表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔導士物語  作者: 湖南 恵
第六章 北限の防人
201/359

十 威力偵察

 昼間巡回では馬に乗っているため、一日の移動距離は五、六十キロほどとなる。

 もっとも、途中で近隣の村を訪ねるから、街道だけに限れば三十キロも進めればよい方だった。

 夜間巡回は一切の寄り道をせず、一晩中歩き続けるのだが、道が悪く視界も悪いため、稼げる距離はやはり三十キロ程度だった。


 ノルマの距離を踏破して、明け方に最寄りの監視所に着くと、あとは人目を気にせず、地べたに転がって爆睡する。

 汗で濡れた下着や衣服が寝ている間に乾き、また次の夜にはぐしょ濡れになる。

 もちろん入浴などという贅沢はできないから、全員が酷い悪臭を放つことになる。


 男たちはあまり気にしていないようだったが、女性であるエイナには、これが一番こたえた。

 彼女は監視所の一室を借り、できるだけ身体を拭いていたが、それでも自分の女臭さに辟易していた。

 兵たちとともに雑魚寝していても、自分の匂いに気づかれているのではないかと、気になって仕方がない。


 実際には、男たちはお互いの臭いに麻痺していた。

 その一方で、エイナに近づいた時に感じる若い娘の体臭は、余さず吸い込もうと秘かに努めていた。

 エイナにそんな若い男の気持ちなど理解できるはずはない(気づいたなら、ドン引きしていただろうが)。


 日を重ねるにつれ、小隊の面々はこの過酷な任務に慣れていったが、雨の日だけは最悪であった。

 軍から支給されるフード付きのポンチョは、通気性が悪くて蒸れる割に、防水性能がいまいちだった。

 最悪なのは、くたくたに疲れ切って監視所に着いてからである。


 狭い小屋には入れないから、防水布を頭上に張って雨除けにして、地面にも防水布を敷き、固まって寝るしかない。

 その周囲には、スコップで溝を掘っておく。

 屋根となる防水布は傾斜をつけて水を落とし、その溝を伝って流れるよう工夫するのだが、理想と現実は噛み合わない。


 ぴんと張ったはずの防水布には、どうしても雨水が溜まってしまう。

 その重さで布がたわみ、張力の限界を超えると音を立てて水が流れ落ちる。

 熟睡している兵士たちの顔に撥ねた泥水がかかり、騒音で飛び起きることになる。


 それが三十分おきに繰り返されるので、まともに眠っていられない。

 夕方になって起きても、身体はじっとりと濡れていて不快この上なく、取り切れない疲労がおりのように堆積していた。

 彼らは無言で簡素な食事を摂り、疲れた身体を引きずって、過酷な行軍に向かわねばならない。


 そんな辛い巡回も、ようやく最終日となった。

 この夜を耐えきり、朝になれば待機しているトッドと合流して、馬に乗ることができる。

 数時間の仮眠を取っただけで、ガリソ港に向かうとしても、眠気よりも〝帰りたい〟という思いの方が遥かに強い。


 兵たちの足取りは、帰途を夢見て軽くならざるを得ない。

 もう五日目で、いいかげん身体が慣れたということも大きい。

 前日までの雨が止み、その夜の行程はいつも以上にはかどった。

 曇り空で月明かりはなかったが、エイナの明かり魔法が足元を照らしてくれるから、歩行に支障はない。


 葦の生い茂った河原からは、虫の鳴き声がわんわんと耳に響いてきた。

 すぐそばを流れる川の音と、兵たちの苦しそうな息がその合唱に加わり、最後の夜は更けていった。


      *       *


 曇りの夜は月も星も見えないので、時間の把握が難しい。

 ただ、魔導院で訓練を受けてきたエイナは、体感でおよその時間を推定できた。

 時刻は深夜の二時を回った頃であった。


 先頭を進むエイナの耳には、周囲からの騒音が途切れることなく入ってくる。

 不思議なもので、それが何時間も続くと慣れてしまい、気にならなくなる。

 その音が、突然エイナの意識に戻ってきた。それまでとは異質な音が混じっていたせいだ。


 彼女はぴたりと足を止める。

 先頭の小隊長が立ち止まると、一列になって後ろについている兵たちもそれに倣う。

 新兵たちは、行く手に大きな穴でもあるだろうと思った。

 だが、エイナは声を出さず、手で姿勢を低くするよう合図して、自らもその場にしゃがみ込んだ。


 彼女は振り返り、すぐ後ろにいたウォルシュに曹長を呼ぶようささやいた。

 しかし、その命令が伝わる前に、コンラッドが姿勢を低くしてやってきた。


「何かありましたか?」

 曹長が小声で訊ね、エイナも短く答える。

「櫂を漕ぐような水音が聞こえた」


 エイナは足もとを照らしていた明かり魔法を解除していた。

 新兵たちにも、何か異変があったのだということが伝わった。

 曹長は彼らに「息を止めろ」と命じ、耳を澄ませた。


「確かに、微かですがそんな音が聞こえます。少尉殿はよく気づかれましたね」

「兵たちをこの場で待機させてくれ。私は偵察してくる」

「了解です。お気をつけて」


 エイナは背負っていた荷物をその場に置き、身軽になって葦の中を掻き分けていった。

 岸のすぐ近くまで進み、葦の隙間から顔を出して周囲の様子を窺う。

 彼女の闇を見通す目に、一隻の船が映った。


 エイナのいる場所からは、十数メートルほど先である。

 船は極力音を立てぬよう、そっと櫂を漕ぎながら近づいてきた。

 あと少しで岸に着こうというところで、船から黒い人影が降りた。

 男は腿の辺りまで水に浸かりながら、船の舳先に手をかけて誘導を始めた。


 ごっ!


