十九 巣穴
「確かに、人の踏み跡みたいだな」
エイナはうなずいた。
その痕跡はひどく頼りなかったが、確かに枯れ草の中をずっと続いているようだった。
「まずは川岸を詳しく調べてみよう。
ウィリアムは下流、ケヴィンは上流を頼む」
部下たちは「了解」と答え、それぞれの方向に散っていった。
エイナは最初に見つけた踏み跡を、じっくりと観察する。
川岸の間際は、乾きかけた泥で覆われていて、草が踏まれているのはその周辺だ。
左右を見渡すと、枯れ草は岸を覆い尽くし、地面が露出しているのはここだけである。
詳しく調べてみると、固まった泥にいくつか足跡が見つかった。
五本の指が確認でき、その人物が裸足であったことが推察できる。
エイナが足跡を一つひとつ確認していると、部下たちが戻ってきて、特に異常はなかったと報告した。
エイナは足跡を指さし、部下たちに訊ねた。
「形が変だと思わないか?
大きさからすると、子どものようにも思えるが……やけに幅が広いし、土踏まずもない。
そもそも、なぜ裸足になる必要がある?」
「魚獲りでもしてたんですかね?
ここ、川の淵ですから、いかにも釣れそうな感じですよ」
ウィリアムが呑気な意見を述べた。
ドブ川は、人工的に掘られた水路なので、基本的にまっすぐである。
ただ、地形の関係上、どうしても湾曲する部分が出てくる。
ここはその一つで、水深が深く流れが緩い〝淵〟と呼ばれる部分に当たっていた。
「ばぁ~か、こんな汚ねえ水に魚なんかいるかよ」
ケヴィンが馬鹿にしたが、エイナはウィリアムを擁護した。
「いや、そうでもない。コイとかフナだと、こういう泥水でも平気で生きるものだ。
細かい残飯が流れてくるから、かえって棲みやすいかもしれん」
「そうかもしれませんけど……」
ケヴィンは呆れ顔だった。
「工作員が、呑気に釣りをしますかね?」
* *
取りあえず、川岸には頻繁に人が(それも複数)往来していることが確認されたが、その目的は分からずじまいだった。
エイナたちは川岸の調査を切り上げ、草むらの踏み跡を追うことにした。
季節が冬であるのは幸いだった。これがもし数か月前だったら、生い茂る青草に覆われ、踏み跡など見つからなかっただろう。
三人は背を屈め、なるべく音を立てないよう、慎重に進んでいった。
川岸から三百メートルほど進んだところで、先頭を行くエイナが歩みを止め、地面にしゃがみこんだ。
後に続いていた部下たちも、反射的にそれに倣う。
「何かありましたか?」
ウィリアムとケヴィンがにじり寄ってきた。
「あれを見てみろ」
エイナが指をさした。
その方向に目をやると、枯れ草の隙間からこんもりとした土饅頭が見えた。
「何ですか、あれは?」
彼女は黙って胸ポケットから単眼鏡を出し、部下に手渡した。
ケヴィンはそれを片目に当て、筒を回して焦点を合わせる。
「穴……が空いていますね」
彼はそう言って、単眼鏡をウィリアムに渡す。
やや遅れて、ウィリアムもそれを確認した。
「本当だ。人が通れそうな穴ですね。自然のものではないような気がしますが……」
そんなことは見れば分かる。第一、こんな草むらの中に土饅頭があるのがおかしい。
そうは思っても、エイナは部下を立てた。
「よく気づいたな。恐らくあの土饅頭は、穴を掘って出た土を盛ったものだろう」
「ということは、本部ではなくても何らかの拠点、あるいは物資貯蔵庫という可能性がありますね」
ウィリアムは自分の見立てに興奮を隠さなかったが、ケヴィンは懐疑的だった。
「それにしては無防備すぎませんか?
