式に臨み、異世界から幻獣を呼び寄せる。
その際、両者の間では魂の融合が起こり、思考や記憶までも共有される。
互いの了解のもとに契約が交わされ、呼び出された幻獣は召喚士に服従し、使役されることを約束する。
一方の召喚士も、大きな代償を払うことになる。
召喚士の能力は、二十数年(人によって数年の差異がある)経過すると、急激に減衰し、ついには枯渇を迎える。
その際、召喚士の肉体は、金色の塵と化してこの世界から消滅し、幻獣の故郷である異世界へ転生するのだ。
それはあくまで魂だけの話で、人間の肉体を維持したまま、生まれ変わるわけではない。
召喚士が使役していた幻獣として、新たな生を受けるのだ。
幻獣が暮らす異世界は一つではないが、どのくらいの種類があるかは分かっていない。
幻獣の世界において、オークやゴブリンといった低級な種族は、繁殖力が旺盛で数も多い。
これに対し、召喚士によって呼び出される幻獣は、それなりに高い霊格を持っている。
彼らは強力な能力と引き換えに繁殖力が弱く、数が少ないが故に血が濃くなり、さまざまな弊害を生んでいた。
異世界から新しい血を迎えられることに比べれば、二十年くらいの〝出稼ぎ〟など問題ではないのだ(霊格の高い幻獣は数百年、時には数千年という長寿を有していた)。
もっとも、このシステムにも例外があって、霊格が高すぎる幻獣では転生が起こらない。
この場合、召喚士の魂は呼び出した幻獣それ自体に吸収され、彼らの能力値の底上げに利用される。
王国を守護する四神獣などが、その具体例である。
召喚士の転生には、必ず予兆がある。
〝その時〟を迎える一年ほど前から、幻獣が勝手に元の世界に帰ってしまう現象が起きるのだ。
これが〝里帰り〟と呼ばれるもので、召喚能力の減衰による影響だと考えられている。
初めての里帰りでは、一日程度で戻ってくるのだが、時が迫るにつれて起きる頻度と期間が増していく。
そして、ついに運命の日が訪れると、異世界に帰っていた幻獣が、召喚士の魂を迎えにくるのである。
召喚士と幻獣は魂のレベルでつながっているから、里帰りによって引き離されると、お互いに大きな苦痛を受ける。
特に肉体・精神ともに脆弱な、人間側が受けるダメージは深刻であった。
生命力の塊りのようなユニが、これほど憔悴していたのも、無理はなかったのである。
* *
再び溜息を吐いたあと、ユニはぐるぐると頭を回した。
肩が凝っていたのか、ごりごりと首の骨が鳴った。
「そうよね、いいかげんシャンとしなくちゃ、あんたのお母さんに申し訳が立たないわ。
ちょっとシャワーを浴びて、さっぱりしてくる」
ユニは立ち上がり、着替えを抱えて小屋を出ていった。
さすがに後を追えないので、エイナはこの時間を利用して、部下たちにユニが置かれている状況を簡単に説明した。
国立魔導院は、召喚士の養成機関として数百年の歴史がある。エイナが卒業した魔法科が設置されたのは、わずか十年前に過ぎない。
しかもエイナは、現在国家召喚士となっているシルヴィアと同室で、親友でもあった。
当然、召喚士の運命は知っているし、里帰りについての正しい知識も持っていた。
だが、彼女の部下たちはそうではない。
彼らも王国の人間であるから、召喚士と幻獣の存在は知っていし、軍は召喚士が珍しくない世界だ。
だからといって、一般人である兵たちが、召喚士の何を知っていよう?
エイナから説明を受けた部下たちは、黙りこくってしまった。
召喚士たちが背負っている、過酷な運命のことなど、今まで考えたこともなかったからだ。
重苦しい空気を破るように、ケヴィンが手を上げて口を開いた。
「召喚士の肉体は塵になって、完全に消えちゃうんですよね。
だったら魂だけが異世界に行くとか、転生して幻獣になるとか、どうして俺たちに分かるんですか?
