三 朝稽古
その日の夕方五時過ぎ、アスカとゴードンは連れ立って帰ってきた。
愛娘がひと月ぶりに帰ってくるのが分かっているから、仕事を早めに切り上げたのだろう。
エイナはメイドと一緒に、夫妻を出迎えた。
「ああ、エイナか。思ったより早く着いたのだな」
アスカは巨大な軍馬の上から声をかけた。
馴れた仕草で馬から降りると、トレードマークとなっている全身鎧が、ガチャガチャと音を立てる。
「はい。天気にも恵まれて、道中何もありませんでしたから。
お言葉に甘えて、今日明日はお世話になります」
エイナは手綱を取って、馬の鼻筋を撫でた。
「第四軍勤務は四か月の期限付きなんだろう。
よかったら、このまま家に下宿したらどうだ?」
頭髪を剃り、浅黒い肌をしたゴードンも下馬して、白い歯を見せた。
「いや、それはエイナのためにならんだろう」
アスカがぼそりと言う。
「大将閣下のおっしゃるとおりです。
軍の寄宿舎に空きがあるそうですから、月曜からはそこに入る予定です」
アスカは少し困ったような表情を浮かべた。
「今は勤務外だ。大将だの閣下はやめてくれ。
ただのアスカでよい」
馬の手綱は馬丁に渡され、彼らは庭を横切って玄関へ向かった。
「それで、セシルは帰ってきたのか?」
ゴードンがそわそわしてメイドに訊ねると、ナタリーはくすくす笑いながらうなずいた。
「はい、旦那様を驚かすために、扉の陰に隠れてますわ」
「図体は大きくなったのに、いつまでも子どもだなぁ……」
そう言いながらも、彼はとても嬉しそうだった。
そして、玄関の扉を開けた途端に飛びついてきたセシルに、大げさに驚いてみせた。
「びっくりさせるな、セシル! こいつめ、心臓が止まるかと思ったぞ!!」
丸坊主の大男と巨大な娘が抱き合っている姿は、少し異様な光景だった。
「まったく、どちらが子どもなんだか分からんな……」
アスカが苦笑いを浮かべながら、エイナにささやいた。
セシルはだらしない寝間着ではなく、娘らしい華やかなワンピースを身にまとっていた。
帰ってきた二人は、それぞれ着替えるために自分の部屋に入り、セシルは「お手伝いする!」と言って、母親についていった。
アスカの場合、軍服の上に全身鎧を纏っているので、着脱が大変なのだ。
エイナは手持無沙汰なので、リビングのテーブルにつき、お茶の準備で動き回っているメイドたちと、たわいのないお喋りに興じていた。
アスカはゆったりとしたガウンのような部屋着に着替えて現れ、汗を流すために浴室に向かった。
ゴードンも普段着になって戻ってきたが、後ろから付いてきたセシルに、切れ目のないお喋りを浴びせかけられていた。
セシルの話は幼年学校のことで、教官に褒められたこと、叱られたこと、そして級友の男の子たちの話題だった。
男子生徒の話になると、それまでにこにこしていたゴードンの表情が、目に見えて強張るのが面白かった。
リビングにアスカが戻ってくると、入れ替わりにゴードンがシャワーを浴びに向かう。
セシルはアスカにはあまり話しかけず、少しするとどこかへ行ってしまった。
アスカと二人きりになったエイナは、少し心配そうな表情で訊ねた。
「お嬢さんとは、普段からあまりお話しにならないのですか?」
「いや、そんなことはないぞ。
ただ、私は無口な性質だから、セシルの方で気を遣ってくれるのだ。
あの子は私と違ってお喋りだから、私が受ける被害はゴードンが一手に引き受けてくれている」
「それを聞いて安心しました」
「あの子はエイナが来ると聞いて、この休暇をずい分楽しみにしていたようだ。
何しろ、学校には他に女子がいないらしくてな、歳の近い話し相手に飢えているらしい。
エイナも気をつけた方がいい。
今は私たちがいるから我慢しているが、きっと夜には寝室に忍び込んできて、気が済むまでお喋りをしていくはずだ」
二人が世間話をしていると、遠くの方からメイドの悲鳴が聞こえてきた。
「セシルお嬢様ーっ、いけません!」
どたばたとした物音が響き、腰にタオルを巻いただけのゴードンがリビングに飛び込んできた。
「せっ、セシルの奴が素っ裸で風呂に入ってきた!」
大声でアスカに訴える夫に、アスカは大きな手でこめかみを押さえた。
「裸なのはお前だっ!
