二 巨娘
エイナは王都市内の中心部にある、豪商ファン・パッセル家の屋敷に下宿していた。
辞令を交付された夜のことである。
屋敷の実質的な主人であるロゼッタ、そして一緒に下宿をしているシルヴィアと夕食のテーブルを囲んだ席で、彼女は蒼城市への異動命令がくだったことを明かした。
二人は当然のように驚いたが、異動が四か月の期間限定で、それが終わればまた参謀本部付けに戻されると聞いて、安堵の息を洩らした。
「まぁ、エイナもこの際、外の部隊のことを知っておいた方がいいかもね。
参謀本部とは別世界だから、いい経験になると思うわ」
シルヴィアがさっそく先輩風を吹かせる。
彼女も黒城市の第二軍に派遣され、一か月の間、研修を受けた経験があるのだ。
「だけどシルヴィアは、アラン少佐がつきっきりで指導してくださったんでしょう?
私は第四軍に行ったら部下を持たされて、小隊長をやるのよ」
「えっ、何それ!? あんたが隊長って、冗談きつくない?」
「あら、そんなことはないわよ」
ロゼッタが落ち着いた声でたしなめる。
「エイナちゃんは、ちゃんとした士官なんだもの。
普通は少尉になれば、小隊の指揮を任されるものよ。
士官教育や部隊指揮は、軍学校で教わっているんでしょう?」
「それはそうですけど、私とシルヴィアは四か月の速成教育しか受けていないんです。
ほとんど素人同然ですよ」
「それは大丈夫。新規に小隊長になる少尉なんて、みんな似たようなものよ。
だけどそういう場合は、必ず部隊に先任下士官が配属されるわ。
彼らは経験を積んだベテランだから、隊長を補佐しながら、一人前になるまで面倒を見てくれるの。
新兵たちにとって、下士官は鬼より怖い存在だから、どんなに頼りない小隊長でも、部隊の規律が保たれるのよ」
「そうなんですか。それを聞いて、少し安心しました」
「でも、その先任下士官に〝見込みなし〟と判断されると、ほぼ出世の道は断たれるんだけどね。
先任下士官って、大隊長にも直接意見具申が許されるのよ。
だから、新任の小隊長の評価は、ほぼ彼らの意見で決定されるわけ。
下士官の言うことは素直に聞くこと。だけど、決して言いなりにはならないこと。
それが、彼らに気に入られる秘訣だと言われているわね」
「はぁ……、難しいですねぇ」
エイナは溜息をついた。前途は多難――そんな言葉が頭に浮かび、じんわりと沁み込んでくる。
多くの国家と同様、王国軍の軍制は士官、下士官、兵卒に分けられ、その格差は歴然としている。
エイナやシルヴィアのような魔導士・召喚士は別として、士官になれるのは軍学校で士官教育を受けた者に限られる。
志願、あるいは応募によって兵となった者は、どんなに出世しても下士官どまりだった。
軍においては一生を兵卒で過ごす者は稀で、大抵はある程度の年数を務めて金を貯めたら、除隊して別の職業に就くものだ。
それに対して、叩き上げで下士官にまでなった者は、職業軍人として定年まで軍に残ることが多い。
そしてこの下士官たちが、実質的に軍を支えているといっても過言ではない。
下士官には伍長、軍曹、曹長があるが、先任下士官は上級曹長と区別される(呼称は曹長で変わらない)。
先任下士官の権威は絶大で、その職務には新任の若い小隊長(ほとんどが少尉)の教育も含まれているのだ。
* *
「それで、出発はいつなの?」
「えとあの、第四軍への出頭が九月二十日ですから、十二日には発とうかと思います」
「えっ、あと三日しかないじゃない!」
「ええ。でも、準備期間として、明日から休暇扱いになるそうです」
「じゃあ、明日は丸一日、買い物だわ!
もちろん、私がついていきますから、大船に乗った気でいてちょうだい」
「えっ、でもロゼッタさんはお仕事があるのでは?」
「そんなもの、全部キャンセルよ!
