三十六 帰国
大宴会の翌早朝、人間たちはオークの村を出立した。
夜通し騒いでいたオークたちはまだ大半が寝ていて、見送ったのは族長のオルグと妻のジャヤ、そしてエイナたちが助け出した三人の娘とその家族たちだけだった。
ユニとカメリアは約束どおり、オオカミに跨って大森林を縦断することになった。
エイナはロキに乗って、いったん西の辺境に向かい、街道を北上して蒼城市を目指す。
ロキはエイナを送り届けた後、群れに合流する手筈となっていた。
大森林の中には、オオカミたちが拠点としている水場がいくつかあり、その一つで待ち合わせるのだという。
森を抜けるまでは、オオカミが飛んだり跳ねたりするので、しがみつくだけで精一杯だ。下手に喋ろうとすれば、たちまち舌を噛むことになる。
もちろん、脳内で語りかけることはできるが、オオカミは走りに集中しているので、その邪魔をするのは得策ではない。
そのため、エイナとロキは黙々と大森林の中をひた走ることになった。
エイナはオオカミの騎乗に慣れていたし、ロキとの呼吸はぴったり合っていた。
二人は快調に飛ばしていき、夕方前には辺境との境界に出ることができた。
エイナとロキは、切り株だらけの伐採地で、少し早めの野営の準備を始めた。
背負っている荷物の中には、昨日の宴会の残り物をたっぷり詰めてきたので、食糧調達の必要もない。
エイナは薄味のシカの塊り肉をロキと分け合い、彼の苦労をねぎらった。
人間には物足りない味付けだったが、オオカミたちはオーク料理をかなり気に入っていた。
エイナは肉にほんの少ししか口をつけず、一キロ余りもあった塊りは、すべてロキの腹の中に収まった。
食事を終えたエイナは、ホッと溜息をつく。
「明日からは街道を北上するから、やっと普通の食事にありつけるわね」
『俺には人間の料理のどこがいいのか、理解できないね。
とにかく味が濃すぎる上に、ソースだ何だと余計な物を足し過ぎだ。
その点、オークたちの焼く肉は、噛めば血が滴ってなかなかに美味い。
オークは気に喰わんが、あいつらの食事は自然の摂理にかなっていると思うな』
「ロキに文化論を聞かされるとは、恐れ入ったわ。
でもまぁ、人間の文明が発展するのにつれて、何かと不自由になっていくのは確かね。
だからといって、私たちには後戻りはできないのよ」
『そういうもんかね……。
ところでエイナ……お前、ユニがいないのに、何で俺と普通に会話ができるんだ?』
オオカミに突然指摘され、エイナはびっくりした。
確かに、これまでオオカミたちとは、ユニが近くにいる時に限って意思の疎通ができた。
だが、今は彼女がいないのに、自然にロキの言葉が頭の中に入ってくる。
「言われてみれば不思議。何でかしらね……。
ひょっとしたら、これも吸血鬼の能力の一つなのかもしれないわ。
ああっ、お母さんに確かめておくんだった!」
『吸血鬼にそんな能力があるのか?』
「うん、多分ね。
ほら、オークの娘たちが拉致された後、その家族のところに吸血鬼が現れて『オークの若者を差し出せ』って要求したっていうじゃない。
あれって、吸血鬼がオークの言葉を使ったっていうより、今の私たちみたいに、直接相手の頭の中に意思を伝える力を使ったんだと思うのよ。
カー君が黄色の魔石を食べてから、急に誰とでも話ができるようになったじゃない?