若い娘の前で、何という格好で出てくるのだ、恥を知れ!」
ゴードンは目を背けているエイナにハッと気づき、慌てて廊下に引っ込む。
「まったく! あの娘は自分の身体が大人になっているという、自覚が足りん。
何度言っても性懲りもなく……」
大きく溜息を洩らすアスカを、エイナは引き攣った笑いを浮かべて慰めた。
「まぁまぁ、セシルはまだ十二歳ですもの。
お父様と仲がいいのは良いことですよ」
* *
その日の夕食は、メイドたちが腕によりをかけた豪勢なものだった。
セシルは顔を真っ赤にして喋りまくり、アスカとゴードンは楽しそうに娘の話に聞き入っていた。
エイナは旅の疲れもあって、早々に客用寝室に引っ込んだが、アスカの予想どおりに寝間着姿のセシルがやってきた。
彼女はベッドに上がり込んで、夜遅くまでエイナを質問攻めにした。
セシルの興味は王都での暮らしのこと、美味しい料理やお菓子の店、最新のファッション、そして恋愛話だった。
目まぐるしく変わる少女の話題に、エイナはついていくのがやっとで、乗り物酔いをした気分になった。
結局、日付が変わりかけた頃に見回りにきたメイドに見つかり、セシルは強制的に自室に戻された。
解放されたエイナは気絶したようにベッドに倒れ、夢も見ずに爆睡することになった。
翌朝、エイナが目覚めたのは七時過ぎだった。夜明けとともに起きる王国の人間としては、寝坊と言われても仕方のない時刻である。
彼女は薄手の白いブラウスに、膝下丈のチェック柄のスカートという普段着に着替え、顔を洗って階下に降りていった。
リビングに顔を出すと、ばったりとメイドのナタリーに出会った。
「あらエイナ様、お早うございます。よく眠れましたか?」
「お陰さまでね。みんなはもう起きているの?」
「ちょうどお庭で〝朝稽古〟をなさっていますわ。
よかったら、テラスでご一緒なされますか? 熱いコーヒーをお持ちしますよ」
「稽古?」
「ええ、セシルお嬢様が寄宿舎にお入りになられる前は、朝の日課でしたの。
何だか久しぶりで、昔に戻った気分ですよ!」
ナタリーは嬉しそうな笑顔で、エイナを庭に面したテラスに案内した。
屋根のかかったテラス席には、ゆったりとしたガウンを肩にかけたアスカが座り、香り高いコーヒーのカップを片手に庭を眺めていた。
その視線の先では、先端を綿の入った革で包んだ稽古用の〝たんぽ槍〟を手にした、ゴードンとセシルが向かい合い、激しく打ち合っていた。
エイナがアスカに朝の挨拶をして向かいに座ると、ナタリーがすぐに熱いコーヒーを淹れたカップをテーブル置いてくれた。
父娘の稽古はかなり激しいものであった。
エイナもそれなりに武術の心得があるから、それがすぐに分かった。
堅いがよくしなる木製の槍が、カンカンという小気味いい音を立てて打ち合わされ、わずかでも隙があれば、鋭い突きが繰り出される。
刃のない槍といっても、まともに打たれれば打撲では済まず、喉や鳩尾などの急所を突かれれば、絶息しかねない。
だが、ゴードンは槍の達人だけあって、娘の攻撃を余裕で捌き、一方のセシルも容赦のない打ち込みをぎりぎりで躱し続けた。
「凄いですね……十二歳であれですか。
セシルは私よりも強いかもしれません」
溜息を洩らすエイナに、アスカは小さな笑みを浮かべる。
「何なら、この後セシルと立ち会ってみるか?」
エイナはぶんぶんと首を振る。
「遠慮します。明日から勤務なのですから、五体満足で臨みたいです。
セシルはいつもこんな稽古をしているのですか?」
「ああ、ゴードンと私との三分五本勝負だ。
あの子はずいぶんと強くなったぞ」
アスカがちらりと目を遣ったテーブルの上には、砂時計が置かれていた。
その砂がもうじき落ち切るというタイミングで、ゴードンの槍が腰を支点にして回転し、うなりを上げてセシルの足を払った。
彼女が思わず転倒した次の瞬間、ゴードンの槍先がぴたりと喉元に突きつけられ、セシルが降参をした。
「それまで!