女にとって、買い物より重要な案件が存在すると思って?」
ロゼッタの鼻息が荒くなり、エイナはますます不安を覚えるのであった。
* *
九月十二日の早朝、エイナは馬に跨ってファン・パッセル家を出発した。
馬は軍から貸し与えられたものである。
王都と各軍団が根拠を置く四古都との間は、整備された街道で結ばれており、軍同士の往来も多い。
そのため、各軍は移動用の馬を共同管理していた。
要するに、エイナが王都から馬で蒼城市に移動した場合、その馬は蒼城市の第四軍の管理下に置かれ、返却する必要がないということになる。
街道沿いにある町や村は、こうした馬の世話が委託されていて(一種の役務)、予告なしに訪れても専用の厩舎に収容され、飼葉や水の補給を受けられる。
役務とはいっても、それにかかる費用は軍が負担しており、三か月ごとに清算される。
馬の世話をするのは、ほとんどが町村長の役目で、小さな村では貴重な現金収入として歓迎されていた。
エイナはこうした制度を利用しながら、旅を続けていった。
まず王都から東の白城市に向かう。両都市間は一日の行程で、かなり近い。
白城市の第一軍は、王都の防衛を直接担当する拠点であるから、これは当然である。
その代わり、王都自身の防衛機能は脆弱で、兵力も五千人強の近衛軍だけであった(この規模は、軍の増強計画下でも据え置かれた)。
白城市では異動の辞令を提示することで、第一軍の施設に泊まることができる。
この白城市を出て、北東の蒼城市に向かう街道が長い。二百キロ近く離れているため、馬でも四日はかかる。
これは、馬による長距離移動の場合、人間でいう徒歩に当たる並足にならざるを得ないからである。
人間の歩く速さは時速四キロほどとされているが、馬の並足だとこれが六キロ半ほどとなる。
あまり変わらないように思えるが、馬は荷物も運搬してくれるので、人間の負担は徒歩よりも遥かに軽い。
もちろん、馬を走らせればもっと速度は出るが、現実的ではない。あっという間に限界がくるので、長時間は続かない。
走らせた馬には相当時間の休憩が必要となり、結局日中に移動を続ける場合、てくてく進むのが効率的になるのだ。
陽が落ちる前に、エイナは最寄りの集落に寄って馬を預ける。
当然、自身の寝場所と食事も確保しなければならない。
馬の世話をしてくれる担当者(町村長)は、その面倒も見てくれる。
この費用も軍から出ることとなり、出発前に主計局から給付される軍票に、エイナ自身が宿泊場所と食事内容を記入して渡すことで、後から現金化されるのだ。
宿泊場所は、立派な客用寝室から納屋の中までさまざまで、それに応じて支払額も変わる。
エイナの旅は天候にも恵まれ、極めて順調であった。
余裕を持って一週間前に王都を出発したが、出頭期限の二日前(九月十八日)には、目的の蒼城市に到着できた。
* *
蒼城市に早めに着いた場合には、第四軍のトップであるアスカ・ノートン大将の屋敷に泊まるよう、あらかじめ指定されていた。
一介の少尉であるエイナにとって、アスカは雲の上の人である。
だが、エイナは十一歳の時にユニに連れられて蒼城市を訪れた際に世話になっている。
さらに二年前、演習中に帝国の工作員に拉致された事件で、闇の通路を使って意図せずアスカ邸に出現したこともあって、アスカ家の人々とは顔見知りである。
蒼龍帝のシドは、その辺の事情を考慮したのであろう。これをアスカが快諾したことは、言うまでもない。
エイナは蒼城市の南大門で、身分証を提示して市内に入った。時刻は午後三時頃である。
アスカの屋敷は市の中心部に近い、閑静な住宅街にあり、エイナはその場所を記憶していた。
それほど大きくはないが、石造り二階建てのこぢんまりとした建物で、美しい花の咲く広い庭があった。
エイナは門の前で馬を降り、門柱をくりぬいて吊るされている鐘を鳴らした。
少し待つと、玄関が開いてメイドが小走りにやってきた。
幸いなことに、彼女(ナタリーという名だった)はエイナのことを覚えており、今回の件も聞かさせれているようだった。
「まあまあエイナ様、お久しゅうございます。長旅お疲れさまでした!」
ナタリーは鉄柵越しに笑いかけると、すぐに閂を外して扉を開けた。
玄関前のポーチには馬丁の男が待っていて、荷物を下ろしてから馬を厩に連れていってくれた。
荷物はエイナとメイドがそれぞれ持って、家の中に入る。
「取りあえず、お部屋にご案内します。荷物を置いたら、お茶をお出ししますから」
メイドは少し済まなそうな表情でそう言うと、二回へ続く階段を上がっていった。
この家では、アスカの夫であるゴードン(第四軍の少将)以外に男がいない(馬丁や庭師は男だが、決して家に上がることはない)。
ゴードンはまだ勤務中なので、荷物運びも女性たちでしなければならないのだ。
二人が階段を上って廊下を進んでいくと、途中の部屋から若い女性の声が聞こえた。
「ナタリー、お客様なの?」
「あら、セシルお嬢様、お部屋でしたか。
お話してましたでしょう? エイナ様がお越しになったんですよ」
メイドが答えると、どたばたという騒々しい音とともにいきなり扉が開き、若い女性が廊下に飛び出した。
そして、ぎょっとして固まっているエイナに、いきなり抱きついてきた。
「エイナお姉ちゃん!あたしのこと覚えてる? セシリアよ!!」
彼女はそう叫んで、身をかがめるようにしてエイナに頬ずりしてきた。
「えと、あのっ! ちょっ、くっ、苦しいから放してください!」
エイナがじたばたと暴れると、娘は初めて気づいたように下に降ろしてくれた。
廊下に足がついたエイナは、少しのけぞるようにして、彼女の顔を見上げる。
「え、えーと……セシリア?
