十五 触診
奧の部屋に向かった時のマリアは、まだ残る酔いのせいでふらふらしていた。
それなのに、戻ってきた彼女はしっかりした足取りになっていたのだ。
「待たせたな」
カウンターの向こう側に立ったマリアは、落ち着いた声を出した。
吐かれた息からは、酒臭さが微塵も感じられない。
目は澄んでいて、焦点もしっかりしている。
「話は聞かせてもらった。
情報目的の客など、普通なら結界の中に入れないのだがな。
だが、お主は妙な魔術回路を持っておる。そこに興味を抱いて招き入れた……まぁ、そんなところだ」
マリアの口調まで、すっかり変わっていた。
数分前までは、自堕落な酒場女そのものだったのに、今は老人――それも男のような言葉遣いだった。
「あなた……マリアさんじゃないわね。
一体誰? 彼女に何をしたの?」
エイナの表情に、警戒の色が浮かんだ。
「そうか、この見た目では分からぬか。これは失敬した。
マリアはこう言っていただろう? 『店主に訊いてくる』と。
わしがその店主じゃ」
「マリアさんに化けているってこと?」
「変身ではない。精神を乗っ取った……では聞こえが悪いか、身体を借りていると言うべきかな。
お主はこの店の主人が〝リッチー〟だということを、知っておるのだろう?」
エイナが答えようとすると、ウィリアムが彼女の袖を引っ張った。
「小隊長殿、この女と一体、何の話をしておられるのですか?
自分にはさっぱり理解できません。リッチーとは何ですか?」
会話を遮られたマリアは、不快そうな表情を浮かべ、右手を軽く上げた。
途端にウィリアムとケヴィンは意識を失い、その場に崩れ落ちた。
「私の部下に何をした!?」
エイナの語気が鋭くなり、体内の魔力が膨れ上がる。
「そう興奮するでない。ちょっとの間、眠ってもらうだけじゃ。
その方が何かと都合がよいじゃろう? 用件が済んだら元に戻してやるから、安心せい。
さて、それでは話を続けようじゃないか」
確かに、部下にいちいち説明しながら、話を進めるのは面倒である。
床に転がっている二人が、確かに呼吸をしているのを確認してから、エイナは先ほどの質問に答えた。
「この店の主人が、リッチーを召喚したヴィンセントという男だった――という話は聞いています。
蒼龍帝閣下がそう教えてくださいました。
ですが、ヴィンセントはもう六年も前に、この世界から消滅したはず。
召喚が解かれたあなたも幻獣界に帰ったはずなのに、どういうわけかこの店は維持されています。
そのからくりまでは知りません」
「そう大げさなものではないさ。
お主の言うとおり、わしは幻獣界におる。そこからこの世界に、干渉しているだけのことよ。
凡人に過ぎぬお主に理解できないのは、まぁ仕方がないじゃろう。そういうものだと納得しておけ」
「なぜそうまでして、この世界に執着するのですか?」
エイナの素朴な疑問に、マリアは艶やかな笑いを浮かべた。
「召喚士に呼び出された数十年という期間は、無限の時間を得たわしらリッチーにとって、あまりに短すぎた。
この世界には、まだまだ興味の惹かれる事象が山ほどある。わしはその全てを知りたい。
現に今、お主という興味深い存在が、自分の方からやってきたではないか」
マリアは服からこぼれ出しそうな乳房を、押さえつけるように手を当てた。
「このマリアという女は、見てのとおり酒飲みで男にだらしないという、どうにもならん奴じゃ。
だが、ちょっとした特異体質の持ち主でな、わしが精神を支配することに、まったく抵抗せんのだ」
「多分、どんな男にも股を開き、快楽のためなら変態行為も平然と受け入れる性格が、影響を及ぼしているのじゃろう。
生きている人間を支配しようとすれば、拒絶反応が起きるのが当たり前じゃ。程度の差はあれ、精神に何らかの異常をきたすものじゃ。
じゃが、この女は〝けろり〟としておる」
「じゃからわしは、この自堕落な酔っ払い女を高給で雇い、この世界とのつながりを保っておるのじゃ。
この店を訪れる客は少ない。マリアは店番とはいえ、ほとんど寝ているだけでよい。
しかも、わしに身体を貸すと、二日酔いから性病まで、きれいに治って戻ってくる。
お互いの利益となる関係なんじゃよ」
リッチーの説明には、一部耳を塞ぎたくなる部分もあったが、相手は感情のないアンデッドである。
エイナは王国軍の士官として、寛大であらねばならない。
「現在の状況については了解しました。
