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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第五章 辺境の虜囚
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三十三 切り札

「貴様、我があるじを愚弄する気かぁーーーっ!!」


 イザベラは激怒して、胸倉を掴んでいた手を捻り、アデリナの首を締めあげた。

 吸血鬼の力は人間を遥かに凌駕している。

 普通なら首が折れて即死しているところだが、こちらも吸血鬼の血を受け継いだダンピールである。

 薄笑いを浮かべた顔で、平然と話を続けた。


「そう興奮しないでちょうだい。皺が目立つわよ。

 あたしは事実を述べれるの。

 確かにベラスケスは、この世界じゃ最も古い吸血鬼だわ。

 千年以上にわたって生き抜いてきたことは、賞賛に値する。あたしもそれは認めるわ。

 だけどそれって、ベラスケスが吸血鬼として優れているかどうかとは別の問題よね?

 それほど老獪な怪物が、どうして帝国の南部――ろくな都市もない貧しい農村地帯に押し込められているの?」


「なにぃっ!」

「言ってる意味が分からない?

 あたしがあんたたちを狩り始めるずっと以前から、ベラスケスの縄張りは縮小の一途をたどっていたわ。

 それは、周辺に蟠踞ばんきょする他の吸血鬼が、彼より遥かに強力だったからよ」


「ぐぬぬぅっ……!」

「いい縄張り、すなわち有力な都市部を抑えた吸血鬼は、極上の餌――贅沢に育てられた貴族や富商の処女むすめを手に入れることができる。

 それは、吸血鬼の寿命と能力を増大させる、最高の栄養素となるわ。

 だけど、どう? あんたの主人は、薄汚れた田舎娘しか口にすることができない。

 ベラスケスが能無しのクズだからよ。

 だから、あたしみたいなダンピールに狩られて、滅びようとしているんだわ」


「黙れ! 黙れ、黙れ黙れ、黙れぇぇぇーーーーっ!!」


 アデリナの首を絞め上げる手に力が入る。

 だが、ダンピールの女はマントを跳ね上げ、逆にその手首をがっちりと掴んだ。


 それはイザベラにとって、予想外の動きだった。

 相手は瀕死の状態で、指一本とて動かせる状態ではないはずだ。


「貴様ぁーーーーーーっ!」

「もうっ……そう怒鳴らないでよ。目の前にいるんだから、ちゃんと聞こえてるわ。

 いい? あんたたち眷属の力は、真祖の格が直接に反映される。それは分かっているでしょう?

 ダンピールの能力も、それと同じなのよ」


「…………」

「ねぇ、あたしの母を犯して身籠らせた吸血鬼って……誰だと思う?

 あたしの母は、結構いいとこの貴族の娘だったのよ。

 もっとも、十六歳であたしを産んだ際に死んだそうだから、顔も見たことないのよね」


 イザベラの顔色が一変し、その表情から余裕が消え失せた。

「まっ、まさか!」


「あら、心当たりがあるのね。そう、そのまさかよ。

 オルロック伯爵――あたしからしたら、ベラスケス以上の〝クソ〟だけどね!」


 アデリナの顔が苦々し気に歪んだ。

「あの男はずる賢い。

 安全な辺境の山中に閉じ籠りながら、帝国という巨大な機構の中枢に入り込んで、上等な餌を貪り喰い、着実に力を蓄えてきたわ。

 あんたたちの縄張りだって、目ぼしい集落は、オルロックに奪われたんじゃなかった?

