九 夜間巡回
「アスカ隊長は、士官学校を出たての十八歳の少尉だった。
普通は新卒だったら、まず准尉から始まって、一年程度の経験を積んでから少尉に昇進し、小隊長となる。
いきなり少尉に任官され、小隊を任されたということは、よほど士官学校での成績が優秀だったんだろう」
「だが、初めて会った俺たちは、そんなことは知らなかった。
アスカ隊長は落ち着いていて、俺たちより二、三歳年上に見えた。
勤務が始まってみると、隊長は寡黙な方で、あまり兵たちとも言葉を交わさなかった。
俺たち新兵と打ち解けるようになったのは、入隊から三週間が経った週末だった。
小隊には、俺のような先任下士官が配属されていて、その手配だったんだろう、今の貴様らと同じように、隊長が酒保で奢ってくれたんだ」
「アスカ隊長は士官たちの席にはいかず、俺たち新兵に混じって座り、黙々と酒を飲んでいた。
後から直接聞いた話だが、その時は隊長も緊張していて、何を話したらいいのか分からなかったそうだ。
俺たちも隊長につられるように飲み始め、次第に酒が回って調子が上がってきた。
そのうちに悪酔いした奴の一人が、隊長に絡み始めた。
さっきのトッドと同じで、女が隊長であることに文句をつけたんだ」
コンラッドは言葉を切って、じろりとトッドに目を遣った。
睨まれた方は、小さくなって下を向く。
「『上官が女だと、何か都合が悪いのか?』アスカ隊長は、そう新兵に訊き返した。
すると、そいつはこう言ったんだ。
『いくら小隊長の身体が大きいと言ったって、所詮は女です。
結局、腕っぷしじゃ男に勝てないでしょう』とな」
「すると、隊長は制服のボタンをぶちぶちと外し、上着を脱いで椅子の背にかけた。
そして、シャツの袖をまくって、剥き出しになった右肘をテーブルについた。
『だったら腕相撲をしてみよう。
誰でもいい、一人でも私に勝てたら、この先一年、酒保の払いは全部持ってやる』
隊長の言葉に、俺たちは勇み立った。俺も含めて、全員が心の中では『どうせ女だ』と、どこかで思っていたんだ」
「最初に絡んだ奴――フィンチって名で、もう除隊しているが、そいつがまっ先に対戦することになった。
俺たち小隊の連中は順番待ちで並んでいたが、騒ぎを聞きつけた他の小隊の奴らも集まってきて、二十人くらいが俺たちの後ろに列を作りだした。
みんな酔っているから、酒保は大盛り上がりで、士官たちも見物の輪を作った」
「先任下士官が審判役を務め、フィンチは隊長とがっちり手を組みあった。
アスカ隊長の手は男よりも大きく、指も太かった。
相手の手を包み込んで、ぐっと力を入れると、まだ試合前だというのにフィンチが悲鳴を上げた。
隊長の握力が強すぎて、手が握り潰されそうになったんだ。
隊長はすぐに気づいて『ああ、すまん』と謝り、力を緩めたが、もうフィンチはすっかり怖気づいていた。
案の定、勝負が始まると、奴の拳は一瞬でテーブルに叩きつけられてしまった」
「それから次々に挑戦者が交代したが、アスカ隊長は顔色ひとつ変えずに勝ち続けた。
周囲の野次馬どもは、不満を露わにして罵声を浴びせたが、同時に恐怖も感じていたんだと思う。
小隊の新兵十人が敗れ去り、最後に俺の番が回ってきた。
見てのとおり、俺の身長は百七十二センチで、それほど高くはない。
だが、横幅は当時も結構あって、腕っぷしの強さには自信があった。軍学校でも、腕相撲で負けたことは一度もない。
それは他の連中も知っていて、俺がアスカ隊長と組み合うと、その日一番の盛り上がりとなった」
「先任下士官が拳を押さえていた手を離し、『始め!』と号令をかけた瞬間、俺の腕はもの凄い力でねじ伏せられた。
