十六 贋作工房
「んんーーーーーーーっ!」
マリアが両腕を突き上げ、大きく伸びをした。
「あ~、すっきりした!
店主に身体を貸した後って、本当に調子いいわぁ。
――で、どぉ? 情報は教えてもらえたの?」
彼女は涙が滲んだ目尻を擦りながら、無邪気に訊ねてきた。
「えと、あの……マリアさん、覚えてないんですか?」
「うん、全然。そこに転がっている二人と一緒よ」
マリアが顎で示したことで、エイナは部下たちのことを思い出した。
「ちょっと、あんたたち大丈夫?」
エイナがしゃがんで二人の肩を揺すると、彼らはすぐに目を覚ました。
「あれ、小隊長殿? ……俺、何で寝てるんですか?」
「この店の主人に眠らされていたのよ。後でゆっくり説明してあげるわ」
エイナはウィリアムの手を引っ張って立たせてやった。
ケヴィンも自分で起き上がり、服についた埃を叩いた。
「変ねぇ……」
マリアの声に振り返ると、彼女は右手の指を広げ、じっと見つめていた。
「どうかしたんですか?」
「何か右手だけ、ぽかぽかすんのよ。
あたしって冷え性だから、指先がいつも冷たいんだけど……」
マリアはそう言って、右手を顔に近づけ、指先の臭いを嗅ごうとした。
「!!」
電光石火の動きでエイナが彼女の手首を握り、強引に引き剥がす。
「痛たっ、ちょっと、何するのよ!」
「手洗い場はありますかっ!? それと石鹸も!」
「何? いきなり……お手洗いだったら奧よ。一応、石鹸もあるけど」
「あっちですね!」
エイナはマリアの右手首を掴んだまま、奥へと大股で歩き出した。
「もうっ、引っ張らないでよ!」
エイナは華奢に見えて、鍛えているだけあって、かなり力が強い。
一般女性に過ぎないマリアを、ずるずると引きずっていく。
自分の陰毛に触れた指先を洗わせる――そんな説明は、断じてできなかった。
* *
〝ヴァンの家〟を出たエイナたちは、市内の大通りへ戻っていった。
その道すがら、部下たちには事の次第を簡単に伝えた。もちろん、下腹部を触られたことは秘密だ。
大通りに出ると、そのまま東門に向かう。
今日、三度目の出入りである。
警備の兵は別の小隊に交替していたが、エイナたちのことは申し送りされていた。
彼女の身分証を見ただけで、三人とも無審査で通される。
時刻は十一時過ぎで、まだ昼の混雑は始まっていなかった。
エイナはリッチーに貰った地図を確認し、街道から細い小路に入っていった。
それは感心するくらい、よくできた地図だった。
――というより、その地図がなければ、目的地にはたどり着けなかっただろう。
円形の蒼城市内は、城を中心として東西南北に大通りが延び、それを同心円状に横道がつないでいる。蜘蛛の巣のイメージである。
しかし新市街の場合、街道を除けば道路というものが存在しなかった。
もちろん、人が往来するための通路はある。
だが、それは造られた道ではなく、無秩序な建物に生じた〝隙間〟に過ぎなかった。
したがって、通路は基本的に狭く、複雑に曲がりくねっていた。
リッチーの地図には、その複雑な通路が正確に描かれてあり、曲がる目印まで記入されていた。
エイナたち三人は、すれ違うのがやっとの通路を、地図と首っ引きで進んでいった。
街道に面した商店や飲食店は木造だが、それなりの体裁を保っていた。
だが、その裏には建物とは名ばかりのバラックが続き、骨組みに帆布を張っただけのテントもどきも少なくない。
それらは何かの店なのか、ただの民家なのか、判然としなかった。
人にぶつかって怒鳴られ、手荷物に手が伸ばされ、エイナの場合は尻を撫でられたりしながら、三人はどうにか目的地にたどりついた。
そこは大きめのテント小屋といった風情で、商品も並んでいなければ、看板の類も出ていない。
扉はないので、エイナは帆布をめくってみた。
中は風除室のようなスペースで、奥は帆布で仕切られている。
