二十九 憔悴
ケニーは尻餅をつき、助けを求めるように仲間の方を振り返った。
だが、曹長や同僚たちは、なぜか平然として動こうとしない。
彼はパニックに陥り、再び怪物の方を見た。
わずかな時間、目を離しただけなのに、獣は小隊長に跳びかかって、地面に押し倒していた。
全身が銀色がかった白い毛に覆われ、凶暴なオオカミに似た恐ろしい姿である。
だが、こんな巨大なオオカミが存在するはずがない。目の前にいる獣は、軍馬よりも大きく、体長は三メートル以上あるだろう。
そんな化け物が、小柄な小隊長の上にのしかかっている。
いくら彼女が魔導士で武術に優れていようとも、この体格差は如何ともしがたい。
獣はハァハァと荒い息を吐きだしながら、大きな顎を開いた。白い牙が不気味に並び、赤い舌がだらりとはみ出した。
それが小隊長の顔に近づいた。頭部を噛み砕くつもりに違いない。
残念なことに、ケニーは武器を帯びていない。
仲間たちも頼みの曹長も、恐怖で身体が竦んでいるのか動こうとしない。
こうなったら、自分が小隊長を救うしかない! ケニーはそう決意した。
体当たりをしてでも怪物の注意を逸らし、小隊長に脱出の機会を作るのだ。
自分は無残に噛み殺されるだろうが、それも運命だと諦めるしかない。
だが彼の足は、何故か一歩を踏み出せなかった。
目尻に涙を浮かべ、歯を食いしばっても、軍靴が床に根を生やしたように離れてくれない。
『俺は、そこまで情けない男だったのか!?』
ケニーは自分の太腿を何度も拳で殴りつけ、叫び出したい気分だった。
涙でぼやけた視界には、獣の尻の穴がいっぱいに広がる。
ピンク色の肛門の真上では、ふさふさとした尻尾が激しく左右に振られていた。
『……尻尾を振っている?』
ここに至って、ケニーはやっと違和感に気づいた。
目の前に怪物が現れたのだから、仲間が彼のことを気にしないのはいい。
だが、襲われている小隊長を、誰も助けないのはどうしたことだ?
それだけではない。あろうことか、皆の顔には笑みが浮かんでいたのだ。
ケニーは仲間たちの身体を押しのけ、獣の頭部側に回り込んだ。
彼が目にしたのは、巨大な白いオオカミに顔中をべろべろ舐められているエイナの姿だった。
「曹長殿! あの化け物は、小隊長に何をしているのですか!?」
ケニーに詰め寄られたコンラッドは、一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに納得したようだった。
「ああ、そうか。お前は中央平野の出身だから、知らないのも当然だな。
あのオオカミは、ユニという召喚士が連れている幻獣の群れの一員だ。少尉殿とは顔見知りだそうだから、挨拶をしているんだろう」
曹長が説明している間に、オオカミはエイナの味を堪能したらしく、今度は兵たちの身体を一人ずつ、クンクンと嗅ぎ始めた。
だが、仲間たちは誰一人として怖がらず、逃げ出す者もいなかった。
「お前ら、何で平気なんだ?」
ケニーは〝信じられない〟といった顔で訊ねたが、振り向いた同僚たちは『何を言ってるんだ、こいつ?』という表情を返してきた。
「いや、辺境で育った人間で、ユニとそのオオカミを知らない奴なんていないぞ。
何度も見ているから、今さら驚くかよ」
サイジ村(辺境北部)出身のサムが答えた。
蒼城市で生まれ育ったケヴィンもうなずく。
「俺たちもガキのころ、よくアスカ様のお屋敷にオオカミを見にいったもんだ。
街育ちの人間だったら、こいつらが通りを歩いていたって誰も逃げないぞ。
逆に女や子どもが、撫でようと集まってくるくらいだ」
「あ、危なくないのか?」
ケニーの質問に、ケヴィンは思わず吹き出した。
「お前だって、召喚士が連れている幻獣を、見たことくらいあるだろう?