どうしたセシル、これで四連敗だぞ。幼年学校の緩い稽古で腕が鈍ったか?
次、五本目!」
アスカが表情を変えずに娘を煽り、砂時計を反転させた。
セシルは荒い息を整えながら、唇を噛む。
その瞳が、火を吹くような激しさで父親を睨みつけている。
再び激しい打ち合いが再開された。
五本目もゴードンが押し気味だった。
やはり体力的に父親に劣るセシルは、肩で息をするようになり、槍の構えがぴたりと定まらなくなった。
そこをゴードンの槍が容赦なく攻め立てる。
だが、それはセシルの誘いであった。
繰り出される鋭い突きを、彼女は身体の柔軟性を活かして紙一重で躱すと、相手の槍を絡めて撥ね上げた。
ゴードンが構えを戻そうとする、ほんのわずかな隙をセシルは見逃さない。
地を蹴って飛び込むと、地面すれすれから槍を突き上げた。
ゴードンは身をよじって肩を貫かれるのを避けたが、セシルの槍は彼の太い腕をしたたかに突いた。
これにはゴードンも堪らず、思わず槍を落としてしまった。
「それまでっ!」
アスカが鋭く叫び、二人はさっと引き下がって礼をした。
だが、頭を上げた次の瞬間、セシルは憤怒に満ちた表情で父親に詰め寄った。
「お父様なら、今の突きを躱せたはずです!
勝ちを譲られても、セシルは嬉しくありません!!」
目に涙を滲ませて抗議する娘の頭を、ゴードンがぽんぽんと叩く。
「確かにな、避けることはできた。
だが、今のセシルの突きは普通の奴なら絶対に喰らう。
お前も知っているように、俺の槍術は傭兵時代に覚えた我流混じりだ。
実戦では役に立つが、それは正規の技術を身体に叩き込んだ上でなければ、かえって害になる。
セシルはまだ基礎ができていない。そういう文句は、俺に勝ち越してから言うことだ。分かったな」
セシルは悔し涙をぼろぼろと零しながら、こくんとうなずいた。
やはり、根は素直な少女なのだ。
ゴードンはテラスに戻ってきて、アスカの隣の椅子にどっかりと腰をおろした。
すぐにメイドが硬く絞ったタオルを手渡す。
ゴードンは首筋の汗を拭いながら、大きな息をついた。
「まったく! セシルの相手はだんだんきつくなるな。
俺が大きな顔をしていられるのも、あと何年なのか怪しくなってきたぜ」
彼は庭の芝生に座り込んで、手足を伸ばして柔軟をしているセシルに目を遣った。
エイナは感心したようにうなずいた。
「シルヴィア――前に一緒にお世話になった私の友人ですが、彼女は魔導院で十二年間、一度も武術で主席を譲ったことがない娘なんです。
でも、セシルはその彼女にほとんど引けを取らない腕前だと思います」
ゴードンは露骨に嬉しそうだった。
「ああ、恐らく槍に関しては、学校でも敵なしだろうな。教官以外に相手になる奴はいないはずだ。
それで慢心するところがないのが、あいつのいいところだ」
「剣術もそのくらい上達すればいいんだが……」
アスカが立ちあがり、ガウンを脱いで椅子の背にかけた。
そして、立てかけてあった木刀を持って、庭に降りていった。
「え、もう次をやるんですか?」
エイナが驚くと、ゴードンが白い歯を見せた。
「ああ、セシルの体力は母親譲りで化け物だ。心配いらんさ」
その言葉どおり、セシルはアスカの姿を見上げると、ぴょんと起き上がって、嬉しそうに木刀を受け取った。
そこからまた、三分五本の稽古が始まったが、結果は圧倒的だった。
セシルは一分と持たずに打ち込まれ、あっさりと五本連取されてしまったのだ。
木刀の稽古は槍以上に危険である。