その前に小さな机と椅子が置いてあり、背の低い中年男が座って、帳面に何かを書き付けていた。
エイナたちが中に入ってくると、男はかけていた眼鏡を額に上げ、不審そうな眼差しを送ってきた。
「何だい、あんたたちは?」
「えと、あの……ここは、オルカさんの工房でよかったでしょうか?」
「ああ、そうだよ。何か用かい?」
「私たちは、オルカさんにお会いしたくて訪ねてきました」
「仕入れ……じゃなさそうだな。仕事の依頼かね?」
「いえ、実はある行商人の行方を捜していまして、その件でお話を聞きたいのです」
男の表情が途端に険しくなる。
「商売の話じゃねえなら、帰んな。
人探しをしたいなら、そういう仕事をする連中に依頼するんだな。
そもそもお前さん、どこで親方の名前を聞いてきたんだ?」
「えとえと、〝ヴァンの家〟のご主人に教えていただいて……」
「ヴァンの家だぁ!? 馬鹿野郎、それを早く言え。
ちょっと待ってな、親方に話してくる」
男は内張テントの帆布をめくり、中へ消えていった。
ちらりと見えたテント内は薄暗く、いくつかの机が並んでいた。
そこに、背を丸くした職人たちが覆いかぶさっていた。
しばらく待つと、先ほどの男が別の人物を連れて出てきた。
「俺がオルカだ。
話が聞きたいってのは、あんたたちかい?」
男は五十前後の、がっちりとした体格の男だった。
十二月だというのに半袖のシャツで、その上に革製の前掛けを着けている。
「私はエイナ・フローリーといいいます。後ろの二人はウィリアムとケヴィンです」
オルカの表情に、とまどいの色が浮かんだ。
男が二人いるのに、女のエイナが出しゃばっているからだ。
「あんたらは何者で、どういう関係なんだ?」
相手はエイナたちを警戒している。
ここは下手に隠し立てをすべきでない――彼女はそう判断した。
「私服を着ていますが、私は第四軍第一野戦大隊所属の少尉です。
この二人も軍人で、私の小隊の部下に当たります」
「軍人か……」
オルカは眉をしかめ、少し考え込んだ。
「だがまぁ、鑑定屋の紹介とあっちゃ、無下にもできんか……。
ジェイソン、俺はちょっと外に出てくる」
オルカは最初の男(ジェイソンという名らしい)に声をかけ、エイナたちに「ついてこい」と言って外へ出た。
彼の後に従ってしばらく歩くと、テラス付きの店舗があり、オルカはそこに入っていった。
テラスと言っても、柱に板屋根をかけ、木羽を葺いただけである。
その下に粗末な丸テーブルと椅子が置かれ、何組かの先客がくつろいでいた。
どうやらここは喫茶店らしい。テラスの奥は案外しっかりした建物だったが、暗くて人気がない。
昼の間はテラスで喫茶を営み、夜になると居酒屋にでもなるのだろう。
オルカはどかりと椅子に腰を下ろし、寄ってきた若い給仕にコーヒーを注文した。
「あんたらも、好きなもんを頼みな。ただし、自腹だぞ」
エイナはヤギ乳を、部下たちはお茶を頼んだ。
「しかし、よく俺の工房が分かったな?」
「ヴァンの家のご主人に、詳しい地図をいただきましたから。
ほら、これです」
エイナはそう言って、手にしていた地図をテーブルの上に広げた。
ところが、それを一瞥しただけで、オルカは怪訝な表情を浮かべた。
「これのどこが地図だ? ただの紙じゃねえか」
エイナは彼の言葉が理解できない。
「ほら、ちゃんと工房の位置や道順が書いていますよ……ねえ?」
エイナが左右に座っている部下の顔を覗き込むと、二人は〝うんうん〟とうなずいてくれた。
「……」
オルカが黙り込んでいると、先ほどの若い店員が飲み物を運んできた。
若者がカップを配り終わると、オルカが顔を上げた。
「おい、サイモン。お前、この紙に何が書いてあるか、分かるか?」
「やめてくれよ、オルカの旦那。俺が文字を読めないって知ってるくせに。
……って、何も書いてないじゃないですか。からかわないでください」
サイモンと呼ばれた給仕は、少し怒って去っていった。
