二十一 暗渠
下水道は想像以上に立派なものだった。
直径が四メートルほどの管状で、古風なレンガ造りである。
片側は歩道となっており、人が余裕をもってすれ違える幅があった。下水はそれよりかなり低い位置をゆったりと流れている。
ドブの臭いはするが、思ったほど強くはない。
エイナたちが立っている歩道の下には、直径一・二メートルほどの穴が口を開けており、そこから濁った水が本流に流れ落ちている。
「ここは交差点の真下ですから、横道の排水が合流しているんです」
課長がそう説明してくれた。
「つまり、下水道の構造は、地上の道路と同じということですね」
「そうですね。東西南北、四本の大通りの下に、私たちが本管と呼ぶ太いトンネルが通っていて、支管と呼ぶ横道の管渠が流れ込んでいます。
違う点は、城壁手前に街を一周する環状水路が通っている……そのくらいでしょうか」
エイナは通路の縁から下の流れを覗き込んだ。
「思ったより水量が少ないのですね」
「この時間帯なら、こんなもんです。
夕方には少し増えますが、総じて水量は安定しています。もっとも、雨が降ると話は別ですがね」
「ええと、この水路――本管は、両端が環状水路につながっているのですね?」
「いえ、一方だけです。中央部は蒼城の手前で行き止まりになっています。
何しろ城の地階は、ここよりもずっと深くまで掘り下げられていますから」
「集められた排水は、城外の暗渠に流れ込んでいると聞きましたが?」
「そのとおりです。環状水路の西北に流出口があって、大城壁の基礎を貫いて暗渠に続いています」
「そこを見ることはできますか?」
「もちろんです。
ここからだと、往復で二時間以上かかりますが、大丈夫ですか?」
「お願いします」
「では、私についてきてください」
課長はランタンを手に歩き出した。
下水道の壁には、一定間隔で大型のランプが掛けられていたが、通路は薄暗かった。
エイナは歩きながら質問を続けた。
「あのランプは、常時点灯しているのですか?」
「まさか。点検に入る職員が馬車から下ろし、一つずつ壁に掛けていくんです。
作業が終われば、また外して持ち帰りますから、大変な手間ですな」
「そのまま残してはまずいのですか? 盗まれる心配はありませんよね」
「夜中に豪雨があったらどうします?
この太い本管でも、あっという間に水嵩が上昇します。
そうなってから回収に行くのは自殺行為、ランプは全部流されるでしょうね」
「点検というのは、毎日行うのですか?」
「ええ、もちろん日曜は休みですけどね。
それも、『今日は東側の本管』というように、部分的にやっています。
作業は毎日でも、全体の点検を終えるには六日かかります。」
「時間は決まっていますか?」
「朝八時に降りて、夕方四時には引き上げるのが決まりですね」
「ということは、夕方から夜間は〝無人〟ということになりますね?」
「ええ、まぁ。どうしてそんなことを訊くのですか?」
不思議そうな課長に対し、エイナは適当な理由をつけてごまかした。
夕方以降は無人であるなら、行商人は人目を気にすることなく、この通路を利用して旧市街のどこへでも行けることになる。
エイナたちが降りたのは西大通りで、蒼城からは一キロほど離れた場所だった。
そこから緩い傾斜を下って二キロ進み、環状水路にぶつかる丁字路で右に曲がる。
環状水路は本管とほぼ同じ規模で、違うのは緩くカーブしている点である。
これを三キロほど進んだところで、向こう側の壁面に大きな穴が空いていた。
「これが暗渠につながる排水口です」
立ち止まった課長が、少し誇らしげに説明してくれた。
環状水路は各本管の排水を受け入れるので、結構な水量があった。
排水口には太い鉄棒が嵌まっていて、その間を泡を立てながら濁流が吸い込まれていく。
「あの鉄棒は?」
「粗大ゴミが暗渠に入らないための、最後の関所です。
もっとも、下水道の至る所に鉄柵が設けられていて、絶えず我々が引っかかったゴミを回収していますから、まぁ気休めですな」
「でも、あの隙間だと、人が通り抜けられますね?」
「それ自体は可能でしょうが、このドブを泳いで渡る気ですか?」
「敵にその覚悟があったとしたら、防衛上まずくないですか?」
エイナが示した懸念に、課長は首を傾げた。
「敵の侵入路というわけですか……。
ですが、この先は暗渠――調整池まで地下を流れています。どうやって中に入るのでしょう?