今回、闇の中で吸血鬼と戦ったことで、魔石同様の効果をもたらして、私の中で何かが目覚めたんだと思うわ」
『へえ、そいつは凄いな。
だったら、もっと積極的に闇に潜って、いろいろ修行をしてみたらどうだ?』
だが、エイナは苦笑いを浮かべて首を振った。
「やめておくわ。
お母さんも言ってたけど、それって私の吸血鬼化が進んだってことだもの」
彼女は焚き火に当たりながら膝を抱え、広大な開墾地の地平に沈む、真っ赤な夕日を眩しそうに眺めていた。
「私は……人間でいたいもの」
* *
ユニとカメリアも、かなりの速度で森を駆け抜けていった。
大森林南部のオーク村から、北のボルゾ川までは二百キロ近くある。
それを、二人とオオカミの群れは、二泊三日で走り抜いた。かなりの強行軍である。
走っている最中に話ができないのはもちろんだが、小休止や野営でも、胃に無理やり食べ物を詰め込めば、あとは倒れるように眠るだけだった。
そのためこの旅で、ユニとカメリアが特に親交を深めたということはない。
三日目の夕方近くに大森林を抜け、船曳街道と呼ばれる荒れた道に達すると、ユニはカメリアをそこに残し、ライガに乗ったままどこかへ姿を消した。
一時間ほどして戻ってくると、彼女はカメリアを先導して、葦の生い茂った河原へと降りていった。
川岸に出てみると、そこにはヤナギの木に繋がれた小舟が、波にたゆたっていた。
「船は漕げるわよね? 日が暮れて暗くなったら、これで対岸に渡ってちょうだい。
上陸して真っ直ぐ進めば、三キロも行かないうちに街道に出られるわ。
そこから西に向かって二十キロくらいで、開拓村があるはずよ。
宿はないけど、金さえ出せば軒先くらい借りられるでしょう。その先は自分で何とかしなさい」
「分かった。
しかし、この舟はどうしたんだ? やけに手回しがいいな」
ユニは片目をつぶってみせた。
「その辺は〝商売上の秘密〟ってやつよ。
さあ、今のうちにお腹に何か入れておきましょう」
「いろいろと済まんな。
しかし……この辺りだと、軍が駐留しているクレア港まで、相当距離があるな」
「さあ、百五十か二百キロ……そんなもんでしょ。
でも、心配いらないと思うわ。多分、半分も行かないうちにお迎えと会えるでしょうからね」
「迎え……なぜだ? 私が帰国したことなど、誰も知らんだろう」
「まぁ、これはあたしの推測だけどね。
あたしたちがボルゾ川に向かったという情報は、今ごろ帝都にも届いているはずよ」
「あのカーバンクルという、飛行幻獣でか?」
「そう。マグス大佐との約束もあるから、帝国の公館にも非公式に伝えられるはずよ。
あんたたちのことだから、どうせ王国内に通信魔導士の連絡ルートを作っているんでしょう?
それを使えば、すぐにクレアの東部軍司令部に至急伝がいくと思うの。
生死すら絶望視されていた将官が、奇跡の生還を遂げるのよ? 司令部は慌てて迎えの部隊を出発させるでしょうね」
「なるほどな……私は派手に生還を果たすわけか。
実際には自力ではなく、貴様らの情けに縋った結果だ。これはかなり恥ずかしいな」
「あら、あんたはあたしたちに協力をするっていう、五分の取引をしただけよ。
胸を張りなさい。あんた国に帰れば、まだちっちゃい子どもが待っているんでしょ?」
「それはそうなんだが……どうも釈然とせん」
「贅沢言うんじゃないわよ!」
ユニは切り分けた黒パンにバターを塗りたくり、カメリアの手に押しつけた。
* *
〝ごっごっごっごっごっごっごっごっごっごっ……〟
ユニの白い喉元が上下して、冷えたビールがすごい勢いで飲み込まれていく。
「………プッハアァー!