オルカは三人の顔を見回し、にやりと笑った。
今度はエイナたちが〝ぽかん〟とする番である。
「な? どうやらこいつは、あんたらにしか見えない地図らしい。
なるほど、上手い方法だ。あの鑑定屋の〝身元保証書〟を兼ねているってわけだ。
お嬢ちゃん、あんたよほど気に入られたようだな」
エイナたちは顔を見合わせた。
この地図が他人には見えないという事実が、まだ受け入れられなかったのだ。
「それで、嬢ちゃん、一体俺に何を聞きたいんだい?」
エイナは頭を振って、地図の問題を頭から追い払った。今はそれどころではない。
「私たちはテッド・ブーリンという行商人の行方を追っています。
帝国の工作員という嫌疑によって、クリル村に拘束命令が出ましたが、姿をくらました後でした。
テッドは安価な宝飾品も扱っていましたが、ヴァンの家の主人に、オルカさんの工房が、その仕入れ先だと教えてもらいました。
何でも構いません、この行商人に関する情報を教えてください。
もちろん、あなたの商売に迷惑をかける真似はしないとお約束します!」
「最後の言葉に関しちゃ、何も心配してないさ。
もし嬢ちゃんが俺を告発しようとしても、多分できないぜ。あの鑑定屋なら、そういう〝呪い〟をかけているはずだ。
しかしなぁ……行商人との付き合いは多いが、テッドという名は知らねえぞ。もっと他に情報はないのかい?」
エイナは持っていた鞄を開け、中に入れていた報告書の一枚を取り出した。
「これがテッドの似顔絵です。下に身体的な特徴も書いています」
オルカはその紙を取り上げて見入ったが、すぐにエイナに返した。
「ああ、この男なら知っている。俺の前じゃ〝テオ〟と名乗っていた。
もう十五年近く取り引きしているから、結構な古馴染みだな。三か月に一度やってきて、安物の宝飾品を仕入れていく。
だがなぁ、教えられるほどの情報はないぜ。そりゃぁ、世間話くらいはするが、立ち入ったことは聞かないのが、この業界の決まりだ。
俺はあいつの故郷も知らないし、家族がいるかも聞いちゃいない」
「取り引きは工房内で行うのですか?」
「いや、たとえ上得意であろうと、工房の中には絶対に入れない。
注文を受け取ったら、俺の方から品物を持っていって、その中から直接相手に選んでもらう。
支払いも、その時に現金で済ませているな」
「どこか外で会うということですか?」
「そんな不用心なことができるか。
あいつの泊まっている部屋を訪ねていくんだよ」
「彼の宿は、毎回決まっていますか?」
「ああ、部屋は違っても、宿自体は同じだ。定宿って奴だな」
「その宿を教えてください!」
「いいぜ。ただ、俺はもう仕事に戻らにゃいかん。別の者に案内させるから、ちょっと待ってろ」
オルカはそう言うと、手を上げて給仕の若者を呼んだ。
「何ですか、旦那」
「サイモン、お前ちょっとひとっ走りして、うちのジェイソンを呼んできてくれ」
「銅貨五枚」
「馬鹿野郎、五分もかからねえのに、そんなに出せるか!
銅貨二枚だ」
「ちぇっ、吝」
若者は悪態を残して走り出しだ。
エイナはちょっと恐縮してしまう。
「済みません、そこまで親切にしていただくなんて」
だが、オルカは平然としていた。
「勘違いしてもらっちゃ困るぜ。
今の小僧に払う駄賃は、あんたが出すんだ。
それと、ジェイソンにも案内賃を払ってやれ。銅貨三枚もやれば十分だ」
エイナは苦笑いを浮かべた。
「この件とは関係ないですが、ひとつ訊いてもいいですか?」
「何だ?」
「〝ヴァンの家〟は鑑定屋ですよね。
オルカさんは、失礼ですけど偽造品を造っているわけで、商売敵なんじゃないですか?」
「そうでもないさ。
嬢ちゃんは贋作だって馬鹿にするだろうが、宝石商でも騙せるほどの代物となると、高度な技術が要る。
だが、いくら腕がよくても、素材が悪くちゃどうにもならねえんだ。
ただのガラスをいくら磨いても、ダイヤには見えねえだろう?