一気に拳がテーブルにつきそうになったが、俺は手首を返してどうにか持ちこたえた。
腕に瘤のような筋肉が盛り上がり、静脈がミミズのように浮き上がった。
俺は渾身の力をこめ、じりじりと隊長の拳を押し返していった。
それまで、すべて一瞬で勝負をつけてきたアスカ隊長に、初めて抵抗する者が現れたんだ。周囲は一気に過熱して、激しい声援が飛んだ。
だが、その均衡は十秒と持たなかった。
突然、〝ぱきっ〟という乾いた音が響き、俺の前腕が途中からぐにゃりと曲り、拳がテーブルに叩きつけられた」
「俺も隊長も、そして野次馬たちも全員、何が起きたのか理解した。
俺の腕がへし折られたんだ。
興奮していたせいか、俺はまだ痛みを感じず、九十度に曲がった自分の腕を見つめて呆然としていた」
「だが、アスカ隊長の行動は早かった。
隊長は、椅子の背板に膝蹴りをかまして、一枚の板を引き抜いた。
そして、左腕のシャツを肩から引きちぎり、それを包帯にして添え木を俺の腕に縛りつけた。
さらに、片袖となったシャツを脱いで三角巾代わりにして、肩から腕を吊ってくれた」
「シャツを脱いだ隊長の上半身は、胸を覆うコルセットだけの裸になっていた。
それは古代の彫像のような眺めだった。腹筋がばきばきに割れ、背中や脇腹には、荒縄のような筋肉が盛り上がっていた。
ただ、いくら大女だと言っても、隊長だってまだ十八歳の若い娘だ。半裸の姿を人目に晒して平気なわけはない。
それなのに、隊長はまったく恥じる様子もなく、俺の身体をひょいと抱き上げた。
『コンラッドを軍医殿のところへ連れていく。曹長、後のことを頼む』
隊長はそう先任下士官に言って、酒保を出ていこうとした」
「慌てたのは俺の方だ。その頃には、折れた箇所に痛みが襲ってきていたが、それどころじゃなかった。
『小隊長殿、どうか下ろしてください! 俺は腕の骨を折っただけですから、普通に歩けます!
それと、お願いですから、どうか上着を着てください!!』」
「泣き出しそうな顔で懇願した結果、俺は女の上官に〝お姫さま抱っこ〟されるという辱めから、ようやく解放された。
だが、そそくさと上着を羽織ったアスカ隊長は、今度は俺の横に並んで腕を組んできた。
そのまま軍医殿のいる医務室まで、連行されていく俺の情けなさを、貴様ら想像できるか?」
「俺の前腕骨はきれいに折れていたから、二か月半で原隊に復帰できた。
アスカ隊長は相当絞られたらしいが、酒の上でのことということもあって、訓告処分で済んだそうだ。
小隊に戻った俺に、隊長は『当分の間、無理はするな』と注意しただけで、それ以外に一言も責めなかった」
「それ以来だ。俺はアスカ隊長に一生ついていくと決めた。
小隊長が中隊長になられ、やがて大隊長となって全体の指揮を執るようになっても、俺は隊長直属の部下だという誇りを、決して忘れなかった。
そして『隊長が女だから……』と抜かす生意気な新兵は、この拳で黙らせてきた。
いいな、貴様らも口の利き方には、せいぜい気をつけることだ!」
コンラッド曹長の話が終わると、集まっていた者たちは、それぞれのテーブルに戻っていく。
誰もがアスカ将軍の新しい逸話を聞いて、満足そうに感想を話し合っていた。
これは、二十数年前の出来事で、一部の古参将兵たちしか知らない話だったのだ。
エイナは同じテーブルの将校たちに非礼を詫び、寮に戻ることにした。
帰り際、彼女は新兵たちに「あまり羽目を外さないように」と注意を与えた上で、コンラッドにそっと囁いた。
「曹長、兵たちには、適当なところで切り上げさせろ」
「分かっております、少尉殿。
あと一時間以内に、こいつら全員潰してみせます!」