それで、私の求める情報を、提供していただけるのですか?」
「当然だ。だからこそ、わしが出てきたのだ。
だが、それ相応の報酬はいただくぞ?」
「銀貨三枚ですよね。もちろん、お支払いいたします」
「ふん、それはこの女が勝手に言ったことだ。
そんなはした金に興味はない」
エイナは首を傾げた。
「では、私は何を差し出せばよいのでしょうか?」
「最初に言ったであろう。
お主は妙な魔術回路を持っているようじゃ。それをちと調べさせてほしい」
「えと、あの……おっしゃる意味がよく分からないのですが?」
「察しの悪い奴じゃのう。お主の下腹にある魔術回路のことじゃ。
わしも何百年と生きてきたが、そんな所に回路を開いた馬鹿など、初めて見る。
実に、実に興味深い!」
リッチーはアンデッドの一種であり、骸骨に干からびた皮が張りついたような姿だ(たいていは、フード付きのマントなどで身体を覆っている)。
高位の魔術師が自らの意志をもって不死化した存在で、生前の記憶や知識、性格、能力など、すべてを保持したままなのが、大きな特徴といえる。
彼らは不死化によって、永遠の時を求めた。知識欲という妄執が、骨だけの肉体を突き動かしているのである。
「えとえとえと……それって、お腹を見せろということですか?」
エイナは慌てふためいた。顔が真っ赤である。
確かに彼女の下腹部には、魔術回路ができていた。
絶対零度を現出させる、究極の凍結魔法を放つには膨大な魔力が必要で、それを細い指先に送り込むと、肉体が耐え切れずに破裂してしまう。
そのためエイナは、魔力を貯蔵している子宮から最短距離で、しかも広範囲に大魔力を放出することを考えついたのだ。
そこを見せるということは、恥ずかしい部分を丸出しにするに等しい。
ぎりぎり下着をずり下げたとしても、絶対に陰毛が見えてしまう。
だが、マリアは首を横に振った。
「いや、見ただけでは、さすがのわしでも何も分からん。魔術回路に直接、手を当てるだけでよいのじゃ。
少し魔力のやり取りをするが、お主に悪影響はないと約束しよう」
「あそこを触るんですか!?」
「手を当てるだけ、しかも下腹じゃと言っておろうが!
お主の汚らわしい性器などには、何の興味もないわ。
それに、実際にはこの、マリアという女の手を使うのじゃ。女同士なら構わんではないか」
「ででででも、中身はリッチーで、多分男の人ですよね?」
マリアの身体を借りたリッチーは、肩を落として深い溜息をついた。
「……あのなぁ、わしの肉体はもう何百年も前に滅んでおる。
今は骨と皮しか残っておらんし、男性器などとっくに腐れ落ちている。
当然、性欲などという無駄なものなど、捨て去っておるわい!
それでも恥ずかしいと言うのであれば、お主の望む情報は手に入らんが、それでもよいのか?」
「う……!」
それを言われると、エイナも言葉に詰まる。
彼女は思わず助けを求めるように、後ろを振り返った。
しかし、頼りにすべき部下の二人は、床で昏倒しているままだ。
「ここにいる男はお主の部下だけで、わしが術を解くまで決して目を覚まさぬ。
あとは女のマリアの身体と、精神だけのアンデットじゃ。いいかげんに覚悟を決めよ」
エイナはしばらく逡巡していたが、結論はひとつしかない。
「わ、分かりました。
えと、あの……本当に変なこと、しませんよね?」
「くどいぞ小娘!」
「……はい」
エイナが観念すると、マリア(リッチー)は『やれやれ』という顔で、カウンターを回って彼女に向かい合った。
エイナは目をつぶって顔を横に背け、「えいっ!」と小さく叫んで、スカートとペチコートを捲り上げた。
膝下丈の生成りのズロースを剥き出しにした姿をさらすのは、たとえ相手が女性であっても恥ずかしい。
ましてや、マリアの中身は女ではなく、得体のしれないリッチーなのだ。
「ズロースは……下ろさなくてもいいですよね?」
彼女は横を向いたまま、声を震わせた。
だが、リッチーの方はあくまで冷静である。
「その必要はない。
何度も言うが、わしはお主の裸になど、毛ほどの興味もない」
自分の身体を無価値と断じられるのは、それはそれで気分が悪い。
だが、今はそれどころではなかった。エイナは閉じた目蓋にぎゅっと力を入れた。
マリアは半歩前に出て、エイナの身体に触れそうなほどに近づくと、ズロースの中に手を滑り込ませた。
「ひゃっ!」
エイナが小さな悲鳴を上げる。