ええ、もっ、もちろん覚えているわ。でもあなた、ずいぶん大きくなったわね~!」
エイナが驚いたのも無理はなかった。
彼女がアスカ家の一人娘と会ったのは十一歳の時で、セシル(セシリア)はまだ四歳の幼女だった。
その頃からセシルは発育がよかったが、せいぜいエイナの胸辺りまでの背丈だった。
それがどうだ。今の彼女はどう見ても百八十センチはある。
「やだぁ、背のことはあんまり言わないでちょうだい。気にしてるんだから」
セシルは少し顔を赤らめながら、エイナとナタリーが持っていた荷物を二つとも奪い取った。
中身がぎっしり詰まっていて結構重いはずなのに、彼女は平気な顔で持ち上げる。
「ナタリー、お部屋はどこ?
フェイ姉ちゃんのとこを使うのかしら」
「いいえ、エイナ様には客用寝室にお泊りいただきます」
「あっ、そうよね! お客様なんだもん」
彼女は大股で歩いて行き、寝室の扉を開けて荷物を運び入れた。
「どうもありがとうございます」
ナタリーは溜息交じりに礼を言ってから、ゴホンと咳ばらいをした。
「それはそうと、セシルお嬢様。
ナタリーが思いますには、お嬢様のお姿は、お客様に対して適切なものとは見えませんよ。
いくら女性同士といっても、はしたないのではありませんか?」
ナタリーが指摘したとおりで、セシルの格好はまるっきりの寝巻であった。
楽なので部屋着代わりに着ていたのであろう。
上はだぼだぼのパジャマだったが、発育のよい乳房のおかげでボタンとボタンの間から、白い素肌が覗いていた(コルセットもつけていない)。
下のズボンは膝上までしか丈がなく、膝から下は生足が丸出しとなっている。当然のように、ソックスを履いていない裸足である。
セシルは自分のだらしなさに気づき、「ぎゃっ!」と叫んで部屋に駆け戻り、ばたんと音を立てて扉を閉めた。
「これっ、お行儀!!」
ナタリーの叱声は、虚しく廊下にこだまするだけだった。
「失礼しました。ちょっとだけそそっかしいのですけど、セシルお嬢様は本当に素直でよい娘なのですよ。
どうか、誤解なさらないでくださいまし」
メイドは引き攣った笑いを浮かべながら、エイナに弁解をした。
ちなみに、二年前の拉致事件でエイナとシルヴィアがアスカ邸に現れたのは深夜のことで、セシルは熟睡していた。
朝もエイナたちは早くに家を出たので、彼女とは顔を合わせていなかった。
「あんまり大きくなっているので、ちょっと驚いたわ。
さすがにノートン大将の娘さんね」
エイナは荷物を開き、軍服や私服の皺を伸ばし、洋服箪笥に掛けはじめた。
ナタリーは下着類などをきれいに畳み直し、箪笥の引き出しにしまっていく。
「セシルは私より七つ下だったはずだから、まだ十二歳よね。
来年は高等小学校に進むの?」
ナタリーは悲し気に首を振った。
「いいえ、実を言うと、お嬢様は今年から幼年学校にお入りになったのですよ。
ご両親の跡をお継ぎになろうという心掛けは立派なのですが、いくらお身体が大きいと言っても、まだ子どもでございます!」
「えと、あの、ちょっと待ってちょうだい。
幼年学校って、士官学校の予科のことでしょう? 入学は十三歳からじゃないの?
第一、予科に入れるなんて、滅茶苦茶優秀じゃない!
確か、女子の合格率は極端に低いって聞くわ」
「それはもう!」
ナタリーは自慢げに胸をそらした。
「セシルお嬢様は、学校の成績がとびきり優秀でございましたから、特別に飛び級での受験が認められたんですの。入試では筆記でこそ三位でしたけど、実技では首席合格でしたのよ!
当家に仕えるメイドとして、私も鼻高々でございます」
まぁ、わずか十二歳にしてあの体格、しかも〝英雄〟として名高い母と、武術教官を長く務めた父に鍛えられれば、そうもなるだろう。
「あれ……でも、士官学校っていたら、予科でも全寮制だったはずよ。
どうして家にいるの?」
「ええ、月に一回だけですけど、申請すれば土曜の昼過ぎから日曜日いっぱい、帰宅が認められますの。
さきほどお帰りになったばかりで、私たちもついつい甘やかしてしまいました。
はしたない格好をお見せして、申し訳ございません」
「それじゃ、今夜はご両親とも楽しみにしているのね?」
「はい!」
ナタリーの顔が、はじけるような笑顔でいっぱいになった。
「今も私以外のメイドたちは、食堂に集まって大忙しなんですのよ!」
どうりで、エイナという客人が現れても、メイドが一人しか出てこないはずだ。
セシルは両親だけでなく、使用人たちからも愛されているようだった。