こいつらは見かけと違って頭がいいし、人間の言葉を理解する奴も多い。
少なくても、ユニのオオカミに噛まれたなんて話は、生まれてこの方聞いたことがないぞ」
「ケヴィンの言うとおりだ」
いつの間にか起き上がったらしく、エイナが側に立っていた。
オオカミに押し倒されたせいで、軍服に土がついて汚れている。
「この子はロキといって、群れで一番若いオオカミだ。いつも私を乗せてくれる、友人のような存在だな。
お前たちに武器を置いてくるよう命令したのは、彼らに警戒されないためだ。
まぁ、剣があったとしても、ロキには勝てないだろうがな」
彼女はそう言って笑い、広場の奥に見える小屋の方を指さした。
「曹長も言っていたが、あれがユニの家だ。……だが、妙だな」
「何がですか?」
「いつもなら、群れのオオカミたち全員が出迎えてくれるんだ。
どうしてロキ以外、出てこないんだろう?」
「さっきから小隊長は〝群れ〟って言ってますけど、こんな怪物が何頭もいるんですか?
俺、召喚士のことは詳しくないですけど、確か彼らが使役できるのは一体だけだと、学校で習った記憶があります」
「群れのオオカミは、全部で九頭だ。
ユニが召喚したのはライガというオオカミだけで、群れの連中は、彼が勝手に呼び寄せたのだそうだ」
ケニーの口が、呆れたように開いた。
「そんなことができる幻獣もいるのですか……」
「私もよくは知らないが、群れで行動する種類だと、稀にそういうことがあるらしい。
もっとも、ロキはこの世界で生まれた子だがな」
この話題に、ケヴィンが口を挟んできた。
「そうそう、俺が初めて見た時にはもうデカかったけど、俺の姉貴は仔犬だったころを知っているそうだ。
むくむくの〝ぬいぐるみ〟みたいで、娘たちの間で凄い人気だったらしいぞ」
「それは見てみたかったな!」
思わず素が出て、話にのりそうになったエイナの軍服を、ロキが軽く噛んで引っ張った。
「ああ、ごめん。そうだったわね。
ユニさんに私が来たことを伝えてちょうだい。お邪魔してもよいかもお願いね」
白いオオカミは顔を空に向けてから、エイナに話しかけるように一声吠え
た。
そして、〝ついてこい〟とでも言うように、小屋へ向かって歩き出した。
「許可が得られたようだ。皆、行くぞ」
部下たちは慌てて後を追いながら、質問を浴びせる。
「今ので召喚士と連絡が取れているのですか?」
「ああ。これくらいの距離があれば、頭の中で話ができるらしい。
便利なものだな」
「帝国の通信魔導士と同じ仕組みなのでしょうか?」
「いや、到達距離が全然違うし、それとは違うようだ。ちょっと説明が難しいな」
ユニの家は、平屋建てのこぢんまりとした丸太小屋だった。
炭焼き職人の小屋によく似ているが、違うのは高床式になっている点である。
これは湿気対策でもあるが、夏場の暑い時にオオカミたちが潜り込めるようにしているのだ。
庭の脇には小さな畑があるが、今は冬だから何も植えられていない。
扉は短い階段を登った上にある。
ロキから許可を伝えられてはいたが、エイナは礼儀としてノックをした。
しかし、中からは何の返事も返ってこない。
エイナは嫌な予感に襲われた。
「ユニさん、エイナです。入りますよ」
彼女は扉に顔を近づけ、大きな声で断ると、扉の取っ手を引っ張った。
鍵はかかっておらず、軋み音とともに重い扉が開く。
むっとする暖気が、エイナの顔を打った。
小屋の中は薄暗く、窓を閉め切っているせいで空気が悪い。
エイナの悪い予感は、ますます募ってきた。
彼女は土足のまま、ずかずかと小屋の奥に据えられたベッドの方へ進んだ。
ベッドの上にも下にも、オオカミたちが寝そべっていて、エイナが入ってきた瞬間に一斉に顔を上げた。
