二十三 図書館
エイナたちの捜索は、四日目に入った。
宿の食堂で朝食を済ませるのはいつもと変わらないが、その日は食後のお茶まで楽しめた。
市立図書館の開館は午前九時なので、朝もゆっくりできたのだ。
実際に訪れた図書館は、蒼城に近い広大な敷地に建つ石造総二階建ての立派な建物だった。
エイナだけではなく、市内育ちのウィリアムとケヴィンも、図書館自体は知っていたが訪れるのは初めてである。
中に入ってみると、開館して間もないにも関わらず、そこそこの人が入っている。
人数は多くても、声高に話す人は皆無で、静かな空気が漂っていた。
受付カウンターには、数人の職員が配置されており、書物を探す人々の相談に乗っていた。
エイナもその一人に近づき、自分の身分証を提示した上で目的を告げた。
「下水道と調整池に通じる暗渠の点検口、それも蒼城市の建都当時の状況を知りたいのです。
そうした地図があったら、閲覧したいのですが……」
カウンターで応対した中年女性は、わずかに眉を上げた。
「ずい分と変わった探し物ですね。それですと、地図というより図面分野だと思います。
ただ、あいにく担当の司書が病気で、先週から休んでおりまして……。
あ、いえ、ご心配には及びません。代わりにご案内できる者がおりますから。
呼んでまいりますので、少々お待ちください」
女性はそう言って、奥の事務室へと消えていった。
しばらく待っていると、彼女はもう一人の女性を伴って戻ってきた。
「お待たせして申し訳ありません。
私は当館の司書次長を務めております、アンナ・ワリシエと申します」
アンナは濃い栗色の髪短く切り揃え、大きな眼鏡をかけた三十代くらいの女性だった。
決して美人ではなく、化粧っ気のない地味な顔立ちだったが、秀でた額が賢そうで、いかにも〝本好き〟といった印象を受けた。
「お探しの図面でしたら、心当たりがございます。
かなり古い貴重な史料になりますので、特別閲覧室でご覧いただくことになりますが、私の立ち合いも必要になります。
よろしいですか?」
もちろん、エイナに異論はない。
「構いません。必要に応じて質問しても大丈夫ですか?」
「私に答えられることでしたら遠慮なく」
* *
この時代の王国は木版印刷の爛熟期で、帝国やケルトニアといった先進国では、すでに活版印刷の普及が始まっていた。
大量印刷が可能となった結果、書籍の価格は従前に比べて格段に下がったが、庶民にとって高価であることに変わりはない。
これよりも以前の古い書籍となると、写本を含めてほとんどが羊皮紙に手書きされた、非常に貴重なものであった。
したがって、図書館では一部の例外を除いて貸し出しは行わず、館内での閲覧のみというのが常識だった。
* *
アンナに案内されて閲覧室に入ると、三人は息を呑んだ。
部屋の中央に、巨大なテーブルがあったからだ。
横二メートル、縦は六メートル近い。
「ずい分と大きなテーブルですね。
閲覧室とは、皆このようなものなのですか?」
エイナの素朴な疑問に、アンナは微笑みながら首を振った。
「ここは特別なんです。
地図や図面は大きなものが多いですから、これでも足りないこともあるんですよ。
いま、ご要望の図面をご用意しますから、少々お待ちください」
彼女はそう言って、奥に続く大きな扉を開け放ち、薄暗い廊下の奥へと消えていった。
アンナが戻ってきたのは、十分ほど後のことだった。
脚に車輪のついた大きなワゴンに、丸めた大きな図面が二つ乗せられている。
彼女はそのうちの一つをテーブルに移し、端をガラス製の四角柱で押さえ、くるくると広げていった。
そして終わりの端にもう一本のガラス柱を置き、図面が丸まらないようにした。
彼女は白い手袋をしていたが、エイナたちにも人数分の手袋を手渡した。
「図面には直接触れられませんので、この手袋をしてください」
三人は言われたとおりに手袋を着けると、テーブルの上から図面を覗き込んだ。
図面は羊皮紙製で、横は一メートル強、縦は二・五メートルほどもあった。
はじめの三分の一が蒼城市で、反対側の端がアナン川と調整池、その両者を暗渠がつないでいた。
内容は非常にシンプルで、下水道と暗渠の輪郭が濃い黒いインクで描かれている。
