三十三 切り札
「貴様、我が主を愚弄する気かぁーーーっ!!」
イザベラは激怒して、胸倉を掴んでいた手を捻り、アデリナの首を締めあげた。
吸血鬼の力は人間を遥かに凌駕している。
普通なら首が折れて即死しているところだが、こちらも吸血鬼の血を受け継いだダンピールである。
薄笑いを浮かべた顔で、平然と話を続けた。
「そう興奮しないでちょうだい。皺が目立つわよ。
あたしは事実を述べれるの。
確かにベラスケスは、この世界じゃ最も古い吸血鬼だわ。
千年以上にわたって生き抜いてきたことは、賞賛に値する。あたしもそれは認めるわ。
だけどそれって、ベラスケスが吸血鬼として優れているかどうかとは別の問題よね?
それほど老獪な怪物が、どうして帝国の南部――ろくな都市もない貧しい農村地帯に押し込められているの?」
「なにぃっ!」
「言ってる意味が分からない?
あたしがあんたたちを狩り始めるずっと以前から、ベラスケスの縄張りは縮小の一途をたどっていたわ。
それは、周辺に蟠踞する他の吸血鬼が、彼より遥かに強力だったからよ」
「ぐぬぬぅっ……!」
「いい縄張り、すなわち有力な都市部を抑えた吸血鬼は、極上の餌――贅沢に育てられた貴族や富商の処女を手に入れることができる。
それは、吸血鬼の寿命と能力を増大させる、最高の栄養素となるわ。
だけど、どう? あんたの主人は、薄汚れた田舎娘しか口にすることができない。
ベラスケスが能無しのクズだからよ。
だから、あたしみたいなダンピールに狩られて、滅びようとしているんだわ」
「黙れ! 黙れ、黙れ黙れ、黙れぇぇぇーーーーっ!!」
アデリナの首を絞め上げる手に力が入る。
だが、ダンピールの女はマントを跳ね上げ、逆にその手首をがっちりと掴んだ。
それはイザベラにとって、予想外の動きだった。
相手は瀕死の状態で、指一本とて動かせる状態ではないはずだ。
「貴様ぁーーーーーーっ!」
「もうっ……そう怒鳴らないでよ。目の前にいるんだから、ちゃんと聞こえてるわ。
いい? あんたたち眷属の力は、真祖の格が直接に反映される。それは分かっているでしょう?
ダンピールの能力も、それと同じなのよ」
「…………」
「ねぇ、あたしの母を犯して身籠らせた吸血鬼って……誰だと思う?
あたしの母は、結構いいとこの貴族の娘だったのよ。
もっとも、十六歳であたしを産んだ際に死んだそうだから、顔も見たことないのよね」
イザベラの顔色が一変し、その表情から余裕が消え失せた。
「まっ、まさか!」
「あら、心当たりがあるのね。そう、そのまさかよ。
オルロック伯爵――あたしからしたら、ベラスケス以上の〝クソ〟だけどね!」
アデリナの顔が苦々し気に歪んだ。
「あの男はずる賢い。
安全な辺境の山中に閉じ籠りながら、帝国という巨大な機構の中枢に入り込んで、上等な餌を貪り喰い、着実に力を蓄えてきたわ。
あんたたちの縄張りだって、目ぼしい集落は、オルロックに奪われたんじゃなかった?