 あの男の悪趣味な眷属……そう、十五、六歳の娘の姿をした怪物たちに、あんたたちは歯が立たないんでしょう?」


 アデリナの手に力が入り、みしっという気味の悪い音が音がした。

 イザベラの手首の関節がぐちゃぐちゃに砕けたのだ。

 吸血鬼はそれに構わず、自由な方の手で目の前にいる女を突き刺した。


 だが、鉄をも裂く爪はアデリナのマントを貫いたものの、アデリナの身体に当たった瞬間、まるで飴細工のように〝ぱきん〟と折れてしまった。

 そして突き出した腕も、ダンピールの左手に絡めとられてしまった。


「神速の再生能力、異次元の身体強化……まぁ、ほかにもいろいろあるんだけどね」

 アデリナはイザベルに口づけをするかのように顔を近づけ、凄絶な笑みを浮かべた。


「困ったことに、そうした特殊能力が発動するには、ちょっとした条件がいるのよ。

 血を流し、血を浴びて、血に酔って、気が変になるくらい興奮すること……。

 ねっ、とんでもないでしょう? ほとんど呪いだわ。

 だけど、こうなったあたしにとって、あんたたちクソの手下なんか、目じゃないのよ!」


 アデリナの血走った眼が吊り上がり、赤い唇から鋭い牙がにゅっと伸びた。

 イザベラの両腕を捕らえた手に力が入り、闇の中に絶叫が轟いた。


      *       *


「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」


 エイナは半ばパニックに陥っていた。

 彼女は右手に持った長剣を見つめていた。

 ボロボロに刃こぼれした刀身は、柄から三分の一くらいのところで、ぽっきりと折れていた。


 いや、折れたのではない。〝切られた〟のだ。

 ジルドに撃ち込んだ、渾身のファイア・ボールは効かなかった。

 魔導士である彼女に、もはや成す術はない。

 いきなり闇の中から出現し、襲ってくるジルドの爪を、エイナは抜き放った剣でどうにか防いでいた。


 だが、それもわずかな間で、彼女の剣は三度目の打ち合いで力尽きてしまった。

 武器を失ったエイナは、ひたすらにジルドの気配を読み、逃げることに専念せざるを得なかった。

 そうして呪文詠唱の時間を稼ぎ、どうにか防御結界を張ることに成功したのだ。


『これで少しは息がつける』

 彼女は安堵の息をついた。

 しかし、その考えを見透かしたように、頭の中にジルドの哄笑が響いてきた。


『なるほどな……攻撃魔法が通じないなら、防御魔法で身を守るのは当然の選択だ。

 だがな、この闇の世界で持続的な魔法を使う意味を、お前は理解しているのか?』


 その言葉が終わらぬうちに、ふっとジルドの姿が結界のすぐ前に現れた。

 エイナは慌てて見えぬ地面を蹴り、一気に跳躍して距離を取った。

 しかし、眩暈めまいの起きるような高速移動が終わると、もう目の前にはジルドの姿があった。


 これまでは相手から離れると、相手が位置を把握して追ってくるまで、一定の時間を要していた。

 それが、今回はほとんどタイムラグがなかった。


 エイナは再び後方に跳ね飛んだ。

『できるだけ遠くへ!』

 頭の中で強く念じたが、そもそもこの闇の世界では、距離という概念が極めて曖昧である。

 恐れていたとおり、今度もジルドは遅れずについてきた。

 顔に貼りついている、馬鹿にしたような薄ら笑いが、ひたすら癇に障る。


 半ば獣人化しているジルドは、エイナの前で仁王立ちとなり、憐れむように彼女を見下ろしていた。

「まだ分からんのか?

 その防御魔法を使っている限り、お前は闇の中で松明を掲げていることになる。

 どこにいるか丸見えなんだよ、ばぁ~か!

 そして、お前はもう一つ過ちを犯している。

 その結界は、確かに私の爪から身を守ってくれるだろう。

 だがな、魔法で攻撃されたらどうなるのだ?

 吸血鬼が魔法を使えるということを、まさか忘れているとは言わせんぞ」


 ジルドの獣毛に覆われた胸が、ぼこんと膨らんだ。


『何かの魔法が発動した!』

 ――エイナは本能的に感じ取り、行き先を考えずにその場を逃れた。

 しかし、今度はジルドが追ってこない。

 その代わり、遥か遠くの闇の中で、何かがチカッと光った。


 エイナがその正体を見極めようと目を凝らした瞬間、彼女の顔がぐしゃりと潰れた。

 まるで目に見えない石壁に、まともに叩きつけられたような衝撃だった。


 鼻の骨が砕け、生暖かい血がだらりと流れる。

 前歯が二本とも折れた。

 胸が潰れて息がつまり、無理やり肺に呼吸を送ろうとすると、脇腹に激痛が走った。

 あばら骨を何本か折ったらしい。


 何か目に見えるような物体は、確認できなかった。そして彼女の対物理防御魔法は、いまだ健在である。

 と言うことは、これは魔法攻撃に違いない。


 エイナはそう覚るやいなや、防御魔法を解除して下へ落ちた。

 自らの立つ〝地面〟というイメージをかき消したのだ。

 無限の落下をしばらく続けた後、彼女は再び立つべき地面を思い描いた。

 そして即座に横に跳ぶ。


 思ったとおり、今度はジルドがついてこないし、魔法が襲ってくることもなかった。

 だが、それも時間の問題である。


『あの衝撃波は覚えがあるわ……』

 黒死山で、マグス大佐の副官が使った風魔法、圧縮空気弾をもっと強力にした感じだ。

 この世界には空気がない。

 だから、闇そのものを圧縮・固体化してぶつけてきたのだろう。


 考えている間に、背中にぞくっとした悪寒が走る。

 ジルドに見つかったのだ。

 エイナは即座に位置を変え、その後もひたすら逃げ回った。

 急激な移動は身体に負荷がかかり、肋骨の折れた脇腹が悲鳴を上げる。


 前歯のない歯で血が出るほど唇を噛み、彼女は呻き声を押し殺した。

 そして、考え続ける。

『逃げているだけでは駄目だ!

