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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第一章 王立魔導院
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十九 浮上

 シルヴィアとともに闇の中に潜ったエイナは、脱出した小屋で起きた惨劇のことなど知らなかった。


 相変わらず周囲は真っ暗で、前後左右、上下とも何も見えない。

 ただ自分の身体と、彼女の両腕に抱えられたシルヴィアの姿だけがはっきりと見えた。

 シルヴィアは、エイナによって闇に引きずり込まれた瞬間に気を失っていた。

 豊かな胸が規則正しく動いているので、彼女が生きていて呼吸も確かなのは分かる。

 ただ、いくらゆすっても、声をかけてもシルヴィアは目覚めなかった。


 これはある意味、都合がよいのかもしれない。

 もし彼女に意識があったらパニックになる恐れがあったし、少なくともエイナに事態の説明を求めただろう。

 だが、エイナ自身、状況が理解できないのだから、かえって不安が増す結果に終わるだけである。


 シルヴィアの身長は百七十センチ後半で、女性としては長身だった(エイナは百六十二センチである)。

 体格がよい彼女であったが、抱きかかえていてもまったく重さを感じなかった。

 感じないと言えば、エイナの足には地面を踏みしめているという感覚がなかった。この空間には床とか地面というものが存在せず、エイナはただ宙に浮いているような気がする。

 足がついていないのだから、当然歩くこともできなかった。


 エイナは落ち着いて考えることにした。少なくともこの空間にいる限り、帝国の工作員が追ってくる可能性はないだろう。

 さっきはシルヴィアを連れてくるために元の小屋に戻ることができた。

 ということは、移動は可能なはずだった。

 ただ、周囲が真っ暗なので、一体どこに向かえばよいのか分からない。


 エイナは再び雑念を取り払い、心の声に耳を傾けた。

 しばらく意識を集中していると、何となく自分が進みたい方向が見えてきた。

 それがどこなのかは分からないが、その方向に懐かしさを感じさせる場所が存在する――そんな気がしたのだ。

 エイナは閉じていた目を開き、その場所に向かおうとした。

 別に歩くわけでもなく、泳ぐ真似をしたのでもないが、自分が前に進んでいることが分かった。


 地上なら、ゆっくりと歩くだけでも微かに空気の抵抗を感じるだろう。

 だが、ねっとりとした闇からは何の抵抗も受けなかった。それでも、前に進む速度はかなりのものだという感じがする。

 エイナは何となくこの闇の空間の仕組みが分かりかけてきた。

 ここは〝彼女の意思が実現する世界〟なのだ。


 だから思った方向に進めるし、縛られた手足も難なく解くことができた。シルヴィアの重さを感じないのも、同じ理屈なのだろう。

 何も見えない暗闇なのに、不安や恐怖ではなく、どことなく安心感を抱けるのも、そのせいなのかもしれない。


 魔導士は、何の情報を得られなくても、感覚である程度時間を把握する訓練を受けている。

 エイナの体内時計でおよそ二時間が経った頃、ふいに目的地に着いたということが分かった。

 心の中に湧き上がる、甘い香りのような懐かしさがだんだん強くなってきていたから、『近づいている』ということは感じていた。


 着いたことが分かったのは、それまでかなりの速度で進んでいた動きが、ぴたりと止まったからだった。

 エイナは意を決して上を向いた。

 きっとこの上に、安全な脱出口があるに違いない。そう思ったとたんに、彼女の頭はぽこんと外の世界に出たのであった。


      *       *


 そこは不思議な場所だった。

 とにかく狭くて暗く、身体を引き上げると、すぐに布の感触に包まれた。

 何も見えなかったが、たくさんの洋服が吊るされているのだと分かった。

 いきなり重くなったシルヴィアをそっと下ろし、片手を伸ばしてみると、床はもちろん、狭い空間の前後左右が板で囲まれている。


 その一方の壁に、扉の継ぎ目らしい手触りがあったので、試しに押してみると予想外にあっさり開いた。