 船底が川底にぶつかる鈍い音が響くと、船から人影がぞろぞろと降りてくる。

「一、二、三……」

 エイナはそれを数えた。

 水音を立て、上陸してきた人数は十二人、みな大柄な男たちだった。


 一人が龕灯がんどうを持っていて、その小さな照明を男たちが取り囲む。

 そのわずかな明かりのお陰で、夜目の利くエイナは、彼らの姿をはっきりと確認した。


 全員が革鎧と兜を身に着け、抜身の槍を持っている。

 左の腰には長剣、右の腰には携帯弩を下げているが、荷物は背負っていない。


 彼らが灯りを囲んでいるのは、地図で現在地や進路を確認しているのではないか――エイナはそう推察した。

 少し離れた船の方には一人だけ残っていて、舳先から延びるロープを河原のヤナギの木に結びつけていた。


 エイナは葦の間から顔を引っ込め、そっと小隊のもとに戻った。

 じりじりして待っていた部下たちに、エイナは手早く状況を説明した。


「上陸したのは完全武装の十二名、帝国軍の装備だ。船に一人が残っている。

 曹長、どう見る?」


 エイナに問われたコンラッドは、顔をしかめた。

「帝国の工作員なら、一度に密航するのは、せいぜい一人か二人です。

 それに、奴らは見つかっても怪しまれないよう、農民の格好をしているのがお決まりです。

 これは小隊規模の威力偵察ではないでしょうか」

「何が予想されると思う?」


「恐らく、監視所を襲った上で、近隣の集落を焼き討ちするつもりでしょう」

「襲撃に対する我が軍の反応を見るということか?」


「そのとおりです」

 曹長はうなずいた。


「どれくらいの時間で対応できるのか、初動の戦力規模はいかほどか――そんなところでしょう。

 恐らく、敵は近隣集落を襲ったあとは速やかに撤退し、現地工作員がどこかに潜んでいて、こちらの反応を窺う手筈だと考えられます」

「了解だ」


 エイナの頭脳が忙しく回転する。

 相手の戦力は自分の小隊を上回るが、ここで撃退しないと罪もない人びとが大勢殺されてしまうだろう。

 彼女の決断は早かった。


「曹長は兵たちを連れて先行、敵に姿を見せずに投降を呼びかけろ。

 くれぐれも攻撃を仕掛けようとは思うな。敵は携帯弩を持っている。

 兵たちを散開させて、こちらの人数を大きく見せるだけでいい」

「分かりました。少尉殿は?」


「曹長たちに敵の注意が向いているところで、不意打ちを喰らわしてやる。

 いいな、繰り返すが私が命令するまで、決して飛び出すな。

 もし、万が一にも私がやられたら、曹長が指揮を執って一目散に逃走しろ。

 地理はこっちが明るい。先に監視所に駆けつけ、本隊に急を報せるのだ」

「了解です、ご武運を!」

 

 曹長はあれこれ聞かなかった。

 すぐさま新兵たちを率い、背をかがめたままで葦の中を伸びる小道に消えていく。

 エイナは立ち上がり、葦の茂みが切れて敵兵の姿が確認できる地点へ移動した。

 どうせ月明かりのない闇夜である。音さえ立てなければ、こちらの姿が見つかる恐れはない。