あいつらだって馬鹿じゃない。枯れ草で覆うとか、偽装くらいするでしょう」
エイナも内心では彼の意見に賛成だったが、ここはあらゆる可能性を考慮すべきである。
「何にせよ、あれが何かは確かめる必要がある。さらに慎重を期せ」
彼女はそう言って、再び前進を始めた。
土饅頭の周囲は、草がすっかり踏み固められ、ちょっとした空き地になっていた。
視界の広がる周囲に人影はない。
じりじりと近づくにつれ、異臭が漂ってきた。トブ川とは違う種類の臭いだった。
豚の畜舎の臭いに、腋臭の体臭を加えたような感じだ。
それは、土饅頭にぽっかりと空いた穴から臭ってくる。
エイナは入り口のすぐ横にへばりつき、そっと中を覗こうとした。
「うわっ!」
だがその直前に、彼女の背中に叫び声が浴びせられた。
「どうしたっ!?」
エイナが振り返ると、ウィリアムが四つん這いになっている。
「くそっ! すいません、木の根に引っかかったようです」
彼は悪態をつきながら、軍靴に引っかかった根を引きちぎろうとした。
だが、それは意外と丈夫で、ウィリアムが持ち上げると、それが穴の中へと続いていることが分かった。
敵の接近を警戒する、原始的な罠である。
「馬鹿っ、手を放せ!」
エイナは短く叫び、顔を引っ込めて耳を澄ます。
案の定、穴の奥の方から、がらがらという騒音に続いて、甲高い叫び声が響いてきた。
エイナは深呼吸をして、近づいてくる足音に意識を集中させた。
その手には、抜き放った長剣が握られている。
「きいぃーーっ!」
黒い影が穴から飛び出した瞬間、エイナは身体を半回転させて長剣を叩き込んだ。
剣は敵の喉元に食い込み、頸椎を砕いて一気に振り抜かれた。
首のない身体が、つんのめるように前に倒れ、くるくると空中で回転していた頭部がその上に落ちた。
エイナは切断された頭を、すかさず穴の中に蹴り込む。
穴の中から鈍い音が響き、甲高い悲鳴が上がった。
続いて彼女は首のない死体を鷲掴みにし、穴の入り口に押し込んだ。
同時に、呆然と突っ立っている左右の部下に怒鳴る。
「剣を抜け! ゴブリンの巣穴だ!!」
そして、再び穴の方に振り向くと、ちょうど死体を乗り越えて顔を出したゴブリンと鉢合わせになった。
赤く血走った目、醜く広がった鼻、大きく開いた口の黄色い乱杭歯が視界いっぱいに迫る。吹きかけられた息が、たまらなく臭かった。
エイナは目の前の口に剣先を突っ込み、力任せに押し込んだ。
剣は頸椎に当たって左に逸れ、ゴブリンの顔面を耳の下まで切り裂いた。
黄色い奥歯が飛び散り、切断された頸動脈から噴水のような血しぶきが撒き散らされた。
エイナは返り血をまともに浴びたが、かまわず軍靴でゴブリンの顔面を蹴り、その反動を利用して、後ろに飛び下がった。
部下たちは剣を抜いてたものの、どうしてよいか分からずにおろおろしている。
「呪文の時間を稼げ! ゴブリンが出てきたら、脇から剣で突くだけでいい!
間違っても組み合おうなどと思うな、奴らの武器には毒や糞便が塗ってある!
穴の正面には立つな、矢が飛んでくるぞ!」
伝えるべきことを一気に吐き出すと、彼女は呪文の詠唱に入った。
もうこの先、部下への指示は出せない。彼らを信じるしかないのだ。
エイナは穴から少し離れた正面で、仁王立ちとなった。
その姿は穴の中から丸見えである。
当然のように、矢が飛んできた。
しかし、至近距離から放たれた矢は、彼女を突き刺す寸前で弾かれ、ばらばらと地に落ちた。
魔導士が身にまとう自律型防御魔法、マジックシールドのお陰である。
自ら囮となって弓矢の的になるのも、時間稼ぎと部下の安全のためだった。
矢が効かないと覚ったゴブリンたちは、キイキイと怒りの声を上げ、入り口を塞ぐ死体を乗り越え、外に飛び出そうとした。
それを、穴の両側からウィリアムとケヴィンが剣を突き入れ、必死で食い止める。
体格に劣るゴブリンが相手の場合、距離の取れる槍での攻撃が、最も効果的であるが、それは曹長たちの本隊に預けてある。
槍ほどの貫通力はないが、長剣もそれなりの役割を果たした。
二人の剣は、ゴブリンたちの頭や腕を散々に突きまくった。
