十七 宿屋
行商人が泊まっていたという宿屋は、喫茶店から歩いて十分ほどだったから、そう遠くはない。
ただし、通路が複雑に曲がったり分岐しているので、ジェイソンが案内してくれなければ、途方に暮れていただろう。
彼は宿の前までエイナたちを連れていくと、銅貨を手にさっさと帰っていった。
『せめて、宿の人に紹介してくれればいいのに』
エイナはそう思ったが、それは贅沢というものだ。
彼女は気持ちを切り替え、宿の扉を開けた。
宿泊施設だけあって、そこは二階建てのしっかりした木造建築であった。
一階は食堂を兼ねているらしく、四人掛けのテーブルが六つ並び、壁にメニューの木札が並んでいる。
もう食事時はとっくに過ぎていたので、客は誰もいなかった。
エイナたちの気配を感じたのか、カウンターの奥から初老の男が出てきた。
「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ」
三人は顔を見合わせてうなずくと、手近なテーブルについた。
まだ昼食を摂っていなかったので、ここで食べていくことにしたのだ。
エイナたちが蒸し饅頭とスープを頼むと、男は奥の厨房へ引っ込んでいった。
接客と調理を、彼一人でこなしているようだった。
十五分ほどで料理が出された。饅頭もスープもほかほかと湯気が上がり、とても美味しそうだった。
エイナたちは我慢できないほど空腹だったので、さっそく大皿に盛られた饅頭に手を伸ばす。
饅頭の中には羊肉と玉葱のミンチが詰まっていて、かぶりつくと肉汁が口に溢れ出した。羊の脂を吸った皮も柔らかく、もちもちと歯にからみついた。
火傷しそうな熱さに、〝はふはふ〟と息を吐き、今度はスープを味わう。
キャベツ、ニンジン、ジャガイモと塩蔵肉を煮込んだだけの単純なスープだったが、胡椒が利いてて、これも旨かった。
三人は無言で料理を詰め込み、あっという間に平らげた。
冷えた体が汗をかくほど温まり、思わず満足の溜息が漏れる。
初老の男が皿を下げにきたので、エイナは食後のお茶を頼んだ。
男は皿を片付けながら、客の食べっぷりに満足の笑みを浮かべた。
「お客さん、あんまり見ない顔だが、旧市街(城壁内)の方かね?」
男の問いに、エイナもとびきりの愛想で答える。
「ええ、そうなの。
とても美味しかったわ。おじさんはここの料理人なの?」
「俺はこの宿の主人だよ。エドモンド――エドって呼んでくれ。
実は若いころに食堂で働いていたことがあってね、腕にはちょっと自信があるんだ」
彼は上機嫌で厨房に皿を運んだ。
エドはすぐに戻ってきて、エイナたちの前にカップを置き、ポットから淹れたてのお茶を注いでくれた。
テーブルに置かれたお盆の上に、もう一つカップがあるのを、エイナは見逃さなかった。
「あの、もしお忙しくなければ、お茶をご一緒しません?」
「そりゃもう、喜んで」
最初からそのつもりでいるエドは、空いている椅子に座り、いそいそと自分のカップにお茶を注いだ。
「いえね、この時間は暇なんですよ。
掃除が終われば宿の仕事はありませんし、夕食の準備には早すぎますからね」
「私はエイナというの。この二人は仕事仲間のウィリアムとケヴィンよ」
「そうですかい。
しかし旧市街の方が、よくこんな奥まで来られましたね?
どこかの店をお探しなんですか?」
「ええ、探しているのは人なんですけどね。
この宿のことは、オルカ工房の親方に聞いて案内してもらったんです」
エドは少し驚いた表情を浮かべた。
「何だ、うちが目当てだったんですかい。
その、お探しの人と関係でも?」
「察しがよくて助かるわ。
私たち、突然行方不明になってしまった、テオという行商人を探しているんです。
とても大切なことを伝えなくちゃならなくて、それも一刻を争う用件なの」
「そりゃあ難儀なこったね。確かにその行商人なら、うちの常連だよ。
ただねぇ……宿屋ってのは、信用商売なんだ。お客さんのことを、べらべら喋るわけにはいかないんだよ」
「ええ、もちろんそうでしょうね。
でも、ここがテオの定宿だって分かっただけでも収獲だわ。
彼がここに来るのは、三か月に一度で間違いない?」
エドの表情が少し渋くなった。
「ああ、そのとおりだが、それ以上のことは勘弁してくれ」
「ええ、ごめんなさい。お勘定はおいくらかしら?」
「銅貨五枚だよ」
「あら、これだけの味なのに、ずいぶん良心的なのね」
エイナは笑みを浮かべ、カバンから巾着を取り出した。
そして硬貨を一枚取り出すと、エドの手を取って握らせた。
「銀貨かい? ちょっと待っててくれ、今お釣りを持ってくるよ」
腰を浮かしかけるエドだったが、エイナは彼の手を握ったまま放さない。
彼女はエドの顔を、潤んだ目で見上げた(渾身の演技である)。
「ねえ、ご主人。
テオのことでもっと話してもいいこと、ひょっとして思い出したりしません?