蒼城市の大城壁と、蒼城から延びる四本の大通り、そしてアナン川と調整池は、やや薄い茶色のインクで示してある。
これ以外に、街道をはじめとした地形を表す情報は、何一つ描かれていなかった。
アンナは少し誇らし気に説明を始めた。
「ご覧のとおり、地図と呼べるような代物ではありません。
下水道の配置図としか言いようがありませんが、二百八十年前の建都時の様子を窺い知ることができる、とても貴重な史料なんですよ」
「とても簡素な図面に思えますが、これで何が分かるのでしょうか?」
「例えば、アナン川の流れは今と全く違っています。大城壁も百五十年前の大改修以前のものです。
ほかにも、これを見てください」
アンナは蒼城市の中央付近を指さした。
白い手袋の指先には、小さな黒丸が描かれている。
「これは……点検口の位置でしょうか?」
「よくご存じですね。
ご覧のように、蒼城市内の点検口は、二十二か所描かれています。
しかし、現在では十八か所しか存在しません。
なぜだか分かりますか?」
アンナの目が悪戯っぽく光る。
エイナは図面を見ながら、自分たちが昨日降りた点検口を探した。
大通りだけは描かれているから、見当をつけるのは難しくない。
そこは、下水課から一番近い、すなわち蒼城に最も近い位置にある点検口のはずだった。
だが、目の前にある図面には、そこよりも城に近い位置に、点検口を示す黒丸が描かれていた。
南大通りだけでなく、東西北それぞれの大通りにも、対応する点検口があった。
「分かりました。
点検口は、大通りと横道の交差点に設けられていますよね。
この、一番中央寄りの点検口は、後の時代に廃止されて塞がれたということです。
その理由は、この部分で交わる横道が無くなった……つまり、区画整理が行われたからだと思います」
「まぁ、よくそこまでお分かりですね!」
アンナは目を丸くしたが、すぐに笑い出した。
「ああ、お客様は下水道課の方に聞いたのですね?
蒼城市民でこんなことを知っているの、あの人たちしかいませんもの。
金持ちのわがままで、道路一本が潰された――それも、建都からわずか二十年の出来事です。
当時の経緯はほとんど伝えられておりませんが、こうした図面にしっかりとその証拠が残っているのです。
どうです、面白いでしょう?」
解説するアンナは、ひどく楽しそうだった。
エイナも笑ってうなずいたが、いま調べたいのは暗渠の方の点検口だった。
彼女は場所を移動して、暗渠のあちこちに描き込まれた黒丸に目を遣った。
「この図面、縮尺は正確ですか?」
アンナはそうだと答えた。
そうすると、蒼城市の直径から考えて、暗渠の総延長は八キロ弱といったところだ。
点検口は約一キロごとに設けられていて、城壁内に比べると、かなり間隔が離れている。
エイナはその位置を描き取ろうとしたが、何しろこの図面には川以外に地形情報がない。
「困ったわ。これだと大雑把な位置しか掴めないわね……」
彼女のつぶやきを聞いたアンナが、すぐに助け舟を出してくれた。
「位置を確認したいのでしたら、現在の地図と比較すれば簡単ですよ。
そう思って、ちゃんと用意しておきました」
彼女はワゴンの上からもう一枚の図面を持ってきて、机の上に広げてみせた。
こちらは正真正銘の地図で、細かい枝道や主要な建物、新市街の町並みと排水路まで詳細に描きこまれていた。
「同じ縮尺のものを選んできましたから、定規を当てれば地図上のどこになるか、分かると思います」
ワゴンの上には、ちゃんと分度器と定規も用意されていた。
エイナは部下たちと協力して七つの点検口の位置を割り出し、それを持参した野帳に描き込んだ。
アンナは用の済んだ図面を丸めながら、さらりと訪ねてきた。
「それにしても、軍の方が下水の調査というのは面白いですね。
しかも、私服で動いてらっしゃるということは、何やら秘密の匂いがします」
エイナは苦笑いを浮かべた。
「お察しのとおりで、詳しいことはお教えできないのです。
アンナさんは、暗渠の点検口が早い時期に埋められたことをご存じですか」
「はい。記録では建都から九年目のこととなっていますね」
この司書の頭の中には、どれだけの知識が詰め込まれているのだろう?