いつもならエイナを歓迎してくれるはずなのに、彼らは立ち上がろうともしない。
ただ、尻尾をゆっくり振っているから、怒っているわけではなさそうだった。
エイナはベッドに近寄ると、上から覗き込んだ。
ユニは毛布を顔の上まで引き上げ、横を向いて丸まっていた。
その両側には、ヨミとヨーコが添い寝をするように、ぴったりと身体をくっつけている。
ついさっき、ユニはロキと脳内会話を交わしていた。
眠っているわけがないし、エイナの訪問にも気づいているはずだ。
エイナは泣きそうな顔で、毛布の上からそっとユニの肩に手を触れた。
ユニは小さく呻き、寝返りを打って仰向けになる。
『よかった、生きている!』
エイナは心の中で、安堵の息を吐いた。
もし、彼女が危惧したような最悪の事態だったら、ロキの態度が普通であるわけがない。
理屈では分かっていても、エイナの不安はそれほど大きかったのだ。
肩を揺すられたユニは、ゆっくりと目を開いた。
エイナに向ける瞳の焦点が合うまで、かなり時間がかかった。
そして、彼女は気怠そうにつぶやいた。
「ああ、エイナか……。そういえば、さっきロキがそんなことを言っていたわね。
どうしたの? ここまで来るなんて、珍しいじゃない」
「ユニさんこそ、どうしたんですか!
具合が悪いのですか? 熱は!?」
額に手を当ててみると少し汗ばんでいて、むしろひんやりとしている。熱はなさそうだった。
ユニは煩そうに、エイナの手を払う。
「病気じゃないわ。いえ、そうでもないか……。
ちょっとした〝怠け病〟にかかっただけよ。身体は平気なの」
ユニはそう言い訳をして、大儀そうに上半身を起こした。
ヨミが心配そうに鼻面を背中に差し入れ、それを手伝ってくれた。
平気だという割にユニの顔色は悪く、目の下には隈ができ、頬もこけていた。
どう見ても普通ではない。
ユニは毛布を乱暴に押しやり、エイナの助けを借りてベッドから降りた。
ふわっと汗臭い体臭が匂った。
ユニは寝間着ではなく、いつもの狩人装束を着ている。驚いたことに、靴も履いたままだった。
ユニはふらつきながら、部屋の中央にあるテーブルの椅子に腰を下ろした。
エイナにも座るよう促し、ようやく彼女の部下たちに注意を向けた。
七人の男たちが立っているのに、テーブルの椅子はあと一つしか空いていない。
「ええと、……この人たちは?」
「私の率いる小隊の部下たちです」
「部下ぁ!? エイナの?
だって、この人たち第四軍の兵隊さんじゃない。
あんた、参謀本部付けだったでしょ。いつの間に転属したのよ?」
ぐったりしていたユニが、初めて大きな声を出した。
エイナは第四軍に期限付きの異動を命じられ、小隊長に任じられたことを簡単に説明し、部下たちを一人ずつ紹介した。
「曹長は席に着きたまえ。他の者は休めの態勢で待機だ」
エイナが指示を下すと、ユニが吹き出した。
「あんた、本当に上官をしているのね。何だかマグス大佐みたいな口調だわ。
でもね、ここは軍じゃないんだから、突っ立っていられると居心地が悪いの。
構わないから、適当に座ってちょうだい」
部下たちは困ったように顔を見合わせたが、エイナが「お言葉に甘えさせてもらえ」と許可を出した。
彼らはホッとした表情で床に腰を下ろし、胡坐をかいた。
コンラッド曹長は、エイナの隣りの椅子に腰を掛けた。
その顔を、ユニが覗き込んだ。
「あら、曹長さんって……どこかで会ったことないかしら?」
曹長は懐かしそうな顔で微笑んだ。
「黒龍野会戦で、敵魔導士の攻撃で昏倒したアスカ様を、戦場から引きずり出したのが自分です。
その後、兵を指揮して軍医殿のところまで搬送しました。
ユニ殿とは、その時にお会いしています」
「ああ、思い出した! あなた、あの時は確か軍曹だったわね?