もしそうなら私、嬉しくてお釣りのことなんか、忘れちゃうかもよ」
銀貨一枚は、銅貨二十五枚に当たる。
要するに、情報が得られるなら、正規の料金の五倍を払うという誘いである。
エドは新市街の人間として、至極まっとうな判断を下した。
「そう言われれば、何だかいろいろ思い出したような気がするね」
「それはよかったわ!
じゃあ訊くけど、テオの逗留はどのくらいなの?」
「二泊だよ。これはいつも同じで、この十五年で一度も違えたことがないね」
「あら、変ね。
だって、彼がやって来るのは、オルカ工房から商品を仕入れるためなんでしょう?
それなら、一泊だけで用が足りるはずよ」
「そうだな。オルカの旦那は、いつも二日目の午前中に訪ねてくる。
だからその気なら、昼過ぎには出発できるだろうね」
「その後、テオは何をしているの?」
「ああ、これも決まっていてね。
二日目の午後、二時くらいかな? ここを出て、どこかに出かけるんだ。
行く先は知らないさ。それは客の勝手だし、詮索するようなことじゃないからね。
そして、戻ってくるのは夜遅くだ。早くて九時、遅いときは十一時近くになることもあるな。
三日目は、朝食を食べたら、すぐに出発するね」
「一体どこに、何をしに行くのかしら……?」
エイナがつぶやく。
彼女が黙り込んだので、ケヴィンが横から口を出した。
「なぁ、ご主人。行商人の行先に、本当に心当たりはないのかい?」
エドは肩をすくめてみせた。
「まったく。客は用があるから泊まるんだ。昼は出かけるに決まっている。
それをいちいち気にしていたら、商売にならないさ」
「じゃ、じゃあさ。テオが夜に戻ってきた時は、どんな様子だった?
何か変わったこととか、気づいたことは?」
「そうだねぇ……」
宿の主人は首を捻る。
そして、何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「そういえば、いつも臭いが気になっていたな!」
「臭い?」
「ああ、うちは食堂もやっているし、こう言っちゃ何だが、味の評判もいい。
だから昼を除けば、朝夕はここで食事する客が多い。
ただ、夜も外へ食べにいく人はいるんだ」
「ふんふん、それで?」
「料理人の端くれとしては、俺も気になるわけだ。うちより美味い店かな、ってね。
だが、そうしたお客さんが戻ってくると、服が臭うんだよ。煙草と肉を焼く煙、そして酒の臭いだね。
味の問題じゃない。賑やかで若い娘がいる店に行ったんだと分かって、俺は安心するってわけだ」
「だけど、テオは違う?」
「そうなんだ。行商人が帰ってきても、そうした臭いは一切しなかった。
その代わり、何ともいえない嫌な臭いがしてな、俺はそれがいつも気になっていたのさ」
「嫌な臭いって、具体的にどんなんだ?」
「そうだな、黴臭い悪臭……ちょっとドブ川みたいな感じだな。
そう強い臭気じゃない。ほんのり感じる程度だよ。
鼻のいい俺じゃなきゃ、きっと気づかないだろうね」
エイナも身を乗り出すようにして、この会話に聞き入っていた。
「帰ってきた時の、彼の様子はどうだったの?」
彼女が確認するように訊ねると、主人は少し首を傾げた。
「何となくだが、疲れているように見えたよ。
俺が教えてあげられるのは、これくらいだね。銀貨が二枚に増えても、結果は同じだよ」
「ええ、これだけ教えてもらえれば十分よ。
どうもありがとう、助かったわ」
エイナは立ち上がり、主人と握手を交わして宿を出た。
彼女が来た道を戻ろうとすると、ウィリアムとケヴィンが両側から話しかける。
「小隊長殿、これからどうされるのですか?」
「そうねぇ……」
エイナは空を見上げた。曇り空だが、太陽の位置は大体分かる。
「もう三時を過ぎたわ。今日はこれくらいでいいわ。
宿に帰ったら、情報を整理して、三人で検討しましょう」
部下たちは上司の言葉に、嬉しそうな表情を浮かべた。
この時間で帰れるのであるから、当然であった。
ところが、次の四つ角でエイナの足がぴたりと止まった。
「どうされました?」
ウィリアムが訊ねると、エイナが情けない表情で振り向く。
「ねぇ、ここどっちに曲がるんだっけ?」
「左じゃないですか?」
「右だったと思いますけど」
* *
結局、エイナたちは新市街で迷いに迷い、蒼城市内の宿に帰れたのは、二時間後の五時過ぎであった。
十二月であるから、もう周囲は暗くなっていた。
シャワーを浴びて着替え、汚れ物は宿の洗濯に出す。
それから食堂で簡単な食事を済ませ、三人は二人部屋に集合した。
「一日かかって宿までたどり着きましたけど、結局、大した情報はありませんでしたね」
今日得られた情報を整理して確認した後、ケヴィンがぼやいた。