だから、それなりの物を造ろうとしたら、それなりの石を仕入れなくちゃならん。
だけどなぁ、質のいい素材を入手するのは、ある意味本物以上に難しいんだ」
「そこで〝ヴァンの家〟だ。あそこは有名な目利きだから、宝石商でも判断がつかない依頼が舞い込んでくる。
本物もあれば、偽物だってある。
そして、贋作だって知った持ち主の中には、失望して手放す奴もいるのさ。
あの鑑定屋は偽物でもよい品なら、それ相応の値段で買い取っている」
「俺の工房じゃ、年に何度か特別な注文が入る。
それこそ何か月もかけ、技術の粋を尽くして仕上げる大仕事だ。当然利益もデカい。
そんな時には、あの鑑定屋から石を仕入れるってわけだ。
だから、俺は鑑定屋の機嫌を損ねたくないんだよ。嬢ちゃんに親切にしているのは、あんたが若くて可愛いからじゃないんだぜ」
オルカのウィンクは無視したが、エイナは彼の話に感心していた。
オルカの工房が、それだけ高い技術を持っているなら、本物の宝飾品を造ればいいのにと思ったが、それなりの事情があるのだろう。
「じゃあ、行商人が仕入れていく安物は、どうして造っているんですか?」
「大きな仕事はたまにしか入らんし、金が入ってくるまで時間がかかる。
だけど職人たちには、毎月給金を出さにゃならんだろう?
嬢ちゃんは大量生産の安物と思っているだろうが、うちの商品はそれなりの技術が入っている。
これは若い職人を育てるための、投資でもあるんだ。奴らは数をこなすことで技術を磨き、俺は日銭が稼げる。
だから素材が安いってだけで、一概に粗悪品とも言えないんだぜ」
彼はそう言って立ち上がると、「ちょっと小便してくる」と断って、店の奥へと消えていった。
ケヴィンが彼を見送りながら、溜息をついた。
「朝からかかって結局、宿の住所が分かっただけでしたね」
「これでいいのよ。一歩ずつでも行商人に近づいていければ、必ず尻尾を捕まえられるわ。〝捜査は足が基本〟って、探偵小説に書いていなかった?」
しばらくしてオルカが帰ってくると、ちょうど使いに遣った若い給仕が、ジェイソンを連れて戻ってくるのが見えた。
「おっ、ちょうどいいタイミングだ。俺は仕事に戻るから、後はジェイソンの奴に案内してもらえ。
じゃあな、軍人のお嬢ちゃん」
彼は片手を挙げ、元の道を帰っていった。
もう片方の手には、大きめの紙包みを抱えていたが、ここに来る時には何も持っていなかったはずだ。
彼はジェイソンとすれ違う際に、立ち止まって話を交わしていたが、エイナの方を指さしていたので、道案内をするよう伝えたのだろう。
オルカの姿が曲がり角から消えるのと同時に、ジェイソンがエイナたちのもとにやってきた。
「あんたら、親方と話がついたようだな。
さぁ、とっとと行こうぜ。例の宿までは十分くらいだ」
「そうね。じゃあ、案内をよろしくお願いするわ」
エイナと部下たちも立ち上がり、それを見たサイモンが寄ってくる。
「お客さん、お勘定をお願いします」
「ええ、おいくらかしら?」
「四人一緒でいいですか?」
「え、あたしたち三人じゃなくて?
オルカさんは自分の代金を払っていかなかったの?」
「はい、全部お客さんの奢りだって言ってましたよ」
エイナは心中で『やられた!』と思ったが、情報料がコーヒー代なら安いものである。
「じゃあ、四人でいくら?」
「銅貨六枚です」
「はぁ!?」
エイナの声が、思わず大きくなる。
「四人分の飲み物で、銅貨六枚は高すぎるでしょう!」
「いえ、オルカの旦那が、さっき職人への土産だと言って、アップルパイをホールでお持ち帰りになりました。その分も入っています」
エイナは泣く泣く小銭の入った巾着を取り出した。