三十四 決着
エイナは自分の目を疑った。
吸血鬼は真っ白に凍りつき、ぴくりとも身動きをしていない。
だが、頭の中に響いてくる声は、間違いなくジルドのものだった。
『なるほど、お前の魔法は確かに凄まじい威力だな。これほどの凍結魔法を喰らったのは初めてだと誉めてやろう。
だが、地獄の最下層で生まれた吸血鬼の魂は、それ以上に冷たい炎が燃え盛っている。
たかが人間ごときに消せると思うなら、その傲慢さを後悔させてやろう!』
ジルドの身体からパキパキという音がして、氷の欠片が落ちた。
そして、彼はゆっくりとだが動き始めた。
だらんと下がっていた両腕が持ち上げられ、大きく広がったのだ。
絶対零度の凍結魔法は、いわばエイナの切り札だった。いくら吸血鬼が冷気に強いとはいえ、完全に動きを封じてしまえば、後はその身体を粉々に破壊するだけである。
それなのに、ジルドはもう動き始めている。
その時である。絶望に襲われ、呆然と立ち尽くすエイナの頭の中に、突然ジルドとは全く別の声が響いてきた。
間違えようがない、母の声である。
『騙されちゃ駄目!
ジルドがベラベラ喋っているのは、時間を稼ぐためだわ!
あいつは動きを止められたことで焦っている!』
「はい、お母さん!!」
エイナは一瞬で自信を取り戻していた。
彼女の右手が再び突き出され、その先に眩しく輝く光球が出現して、ジルド目がけて矢のように飛んでいった。
まだ思うように動けないジルドは、まともに魔法の直撃を受けた。
閃光と轟音が闇を圧倒し、球状の結界が一瞬で吸血鬼の身体を包み込み、同時に内部で爆炎が発生した。
最初に喰らわせた一撃も、全力と言っていい攻撃だったが、今度のはそれ以上の凄まじい威力だった。
もし、カメリアがこれを見ていたら、「マグス大佐といい勝負だ!」と感嘆したことだろう。
冷気には絶対零度という終着点があるが、高熱には理論上の限界値がない。
ファイア・ボールを使える魔導士なら数千度の高熱を発生させられる。
マグス大佐クラスの大魔導士ともなれば、その膨大な魔力が発生させる内部温度は、実に数万~数十万度の超高熱に達する。
ジルドの体表を覆っていた氷は、当たり前の話だが瞬時に気化した。
水が超高温に触れて気化すると、その体積は約千七百倍にも膨れ上がり、水蒸気爆発を起こす。
エイナの頭には、オアシス都市アギル郊外の砂漠で、アリジゴクの怪物と戦ったことが浮かんでいた。
彼女は水蒸気爆発を利用して、堅いキチン質の外殻を持つ虫の化け物を倒した。
ただし、あの時は上空からカー君が火球を撃ち込み、ファイア・ボールの結界を壊したから爆発を起こせた。
闇の力の影響で、エイナの魔法は通常ではあり得ない高熱を発生させていた。
そして、同時にその結界も常識外の強度を実現していたのだ。
直径三メートルほどの球体の内部は、爆発的な気化によって凄まじい圧力に満たされていた。
圧力と温度は相関関係にある。高圧化で荒れ狂う炎の渦はどんどん温度を上げ、結界の内部は太陽の核に近い灼熱地獄と化したのだ。
結界に取り込まれているジルドが、無事であるはずがない。
全方位からの超高圧で、肉体は紙のように圧縮され、あらゆる臓器が破裂した。
内部の血液を含むすべての体液がぶち撒けられ、それらが瞬時に気化して、さらに結界内の圧力と温度を上げた。
もはや、再生するどころの話ではなくなっていた。
そんな地獄絵図は数秒しか持たず、とうとう限界が訪れた。
魔法は一見すると万能のように思えるが、術者の魔力を圧倒する物理的な力に打ち勝つことはできない。
闇の力で強化された結界といえども、連続する水蒸気爆発の圧力には耐えきれなくなって崩壊したのである。
エイナの目の前で落雷が起きたような轟音が鳴り響き、高熱の衝撃波が無限の闇の中で爆発的に拡散した。
エイナに逃げる暇などなかった。
ただ彼女の生存本能が危険から逃れようとあがき、その強烈な意志を闇が実現してくれた。
彼女は爆発と同じ速度で、後方へと吹っ飛ばされた。
身体を押し潰すような加速度が加わり、胃の内容物が残らず吐き出された。
自分では気づいていなかったが、尿が腿を伝わってだらだらと流れ出ていた。
