一 懲戒処分
秘書の朝は早い。
参謀本部の始業時間は、公式には午前八時半と定められているが、それを守っている将校はほとんどいない。
たいていその一時間前には出勤し、山積みになっている仕事の整理に取り掛かるのだ。
参謀本部の実質的なトップである、主席参謀副総長のマリウスも例外ではない。
彼は毎朝、七時半かっきりに執務室に入り、秘書が淹れてくれた紅茶と茶菓子を楽しみながら、その日のスケジュールを確認するのが日課であった。
当然、彼の専属秘書であるエイミーは、それ以前に出勤している。
彼女は六時半には自分の秘書室に現れ、自室とマリウスの執務室の掃除を行い、お茶の準備を済ませている。
もう十数年にもわたりマリウスの秘書を務める彼女は、三十代前半の独身女性である。美人であるのはもちろん、愛敬のある人懐っこい笑顔が魅力的であった。
エイミーは毎朝四時半に起床し、完璧な化粧と制服の着こなしを確認してから、市内中心部の下宿から徒歩で王城に向かう。
その日の彼女も、日課の掃除を済ませ、お湯が沸くまでの間に今日のスケジュールを確認するため、自分の小さな机の前に腰をおろした。
きれいに整頓されている机の上には、何枚かのメモが上がっている。
これもいつものことで、毎日遅くまで仕事をしているマリウスが、帰り際に秘書の机に連絡事項を置いていくのだ。
エイミーは小さな紙切れに、几帳面な字で記されたマリウスのメモを読んでいく。
その内容はほとんどの場合、取るに足らない連絡であった。
食事のリクエストであったり、欲しい本の購入依頼や、新しい服を誂えたいから、出入りの仕立屋を呼んでくれ(彼はなかなかにお洒落であった)、というようなものである。
だが、その日のエミリーはメモの一枚を広げた途端、美しく整えられた眉毛を上げた。
それは、ある人間を呼び出すよう、指示をするものであった。
通常、予定されたスケジュールを急に変更する場合、遅くとも前日までには、マリウスが直接伝えてくる。
当日の変更はびっしりと組まれた予定を調整し直さねばならず、秘書に大きな負担をかける。
それが分かっているマリウスであるから、これは重要度が高い指示である――ベテラン秘書のエイミーはすぐに察した。
彼女はお茶の準備をいったん中断し、すぐに自分の秘書室を出ていった。
参謀本部は王城南塔の、二階から五階までを専有している。
エイミーは、その廊下をヒールの高い靴を鳴らしながら、きびきびと歩いていく。
王国軍の女性兵士の軍服は、基本的に男と変わらず、下はズボンである。
ただし、彼女のような事務職は、ひざ丈のタイトなスカートを着用している。
王国の一般女性は、今でも昔ながらの長いスカートを着用するのが常識である。
女性が足を見せるというのは、〝はしたないこと〟とされていたが、軍隊においては機能性が何より優先される。
そのため、女性のスカートも、動きやすいように配慮された長さになっている。
軍の女性用スカートは、一応膝が隠れるとはいえ、くるぶしが露わとなる。
もちろん、彼女たちは高価な絹のストッキングを履いているのだが、脚線美を見せつけられる男たちが歓迎したのは当然である。
この賛美を受ける特権は、女性軍人・職員だけに許されたものであったので、若い女性たちの憧れの的であった。
王国軍における女性の比率は二割程度だが、これは当時としては異常に高い比率であった。
エイミーが歩くたびに、丸く引き締まった尻肉が、きゅっきゅっと左右に上がる。
だが、すれ違う参謀将校たちは、この魅惑的な光景に振り向きもしなかった。
日常的に激務にさらされている彼らの頭の中は、自分が抱えている案件に占領されているのだ。
エイミーはそれがいつも物足りない。
失いかけた自尊心を回復してくれるのは、一階の一般職員で占められているエリアだった。
この廊下を歩いていく彼女は、尻の割目に突き刺さり、掻き分けてくるような、男の視線を存分に味わうことができた。
下品な口笛を華麗に黙殺して彼女は人事部に入り、奥の部長秘書室の扉をノックする。
「どうぞ」という返事で中に入ると、顔馴染みのアマンダ秘書が顔をあげた。
「どうしたの、こんな朝早くに?」
怪訝な顔をするアマンダに対し、エイミーは小脇に抱えた書類挟みを手に取り、一枚目をめくった。
「えっとね、今日の〇九三〇から、おたくのボスとマリウス様の面会予定があるでしょ?」
「ああ、いつもの人事報告ね」
「その開始時間を、三十分遅らせて欲しいの。
その前に急に用件が入ってね、場合によっては長引くかもしれないから、念のためよ」
「一〇○〇に変更ね。分かった。
今日はその後の予定もないし、問題ないと思うわ。
どうせ人事報告なんて、十分で終わるんですもの」
会談予定は四十分とされていたが、残りの時間がどう消費されるかは、〝推して知るべし〟という顔つきだった。
「ありがと、恩にきるわ。
今度時間があったらお茶しない? 最近ケーキが美味しいお店を見つけたの」
「了解、その時にはまた連絡をちょうだい」
これは、実際にアマンダをお茶に誘っているわけではない。
お互いに忙し秘書同士で、そうそう予定が合うものではない。
その美味しいと評判のケーキを、後で差し入れるという約束なのだ。
人事部を出たエイミーは、そのまま南塔の正門に足を運び、今度は受付の窓口に肘をつき、身を乗り出した。
分厚いガラス窓の向こうでは、当番の近衛軍の兵士が座っている。
「これはエイミーさん、お早うございます。
どうかなされましたか?」
「フローリー少尉はもう出勤したかしら?」
ガラス窓に上半身を突き出すようにしているエイミーの、豊満な乳房が圧迫され、白いブラウスのボタンがちぎれそうになっている。
これは受付の兵士に対する、情報収集の対価のようなものだ。
「エイナさんはまだお見えになっていませんが、七時を回りましたから、そろそろだと思いますよ」
受付を担当する近衛兵は、事務職員だけはなく、参謀本部の将校たちの顔と名前を、すべて頭に入れている。
「そう、よかった!