思いっきり怪しいじゃないですか」
エイナは呆れた表情で、部下の顔を見返した。
「お前、本人がいないからって、よくこの雰囲気でそういう質問ができるな?」
「いや、だって知りたいじゃないですか?」
ケヴィンは蒼城市という都会で、商人の子として生まれ育った。
本人の性格もあるのだろうが、簡単に人を信用しないし、誰に対しても率直で物怖じをしない。
時々『生意気だ』と思うこともあるが、エイナは彼が嫌いではなかった。
「召喚された幻獣の証言だ。彼らの間では、転生者の存在がよく知られているそうだ。
お前は『幻獣が嘘をついているかも』と疑うかもしれん。だが、ごく稀にだが、実際に元人間だった幻獣が召喚された例があるのだ。
彼らは人間としての記憶をほとんど失っていたが、断片的なことは覚えていた。
その内容が、何十年、時には百年以上前の記録と合致していることが判明し、転生の事実が証明された――というわけだ。
ちなみに、ユニのオオカミの群れにも、ヨーコという元女召喚士がいるぞ」
ケヴィンは目を輝かせて叫んだ。
「そいつは凄え! どのオオカミですか?」
ユニは軽く肩をすくめ、美しい銀毛のオオカミ、ヨーコを指さした。
ケヴィンはヨーコの姿をまじまじと見つめたが、やがて首を振った。
「駄目だ。まったく見分けがつきませんね。
元は女召喚士だと言いましたね、美人だったんですか?」
「ええ。凄い美人で、しかも巨乳だったそうよ」
エイナは苦笑しながら、こう付け加えることを忘れなかった。
「だが、ユニさんの前で〝巨乳〟という言葉は禁句だ。機嫌が悪くなるからな」
* *
ユニは十分程度で戻ってきた。
髪は濡れたままだったが、着替えたためか、さっぱりとした印象を受ける。
表情の方も、先ほどまでに比べると、かなりましになっていた。
汚れ物を床に置かれた籠の中に放り込むと、ユニはどっかりと元の席に腰をおろした。
「それで? そもそも、エイナは何の用で訪ねてきたのかしら。
いつも偉そうなあたしが凹んでいるのを、笑いにくるほど閑じゃないわよね?」
その質問は、エイナとしても歓迎すべきものだった。
彼女は自分が命じられた任務を、かいつまんでユニに説明した。
ユニは〝ふんふん〟とうなずきながら聞いていたが、エイナの話が終わるころには、顔に笑みが浮かんでいた。
「なるほどね。それで、あたしとオオカミたちに『協力してほしい』って頼みにきたわけだ」
「はい。ずうずうしいお願いだとは思いますが、これはユニさんたちが最も得意とする分野です。
お力を借りない限り、私の小隊だけではどうにもなりません」
エイナはユニの推測を素直に認め、ついでに本音を漏らした。
「大体、軍の命令が無茶なんです。
情報部の地図だって、また私の小隊を利用するための餌に決まっています!」
エイナのふくれっ面に、ユニは思わず吹き出した。
「ねえ、エイナ。逆を考えましょうよ。
どうして上層部はあんたの小隊に、こんな無茶な命令を出したと思う?」
「それは……傲慢に聞こえるかもしれませんが、私の能力に期待してのことだと思います。
でもでもっ! その期待は過剰で、私を買い被っています」
「じゃあ、この命令を下した責任者は、エイナを理解していない〝無能〟ということになるわね?」
「そこまで言うつもりはありませんが……」
「でも、少しは思っているんでしょう?
でもね、その無能って多分、蒼龍帝のことよ」
この言葉には、エイナだけではなく、横の曹長や後ろに控えている部下までもが目を剥いた。
「いくら何でもそんな!
軍の実質的な責任者はアスカ様です。シド様が現場に口出しするなんて、あり得ません」
「あら、それなら無能なのはアスカ?」
「えと、あの……」
「ごめんごめん、いじめるつもりはなかったのよ。
あのね、蒼龍帝はエイナのことをよくご存じだわ。
今回のことは、シド様がアスカに指示したんだと思う。無理な命令に困ったあんたが、あたしを頼ることなんか、最初から想定済みなのよ。
情報部が露骨な地図を出してきて、エイナの小隊がカイラ村を目指すよう誘導したのは偶然かしら?