メイドさん、お代わり!」
ユニは空になった陶器のビアマグを高く掲げた。
城づきのメイドが、こみあげる笑いを必死にこらえ、それを受け取った。
彼女はワゴンの上に据えられた小さなビア樽から、よく冷えたビールをたっぷりと注ぎ、ユニのテーブルへと運んできてくれた。
「相変わらず、見事な呑みっぷりだな」
シドが呆れたような感想を洩らした。
「お褒めにあずかり恐縮ですわ」
ユニは皿に美しく盛られたカナッペを口に放り込み、バリボリと噛み砕きながら、ビールを喉に流し込む。
「ふう……君には皮肉が通じないらしいね」
シドはこめかみを押さえながら、軽く溜息をついた。
だが、言葉とは裏腹に、その表情は明るいものだった。
「とにかくご苦労であった。
今日はゆっくりしたまえ。何だったら、泊る部屋を用意させるよ」
だが、ユニは〝ご免蒙ります〟と手を振った。
「今夜はアスカの家にやっかいになります。
その方がオオカミたちも喜びますし」
「そうか。まぁ、そっちの方が気楽だろうな」
「とにかく、今回は予想外の事件が起きて、ユニにも余計な苦労をかけた。
その点については、率直に詫びよう」
「別に蒼龍帝閣下が頭を下げなくても結構です。
その分、報酬に色をつけてください」
ここは蒼城内にある、蒼龍帝シドの私室である。
前の城主であったフロイアは、名門貴族の娘であったので、部屋は多くの美術品と花で美しく飾り立てられていた。
しかし、当代のシドに代わってからは、そうした装飾は一切取り払われ、壁面はびっしりと本が詰め込まれた書棚で占領されていた。
シドとユニが向かい合って座っているテーブルセットも、上質ではあるが装飾を極力排したシックなものであった。
帝国軍が極秘に送り込んできた大物、カメリア少将の捜索に端を発し、オーク娘の誘拐事件、吸血鬼ベラスケスによる王国進出計画と、わずか半月ほどの間に目まぐるしい展開があった。
一足先に蒼龍帝に事態を報せたシルヴィアは、ユニの予想どおり王都に向かったままで、それ以降何の音沙汰もない。
ロキに乗って街道を北上し(道中結構な騒ぎを引き起こした)、蒼城市に出頭したエイナは、簡単な事情聴取の後、参謀本部の命で急遽派遣されてきたアラン少佐とロック鳥によって、奪われるように王都に送還されてしまった。
ユニはカメリアが帝国に帰国したのを見届けた後に蒼城市に入り、シドに今回の事件についての詳細な報告をしたのである。
そうなることが分かっていたからこそ、蒼龍帝はエイナをあっさり引き渡したのだ。
シドはエイナたちのことを思い出したのか、くすくすと笑いだした。
「エイナとシルヴィアだが、あの二人、今ごろマリウス殿からみっちり絞られているだろうなぁ……」
ユニもビアマグをテーブルに置き、真面目な顔になった。
「冗談ではありませんよ。
彼女たちは軍命に背き、みすみすカメリアの逃亡を見逃したんですよ。
死刑になったって、おかしくはないんですからね」
「だが、そうならないことを、君も知っているのだろう?」
ニヤニヤするシドに、ユニは思いっきり舌を出して見せた。
給仕をしていたメイドの娘が驚いて、思わず手で口を覆う。
「さてと、それでは本題に戻ろう。
オーク村に対する支援内容が決定した。君には当該物資の買付と、村への運搬を頼みたい。
もちろん、十分な休養をとった後で構わんよ」
ユニはシドから書面を受け取った。
立派な羊皮紙には、支援物資の明細が記されていた。
「これ、タイミング的に、今回の事件前に決まったことですね?」
「そうだね。多分、事件後であっても内容に変わりはなかったと思うよ」
「ほとんどが農具、それに作物の種子と肥料ですか。
これを渡しても、指導者がいなくては宝の持ち腐れだと思いますけど」
「当然、指導者は派遣する。
ただ、人選に難航していてね。
言葉の方はジャヤ殿がいるから問題ないが、オークに偏見を持たない農民というのが、なかなか見つからないんだよ」
「ああ、それは大変でしょうね」
「うん。だが、それもどうにか目途がつきそうだ」
「その下にある、〝医療支援〟っていうのは何ですか?
生薬の提供は、従前からしていましたよね」
「ああ。これまでは外用薬が主体だったんだが、今回から内用薬が追加されたんだ。
これも同様の話で、正しい適応症と服用方法を指導しないと、かえって毒になる。
それで、次回からは医師を派遣することにしたんだよ。
二か月に一回、一週間程度の期間ではあるけどね」
ユニの表情が明るくなった。
「それはいいことですね!
でも、それこそ応募する医師を見つけるのが大変そうです」
「それが、この件に関してはあっさり志願者が見つかったのだ。
それも、この蒼城市内でだよ」
「金に釣られたヤブじゃないでしょうね?」
「いや、若いが名医として名高い、新進気鋭の医師だ」
「誰ですか、その奇特な人は?」
シドはくすくす笑い出した。
「君もよく知っているだろう? フェイだよ」
「はぁ! フェイが!?」
フェイはユニの親友であるアスカ将軍の養女で、現在は蒼城市内で開業医として活躍していた。
内科・外科ともに診ているが、特に産婦人科医として王国随一との評判が立っていて、なかなか予約の取れないほどに繁盛していた。
「まぁ、あの娘ならオークだろうが何だろうが、気にせずに診るでしょうね、
……しかし、どうして王国はここまでオークたちを厚遇するのでしょう?