エイナは引き攣った笑いを浮かべながら、酒保を後にした。
翌週、経理課から回ってきた請求書を見ると、彼女が予想していた金額よりは、かなり少なかった(それでも痛手だったが)。
総務で仲良くなった娘を通して調べてもらうと、コンラッドが半分近く払っていてくれたことが分かった。
ちなみに、ただの少尉であるエイナより、上級曹長(先任下士官)であるコンラッドの方が、給与は上であった。
* *
新しい週も、引き続いて巡回任務が割り当てられていた。
前週では回れなかった村々を訪れ、最近何か変わったことがなかったか、聞き取る仕事である。
特に異常もなく巡回は続き、再び週末がやってきた。
明日は朝早くに発って、ガリソ港に向かう夜、エイナは最後の巡回先、トミネ村の役屋を借りて、報告書をまとめていた。
コンラッドが隣に座り、あれこれと助言をしてくれる。
エイナはさらさらと報告書を書き上げていったが、ふとそのペンが止まった。
「行商人の話は、報告すべきだろうか?」
エイナが顔を上げて訊ねる。
曹長は首を傾げた。
「毎年来る行商人ですから、不要だと思いますが」
「でも、その二か月前に、別の行商人が来ていたそうじゃない」
「まぁ、たまたま時期が重なることもあるでしょうな」
「そうかしら……」
エイナはペン軸の端を、無意識に齧っていた。
上官口調を忘れていたが、周囲に部下はいないので、曹長はそれを訂正しなかった。
「何か気になることでも?」
「ええ、こんな最果ての村までやってくる行商人って、結構珍しいのよ。苦労する割には売り上げが少ないから、割に合わないってわけ。
だから、最近別の行商人が通ったと知ったら、普通は経路を変えて他の村に向かうか、行商自体を諦めるはずなの」
「なるほど……」
「親郷のクリル村で商品を仕入れて、サイジ村、カイラギ村と北上して、トミネ村に至るルートは一本道だわ。
当然、行商人はすべての村を訪ねているでしょうから、最初のサイジ村でそのことに気づいているはずよ。
なのに、行商人は北の果てのこの村までやってきた。
普段より売り上げが伸びないことが分かっているのに、なぜそんなことをしたのかしら?」
「ふうむ……」
コンラッドは考え込んだ。
「確かに、そう言われてみれば妙ですな。
ただ、件の行商人は、もう二十年近く通っている顔見知りだといいますし、特に不審な言動もなかったそうです。
まぁ、判断は我々の仕事ではありません。今の意見を付けて、報告には挙げておいた方が無難でしょう」
「ありがとう曹長。そうするわ」
* *
翌日、ガリソ港に着いたエイナの小隊は、必要な手続きを済ませて馬匹船に乗り込んだ。
今回はあまり風に恵まれず、蒼城市の本部に帰還したのは、夜遅くになってからであった。
舟を漕ぐことで疲労した兵たちは、酒保に繰り出す元気がなく、この日はその場で解散となった。
休みを挟んだ次の週の月曜日、エイナは中隊長室で二週間分の勤務予定を受け取ってきた。
小隊控室に戻ると、曹長が新兵たちに組み打ち稽古を命じ、訓練場へと追い出してくれた。
二人きりになった彼らは、新しい任務の内容を確認した。
「夜間巡回……とあるが、夜も巡回を行っているのか?」
「ええ、まぁ、昼間のとは内容がかなり違いますが。
しかし、もう少し新兵どもが慣れてからだと思っていましたが、自分が思っていたより早く回ってきましたな」
「つまり、難しい任務なのだな?」
「そうです。巡回と言っても、昼間のように村々を回ったりはしません。
帝国からの密航は、夜間に無灯火の小舟で渡ってくるものです。
その警戒のため、夜間に沿岸を徒歩で巡回する任務ですね」
「徒歩ということは、馬を使わないのか?」