第四軍で情報部を動かせる人物なんて、マリウスと仲のいい蒼龍帝以外に考えられる?」
「あ……!」
エイナはそれ以上の言葉が出なかった。
ユニの説明は、あまりにも明快だった。むしろ、そこに気づけなかった自分が信じられない気分だった。
「つまり、ユニさんが私たちに協力する……それも織り込み済みなのですか?」
「まぁ、シド様はあたしの性格も知っているからね。
さっきご飯を作ってもらったから、食べた分くらいは働いてあげるわ」
「それはありがたいのですが、今のユニさんの体調では……」
「ああ、あたしだったら心配ないない♪」
ユニは冗談めかして答え、手をひらひらと振った。
「ライガの馬鹿が消えたのは、一昨日の夜のことなの。
里帰りもまだ二回目だから、遅くとも今夜までには帰ってくるはずよ。
それにあたしの場合、そこまでダメージが大きくないの。何と言っても、群れのオオカミたちが残ってくれたからね。
この二日、ヨミとミナ、それにヨーコさんの三頭が交替で、あたしにぴったりくっついてくれたわ。
あたしに付き合って、みんな小屋に閉じ籠っていたから、そろそろ運動させなくちゃね」
ユニは片目をつぶってみせた。
* *
「あ~、嫌だ嫌だ、何だって俺がこんな目に遭わなけりゃならないんだ!」
棘だらけの灌木の茂みを掻き分けながら、フランツは悪態をついた。
彼は周囲に聞こえるよう、わざと大声を出しているのに、誰も相手をする者はいなかった。
「おい、聞こえてるんだろう? 何とか言えよ!」
フランツが前を行く者の背中に小石を投げつけた。まるで駄々をこねる子どもの行動である。
石をぶつけられた男は、面倒臭そうに振り返った。
「中尉殿、大声を出さないでください。
我々が他国へ潜入していることを、お忘れですか?」
「うるせえ! この森に入って何日目だ?
こんな原生林で聞き耳を立てている馬鹿がいるなら、面を拝んでみてえよ」
「そうではありません、くどいくらい説明したではありませんか!
この森には異形の怪物がうろついています。自分から危険を招く行為は、愚か者のすることです」
「ああ、『オークが出る』って言いたいんだろう?」
この一行は、帝国の情報部員たちだった。
蒼城市の工作本部が摘発を受けたため、急遽送り込まれた補充人員である。
総勢は七名で、うち工作員が五名、通信魔導士が一名、そして護衛のフランツ魔導中尉という構成だった。
彼らは小舟でボルゾ川を渡って王国側に上陸し、タブ大森林に入ってからは、ひたすらに南下を続けていた。
原生林の中に道などあろうはずもないが、長年にわたって工作員たちが開拓した経路が、ちゃんと存在している。
巨木の幹についた傷、茸の生えた倒木の向き、小川の岸に積まれた石。
何気ない森の風景が、彼らの間で共有されている目印だった。
そうしたポイントを注意深く追っていくと、茂みの奧や岩山の窪みに、巧妙に隠された野営地を発見できる。
そこには貯蔵の利く食料や必要な物資が埋められていて、それが密入国者にとって命の綱となった。
フランツ中尉を含む一行は、そうした野営地のひとつを目指していた。
冬の日は短い。明るいうちに着いておかなければ、野営地の発見が困難となる。
フランツの愚痴と悪態を伴奏に、彼らは足を速めた。
そして、一時間ほど歩き続けて、やっと今日の野営地にたどり着いた。
あとは野宿に慣れた工作員たちに任せればいい。
中尉は〝やれやれ〟という表情で、ほんのり湿った地面に腰をおろした。
軍服の胸ポケットから貴重な煙草を取り出し、中尉が紫煙をふかしていると、工作員のリーダー格の男(彼らは護衛のフランツに対しても、名前や階級を明かさなかった)がやってきた。
男の表情からは、ただならぬ緊張感が漂っている。
フランツは煙草を口から離し、地面に押しつけた。
「どうした?」
「食糧がやられています」
「イノシシにでも喰われたんじゃないのか?」
「いえ、何らかの道具を使って地面を掘っています。動物の仕業ではありません」
「王国側に発見されたのか?」
「それなら食糧を埋め戻して、痕跡を隠すでしょう。
敵の正体は分かりませんが、そういう点では素人で――」
「ちょっと待て!」
いきなり中尉が話を遮り、唇の前に人差し指を立て、黙るように仕草で伝えた。
沈黙の時間が十秒ほど流れ、やがてフランツはにやりと笑ってみせた。
「その敵の正体とやら、すぐに分かるぞ」
「どういう意味ですか?」
「俺たちは見張られていたらしい。囲まれているぞ」