彼女の移動はどこの方角へ、どれだけの距離を逃げるといった単純な目的すら設定されず、ただ「危ない!」という意識の産物であった。
つまり〝終点〟という概念がなかったのだ。
だから彼女はいつまでも、どこまでも飛び続けていた。
もう爆発がどうなったかも分からない。後方に向けて飛んだはずだったのに、方向感覚が失われて、今はただ〝落ちている〟という状態に陥っていた。
闇の世界に入ると、人間や動物は即座に意識を失う。
それは、この世界に上下左右の感覚や、立つべき地面すら存在せず、経験則によって〝落下する〟と思い込んでしまうからだ。
もし、その状態で意識があったなら、人間は果てしない闇の中を落ちていく恐怖に耐えきれず、精神が崩壊してしまうだろう。
そのため本能的に意識を遮断して、自分の身を守ってしまうのだ。
ところが吸血鬼の場合、闇の中でも自然に立ち、行動することができる。
彼らは無意識のうちに仮想の地面や、上下左右の方向を自分で定めてしまうからだ。
今のエイナは、その吸血鬼の本能を見失い、永遠の落下を続けている状態だった。
『私、どうなるんだろう? このまま落ちて、死んじゃうのかな……』
彼女は落ちながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
『あらあら、それは困ったわね。
落ちるのを止めたら、いいんじゃないかしら?』
頭の奥深くの方から、微かに母の声がしたような気がした。
『幻聴まで聴こえてくるようじゃ、いよいよ駄目ね……』
エイナは自嘲しながら、懐かしい母の声に向かって話しかけた。
『ねえ、お母さん。落下を止めたいのは山々なんだけど、私、どうしたらいいのか分からないの』
『そっかぁ、声がまともに届いてないってことは、かなり重症ね。
ねえ、あんたひょっとして、あたしの顔も見えないの?』
『真っ暗で何も見えないわ』
『それは困ったわねぇ……。
そうだ! それじゃお母さんが、とってもよく効く〝おまじない〟を教えてあげる』
『もうこの際、おまじないでも何でもいいわ。教えてちょうだい』
『よぉし、それじゃ行くわよ!』
エイナは母の口調に危険を察知した。
『えと、あのっ! ななな、何をするのっ?』
『いいからっ! さあ、歯ぁ食いしばれぇーーーっ!』
バッチーーーンっ!
それは幻聴ではなく、極めて現実的な、そして容赦のない平手打ちの音だった。
小気味のいい音が響くと同時に、落ちていたはずの自分の身体が、横に吹っ飛んで顔から地面に叩きつけられた。
まるで悪夢にうなされた揚句にベッドから転落し、一瞬で目を覚ましたような感覚だった。
頬がじんじんと痛んで、みるみる腫れてくるのを感じる。
エイナは反射的に身を起こし、頬を押さえながら涙目で振り返った。
そこには帽子と黒マントに身を包んだ、アデリナの姿があった。
「え! 私、引っぱたかれたの……?」
エイナは下から母の顔を覗き込もうとした。
だが、アデリナはそんなエイナを、乱暴に突き飛ばした。
「あたしの顔を見るんじゃない!」
その語気の激しさに、エイナは思わず身体を竦ませた。
彼女は幼いころ、母に叱られることはあったが、一度も手を上げられた記憶がなかった。
だからこそ抗議をしたのだが、まさか突き飛ばされるとは予想外だった。
アデリナは幅の広い帽子のつばを握り、ぐっと引き下ろした。
そして冷たい声で言い放つ。
「忘れたの?
あなたの優しいクロエお母さんは死んだ――そう言ったでしょ?
いつまでも甘えないで!
それと、あなた……自分の歯を触ってみなさい」
エイナは怪訝な顔をして、自分の口の中に指を入れた。
その異変はすぐに分かった。
上下の犬歯が異様に伸びている……しかも、それが鋭く尖っていたのだ。これではまるで、吸血鬼の牙ではないか?
「分かった?
この闇の世界は、吸血鬼の特性を引き出すわ。あまり長居をしていい所じゃないの。
あんたはそのくらいで済んでいるけれど、あたしみたいなダンピールは、もう人間とは言えないような姿になっているのよ。
だけど、あたしは化け物になってでも、ベラスケスのクソ野郎を殺してやる!