剣先は血と脂にまみれ、神経のついた眼球が刺さっていることもあった。
うかつに上半身を穴から出すと、頭部や首に致命傷を受けるから、ゴブリンたちもなかなか出てこられない。
出口を狭くしていた二つの死体を奥に下げたくても、後方から押し寄せる仲間とぶつかり、渋滞を酷くするだけであった。
ゴブリンたちは死体の手足を切断し、ばらばらにすることで、どうにかこの問題を解決した。
そして、広くなった出口から、数人が一斉に飛び出すことで、ウィリアムたちの攻撃をすり抜けようとした。
しかし、その決意に至るまで、ゴブリンたちは敵に時間を与えすぎた。
ついにエイナの詠唱が終了したのだ。
高速多重詠唱に集中するため、閉じていたエイナの目がぱちりと開いた。
まっすぐに伸ばした彼女の右手の先には、輝く光の球が浮いている。
「二人とも逃げろ! 巻き添えを食うぞ!!」
エイナが大声で叫ぶのと同時に、光球が穴に飛び込んだ。
ゴブリンの戦士たちで渋滞してた穴の中で、ファイアボールの結界が一気に膨れ上がり、穴の周囲の土砂が爆発するように飛び散った。
結界に取り込まれた数十人のゴブリンは、荒れ狂う炎の渦に巻かれ、ひとたまりもなく全滅した。
魔法の範囲に入らなかった後続の者たちにも、凄まじい熱波が襲ってきた。
野外ならまだしも、熱の逃げ場のない穴の中は地獄と化した。
ゴブリンたちは息をしただけで肺が焼け爛れ、ばたばたと絶命していった。
エイナの警告で左右に飛びのいた部下たちは、穴から吹き出す熱気の直撃を受けず、地面を転がり逃れて、どうにか一命を取り留めた。
危うく死ぬところだったことも忘れ、彼らはファイアボールの猛威に釘付けになっていた。
二人が小隊長の攻撃魔法を見るのは、これで二度目である。
最初は敵を殺さないように、威力を抑えた凍結魔法だった。だが今回は、敵を殲滅する容赦のない攻撃である。
彼らの鼻には、髪の毛の焼ける嫌な臭いがまとわりついていたが、その原因は自らの焦げた前髪であった。
結界内で荒れ狂った炎の渦は、十秒ほどで消え去った。
崩れた穴の跡からは、もうもうとした煙が上がり続け、地面には白い骨が散らばっていた。
エイナはようやく息をつき、煙の上がる穴の前に立った。
遠くまで逃げていた二人の部下も、恐るおそる近寄ってくる。
「小隊長、ここって蒼城市から十五キロも離れていませんよ。
何だってこんな所に、ゴブリンの巣穴があるんですか?」
ケヴィンが怒ったような口調で訊ねてきた。
「それはこっちの台詞だ。気持ちはわかるが、私に当たるな。
運よく大森林を抜けられたゴブリンの家族が、人間の村落を避けて、ボルゾ川沿いに逃れてきたんだろう。
人気のない荒野に巣穴を作り、ドブ川から残飯を浚って生き延びていたのだと思う」
ゴブリンが辺境の開拓村を襲うのは稀である。
そもそも、彼らが大森林を抜けて、辺境までたどり着くこと自体が難しいからだ。
ゴブリンは、人間でいえば十三歳前後の体格しかないから、単独だととても弱い。
そのため、大森林をうろつくオークの恰好の餌となっていたし、オークが減った今では、大ヤマネコやクマの獲物と化していた。
彼らにも低レベルだが文明はあり、道具も使える。
弱い割には好戦的で、小さな毒矢、ナイフ型石器や石斧を武器とし、数を頼りとした集団戦を得意としていた。
「とにかく、この巣穴のゴブリンは、脅威となる規模まで成長していなかったようだ。
その段階で叩けたのは幸運だったな」
エイナはそう言って立ち上がると、ようやく煙の収まった巣穴跡に右手を伸ばした。
その手の先に、おなじみの光の球が浮き上がった。
「何をされるのですか? 敵はもう、全滅しているのでは……」
ウィリアムが不思議そうに訊ねた。
「いや、死んだのは戦えるオスだけだ。
巣穴の奥には、女や子どもが隠れている」
「まさか、それを?」
〝信じられない〟といった顔で、ウィリアムがつぶやく。
だが、エイナは表情を変えずに答えた。
「そうだ、残らず焼き払う」
「待ってください!
亜人種とはいえ、無抵抗の女と子どもですよ?