「はい。警戒順路は道が悪いので、馬が足を痛める恐れがあります。
それに馬たちは昼行性ですから、夜は眠らせてやらねばなりません」
「なるほど……」
「馬だけではありません。人間だって、夜は寝るのが正常な状態です。
昼夜を逆転させ、日中に睡眠を取る生活に慣れるのは、なかなかに大変なのです。
今日は午前中のうちに準備を済ませ、兵どもには午後から仮眠を取るよう命じましょう。
まぁ、急にそう言われても、はいそうですかと眠れるものではありませんがね」
* *
曹長の提案は実行に移されたが、夕方に集合した兵士たちは、予想どおりほとんど眠れなかったらしい。
小隊は馬でボルゾ川沿岸まで進み、そこから徒歩で河原の細い道をたどることとなった。
馬たちはトッドに任せ、朝に合流する予定の監視所で待機させることにした。
つまり、河原を警戒する戦力は、エイナと曹長を含めても七人という、頼りないものだった。
巡回路は名ばかりの道で、大きな石がごろごろしていたり、ぬかるみがあったり、葦類が生い茂っていて、酷く歩きづらかった。
おまけに夜間で足元がよく見えない。
堂々と灯りをつけていると、敵の工作員に気づかれることになる。
したがって、龕灯と呼ばれる、正面だけを照らして光が洩れない覆い付きランプを使用するのだが、これは嵩張る上に照射範囲が狭く、あまり使い勝手がよくなかった。
そこで、エイナは魔力を抑えた明かり魔法を、地面すれすれで発動させ、兵たちの足元を照らしてやった。
魔法を初めて見た新兵たちは、子どものようにはしゃいでいた。
しかし、巡回が始まって数時間もすると、行軍の過酷さに黙り込むようになった。
もう十一月に入っていたので、夜間はかなり冷える。
重い荷物を背負い、槍を持って歩き続けていると大量の汗をかくが、その一方で夜風に吹かれた濡れた衣服が、体力をどんどん奪っていった。
しかも、昼間の巡回のように情報収集という気楽な任務ではない。
常に敵の存在を警戒して周囲に気を配り、万が一工作員を発見した場合には、本物の戦闘が予想されるのだ。
その精神的な重圧は、慣れない新兵たちの疲労を倍加させた。
そんな中、指揮官であるエイナは元気だった。
彼女は夜目が利くので足元にも不安がなく、周囲の状況をよく観察することができた。
エイナは小隊の先頭に立ち、思わぬ穴やぬかるみ、障害物をいち早く発見しては、小声で後続の兵たちに注意をうながした。
夜間任務に慣れているコンラッド曹長は殿を務め、脱落者が出ないよう気を配っていた。
一晩中歩き続け、ようやく東の空が白み始めるころ、小隊は待ち合わせ場所である、監視所に到着した。
監視所の小屋は小さい上、中には当番兵が寝ているので、兵たちは中で休むことができない。
彼らは小屋の周囲の草むらの上にへたり込み、ぼそぼそした黒パンを水筒の水で無理やり流し込むと、その場に寝転がって毛布をかぶり、泥のように眠り始めた。
濡れた下着を取り替えねば、身体が冷えてよくないのだが、疲労がその不快感を上回っていたのだ。
エイナとコンラッドはきちんと着替え、濡れた衣服を木の間に張ったロープにかけてから、毛布にくるまった。
監視所の当番兵たちは、女性であるエイナを気遣って、ベッドを明け渡すと申し出てくれたが、それは礼を言って丁重に断った。
エイナは汗臭い男たちの間に挟まり、雑魚寝の仲間入りをした。
夜の間、彼女は妙な興奮状態にあって、あまり疲労も感じていなかった。
ところが、周囲が明るくなってきた今になって、急に疲労と眠気が襲ってきた。
遠のいていく意識の中で、エイナは自分に吸血鬼の血が流れていることを、自覚せざるを得なかった。