エイナが来たら、至急で顔を出すように伝えてちょうだい。
マリウス様のお呼びなの」
「了解です、お任せください。
シルヴィア少尉の方はよろしいのですか?」
二人で下宿しているエイナとシルヴィアは、いつも一緒に出勤してくる。
真面目なエイナが七時半ころという、参謀本部としては遅い出勤をしてくるのは、朝が極端に弱いシルヴィアのせいである。
彼女たちは常日頃からセットで行動しているため、エイナだけが呼び出されたことに、受付の兵士は違和感を覚えたのだ。
「今回はエイナだけなの。じゃ、頼んだわよ!」
エイミーはにこりと笑い、手を振ってその場を離れた。
仕切り窓の丸い穴から、ふんわりとした花の香りが流れ込んでくる。
受付の兵士は、感に耐えないといった表情でつぶやいた。
「いつもながら、いい女だなぁ~。
彼女みたいな秘書が付くんなら、俺も参謀本部に志願すればよかった……」
隣にいた同僚が、不味いコーヒーを吹き出した。
* *
午前七時四十五分、エイミーの秘書室の扉がノックされた。
分厚い扉の向こうから「フローリー少尉です」という、くぐもった声が聞こえてきた。
「どうぞ」
秘書の応えで部屋に入ってきたエイナは、明らかに意気消沈していた。
エイミーは彼女に座るよう指示して、すぐに熱い紅茶を持ってきてくれた。
「ご苦労さま。
マリウス様もお茶をされているわ。八時半になったらお入りなさい。
なぁに? あなた、震えているの?
そんなに心配しなくて大丈夫よ」
エイナが怯えているのには、理由がある。
カメリア少将の捕縛命令を受けたエイナとシルヴィアは、その命に背いて彼女を逃がした。
それはカメリアの手を借りて、王国に手を伸ばそうとした吸血鬼の計画を潰すためだった。
その結果、まだぎくしゃくしていたオークたちと王国の関係は、目に見えて改善することになった。
その功績は大きかったが、軍命違反はそれとは別の大問題だった。
軍事法廷こそ避けられたものの、二人は直属上司のケイトから厳しい叱責を受け、一週間にわたり、いくつもある参謀本部のトイレ掃除(一日二回)を命じられた。
その懲罰が明けると、仕上げとしてマリウスのもとに呼び出され、改めてみっちりとお説教を喰らったばかりなのだ。
それから二日も経っていないのに、エイナだけが再度呼び出しを受けたことを、良い報せだと思うほど、エイナは楽観主義者ではなかった。
考えてみれば、トイレ掃除というのは、ケイトによるいわば私的懲罰であった。
軍としては、正式な形でけじめをつけなけらばならない。
今日はその申し渡しではないか――エイナはそう予想していたのだ。
優しい秘書のエイミーは元気づけてくれたが、エイナは生きた心地がしなかった。
こんな時の待ち時間は、あっという間に過ぎてしまう。
エイミーに「そろそろ時間よ」と告げられ、エイナは重い腰を上げた。
マリウスの執務室に続く扉をノックすると、「お入り」という声が聞こえた。
覚悟を決めたエイナは、思い切って中に入る。
執務机に座っている主席参謀副総長の前まで進むと、彼女は目を合わせないようにしながら直立不動の姿勢を取り、敬礼をした。
「フローリー少尉、お呼びにより出頭いたしました!」
マリウスは軽くうなずき、引き出しを開けて何かの書類を取り出すと、机を回ってエイナの前に立った。
そして、エイナの敬礼に対してゆったりとした答礼を返す。
「君に対して辞令が発せられた。
君を呼んだのは、その交付のためだ」
「はっ!」
敬礼を解いた彼女は短く答え、辞令の読み上げを待った。
せっかく少尉に昇進したばかりなのに、また准尉に戻されるのだろうか?