小隊長は、それを殺すとおっしゃるのですか!?」
ケヴィンが食ってかかったが、エイナの答えは冷たかった。
「そうだ。お前の言うとおり、こいつらは亜人であって、人間ではない。
ゴブリンの子はあっという間に成長する。女は自分の子とも交わり、次の子を産む。
ゴブリンの巣穴は根絶やしにしろ――私は村の大人たちから、そう教わって育った」
「しかし! 何も殺さなくても!」
ケヴィンはなおも食い下がったが、エイナはそれに答えなかった。
その代わりに、彼女の手の先で浮かんでいた光球が、穴の中に飛び込んでいった。
先ほどは入り口近くですぐに爆発したが、今度はしばらく沈黙が続いた。
やがて地鳴りとともに地面が振動し、穴の中から黒煙が吹き出す。
その煙と一緒に甲高い悲鳴が微かに聞こえ、数秒で沈黙した。
ケヴィンもウィリアムも、長剣を持った手をだらりと下げ、黙って立ち尽くしていた。
エイナはちらりと彼らを見たが、すぐに顔をそむけた。
「風魔法は苦手なんだがな……」
彼女はそうつぶやくと、短い呪文を唱え、再び巣穴に向けて手を伸ばした。
突然〝ごうっ〟と音を立てて周囲に旋風が巻き起こり、それが穴の中へと流れ込んでいく。
半分崩れた土饅頭のあちこちから、黒い煙が吹き出てきた。
ゴブリンたちが換気用に掘った空気穴なのだろう。
エイナは再び剣を抜き、巣穴に向かっていく。
そしてすれ違いざまに、突っ立っている部下たちに声をかけた。
「行くぞ、ついてこい」
「中に……入るのですか?」
「当り前だ。確認しなくては、報告のしようがない」
エイナは明かり魔法を唱え、背をかがめて巣穴に入っていった。
部下たちは、黙って後についていくしかなかった。
* *
巣穴の直径は、一・六メートルほどで、壁面はしっかりと叩きしめられていた。
穴は緩やかに下っていき、しばらく進むと左右に部屋が現れた。
扉はなく、中は奥行きが五、六メートル、幅は三、四メートルほどだった。
いずれも無人だったが、明かり魔法で照らし出すと、床にはゴミが散乱して酷く臭かった。
部屋を確認しながら、なおも下っていくと、最後に円形の大きな部屋にたどりついた。
天井は低いが、直径は十二メートルほどある。
ファイアボールはここで爆発したらしく、部屋の中央部は焼け焦げて、まだ地面から白い煙が上がっていた。
爆発に巻き込まれた白骨はあまり多くなく、ほとんどのゴブリンは、壁際に折り重なるようにして倒れていた。
手分けをして一体ずつ確認したが、息のある者はいなかった。
いずれも高熱の空気を吸って、肺が焼けて窒息したものと思われた。
女の数は十八体、それ以外の三十体近くが、赤子を含めた子どもだった。
重苦しい空気の中、エイナたちは黙々と死体を転がして、焼けた部屋の中央部へ集めた。
これまでの小部屋と同じように、ここの床もゴミで埋もれ、異臭が漂っていた。
ゴミのほとんどが食べかすで、ゴブリンでも消化できない骨や体毛である。
ネズミの残骸がもっとも多く、昆虫の羽根や脚も無数に散乱していた。
「小隊長、……こちらへ来てください」
エイナの反対側から、ケヴィンの震え声がした。
振り返ると、彼は薄暗い壁際でしゃがみこんでいた。
エイナと別方向にいたウィリアムも近づいてきて、ケヴィンの背中越しに覗き込んだ。
そこには、ネズミやウサギとは比べ物にならない、大きな白骨が散らばっていた。
毛髪のついたままの頭蓋骨も、二つ転がっていた。
エイナもウィリアムも、すぐにその正体に気づいた。
ゴブリンの骨格は人間と似ているが、明らかな違いがある。特に頭蓋骨の形状がまったく異なるのだ。
ケヴィンの前に散らばっていたのは、ゴブリンが食べ残した、人間の残骸であった。
ケヴィンはゆっくりと振り向いた。
その顔は涙で濡れ、口元は笑っているように見えた。
彼の両手には、片方ずつの靴が握られていた。
一つは子ども用の小さな靴、もう一つは女物のサンダルだった。