 足元にシルヴィアが寝ているため、エイナは足が前に出せない。手の支えを失ってバランスを崩し、そのまま扉の外へ転がり落ちた。

 とっさに自分が下敷きになることで、意識のないシルヴィアの身体を守った。


 幸い床まで十センチほどしか落差がなかった上に、床には絨毯が敷かれていた。

 何かに足がぶつかり、派手な音がした割には無事で済んだ。落ちたというよりは転がり出ただけのことだった。


 し掛かっている重いシルヴィアをどかし、這い出たエイナは周囲を見回した。どこかの部屋の中だとすぐに分かった。

 カーテンの閉まった窓から月明かりが洩れ、真の暗闇に慣れ切った目には手に取るように部屋の様子が見て取れたのだ。


 エイナたちが出てきたのは、大きな洋服ダンスだった。

 部屋はそれほど広くなく、家具は机と椅子、小さなテーブルにベッド、ドレッサー、そして一方の壁には一面に棚がしつらえられており、びっしりと本が詰まっていた。

 ベッドは空っぽで、部屋の主は不在らしい。


 エイナはしばらくの間、呆けたように部屋を眺めていた。何もかもが夢だったようで、なかなか現実に戻れなかった。

 だが、いつまでもそうしていられないのも事実である。まずここがどこなのか、確かめねばならない。

 彼女は立ち上がり、部屋の扉へと向かった。

 この部屋は無人でも、家の中には誰かいるかもしれない。


 扉を開けた瞬間、エイナは思わず片手を上げて目をかばった。

 常夜灯の小さな明かりが廊下を照らしているだけだったのだが、闇に慣れきった目には酷く眩しかったのだ。

 薄目を開けて周囲を確認しようとした瞬間、太い腕がエイナの背後から巻きつき、頬に冷たい金属が押し当てられた。

 がっちりと首に絡んだ腕のせいで顎が上げられ、見ることができなかったが、それが剣であることは直感で分かった。


「動くな!」

 頭の後ろ、それもかなり高い位置から低い声が降ってきた。

 太い腕で首を絞めつけられた上に、刃物を押し当てられては、動きたくとも動けない。


 エイナはどうにかしてかすれた声を絞り出した。

「わたし……エイナです。

 六年前、ユニさんに連れられて、この家で数日の間ですがお世話になりました。

 覚えてないでしょうか? ……アスカ様」


 首を絞めつける力がふっと緩んだが、抜身の長剣はそのままだった。


「エイナだと?

 ああ、覚えているが……あのは王都の魔導院に入ったはずだ。

 何故、こんな夜中に私の屋敷にいる?」

「えと、えと……私にも分からないんです。

 演習中に帝国の工作員にさらわれて、闇の中を逃げてきたんですけど、出てきたらここだったんです。

 ……って言っても分かりませんよね? でも、本当なんです!

 できるだけ説明しますから、どうか離してくださいませんか?

 それと、部屋の中にもう一人、私の友だちがいます」


「おい、大丈夫か? ……誰だ、その娘は?」

 ランプを持った大柄な男が階段を登ってきて、二人に声をかけた。

 褐色の肌に剃り上げた頭、逞しい肉体をガウンに包んでいる。

 アスカの夫、ゴードンである。


 アスカは当惑したような声で答えた。

「賊かと思ったんだが、捕まえてみたら知っている子だった。

 ゴードンも覚えているだろう? 昔、ユニが連れてきたエイナという孤児の娘だ。

 何がどうなっているのか、私にもまったく分からん」


 ここは第四軍の女性将軍であるアスカ・ノートンの屋敷だった。

 蒼城市の孤児院に入るため、エイナはユニとともに数日アスカ邸に宿泊させてもらったことがある。

 その時に使わせたもらった部屋(アスカの養女・フェイの部屋)が、闇の出口だったということになる。

 したがって、エイナは部屋を見回してすぐに気づいたが、そう簡単に信じることができなかったのだ。


 アスカ夫妻がエイナの案内で部屋に入ると、床には金髪の美少女が倒れていた。

 ゴードンが抱き起こすと、シルヴィアは目を覚ましたが、事態がまったく把握できず、小さな悲鳴を上げて固まってしまった。

 エイナが慌てて駆け寄り、ここは知り合いの家で危険はないのだと言い聞かせた。


「それで、お前たちはどうやってこの部屋に入ったんだ?」

 アスカが訊ねると、エイナは開いたままのタンスを指さした。

 