それに、こちら側の下水道に入れても、地上には出れませんよ」
「点検口があるではありませんか?」
課長は人差し指を顔の前に立て、左右に振ってみせた。
「内側からは、決して開けられんのです。
まず、点検口の扉は、片方だけで百二十キロもあります。
しかも、閉まると自動で鍵が掛かるようになっています。
少尉さんも開けるところを見たでしょう? 二本の鉄棒を穴に差し込んで、同時に鍵を外さないと駄目なんです。
ちなみに、点検中は開けっ放しにして、必ず見張りを残しています。
子どもが落ちたら大変ですからね」
地上に出るには、何か別の方法があるのかもしれない。その問題は、取りあえず脇に置こう。――エイナは思考を切り替えた。
「向こうにも、こちらと同じような通路が見えますね。
ということは、暗渠の点検もしているということですか?」
「暗渠の点検は実施しないのです。
建造当初はやっていたようなのですが、城壁内の下水道さえしっかり管理していれば、密閉された暗渠に問題は起こりません。
それで、十年もしないうちに点検は廃止になり、点検口もすべて埋め立てられたと聞いています。
それから二百年以上が経ちますが、暗渠で問題が起きたという記録はありません」
課長の言葉は否定的なものだったが、エイナの脳内に一条の光が差した。
「その埋められたという、点検口の場所は分かりますか?」
「そう言われましても……。たった今、二百年以上経っていると言ったでしょう?
覚えている者など、一人もおりませんよ」
「では、地図か設計図ならどうですか? 初期のものなら、記載があるはずです」
「私は下水課に勤めて三十五年になりますが、見たことがありませんね。
行政文書の保存期間は十年、重要書類に分類されても五十年と定められています。
二百年以上前の図面など、とっくに処分されているでしょうな」
「焼却されたということですか?」
「いや、さすがにそれは……。
恐らくですが、市立図書館が公文書として引き取ったのではないでしょうか」
エイナは胸を撫でおろし、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたが神様に見えてきました。
明日にでも、図書館を訪ねてみようと思います」
「いや、まぁ……お役に立てたのなら何よりです。
では、引き返しましょう」
課長は顔が赤くなったのをごまかそうと、〝回れ右〟をした。
* *
出発点に戻ると、課長は点検口から下がっているロープにに手を伸ばした。
地上で待機している職員に、上に昇ることを知らせるためだ。
だが、エイナはその動きを押しとどめた。
「えと、あの……せっかくの機会ですから、蒼城側の始点も見ておこうと思います。
ここから近いのですよね?」
「ええ。二十分もかかりませんけど、何もありませんよ?」
「構いません、後学のためです」
後で思い返すと、なぜそんな気まぐれを起こしたのか、エイナは自分でも説明できなかった。
実際に着いてみると、課長の言うとおり始点は単なるレンガの壁に過ぎず、これといって変わったところはなかった。
本管に傾斜をつけるため、ここは深度が浅いのだそうだ。
しばらく課長の説明を受けた後、エイナは礼を言って引き返すことにした。
引っ張りまわされるだけの部下の不満が、背中から伝わってきたからだ。
三百メートルほど進んだところで、エイナはふいに足を止めた。
前を歩いていた課長は、怪訝な顔で振り返った。
「どうかしましたか?」
エイナは即答できなかった。
「ええと……つまりその、来た時もそうだったんですが、この辺で妙な感じがしたんです。
違和感というか、何というか……。すみません、うまく説明できないです」
そう言われた課長は、改めて周囲を見回したが、やがてにっこりと笑った。
「ああ、多分あの支管のことでしょう。
そういえば、説明を失念しておりました」」
彼は反対側の壁面にぽっかり空いた、支管の合流口を指さした。
「水が出ていないでしょう?
ちょっと見てください。こっち側も同じですから」
エイナは通路の縁から下の穴を覗いたが、課長の言うとおりだった。
支管の丸い穴からは、一滴の排水も垂れていない。
「実は、この支管の上を通る横道は、再開発で無くなったんです。
この辺は高級住宅街で、貴族や富裕な商人の邸宅が並んでいます。
建都当時は、〝誰もが平等に住める街〟を掲げていたんですが、そんなのは無理ですよね?
