二十五 急転直下
『なぜ気づかなかった!?』
エイナは目の前に突き出された槍先から目を逸らし、内心で歯噛みをした。
彼女は五感が鋭く、敵が隠れ潜んでいても大抵は気づくことができた。
それが、まったくの不意打ちを喰らったのだ。
エイナは素早く左右に視線を走らせた。
小隊を取り囲んでいる敵は、全部で十六人。
いずれも軍服に酷似した制服を身に着けていたが、胸には軍団を示すプレートや階級章がついていなかった。
一番異様だったのは、全員が黒い目出し帽を被っていて、顔を隠していることだった。
「動くな! 剣の柄から手を離せ!!」
男たちが低い声で警告を発した。
「彼らの言うとおりにしろ」
エイナは振り返らずに指示を発した。
同時に、頭の中で忙しく考えを巡らせた。
これほど接近されていては、下手に攻撃魔法を使えない。
風系魔法で敵を吹っ飛ばせば、距離を取ることができるが、あいにくエイナに使える魔法ではない。
考えた揚句に彼女は決断を下した。
魔力を弱めた雷撃魔法で、味方ごと周囲を失神させる。
部下たちには気の毒だが、それ以外にこの窮地を脱する方法が見つからなかったのだ。
エイナはほとんど口を動かさずに、無音の詠唱を始めた。
これは彼女が〝黙唱〟と名付けた技術である。
元々はケルトニアの魔導士で、現在は王国の魔導教官を務めているケネス・フォレスター大尉から教わったものだ。
だが、そのわずかな顎の動きを敵は見逃さなかった。
たちまち二つの槍先がエイナの喉元に突きつけられた。
鋭い痛みが走り、エイナの白い喉に血の球が浮かぶ。
「今すぐ詠唱を止めないと、喉を貫くぞ!」
男たちの恫喝は落ち着いたものだった。その冷徹な声音には、従わなければ躊躇しない――そんな迫力があった。
彼らはエイナが魔導士であることを、最初から知っていたのだ。
やむなくエイナが呪文を中断すると、敵の指揮官らしい男が、槍を引いて一歩下がった。
「抵抗しなければ、危害を加えるつもりはない。全員下馬して手を上げろ」
エイナは無言のまま馬から降り、部下たちにうなずいてから、ゆっくりと両腕を上げた。
彼女の行動を見た部下たちも、それに倣う。
すぐに男たちによって、腰の長剣をが奪われた。
「ちょっと待ってくれ」
コンラッド曹長が口を開いた。
「その制服、一度だけ見たことがある。あんたたち、情報部の人間だろう?
なぜ味方に槍を向けるんだ!」
『情報部!?』
エイナも部下たちも、驚いて目を見開いた。
情報部は王都だけではなく、四軍にも配置されている。
しかし、彼らは参謀本部の直轄部隊であり、四帝の支配権は及ばない。
エイナも王都や蒼城で見かけたことがあるが、彼らは普通に国軍の軍服を着ていて、きちんと階級も明示していた。
そして、目にする人物は大体同じで、あまり人数がいる部署のようには思えなかった。
だが、考えてみれば、情報部は諜報と防諜、両方の活動を担っている。
時には敵の工作員を摘発するため、戦闘も辞さない実力部隊を擁しているはずだった。
それが、現在小隊を取り囲んでいる連中なのだろう。
男たちの指揮官は、曹長の質問を無視したまま、手にしていた槍を傍らの部下に渡した。
そして、エイナの前に進み出た。
「エイナ・フローリー少尉だな?