あの男の悪趣味な眷属……そう、十五、六歳の娘の姿をした怪物たちに、あんたたちは歯が立たないんでしょう?」
アデリナの手に力が入り、みしっという気味の悪い音が音がした。
イザベラの手首の関節がぐちゃぐちゃに砕けたのだ。
吸血鬼はそれに構わず、自由な方の手で目の前にいる女を突き刺した。
だが、鉄をも裂く爪はアデリナのマントを貫いたものの、アデリナの身体に当たった瞬間、まるで飴細工のように〝ぱきん〟と折れてしまった。
そして突き出した腕も、ダンピールの左手に絡めとられてしまった。
「神速の再生能力、異次元の身体強化……まぁ、ほかにもいろいろあるんだけどね」
アデリナはイザベルに口づけをするかのように顔を近づけ、凄絶な笑みを浮かべた。
「困ったことに、そうした特殊能力が発動するには、ちょっとした条件がいるのよ。
血を流し、血を浴びて、血に酔って、気が変になるくらい興奮すること……。
ねっ、とんでもないでしょう? ほとんど呪いだわ。
だけど、こうなったあたしにとって、あんたたちクソの手下なんか、目じゃないのよ!」
アデリナの血走った眼が吊り上がり、赤い唇から鋭い牙がにゅっと伸びた。
イザベラの両腕を捕らえた手に力が入り、闇の中に絶叫が轟いた。
* *
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」
エイナは半ばパニックに陥っていた。
彼女は右手に持った長剣を見つめていた。
ボロボロに刃こぼれした刀身は、柄から三分の一くらいのところで、ぽっきりと折れていた。
いや、折れたのではない。〝切られた〟のだ。
ジルドに撃ち込んだ、渾身のファイア・ボールは効かなかった。
魔導士である彼女に、もはや成す術はない。
いきなり闇の中から出現し、襲ってくるジルドの爪を、エイナは抜き放った剣でどうにか防いでいた。
だが、それもわずかな間で、彼女の剣は三度目の打ち合いで力尽きてしまった。
武器を失ったエイナは、ひたすらにジルドの気配を読み、逃げることに専念せざるを得なかった。
そうして呪文詠唱の時間を稼ぎ、どうにか防御結界を張ることに成功したのだ。
『これで少しは息がつける』
彼女は安堵の息をついた。
しかし、その考えを見透かしたように、頭の中にジルドの哄笑が響いてきた。
『なるほどな……攻撃魔法が通じないなら、防御魔法で身を守るのは当然の選択だ。
だがな、この闇の世界で持続的な魔法を使う意味を、お前は理解しているのか?』
その言葉が終わらぬうちに、ふっとジルドの姿が結界のすぐ前に現れた。
エイナは慌てて見えぬ地面を蹴り、一気に跳躍して距離を取った。
しかし、眩暈の起きるような高速移動が終わると、もう目の前にはジルドの姿があった。
これまでは相手から離れると、相手が位置を把握して追ってくるまで、一定の時間を要していた。
それが、今回はほとんどタイムラグがなかった。
エイナは再び後方に跳ね飛んだ。
『できるだけ遠くへ!』
頭の中で強く念じたが、そもそもこの闇の世界では、距離という概念が極めて曖昧である。
恐れていたとおり、今度もジルドは遅れずについてきた。
顔に貼りついている、馬鹿にしたような薄ら笑いが、ひたすら癇に障る。
半ば獣人化しているジルドは、エイナの前で仁王立ちとなり、憐れむように彼女を見下ろしていた。
「まだ分からんのか?
その防御魔法を使っている限り、お前は闇の中で松明を掲げていることになる。
どこにいるか丸見えなんだよ、ばぁ~か!
そして、お前はもう一つ過ちを犯している。
その結界は、確かに私の爪から身を守ってくれるだろう。
だがな、魔法で攻撃されたらどうなるのだ?
吸血鬼が魔法を使えるということを、まさか忘れているとは言わせんぞ」
ジルドの獣毛に覆われた胸が、ぼこんと膨らんだ。
『何かの魔法が発動した!』
――エイナは本能的に感じ取り、行き先を考えずにその場を逃れた。
しかし、今度はジルドが追ってこない。
その代わり、遥か遠くの闇の中で、何かがチカッと光った。
エイナがその正体を見極めようと目を凝らした瞬間、彼女の顔がぐしゃりと潰れた。
まるで目に見えない石壁に、まともに叩きつけられたような衝撃だった。
鼻の骨が砕け、生暖かい血がだらりと流れる。
前歯が二本とも折れた。
胸が潰れて息がつまり、無理やり肺に呼吸を送ろうとすると、脇腹に激痛が走った。
あばら骨を何本か折ったらしい。
何か目に見えるような物体は、確認できなかった。そして彼女の対物理防御魔法は、いまだ健在である。
と言うことは、これは魔法攻撃に違いない。
エイナはそう覚るやいなや、防御魔法を解除して下へ落ちた。
自らの立つ〝地面〟というイメージをかき消したのだ。
無限の落下をしばらく続けた後、彼女は再び立つべき地面を思い描いた。
そして即座に横に跳ぶ。
思ったとおり、今度はジルドがついてこないし、魔法が襲ってくることもなかった。
だが、それも時間の問題である。
『あの衝撃波は覚えがあるわ……』
黒死山で、マグス大佐の副官が使った風魔法、圧縮空気弾をもっと強力にした感じだ。
この世界には空気がない。
だから、闇そのものを圧縮・固体化してぶつけてきたのだろう。
考えている間に、背中にぞくっとした悪寒が走る。
ジルドに見つかったのだ。
エイナは即座に位置を変え、その後もひたすら逃げ回った。
急激な移動は身体に負荷がかかり、肋骨の折れた脇腹が悲鳴を上げる。
前歯のない歯で血が出るほど唇を噛み、彼女は呻き声を押し殺した。
そして、考え続ける。
『逃げているだけでは駄目だ!