      *       *


 帝国兵たちは河原にしゃがみ込み、しばらく打ち合わせを続けていたが、方針が定まったのか、立ち上がって移動を開始した。

 まっすぐに河川敷を突っ切って斜面を登り、街道に出るつもりなのだろう。

 だが、彼らが葦原に踏み入ろうとしたタイミングで、コンラッドのだみ声が響き渡った。


「止まれ! こちらは王国第四軍、巡回部隊の者だ!

 お前たちは完全に包囲されている。武器を捨て、おとなしく投降せよ!!

 抵抗しなければ、生命は保証する」


 帝国兵たちは、完全に不意を突かれた形だったが、うろたえなかった。

 彼らは無言のまま、即座に二列横隊を組み、声のした方に向けて携帯弩を構えた。

 その動きは、夜目の利くエイナには丸見えだったが、葦原に紛れている小隊の者たちは気づけないだろう。


いしゆみだ! 総員伏せろ!!」

 エイナは自分でも驚くくらいの大声を出した。


 敵の反応は見事なものだった。

 第一列が膝射ちで斉射すると同時に、第二列がエイナの方角に向き直って矢を射ってきた。

 目標を視認していない当てずっぽうの攻撃である。十メートル足らずの近距離にも関わらず、矢は掠りもしなかった。


 相手が龕灯の明かりをこちらに向ける。

 エイナは葦の茂みから出て、堂々と敵の前に姿を曝さらした。

 その彼女に向けて、即座に次の矢が飛んできた。


 弩は通常の弓に比べて威力が高いものの、矢をつがえるのに時間がかかるという欠点がある。

 それなのに、連続して矢が飛んでくるということは、帝国兵がれんと呼ばれる、連射機構を持った特殊な装備を持っているということだ。

 しかも、龕灯に照らされたことによって、今やエイナの姿は丸見えである。


 近距離で連射された矢は、エイナの身体をハリネズミにするはずだった。

 しかし、すべての矢は彼女の直前で、すべて弾き飛ばされた。

 これはマジックシールドと呼ばれる防御魔法で、飛び道具に自動発動する魔導士の基本技である。


 帝国兵は魔導士と日常的に接しているから、そのことをよく知っている。

「魔導士だ!」

 敵の指揮官らしい男がそう叫び、槍を構えて飛び出した。

 他の兵たちも即座にそれに続く。


 一般兵が魔導士に遭遇した際、対処する方法はただ一つ、距離を詰めて戦うことである。

 マジックシールドの効力は、斬撃や刺突に対して及ばない。

 そして、攻撃魔法は威力が大きいだけに、ある程度の距離を保たなくては撃てない。

 魔導士自身が巻き込まれてしまうからだ。


 エイナは敵に近すぎた。突進すれば、数秒で到達するほどの距離である。

 これなら、呪文を詠唱する時間を与えずに、魔導士を倒すことができる。


 敵の指揮官はそう判断したが、エイナもそんなことは百も承知である。

 彼女は部下たちと別れた時点で、すでに呪文の詠唱を開始しており、その右手にははち切れんばかりの魔力が溜まっていたのだ。


 パシッ!