自分は情報部のシュトラウス大尉だ」
男はそう言って、目出し帽を顎の辺りまでめくり上げた。
隠れていた詰襟が露わになり、金の一本線に星が三つの徽章(大尉を示す)が見てとれた。
エイナが反射的に〝気をつけ〟の姿勢で敬礼をすると、大尉はゆっくりと答礼を返した。
「手荒なことをして済まなかった。
この街区で派手な騒ぎを起こしては、いろいろとまずいのだ。察してほしい。
さて、少尉には私と同道してもらう。部下たちの指揮は、コンラッド曹長に任せたまえ」
シュトラウス大尉はエイナだけではなく、曹長の名前まで把握済みということだ。
さすがは情報部といったところか。
「お待ちください。大尉殿は私たちの任務をご存じなのですか?」
「当たり前だ。だからここで君たちを待っていた。
くだらんことを訊く暇があったら、さっさと指示に従いたまえ」
「お言葉ですが大尉、自分たちは第四軍に所属する将兵です。
参謀本部直轄である、あなた方の命令に従う謂れはありません。
大尉殿が、我が小隊の受けている特命をご存知だというなら、なおのことです。
それでも当方の行動を妨害される場合、遺憾ながら軍を通して正式に抗議することになります」
エイナとしては、堂々と反論したつもりだったが、大尉は動じなかった。
彼は軍服の胸ボタンを外すと、懐から丸めた羊皮紙を取り出し、それをエイナに手渡した。
「それを読みたまえ」
エイナは手元の羊皮紙に目を落とした。
赤い蝋で封じられていたが、その封蝋印はエイナが持っている大隊印などではない。
軍司令であるアスカ・ノートン大将のものだった。
彼女は封蝋を破って羊皮紙を広げた。
そこには流麗な筆致で、こう書かれてあった。
『この命令書を提示された刻限をもって、第一野戦大隊第三中隊、エイナ・フローリー少尉以下第四小隊に下した特命を解除する。
同小隊はすみやかに原隊に復帰せよ。ただし、特命は情報部に引き継がれるものとし、その要請があった場合、他に優先して協力するよう命じる』
文面の下には、アスカの署名があった。
「エイナ・フローリー少尉。
貴官の小隊は、現刻をもって我々の指揮下に入る」
「はっ」
正式な命令書を示された以上、エイナとしては従うしかない。
「曹長、部下たちのことをよろしく頼む」
エイナはそう言い残し、シュトラウス大尉の後を追った。
* *
「大尉殿、ひとつ伺ってもよろしいですか?」
シュトラウスに追いついたエイナは、歩幅が大きい大尉に遅れまいと、小走りになりながら訊ねた。
「何だ?」
「私は命令を受けるに当たり、情報部はこの件から手を引いたと聞かされていました。
そうではなかったのですか?」
「我々は情報部、正直者には向かない部署だ」
「私たちの調査について、どこまでご存じなのですか?
協力を命じられた以上、必要な情報は開示する用意があります」
「それはご親切なことだが、今のところは必要ない。
確か、君たちは昨夜に宿の食堂で打ち合わせを行っていたな?」
「……よくご存じですね」
「我々情報部の人間からしたら、信じられない愚行だ。
食堂には他の泊り客もいたというのに、秘匿すべき情報を垂れ流すとは、情けなくて涙が出る。
ちなみに、あの客は私の部下だがね」
エイナはぐうの音も出なかった。
情報部は最初からエイナたちを尾行し、宿では盗聴をしていたのだろう。
つまり、彼女たちは敵をおびき寄せる餌に過ぎなかったのだ。
「私たちは囮だったのですね……」
エイナが肩を落とすと、大尉の目出し帽を通して、含み笑いが聞こえてきた。
「囮にしては、ずい分と元気がよかったな。
正直なことを言うと、君たちには捜査の素人らしく、目立ってくれればそれでよかったのだ。
ところが、君たちはどんどん真相に近づき、とうとう敵の本丸にまで迫ってしまった。
我々は面食らったよ」
「……では、どうして今になって介入してきたのですか?」
「君たちの調査が、いきなり核心に迫ってしまったからだよ。
しかも、いきなり踏み込もうとした。暴挙としか言いようがない。
相手だってその道の専門家だ。君たち素人の動きに気づかないはずがないだろう。
我々も『これはまずい!』と判断して、介入に踏み切ったわけだが……やはり手遅れだった」
「え?」
「逃げられたんだよ。
まぁ、ついてくれば分かるさ。これは教育だ。自分たちの間抜けさを、その目で見るがいい」
大尉は邸宅の大きな扉を開き、中へ入っていった。
* *
屋敷の中は騒然としていた。
いや、騒がしいわけではなく、むしろひっそりと静まり返っていたが、雰囲気がそうだったのだ。
屋敷の使用人、特に女性たちは部屋の隅に固まっていて、ひそひそとささやき合っていた。
そして、時折通る情報部員の姿を見ては、恐ろしそうに身を寄せ合うのであった。
広いエントランスを横切りながら、エイナは小声で訊ねた。
「ハーマン(この屋敷の主人)も逃げたのですか?」
すぐに大尉のくぐもった声が返ってくる。
「いや、彼は拘束され、現在尋問を受けている。
もちろん、仮のものだ。本番は蒼城に連行してじっくりやるさ。
面白い情報が得られるだろうが、工作員たちの行方に関していえば、期待薄だな。