そのためだったら、どんなことでもしてみせるわ!」
うつむいたまま、彼女は激しい口調でそう吐き出した。
そして自分の激昂に気がつき、慌てて声の調子を落として取り繕った。
「エイナは立派にジルドを倒した。あたしがちゃんと見届けたわ。
あいつは爆発で木っ端微塵になったわ。さすがにあれでは再生できないわよね。
こんな時だけ都合がいいと思うでしょうけど、さすがはあたしの娘よ! よくやったわね」
アデリナはマントを大きく広げ、エイナの身体を抱きしめた。
彼女のマントは穴だらけのぼろぼろで、血を吸って重くなっていた。
「……ねぇ、エイナ。
この一件が片付いたら、お父さんのお墓にもう一度行って、ちゃんと敵を取ったって報告してちょうだいね。
そのついででいいから、『アデリナは、必ずベラスケスを滅ぼしてみせます!』と伝えてちょうだい。約束してくれる?」
エイナは母に抱かれながら、なぜか身体ががくがくと震え出した。
それでも、掠れる声で母に抗ってみせた。
「うん……でも、それはお母さんが自分で言うべきだと思うわ」
「そうもいかないの。あたしはこのまま帝国へ渡るから」
「えっ?」
「言ったでしょ、あたしはベラスケスを倒すって。まぁ、あと何年かかるか分からないけどね。
だから、もうエイナのことを、陰から見守ってあげることもできないの。あなたは十分に強くなったわ。……まだちょっと危なっかしいところもあるけれど。
でも、大丈夫よ。あのシルヴィアちゃんって娘はお友達なんでしょ?
彼女とカーバンクルは、きっとあなたの力になってくれるわ。大事になさい」
「じゃあ……もうお母さんには会えないの?」
エイナの悲しそうな顔に、アデリナはぴくりと身体を震わせた。
だが、目深にかぶった帽子のせいで、その表情は読み取れなかった。
「そうねぇ……うん、そんなことはないわよ!
ベラスケスを倒したら、必ずまた王国に戻ってくるわ。
エイナがどれだけ強くなっているか、この目で見たいしね」
〝強くなる〟という母の言葉に、エイナは大切なことを思い出した。
「そうだ、お母さん!
私、昔の家でお父さんの日記を見つけたの。
その最後の方に、爆裂魔法のことを書いた本を、お母さんに預けたって書いてあったわ。
それ、持っているの?」
「ああ、あれ?
う~ん、そうねぇ……うん! 今のあんたなら、もう渡してもいいかもね。
これよ」
アデリナは無造作に手を闇の中に突っ込んだ。
まるでそこに、ポケットでも存在しているような仕草だった。
「なに変な顔してんの?
ああ、これはあたし専用の物置みたいなものなの。結構便利だけど、多分あんたじゃ使えないわね」
彼女はそう解説しながら、ごそごそと手探りをして分厚い本を取り出し、エイナに手渡した。
紙の束に錐で穴を空け、丈夫な紐で綴った簡易製本である。
「これ、大事な物――って言うか、危険でもあるの。
だから写しを取って、原本は魔導院のお爺ちゃんたちに管理してもらった方がいいわね」
「危険……なの?」
アデリナはうなずいた。
「そう。これはニコルの請け売りだけど、そこには呪文だけじゃなくて、爆裂魔法を使いこなすための〝コツ〟みたいなことも書いているの。
帝国に伝わっている魔導書には、そこまで書いていないんだって。
だけど、その方法ってのが結構ヤバくてね、未熟な魔導士が真似をしようとすれば、命を落とすらしいわ」
「そんなに……!」
「あたしにはよく理解できないけど、爆裂魔法って術の発動前に、七重の魔法陣が出るでしょ?
あれって、体内にある〝七つの門〟を順に開放することで発生するらしいわ。詳しいことはその本に書いてあるから、自分で読んでちょうだい。
あ! でもエイナはもう、第一の門を自分で開けちゃったみたいね」
「えっ、そうなの?」
「うん。ほら、あんたがベラスケスを凍らせた魔法――あれを出す時、お腹から直接魔力を放出してたでしょ?
あれが第一の門で、快楽門って言うらしいわよ」
「けらく……気持ちがいいってこと?」
「う~ん、本来の意味とはちょっと違うらしいけどね。あそこが気持ちよくなるのは事実らしいわね」
エイナの頬がたちまち赤く染まった。そのことは誰にも言った覚えがない秘密だったのだ。
帽子の陰から覗くアデリナの赤い唇が、にやにやとした笑いを浮かべ、彼女はエイナの肩をとんと小突いた。
「やっぱりエイナはあたしの娘だわ。もうっ、えっちなんだから!」