もちろん稽古であるから、頭を狙うことはしないが、まともに木剣が入れば、どこであろうと骨が砕ける。
その点でいえば、セシルの負けはいずれも受け損ねで、直撃は巧みに避けていた。
唸りをあげて襲ってくるアスカの剣は暴力そのもので、それを一分以上受け続けるセシルの技は、驚嘆に値するものだった。
自分だったら、一撃で吹っ飛ばされているだろう――そう思うと、エイナの背筋が寒くなる。
「参りました」
手首を押さえて膝をついたセシルが、五本目も降参すると、アスカは汗ひとつかかない顔で娘を見下ろした。
「太刀筋は悪くない。
――が、お前の一撃は軽いのだ。
せっかくよい体格をしているのだから、もっと剣に体重を乗せなければもったいない。
そこを直せば、もう少しいい勝負ができるだろう」
「一撃を重くするには、どうしたらよいのでしょう?」
娘の問いに、アスカは困った表情を浮かべた。
「まぁ、その……何だ。とにかく剣を振ることだな。
ひたすら打ち込みを続ければ、何となくできるようなる……はずだ、多分」
「はぁ……」
二人のやり取りを見ていたエイナは、ゴードンにそっとささやいた。
「アスカ様、あまり教えるのが得意ではなさそうですね」
「ああ、そうなんだ」
ゴードンはもう十五年近く、第四軍の武術教官を務めている。
教え方が上手いのは当然で、その結果は娘のセシルに見事に表れていた。
ようやく戻ってきたセシルに、ゴードンが声をかける。
「朝飯前にシャワーを浴びてこい」
「お父様は?」
「俺はお前が上がった後だ! また入って来られたらたまらん」
「でも、あたしはお父様の背中を流したいです!
小さい時はいつもそうしていたではありませんか?」
「馬鹿野郎! そんな恥ずかしいことができるか!
さっさと行ってこい!」
* *
セシルがいなくなって、テラスにはエイナとアスカ夫妻だけが座っている。
昨日も夫妻とはいろいろな話をしたが、そこに軍務の話題は上らなかった。
エイナが一番聞きたいのはそこである。彼女は思い切って、自分から切り出してみた。
「えとあの、アスカ様? 明日からのことなんですけど……」
「ん? ああ、明日は一緒に登城しよう。
月曜日は朝一で上級将校の会議がある。
大隊長以上は全員出席だから、それが終わったら第一野戦大隊長のケルヒャ中佐に引き合わせる。
その後は、中佐の指示に従ってくれ。
恐らく各中隊長、小隊長に紹介され、エイナの部下たちにも会えるだろう」
アスカがぶっきらぼうに予定を告げた。
ゴードンが補足するように付け加える。
「第一野戦大隊は、アスカが長いこと率いていた部隊でな。第四軍では一番の精鋭部隊とされている。
エイナは第三中隊の第四小隊長を任されるはずだ。
第三中隊長はミラン中尉といって、若いが堅実な指揮をする男だな。
第四小隊に配属される先任下士官は……ええと、誰だっけ?」
「コンラッド曹長だ」
アスカが答える。
「コンラッドは四十歳を過ぎた、大隊でも古参の一人だ。
分からないことは彼に頼れば間違いないだろうな」
「それで、私の部下となる者たちは?」
アスカは首を振った。
「私もそこまでは知らんのだ。
今年度の入隊者で、つい最近、軍学校の訓練を終えたばかりだとは聞いている。
エイナも不安だろうが、まぁ、そう気に病むな。どうにかなるものだ」
アスカはいったん言葉を切ると身をかがめ、声を落とした。
それより、シド様から伺ったのだが、南部で吸血鬼と戦ったそうだな?」
エイナの表情が、一瞬で強張った。