確かに、辺境を襲うはぐれオークや、帝国の工作員を牽制する役には立つでしょうが……」
「おやおや、ユニでも分からないのか?
カメリア少将から報告を受けた帝国は、今ごろ青ざめていると思うがね」
* *
「しかし、低レベルの文明しか持たないオークの存在の、何がそんなに問題なのですか?
もう我が軍は、オークの兵士化計画を放棄していますよね」
カメリアが帝国に上陸して、すでに半月が経過していた。
帝都の軍司令部、マグス大佐の個室では、そのカメリアがマグス大佐と応接のソファに身を沈め、向かい合っていた。
「何だ、貴様でも分からんのか?」
マグス大佐は副官が淹れた、香り高いコーヒーを味わいながら、少し意外そうな顔をした。
カメリアは少将であるから、マグス大佐が〝貴様〟呼ばわりをするのは、本来許されない行為である。
しかし、大佐は実質的に大将待遇であり、しかも長年カメリアの直属上司であった。
そのため、私的な会合での二人は、昔ながらの上司部下の関係を維持していたのだ。
「貴様の報告を読んだが、オークどもは人間の農具を使って、農耕をしていたとあったぞ」
「はい。そうは言っても耕作規模は小さいですし、とても産業化は望めないレベルでした」
「馬鹿者、人間がオークの作った麦を買うと思うか?
奴らが自家消費分でも、食糧を生産できるようになったというのが問題なのだ」
「はぁ……」
「まだ分からんのか?
いいか、それまで不安定な狩猟に頼っていたオークが、安定した自給方法を手に入れたのだ。
オークはもともと旺盛な繁殖力を持っている。飢えという懸念が消えたら、奴らの人口は爆発的に増えるだろう。
そうなったオークどもは、王国に対して狩猟地の拡大を要求するとは思わんか?」
「まぁ、確かに」
「王国は彼らに提案するだろう。
ひとつの村が広大な狩場を持っても効率が悪い。分村してはどうだろうか?
――とな。
十年も経たないうちに、あの広大な大森林のあちこちに、オークの村ができあがるだろう。
奴らは王国の支援の代償として、侵略者を無差別に攻撃する」
「あ……」
ようやくカメリアにも、事態の深刻さが理解できた。
「我々はケルトニアとの関係で、今すぐには王国への侵攻に踏み切れない。
恐らく早くても、あと十五年はかかるだろう。
タブ大森林は、王国に大規模な軍を派遣するための、最重要のルートとなる。
それは、防備の固い中央平野と違い、大森林の規模があまりに大きすぎて、王国の貧弱な兵力ではカバーしきれないからだ。
だがそこに、侮れない武力を持ったオークが蟠踞していたならどうなる?」
「し、しかし相手は蛮族。精強を誇る我が正規軍の敵では……」
「平地ならそうだろう。だが、戦場が原生林だと話がまるで違う。
長弓による遠距離先制攻撃は、樹木に阻まれてほとんど効果を発揮できないだろう。
魔法攻撃だってそうだ。貴様のバリスタのことを考えてみろ。
巨木の立ち並ぶ森の中で、いくら巨岩を飛ばしたとて、どれほどの効果が期待できる?」
「………」
「飛び道具に関しては、中・近距離戦にならざるを得ない。
貴様の報告では、オークどもの投石器は驚異的な命中度だったというではないか。
さらに白兵戦になれば、オークの体格と怪力に、人間が敵うと思うか?」
「………………」
「現在、軍の参謀と情報部は、想定作戦の練り直しを迫られている。
貴様の報告がなくても、いずれは現地工作員からオークに関する情報は入ってきただろうが、早めに知れたのは僥倖だった。
工作員を殺され、情報入手のためとはいえ、蛮族の虜囚となった貴様の失態が、不問に付されたのもそのためだ。
あとな、南部の吸血鬼の件だが……ああ、いや、これはまだいいか」
「そう言われると気になります。教えてください!」
マグス大佐は身を乗り出し、カメリアの頬に自分の頬を押しつけ、耳元でそっとささやいた。
「いいか、世の中には、知らない方が幸せなこともあるのだぞ。
よく覚えておけ!」