あたし、泣いているあなたの胸倉を摑まえて、何があったのか問い詰めたんだっけ」
「私が泣いていた? ……そうでしたか、自分では気づいていませんでした。
ですが、ユニ殿もぼろぼろ涙をこぼしておられましたよが」
「ふふっ、お互い様ってことね。懐かしいわ……」
そうつぶやくユニは、急に老け込んだように見えた。
エイナが心配そうに、話に割って入った。
「ユニさん、本当に大丈夫なのですか? 食事はしていますか?」
「だから平気だってば! 食事は……あれ? いつ食べたんだっけ?
なんか作るのが面倒臭くてね、よく覚えてないや」
エイナはいきなり立ち上がると、小屋の片隅にある台所に向かった。
「ウィリアム、ストーブから火種を掬って、竈に火を熾せ!」
台所の戸棚を開けると黒パンとバター、それに塩蔵肉の塊りが見つかった。
床に置かれた木箱には、日持ちがしそうな冬野菜が何個か残っている。
エイナは部下が起こしてくれた火で湯を沸かし、堅くなっていた黒パンをフライパンに放り込んだ。
たっぷりのバターを溶かして吸わせ、蜂蜜を上からかけ回す。卵があればもっとよかったのだが、贅沢は言ってられなかった。
湯が沸くと、刻んだ野菜と塩蔵肉を入れて簡単なスープを作り、柔らかくなったパンと一緒にテーブルに出した。
「簡単なもので申し訳ありませんが、とにかく召し上がってください」
エイナの怖い顔つきを見て、ユニは溜息をついた。
「……あまり食欲がないのよ」
「駄目です! 無理してでも食べてください!!」
ユニは気乗りがしない顔で、食事に手をつけた。
始めは仕方なくという素振りだったが、やがて料理を口に運ぶ動きが速くなっていき、出された食事は数分できれいに平らげられた。
ユニの身体は飢餓状態にあったのに、心が病んでいて、それに気づいていなかったのだ。
こんな状態のユニを見るのは初めてである。
彼女はいつだって元気いっぱいで、前向きな女性であった。
年齢は四十歳前後のはずだが、十歳は若く見えていたのだ。
『絶対に何かあった!』
エイナはそう確信していたが、何を訊いてもユニは頑なに認めようとしなかった。
ユニが食事をがっついているのを見守りながら、エイナはそれとなく小屋の内部を観察していた。
いつもより少し散らかっているが、特に変わった様子はない。
だが、何かが心に引っかかる。まるで小骨が喉に刺さっているような気分だった。
その違和感の正体が掴めないうちに、ユニの食事は終わってしまった。
洗い物や後片付けは、曹長が命じて兵たちがやってくれた。
食後のコーヒー(ユニの好み)を淹れて差し出すと、エイナは椅子に腰を下ろして溜息をついた。
『どうやって、ユニから事情を訊き出そう?』
うまい手がなかなか思いつかないので、エイナもコーヒーを飲んで気分を変えようとした。
だらんと下ろしていた手を、テーブルの上に戻そうとすると、その手の甲にロキの湿った鼻先が押しつけられた。
エイナが目を遣ると、床に伏せていたロキがじっとこちらを見つめ、〝ひ~ん〟と小さく鳴いた。
「心配してくれてるの? やさしいのね」
エイナはロキの頭を撫で、耳の後ろを掻いてやった。
その瞬間である。彼女は突然、違和感の正体に気づいた。
エイナは振り返って、目を逸らそうとするユニを正面から見据えた。
「ライガの姿が見当たりません。ユニさん、彼はどこに行ったのですか?」