すぐに金持ち連中から『区画をどうにかしろ』という声が上がって、結局、横道が一本潰されたのだそうです。
それでこの支管は役割を失って、放棄されたというわけです。
蒼城市が誕生して、わずか二十年ほどの出来事だったそうで、我々以外に知る人間は、まずいないでしょうね」
「それなら、いっそ穴を埋めてしまえばよいではありませんか?」
「いえ、これはこれで役に立つんです。増水時の遊水池みたいな存在ですね」
エイナは課長の説明に納得し、この涸れた支管の存在は、頭の片隅に追いやられた。
そして、彼女たちは再び最初の地点に戻り、今度こそ地上への帰還を果たしたのであった。
下水課の事務所で服を着替えてから、エイナたちは自分たちの宿に向かった。
もう夕方に近かったので、今日の捜索もこれで終わりということになった。
エイナは部下たちに、宿の食堂ではなく、街の食堂で早めの夕食(兼昼食)を摂ることを提案し、それは熱烈な歓迎を受けた。
軍票を無暗に使うわけにはいかないので、もちろんエイナの奢りである。
彼女は食事をしながら、本日得られた情報の意義を、詳しく解説してやった。
部下たちが、あまり理解していないように思えたからだ。
「そういうわけだから、明日は市立図書館で調べもの。
その後は多分忙しくなるから、あんたたちにも(奢った分は)働いてもらうわよ!」
エイナは口の端についたパスタソースを拭いながら、そう宣言したのであった。
* *
さて、エイナたちの捜索は、こうして三日目を終えたのであるが、同じ日の朝、コンラッド曹長率いる別動隊も、目指す親郷のクリル村に到着していた。
彼らはまず最初に、親郷に置かれている軍の出張所に顔を出した。
エイナの小隊が、行商人の捜索を命じられたことは、すでに現地兵にも知らされていた。
しかもそれが軍司令官、アスカ大将肝入りの案件であることも伝わっていたから、コンラッドたちの待遇は、異例ともいえる丁重なものであった。
馬を預けて旅装を解き、一息ついたところで、さっそく行商人に逃げられた顛末を聞き取ることになった。
出張所の兵たちが、拘束命令を受けてから逃げられた経緯、それに付随する聞き込みの結果などが、分かりやすく説明された。
ただしそれは、報告書に記載されていることばかりだった。
現地の派遣兵にとっては、自分たちの保身が最大の関心事らしく、弁解じみた説明以外に、有益な情報は何一つ出てこなかった。
コンラッドは盛大な溜息を漏らし、横に座っている部下たちの方を向いた。
「なぁ、ウォルシュ。ここはお前の生まれ故郷だったよな?」
突然の問いかけに、ウォルシュは戸惑いながら答える。
「は、はい。そうであります、曹長殿」
すると、現地部隊の指揮官(メンデルという三十代前半の少尉)が、驚いたようにウォルシュの顔を見詰めた。
「ウォルシュって……お前、どこかで見たことがあると思ったら、オルコットのところの三男か?
いや、間違いない。何だ、見違えちまったぞ! すっかり一人前の軍人面じゃないか!?」
親郷は辺境にしては、規模の大きい村で人口も多い。
それでも派遣された軍人たちは、何年もそこで過ごすうちに、村人たちの顔と名前を自然に覚えていく。
実はそれが非常に重要で、現地に溶け込むことで、よそ者の侵入にいち早く気づけるなのだ。
メンデルの部下たちも、口々に「ああ!」と声を上げた。
「信じられんな。ついこの間まで、青鼻を垂らして走り回っていたのに」
「俺は迷子になったウォルシュを家までおぶって帰る時、背中に小便を漏らされたことがあったぞ!」
「こいつ、キースのとこのベティのスカートをめくって、泣かせたことがあってな。親父さんに死ぬほど殴られたのを、俺が助けてやったんだ!」
次々と暴露される少年時代の悪行に、ウォルシュは赤くなったり、青くなったりした。
ともあれ、場はすっかり和んでしまい、お互いの距離感は一気に縮まった。
もちろん、コンラッド曹長が計算づくでやったことだ。
「メンデル少尉殿、自分たちは貴隊の査察に来たのではありません。
逃げた行商人の行方を調べるのが役目です。
もちろん、貴隊は最善を尽くしたに違いありません。ですから、この任務がいかに難しいか、誰よりも皆さんが理解しているはずです。
頼みます! どうか自分たちを助けてください!!」
彼はそう言って、ずっと年下のメンデルに深々と頭を下げた。
「あ、頭を上げてください、上級曹長。
もとより、自分たちは全面的に協力する所存です。
ですが、報告書以上に何を申し上げたらいいのか、こちらが教えてほしいくらいなのです」
「いえ、行商人と直接関係のない話でもいいのです。
奴が姿をくらます前後、村で何か変わった話を聞いていないでしょうか?
噂話レベルの、不確かなもので構いません」
「そう言われてもなぁ……」
派遣兵たちは顔を見合わせたが、誰も発言しなかった。
それでもコンラッドは、黙ったままじっと待ち続けた。
こうなると重苦しい空気が立ち込め、彼らは次第に居心地が悪くなってくる。
その雰囲気に耐えかねたように、とうとう一人の兵士が、おずおずと手を挙げた。
「あのぉ……、これは子どもが言っていたことで、本当に不確かな話なんですが、いいですか?」
「ああ、構わない。君の名前は?」
「レンドル一等兵です。
すごい分かりづらくて、たわいのない話なんですけど……いいですか?」
自分の部下だったら、すでに一発殴っていただろうが、コンラッドはじっと堪えてうなずいた。
レンドル一等兵は、不思議な話を語り始めた。