エイナは背筋が寒くなった。
「実際それで問題は起きていないようですが、なぜ点検が廃止されたのでしょう?」
「それが莫大な費用を投じて、暗渠化した理由でもあるんです。
新市街の排水は暗渠化されていませんが、そのため年間に大量の砂や埃、落ち葉やゴミが入ってきます。
これを放っておくと、あっという間に水深が浅くなって氾濫の原因となりますから、頻繁に川底を浚う必要が出てきます。
この費用が莫大で、市の財政を圧迫しているんですよ」
アンナは教師のような口ぶりで解説を続ける。
「そういう意味で、暗渠化は初期費用こそかかりますが、完成してしまえば管理が楽なんです。
ええ、エイナさんが言いたいことは分かります。
それが分かっているなら、最初から点検口を作る必要がないですよね」
「実は、排水路の暗渠化は、蒼城市が初めてのケースだったんです。
ですから、当時の為政者たちはその効果を半分疑っていて、保険を掛ける意味で点検口を作ったらしいです。
結局それは杞憂に終わり、早々に点検は廃止されたということです。
でも、蒼城市の経験を受けて、他の三古都と王都も排水路の暗渠化を進めました。
その際には、点検口は作られなかったそうですから、無駄ではなかったと思いますね」
* *
市立図書館を出たエイナたちは、そのまま暗渠の点検口跡の捜索に向かった。
蒼城市から最も近い二か所は、いずれも新市街の中にあり、これについては詳しく調べる必要がない。
どう考えても、人口過密な新市街で穴を掘ることなど不可能だからだ。
彼女たちは位置の確認にとどめ、屋台で昼食を詰め込んで新市街を後にした。
現在の地図と対比して分かったことだが、暗渠の地上部分には、細い道路が通っていた。
暗渠の点検は止めても、調整池の管理の方は必要である。
この道は、池の管理職員たちの交代や物資の搬送のため、使用するものだった。
お陰で歩きやすく、わざわざ軍服に着替える必要もない。
三つ目の点検口跡は、その道の両側に広がる畑に覆われていた。
今は冬なので、黒土が剥き出しになっていて、作物は植えられていない。
見渡す限り何もなく、念のため畑の土を少し掘ってみたが、結構分厚く土が盛られていて、点検口を掘り出すのは重労働になりそうだった。
四つ目の点検口跡も同じ状況で、周囲は一面の畑が広がっている。
ただ、違ったのは近くに一軒の小屋が建っていることだった。
エイナたちは当然、これを調べることにした。
小屋はだいぶ古びているが、屋根や壁には穴もなく、そこそこしっかりしている。
扉を引いてみると、鍵はかかっておらず、軋む音を立てて開いた。
中は無人で、がらんとしていた。いくつかの肥料袋と、壊れた農具が何本か置いているだけである。
恐らく、春からの農作業シーズンに肥料や種籾、農具などを入れておく作業小屋なのだろう。
エイナが明かり魔法をつけ、小屋の中をくまなく調べたが、特に不審な点は見つからない。
諦めて外を回って見ると、裏手に井戸があった。
低い屋根とコの字形の壁があるのは、中に雨や埃が入らないようにするためなのだろう。
だが、井戸自体にも木の蓋が被せられていて、使用されているようには見えなかった。
念のためにウィリアムが蓋を外し、エイナが明かり魔法で底の方を照らしてみる。
案の定、水が溜まっていない涸れ井戸であった。
「外れですね」
そう言って、ウィリアムが蓋を閉めようとするのを、エイナが押しとどめた。
「ウィリアム、井戸の底に降りてみてちょうだい」
「自分がですか?」
部下は〝信じられない〟という表情を浮かべる。
エイナは彼の抗議を無視して振り返った。
「ケヴィン、小屋の壁に縄梯子が掛けてあったでしょう。あれを持ってきてくれる?」
小屋の内部を調べた時、エイナはそれを見て違和感を覚えたのだ。
どう考えても、農作業に使うものではない。
ケビンが運んできた縄梯子は、丸めて縄で縛られていたが、結構な大きさだった。
鉤状の金具を井戸の縁に引っかけ、縄の結び目を解いて下に垂らすと、底まで届く長さがあった。
ウィリアムはぶつぶつ言いながら、それを伝って下に降りていった。
井戸は思ったより深く、底まで四メートル近くあった。
通常であれば、上から覗いても暗くて何も見えないだろう。
底に降り立ったウィリアムは、すぐに顔を上げて叫んだ。
「小隊長殿、当たりです! 横穴があります!!」
* *
エイナの指示で、ケヴィンも底に降りた。二人になっただけで、狭くて身動きが取りづらい。
「あんたたち、明かり魔法を持って、横穴を探検してきてちょうだい」
「えっ、この明かりって、掴めるんですか?
いや、そんなことより! 小隊長は一緒に行ってくれないんですか?」
エイナの声が上から降ってくる。
「ケヴィン、私はスカートを穿いているのよ。あんたたちの上から降りていけると思う?」
「いや、ちゃんと目をつぶっていますから!」
「別に信用しないわけじゃないけど、気分的に絶対! 嫌だわ。
大体、そんな狭いところに降りたら、服が汚れるじゃない。
明かり魔法は人の身体をすり抜けたりしないから、押していけば前に進んでくれるはずよ。
横穴の様子はどんな感じ?」
「井戸は単純な素掘りですけど、横穴は壁と天井が板で補強されていますね。
高さは約一・五メートル。背を屈めれば、何とか通れそうです」
「分かった。それじゃ、頑張ってね。吉報を待っているわ」
二人の部下は、ぶつくさ文句を言いながら横穴の中に入っていった。