「あんたはそればっかりね。
私に言わせれば、初日でこれだけの成果があれば、万々歳だわ」
「いや、でも小隊長殿。いくら行商人の情報があっても、あいつの居場所が分からなくちゃ、仕方ないじゃありませんか」
「だから、それを話し合うんじゃない。せっかちね。
じゃあ、始めましょう。
宿屋の情報で、いくつか分かったことがあるわ。
まず、辺境地域を管轄する工作本部は、やはり蒼城市にあるってこと。
そして、三か月に一度、行商人が仕入れに来るのは口実で、収集した情報を直接報告するのが目的と見ていいわね」
「どうして、そう言えるのですか?」
「行商人が必ず二泊しているからよ。工房からの仕入れが目的なら、一泊で事足りるわ。
彼は二日目の午後から出かけて、夜遅くに帰ってくる。
それは、本部に出頭するためだと思うの」
ウィリアムはエイナの意見に賛同した。
「工作員の拠点が蒼城市にあるってことは、納得です。
帝国軍にとっては、第四軍の監視が一番重要でしょうからね」
エイナはうなずいて話を続ける。
「行商人は蒼城市内、それも敵の工作本部に潜伏していると考えるのが妥当だわ。
いま市内では、警衛隊が片っ端から宿改めをしているから、行商人が市内の宿泊施設を利用している可能性は低い。
警戒の緩い新市街に潜むのなら、いつも利用している宿屋を使うはずよ。
建物や周囲に慣れているから、わずかな異変にも気づけるからね。
それなのに、行商人が定宿に寄った形跡はない。
今回の逃亡は、彼にとっても突然の事態で、あれこれ準備をしている暇なんかなかったはずだわ。
安全な根拠地に身を隠すほか、手はなかったと思うの」
「えっと……小隊長殿、ちょっといいですか?」
「何かしら、ケヴィン?」
「奴が報告のために、三か月ごとに蒼城市に通っていたのは分かります。
でも、それ以外の時は、どうやって連絡を取っているんですか?
例えば、今回の行商人拘束指令は、蒼城から軍の伝書鳩でクリル村に届けられてますよね。
工作員の方はどうでしょう?
小隊長の推理では、軍の高官がその情報を工作員に漏らし、それがクリル村の行商人に急報された。
その情報は伝書鳩と同等か、それ以上の速度だったってことですよね。
おかしいじゃないですか。奴らも伝書鳩を使っているんですか?
もし行商人が親郷で鳩を飼っていたら、さすがに怪しまれるはずです」
エイナの唇に、ふっと微笑が浮かんだ。
新兵たちは軍学校で、ごく短期間の教育を受けただけなのだ。
もちろん、帝国の魔導士のことも教わるはずだが、それは上っ面の浅い知識でしかない。
帝国が開発した、通信魔導士による情報伝達網を知らなくても、彼らを責めることはできない。
彼女は部下たちに、通信魔導士の存在について説明してやった。
彼らには秀でた才能も、膨大な魔力も必要ない。
軍の採用基準に満たない低級魔導士を集めて、それ相応の訓練をすれば、簡単に養成できる職種なのだ。
だからこそ、多数の人員を惜しげもなく王国に送り込み、帝国領内とつながる通信網を構築できたのだ。
エイナの話を聞いたウィリアムは、無邪気に質問してきた。
「じゃあ、親郷には、敵の通信魔導士が潜入しているんですね?」
「村の中とは限らないわ。私だったら、村から少し離れた場所に潜ませるわ。
何か通信が入ったら、すぐに村に駆けつけられる程度の郊外ね」
「どうして、そんな非効率なことをするんですか?」
「士官級の魔導士なら、魔法で魔力を感知できるのよ。
この数年、王国各軍でも、魔導士の配置が進んでいるでしょう?
親郷は軍の部隊が立ち寄ることが多いから、魔導士が帯同している可能性が否定できないわ。
感知魔法の危険を避けるためにも、村の中心部に通信魔導士を置きたくないでしょうね」
ウィリアムは納得したようだった。
「なるほど。小隊長殿も、感知魔法を使えるんですか?」
「もちろんよ」
「それって、どのくらいの範囲を感知できるんですか?」
「そうね、保有魔力量によるけど、普通は半径一キロから、多くて三キロくらいかしら。
私は人よりも魔力が多いから、半径五キロくらいまでいけるわ」
「そいつはすげえや。
じゃあ、もし蒼城市内にその通信魔導士がいたら、一発で居場所が分かっちゃいますね!」
「そうなるわね。……え? あれ? あれあれあれ!」
エイナは突然、矛盾に気づいてしまった。
工作組織の末端に当たる親郷なら、村の中心部を避けて魔導士を配置するだろう。
だが、本部である蒼城市の場合はどうだ?
各地の工作員から情報が集まる本部に、通信魔導士を常駐させなければ、通信網の意味をなさない。
そもそもエイナ自身、この蒼城市に赴任してから、一度でも感知魔法を使ったことがあっただろうか?
エイナの顔が青ざめ、眩暈が襲ってきた。