いや、ひょっとすると、一般兵への格下げもあり得る。
彼女の頭の中を、嫌な予感がよぎった。
マリウスは丸めた羊皮紙の封蝋を剥ぎ、書面を開いた。
「参謀本部付、エイナ・フローリー少尉。
貴官を蒼龍帝麾下、第四軍第一野戦大隊へ配属する。
――以上だ」
彼は辞令を丸め、エイナに向けて差し出した。
エイナは呆然としながらも、それを受け取って小脇に挟み、改めて敬礼をする。
「謹んで拝命いたします」
マリウスもまた、答礼を返した。
「うむ、新しい任地でも頑張りたまえ」
彼はありがちな励ましの言葉を贈り、執務机に戻ろうとした。
異動の辞令交付の儀式は、これで終了である。エイナはすぐに執務室を辞すべきであった。
異動に対する疑問があれば、それは人事部に問い合わせるべきであり、発令者であるマリウスのあずかり知らぬことである。
しかし、彼女はどうしても確かめずにはいられなかった。
「お待ちください!
えと、あの……これは、今回の件に対する懲罰人事でありましょうか?」
マリウスは机に戻ろうとした足を止め、振り返るとエイナの顔をじっと見て、少し考え込んだ。
「次の予定まで、まだ時間はあるか……。
よろしい、少し話そうか。ソファにかけたまえ」
彼はエイナに応接へ座るよう指示し、自分もその向かいの席に腰をおろした。
「今回の人事に、懲罰の意味があることは否定しない。
だが、それは軍の体面を保つための〝後付け〟に過ぎないし、ほとんど意味がない」
「左遷されて、参謀本部を追い出されることが、意味がないとおっしゃるのですか?」
エイナの目に涙が滲む。
新人として右も左も分からぬまま、参謀本部に放り込まれてから、もう一年半以上が経っていた。
ようやく仕事にも慣れ、それなりに役目を果たしてきたつもりである。
参謀将校たちとも笑顔で会話ができるようになり、女性将校や職員の友人もできた。
そこから「出て行け」と言われたのだ。納得できるわけがない。
「君が第四軍に異動となったのは、蒼龍帝の強い希望なのだ。
その要請は、マグス大佐の護衛任務以前から何度も寄せられていた。
懲罰が〝後付け〟だと言ったのは、そういう意味だ。
それに、君は自分が追い出されると思っているようだが、それも誤解だ。
辞令には書かれていないが、この異動は期間限定のものなのだよ」
「えっ、では……?」
「ああ、そうだ。赴任期間は四か月の期限付き。
第四軍への出頭期日は九月二十日だから、年明けの一月下旬には、参謀本部に戻ることになるね」
「そうだったんですか……。
えと、あの……それでは、第四軍で何か特殊な任務が与えられるのですか?」
「いや、シド殿からは、ごく当たり前の日常軍務に就かせると聞いているよ」
「はぁ……」
「釈然としないようだね?」
「はい」
「シド殿の言を借りれば、君は王国軍人として、また将校としての経験を〝きちんと積むべきだ〟そうだ。
参謀本部は通常の部隊とは違う。特別な任務がない限り、君のような若手将校には、使い走りのような雑務しか与えられない。
違うかね?」
マリウスの言うことは当たっていた。
カー君が飛行能力を手に入れ、国家召喚士となったシルヴィアには、現在背負いきれないほどの任務が課せられている。
それに引き換え、エイナはといえば、毎朝参謀将校の控室に顔を出して仕事を貰う、〝御用聞き〟が日課であった。
仕事にありつけない時は、魔導院に顔を出して後輩魔導士の指導を手伝っていたのである。
「それは将来有望な将校の育て方としては、大いに間違っている!
シド殿はそう力説されたのだ。
どうも、君は蒼龍帝にいたく気に入られているようだな?
私としては、君のような有能な魔導士は、手駒として囲っておきたいのだが、彼の主張ももっともだと思ってね。
それで、交渉を重ねた結果、四か月の期限付きで貸し出すことになったというわけだ」
「それは……身に余る光栄ですね」
「そうだ。だから、これはよい機会だ。しっかり学んできなさい。
指揮官として部下を率いるという経験は、必ずこれからの役に立つ」
「は!? 今、なんとおっしゃいました?」
「いや、だから、頑張って勉強してきなさいと言ったのだが?」
「いえ、その後です。指揮官とか、部下とか……」
「ああ。それはそうだろう。通常の実戦部隊に配属されるのだからね。
君は見習いの准尉ではなく、正規の将校である少尉だ。
慢性的な人手不足に悩むわが軍に、将校を遊ばせておく余裕などはない。
第四軍で小隊長を務め、部下を率いることは当然の責務だろう」
エイナは思わず立ち上がり、大声を出してしまった。
「わわわわわ、私が〝小隊長〟になるんですかぁ!?」