 乾いた破裂音が響き、向かってきた帝国兵たちが、ばたばたとその場に倒れた。


 エイナは短い詠唱を唇から吐き出し、明かり魔法を発動させた。

 まばゆい光に照らし出された光景は、異様なものだった。

 川岸一帯が真っ白に凍りつき、帝国兵たちは手足を強張らせて転がっていた。


 エイナが彼らのもとに近づいていくと、軍靴に踏まれた霜柱がさくさくと音を立てる。

 川岸に繋がれていたはずの船の姿は、いつの間にか消えていた。

 船に残っていた敵兵が、ロープを切って逃げたのだろう。ただ逃げるだけなら、漕ぎ手がいなくとも、川の流れに乗るだけでいい。

 エイナの視力でも、闇に紛れた船の姿を見つけることはできなかった。


「総員集合!」

 エイナは部下たちが伏せている方に声をかけた。

 曹長と兵たちが、葦を掻き分けて出てきて、白い世界に変り果てた河原をきょろきょろ見回した。


「小隊長殿、これはその……敵を全員〝殺した〟ということでしょうか?」

 サムが怯えながら訊ねた。その唇は白く、カチカチと歯の当たる音がした。

 空気が真冬のように冷やされているためか、初めて見る凍結魔法に恐怖しているのか……あるいはその両方だったのかもしれない。


「いや、魔力を抑えたから、死んではいないはずだ。ただ、手先は凍りついているから、しばらくは動けないだろう。

 全員革手袋を着用、帝国兵の武器を取りあげ、拘束せよ。素手で触ると、金属に手の皮がくっついて酷い目に遭うぞ」


 エイナの命令に、兵たちは慌てて背嚢はいのうを下ろし、ごそごそと手袋を探す。

「曹長は流木を集めてくれ。火を焚いて暖めてやらねば、帝国兵が本当に死んでしまう」

「了解です。トッド、ケニー、お前らは俺についてこい!」


 エイナは残った兵たちが、帝国兵の武器を集め、手首を縛るのを監督した。

 帝国兵たちは、いずれも両手で槍を握りしめていて、それを奪うのが一苦労だった。

 指ががちがちに固まっている上に、手汗が凍りついて槍の柄がくっついているのだ。


 指を一本ずつこじ開け、無理やり槍を奪うと、簡単に手の皮膚が剥がれた。

 末端は凍っていても、内部の体温は保たれているらしく、肉が露出した掌には、じんわりと血が滲んできた。

 新兵たちが革紐で敵の手首を縛っていき、エイナはその結び目を確認して回る。


 ウォルシュとウィリアムは問題なかったが、サムとケヴィンは上手く縛れない。

 手袋をはめた彼らの指先が小刻みに震えていて、思うように動かせないようだった。


「どうした、革手袋をしているのだ、そう寒くはないだろう?」

「小隊長殿は平気なのですか?」

 ケヴィンが震えながら顔を見上げた。


「うん、まぁ少し冷えるが、そう大したことはないぞ」

「そうではありません」


「ん、どういうことだ?」

「こいつらの指、完全に凍傷を起こしています。多分、足先も同じでしょう。

 本部に連行する頃には、壊死して酷い有様になっていると思います」


「そうだな。指は失うことになるだろうが、命があるだけましだろう」

「小隊長殿は……それが平気なのでありますか?

 敵とはいえ、こいつらも同じ人間なんですよ!」


 エイナはすぐには答えることができなかった。

 ケヴィンがぶつけてきた感情は、彼女が考えもしなかったことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