 剣を失った今、魔導士である私には、やっぱり魔法しかない。

 ジルドが魔法を上回る再生力を持つというのなら、それすらも上回るダメージを与えればいいだけの話だわ。

 でも、どうやって……』


 鼻血はもう止まっていた。さっきまでは口の中に溜まる血を、何度も唾と一緒に吐き出していたが、そちらも収まったようだ。

 舌で失われた前歯の歯茎を探ると、驚いたことにもう新しい歯が伸びかかっていた。


 エイナは常人よりも傷の治りが早いが、永久歯が再生するなどという異能は持っていないはずだった。

 気のせいか、脇腹の痛みも少し軽くなってきたように思える。


『そうか、この闇の世界では、吸血鬼の能力が底上げされるのね。

 それなら、魔力の限界値も上がっているんじゃないかしら。

 絶対零度の魔法を撃っても、余力が残るかもしれない……』


 彼女は防御魔法を解除して逃げ回る間に、次のファイア・ボールを撃つ準備を済ませていた。

 右手に集まった魔力が、指の皮膚を破らんばかりに充満しているのを感じる。


 エイナはその状態で、別の呪文を唱え始めた。

 ファイア・ボールのことは頭から追い出し、意識上はまっさらな状態で詠唱を行ったのだ。


 通常そんなことをすれば、前に唱えていた魔法はキャンセルされてしまう。

 だが、この世界ではエイナの強い意志によって、〝魔法の並行起動〟が実現できたのだ。

 しかも、詠唱速度までが大幅に加速されていた。別人のように舌が踊り、呪文が紡ぎ出される。


 客観的に見れば、エイナの現況は絶体絶命としか言いようがない。

 それなのに、呪文に集中するエイナは、官能的な多幸感に包まれていた。

 子宮に溜め込まれた魔力がぐるぐると渦を巻き、下腹部を内部から掻き回している。


 まだ小さいころ、テーブルの角に股間を擦りつけると気持ちがいいことを知り、その行為を母に見つかって叱られたことが、ふと脳裏に浮かんだ。


「何をしている?

 また魔力が駄々洩れになっているぞ」


 闇の中からジルドが姿を現わした。

「性懲りもなく、魔法を撃とうというのか?

 無駄だと言っただろう。お前の魔力はもう見切っている。俺には勝てんぞ!」


 エイナは閉じていた瞼を開き、ジルドを睨みつけた。

 お気に入りの一人遊びを邪魔されて、不機嫌極まりないといった目つきだった。


「そうかしら? 私は万能型の魔導士だけど、やっぱり得手不得手があるのよ。

 どっちかというと、炎系よりも氷結系が得意なの。

 私の全力、受けてみる勇気はある?」


「ほう……大きく出たな。

 吸血鬼は高い魔法耐久力があるが、その中でも氷結系には滅法強い。

 そもそも真祖がどうやって生まれるか、お前は知っているか?

 地獄の最下層、氷結地獄コキュートスまで堕された人間の魂を、悪魔が仮初かりそめの肉体に封じたのがその正体だ。

 いわば、氷の世界は吸血鬼の故郷ともいえる。知らなかったのか?」


 だが、エイナは笑い返した。その口元から、ちらりと尖った歯の先が覗いていた。

「なら、その懐かしい故郷を、たっぷり思い出すがいいわ!」


 エイナの下腹部が爆発的に発光した。魔力の放出が視覚化したのだ。

 ジルドは当然移動する――そう予想した彼女は、魔法の範囲を可能な限り広げていた。

 地上でそんなことをすれば、あっという間に魔力が枯渇して気絶してしまうだろうが、案の定、この世界ではその意志が実現された。

 だが、ジルドは逃げなかった。よほど自信があったのだろう。


 絶対零度を現出させる魔法――それはエイナの切り札だった。

 その範囲内ではすべてが瞬間的に凍結し、大気さえも液状化する。白一色の死の世界が訪れるのだ。


 ところが、魔法を放った結果は意外なものだった。


 エイナとジルドが立つ仮想大地は、凍りつくどころか、霜さえもつかなかった。

 もちろん、大気の代わりに充満している闇が、液状化することもない。

 この世界を構成する闇は、確かにそこに存在するが、同時に観念的なものでもあった。

 実態があるようでない――そんなあやふやなものが、凍るはずがないのだ。


 したがって、エイナの周囲では何も変化が起きなかった。

 ただ一人、ジルドを除いては。


 ジルドの肉体は現実であった。

 吸血鬼と言えども、組成は人間とそう変わらない。身体の半分以上は水分なのだ。

 呼気はもちろん、全身の皮膚からは汗とともに微量の水蒸気が放出されている。


 そうした水分が凍りつき、ジルドの全身を白い氷の膜で包み込んだ。

 水気をたっぷり含んだ身体の内部が、ガチガチに凍結したことは言うまでもない。

 吸血鬼は石膏像のように、白く固まってしまった。


『やったのか……?』

 そう自問するエイナの脳裏に、馬鹿にしたようなジルドの声が響いた。


『そう思うか? 私は生きているぞ。

 だから無駄だと言ったではないか、人間!』

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