「この中から出てきました」

 その顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。

 エイナは正直に答えるしかないのだが、こんな馬鹿げた話をせざるを得ない自分が情けなかったのだ。


 アスカはゴードンからランプを借りて、タンスの中を照らして覗き込んだ。

 底板をぱんぱんと手で叩いてみても、穴などどこにもない。

 アスカが振り返って、呆れたような声を出した。


「エイナ、お前は魔導士になるため学んでいると思ったが、奇術師志望に鞍替えしたのか?」


      *       *


 時刻は深夜の二時を回っていた。

 二人の少女は階下のリビングに連れていかれ、アスカとゴードンによって事情聴取が行われた。

 もうメイドたちは就寝しているので、ゴードンがミルクを温めて飲ませてくれた。


 エイナはまず、自分たちの学年が第一軍の演習に参加したこと、そこに紛れ込んだ帝国の工作員によって気絶させられたことを説明した。

「それで二人とも第一軍の軍服を着ているのか。

 相手が帝国人というのは間違いないのか?」


 ゴードンの質問に、エイナはうなずいた。

「男たちの中には魔導士が混じっていましたから、間違いないと思います。

 気がついた時には、手足を縛られて狭い部屋に転がされていました。

 隣の部屋にいた男たちの話では、私たちを帝国へ拉致して、王国の魔導士育成の実態を聞き出すというのが目的だったみたいです。

 男たちは馬車の到着を待っていて、辺境を抜けて大森林に入り、川を渡るという計画のようでした」


 アスカが大きな地図を持ってきて、テーブルの上に広げた。

「第一軍の西演習場はここだ。近くを流れているアナン川で下ったんだろうな。

 蒼城市の川港には警備兵が常駐しているから、その手前で上陸して馬車に乗り換える手筈だったんだろう。

 となると、街道筋に近いこの辺りの作業小屋にでも隠れていた可能性が高いな。

 蒼城市からは二十キロ程度の地点だな。

 ゴードン、こんな時間に済まんが……」

「ああ、分かっている。

 蒼龍帝閣下に報告して、部隊を動かす許可をもらおう」


 すでにゴードンはガウンを脱ぎ捨て、軍服に袖を通していた。

 彼はもう五十歳に近いはずだが、身のこなしはしなやかで隙がなかった(ちなみに少将に昇進していた)。


 馬の用意をするために外に出て行く夫を一瞥しただけで、アスカはすぐにエイナの方を振り向いた。

「ここまでの話は分かった。

 分からないのはその先だ。どうやって小屋を脱出したのだ?」


 エイナはありのままを話した。

 部屋の隅の闇が妙に気にかかり、そこから出られそうな気がしたこと。

 はじめはただの床だったが、何も考えずにそこへ潜ることだけに意識を集中したら、闇の空間に入ることができたこと。

 そこは地面もない空間で、自分はただ浮かんでいるだけだったが、進もうという意思さえあれば、それが叶ったこと。

 どこに向かっていいか分からなかったが、懐かしい感じに引き寄せられるように進んでいたら、フェイの部屋に(しかもタンスの中に)出てしまったことである。


 アスカは黙って聞いていたが、エイナが話し終えると首を左右に振った。

「どう考えても分からんな。

 百聞は一見に如かずだ。実際に闇に潜ってみせてくれ」


 隣に座っていたシルヴィアも、ぶんぶんとうなずいている。

「あたしも見たいわ。

 あんたが闇に潜ったところなんて、暗くて見えなかったもの。

 凄い力で引っ張られた後は、気を失ったから何も覚えていないし」


 二人が言うことはもっともだった。

 エイナはランプを消してもらい、暗くなったリビンングを見回してみた。

 監禁されていた部屋と違い、完全な闇とは程遠い。

 それでも、二階へ上がる階段の下は、かなりの闇がわだかまっていた。


 エイナはその前に立ってみた。

 闇をじっと見詰めても、その中に入れそうな気がまったくしない。

 それでも、彼女は脱出した時のことを思い出して目を閉じ、精神を集中させてみた。

 何も考えずに、ただ闇の中に沈んでいくイメージだけを追っていった。


 次第に頭の中が痺れていき、周囲の音が聞こえなくなっていく。

 こめかみの辺りから響いてくる、とくんとくんという脈動の音も、いつしか消えてしまった。

 自分が息をしているのかも分からない。体感訓練で叩き込まれてきたのに、一体何分経ったのかも分からなくなった。


 目を閉じたまま、エイナはそっと足を出してみた。

 黒い闇の中に足先が潜り込む、ひんやりとした感覚が伝わってくる。

 そのまま足をゆっくりと下ろす。


 〝こつん〟


 軍靴の分厚い踵が、石張りの床に当たって小さな音を立てた。

 エイナは溜息をつき、情けなさそうな顔で振り返った。

「駄目です。できません」


 アスカは黙ってランプに火を灯した。

「いい。

 もう夜明けまで数時間だ。今日は忙しくなるはずだ。二人とも少しでも寝ておけ。

 客用寝室に案内しよう。ついてこい」


 エイナとシルヴィアは、気落ちした様子でその言葉に従った。

 シルヴィアの目の前に、幅の広いアスカの背中があった。

 アスカは長身のシルヴィアより、まだ頭一つ分背が高かった。


 ふいに〝おんぶ〟をしてほしいという衝動が沸き起こり、思わず口をついて出そうになった。

 シルヴィアは慌てて口を抑え、真っ赤になってうつむいてしまった。

 隣を歩くエイナが、不思議そうに覗き込むのが、とてつもなく恥ずかしかった。

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