「これ、腰を引くでない!」
「でっ、でもっ! 指が冷たいです!!」
「ん? ああ、この女は冷え性であった。まったく、人間の身体というものは面倒なものじゃの。
少し待て、血管を広げて血流を増量させる。
……これでどうじゃ?」
「あ、これなら平気です」
リッチーが言ったとおり、マリアの指はあっという間に温かくなった。
少し汗ばんだ掌は、エイナの下腹部にぴたりと吸いついた。
これはこれで嫌な感じなのだが、エイナは文句を言えずに我慢をする。
密着したマリアの掌から、微弱な魔力が流れ込んでくるのが感じられた。
「えと、あの……マリアさんは魔力を持っているのですか?」
「人間は誰であっても微量の魔力を持っておる。
本人は自覚をしていないが、今はわしがそれを引き出して使っているだけじゃ。
どれ、今度はお主の魔力を少し調べるぞ」
その言葉が終わらないうちに、魔力が吸い取られる気持ちの悪い感覚が襲ってきた。
ただ、その量はごくわずかで、時間的にも数秒の間に過ぎなかった。
「ふむ……なるほどな」
マリアはそうつぶやくと、エイナの下着から手を引き抜いた。
「終わったぞ。もうスカートを下ろしてよい」
言われるまでもない。エイナは顔まで捲っていたスカートとペチコートを慌てて下ろし、服の上からズロースを掴んでずり上げた。
マリアはカウンターの向こう側に戻って、椅子に腰を下ろした。
そして満足そうにうなずいた。
「実に面白い。そして、興味深かったぞ!」
「はぁ……それはよかったですね」
エイナとしては、そうとしか返せない。
「それで、何が分かったのですか?」
「それをお主に分かるように説明するのは、面倒な仕事になる。
あえて言うならば、お主が異常だということだな。
ひとつ訊くが、お主の両親のどちらかは魔導士――それも、かなり優れた術者だったのであろう?」
エイナはうなずいた。
「父が帝国の魔導士官でした。爆裂魔法を成功させた、数少ない一人だと聞いています」
「そうであろうな。
お主は人間として、規格外の魔力を保有しておるが、それは父親の能力を受け継いでおるからじゃ。
それともうひとつ。
お主、自分に混ざっている血について、自覚はあるのか?」
エイナの頬が引き攣った。
「それは……吸血鬼のことでしょうか?」
「うむ。知っているのなら話が早い。
父親だけでなく、母親の血にも感謝をすることじゃ。
普通の人間なら、こんな無茶をして無事で済むはずがない。お主が耐えられたのは、吸血鬼の血のおかげよ。
それでも、魔力を放出した際には、下腹部の毛細血管は破裂しておったじゃろうな。表層だけではないぞ。肉体の損傷は、深部にまで及んでいたはずじゃ」
「で、でも、絶対零度魔法を撃っても、身体は何ともありませんでした。
毛細血管が破裂していたら、内出血でお腹が真っ黒になりますよね?」
「お主が気づいていないだけじゃ。
吸血鬼の血の影響で、お主は高い回復能力を持っている。
お主は馬鹿げた量の魔力を流用して、回復能力を一時的に活性化したのじゃろうな。
魔力回路を調べてみて、それがよく分かった。
お主の回路には、損傷と再生を繰り返した何層もの〝かさぶた〟で覆われておる。
まぁ、すっかりできあがっておるから、これ以上、肉体に負担はかからんじゃろう」
「つまり、もう大魔力を必要とする魔法を、安心して使えるということですね?」
エイナの質問に、マリアは眉をひそめた。
「言っておくが、爆裂魔法を試そう――などと考えるでないぞ。
あれは本来、人間の限界を超えた大魔法じゃ。
帝国の魔導士が開発した、七重の魔法陣を利用した方法以外に、使いこなす道はない」
「ちょっと思いついただけです。何でもかんでも、先回りしないでください!
それより、ちゃんと触らせたんですから、約束どおり情報を教えてもらえますよね?」
「心配するな。リッチーは約束を破るようなことをせん」
マリアはカウンターの下から一枚の紙を取り出し、その上に掌を当てた。
すると、あぶり出しのように、白い紙の表面に地図が浮き出てきた。
「この矢印の場所を訪ねてみよ。オルカという男がやっている工房じゃ。
お主が探している行商人も、ここから安物の〝玩具〟を仕入れていたはずじゃ」
エイナは差し出された紙を受け取った。
「ありがとうございます」
そう言って顔を上げると、マリアの身体からはもう、リッチーの気配が消え去っていた。