ハーマンは奴らが引き払ったことも知らないようだ」
大股で先を歩くシュトラウスは、ホールから食堂を抜け、厨房へと入っていった。
この時間なら、朝食の用意で慌ただしいはずだが、竈には火が入っておらず、料理人の姿もなかった。
厨房の隅の床には、扉が開いた大きな穴が剥き出しになっていた。
こうした場所には、食材や調味料などを保存する地下室があるのが普通である。
大尉とエイナがその中に降りていくと、薄暗い地下室の奥の床に、またもや穴が空いていた。
その横には香辛料が並ぶ木製の戸棚が寄せられている。
普段はこの棚が穴を塞いでいるものと思われた。
穴を覗くと明かりが見え、人の気配もした。
急な階段を降りていくと、大尉と同じような制服を着て、目出し帽を被った情報部員が数人、忙しく働いていた。
彼らは部屋の壁際に並んだ棚から書類や図面を取り出しては、分類してテーブルの上に積み上げる作業を続けている。
奧の壁だけには書棚がなく、ここにもまた黒い穴があった。
そして、その手前に大きな黒い革袋が置かれていた。
「この穴の先が、廃止された点検口の壁につながっている。
内側からしか開かない蓋がしてあってな、元々の壁をそっくりそのまま使っているから、外からじゃ分からなかっただろう?」
「私たちが昨日、点検口の壁を調べたこともご存じなのですね?」
「ああ、それを知ったのは、食堂での打ち合わせを聞いた結果だ。
報告を受けた俺たちは、泣きたくなったよ。
あんたら、壁を蹴ったり叩いたりしただろう?」
「はい……」
「そんなことをして、この地下室にいた連中が気づかないと思うか?」
「あ!」
「そうでなくても、奴らは君の小隊をつけ回していたから、危険を感じていたはずだ。
もう猶予がないことを、わざわざ知らせてやったようなもんだ。
奴らは昨日の深夜のうちに、ここを引き払ったらしい。
俺たちは急遽人員を掻き集め、夜明け前にここを急襲したが、一足遅かったというわけだ」
「それは……申し訳ありません」
「素人なんだから、仕方ないだろう。
それに、奴らに君の小隊のことを教えたのは、我々情報部だからな。
責めては気の毒というものだ」
「えっ、どういうことですか?」
大尉は肩をすくめた。
「もともと今回の作戦は、第四軍内部で敵に情報を流している幹部を、特定するのが目的だったんだ。
これまでの調査で、容疑者は三人にまで絞られていたが、決定的な証拠が掴めなかった。
それで、君たちを囮にして、三人にそれぞれ違った情報を知らせたのだ。
後は君たちを張っていればいい。敵の対応を見れば、どの情報に釣られたのかは一目で分かる。
今ごろ、裏切り者の将官は身柄を拘束されているだろう」
「そう……だったんですか」
「ところが、無能な素人だろうと高をくくっていた君たちは、想定以上に頑張ってしまった。
これほどだと分かっていたら、情報を秘匿したまま、敵の工作本部の壊滅を主目的に据えていただろう。
敵に逃げられた原因の半分は、判断を誤った我々の責任だ」
大尉の話を聞いている内に、エイナは猛烈に腹が立ってきた。
だが、相手は上官であるし、任務でやっていることだから、態度に出すことはできない。
彼女は気分を落ち着かせるために、無理やりに話題を変えた。
「この床に転がっている革袋は何ですか?」
「ん? ああ、これか。自分で開けて確かめてみるといい」
エイナは片膝をつき、革袋の合わせ目を綴じている皮紐を解いた。
出てきたのは痩せた男の顔だった。
目と口が半開きになっていて、乾いた舌が覗いていた。顔色は真っ白である。
どう見ても死体であった。
「誰ですか?」
エイナは革紐を結び直し、大尉に訊ねた。
「敵の通信魔導士だよ。奴らがここを引き払う際に、殺されたんだろう。
こいつを連れていけば、あっという間に感知されるからな。
別に殺さなくても、下水道から逃がしてやればいいものを……。
敵も慌てていたんだろうさ」
「情報部にも、感知魔法が使える魔導士が配属されているのですか?」
「それには答えられん」
「そうでしょうね」
「敵の工作員は、どこへ逃げたのでしょう?」
「さあな。奴らだって、万一の事態に備えて予備の本部を用意していただろう。
だが、これで当分の間、奴らの活動は大きく制限を受ける。
代わりの通信魔導士を派遣させるだけでも、二か月はかかるんじゃないかな。
奴らに少なくない打撃を与えたんだ。君も誇っていいんだぞ?」
「それはどうも……」
大尉はテーブルの上に積み上げられた、書類の束のほうに目を遣った。
その中に、ひときわ大量の束があった。薄褐色のざらざらした紙片である。
「重要な書類は残らず持ち去っただろうから、ここに残っているのは、大したことのないものばかりだ。
だが、少尉たちがいなかったら、この大量の蚕紙の束の意味を、俺たちは延々と考えていただろうな。
これで説明は終わりだ。
君たちには改めて事情聴取に応じてもらうが、取りあえずはもう用済みだ。部下たちを連れて原隊に帰るがいい」
エイナは敬礼をして、その場を後にした。
自分たちが道化を演じていたことを、どう部下たちに説明したらいいのか……。
考えただけで頭が痛かった。