剣を失った今、魔導士である私には、やっぱり魔法しかない。
ジルドが魔法を上回る再生力を持つというのなら、それすらも上回るダメージを与えればいいだけの話だわ。
でも、どうやって……』
鼻血はもう止まっていた。さっきまでは口の中に溜まる血を、何度も唾と一緒に吐き出していたが、そちらも収まったようだ。
舌で失われた前歯の歯茎を探ると、驚いたことにもう新しい歯が伸びかかっていた。
エイナは常人よりも傷の治りが早いが、永久歯が再生するなどという異能は持っていないはずだった。
気のせいか、脇腹の痛みも少し軽くなってきたように思える。
『そうか、この闇の世界では、吸血鬼の能力が底上げされるのね。
それなら、魔力の限界値も上がっているんじゃないかしら。
絶対零度の魔法を撃っても、余力が残るかもしれない……』
彼女は防御魔法を解除して逃げ回る間に、次のファイア・ボールを撃つ準備を済ませていた。
右手に集まった魔力が、指の皮膚を破らんばかりに充満しているのを感じる。
エイナはその状態で、別の呪文を唱え始めた。
ファイア・ボールのことは頭から追い出し、意識上はまっさらな状態で詠唱を行ったのだ。
通常そんなことをすれば、前に唱えていた魔法はキャンセルされてしまう。
だが、この世界ではエイナの強い意志によって、〝魔法の並行起動〟が実現できたのだ。
しかも、詠唱速度までが大幅に加速されていた。別人のように舌が踊り、呪文が紡ぎ出される。
客観的に見れば、エイナの現況は絶体絶命としか言いようがない。
それなのに、呪文に集中するエイナは、官能的な多幸感に包まれていた。
子宮に溜め込まれた魔力がぐるぐると渦を巻き、下腹部を内部から掻き回している。
まだ小さいころ、テーブルの角に股間を擦りつけると気持ちがいいことを知り、その行為を母に見つかって叱られたことが、ふと脳裏に浮かんだ。
「何をしている?
また魔力が駄々洩れになっているぞ」
闇の中からジルドが姿を現わした。
「性懲りもなく、魔法を撃とうというのか?
無駄だと言っただろう。お前の魔力はもう見切っている。俺には勝てんぞ!」
エイナは閉じていた瞼を開き、ジルドを睨みつけた。
お気に入りの一人遊びを邪魔されて、不機嫌極まりないといった目つきだった。
「そうかしら? 私は万能型の魔導士だけど、やっぱり得手不得手があるのよ。
どっちかというと、炎系よりも氷結系が得意なの。
私の全力、受けてみる勇気はある?」
「ほう……大きく出たな。
吸血鬼は高い魔法耐久力があるが、その中でも氷結系には滅法強い。
そもそも真祖がどうやって生まれるか、お前は知っているか?
地獄の最下層、氷結地獄まで堕された人間の魂を、悪魔が仮初の肉体に封じたのがその正体だ。
いわば、氷の世界は吸血鬼の故郷ともいえる。知らなかったのか?」
だが、エイナは笑い返した。その口元から、ちらりと尖った歯の先が覗いていた。
「なら、その懐かしい故郷を、たっぷり思い出すがいいわ!」
エイナの下腹部が爆発的に発光した。魔力の放出が視覚化したのだ。
ジルドは当然移動する――そう予想した彼女は、魔法の範囲を可能な限り広げていた。
地上でそんなことをすれば、あっという間に魔力が枯渇して気絶してしまうだろうが、案の定、この世界ではその意志が実現された。
だが、ジルドは逃げなかった。よほど自信があったのだろう。
絶対零度を現出させる魔法――それはエイナの切り札だった。
その範囲内ではすべてが瞬間的に凍結し、大気さえも液状化する。白一色の死の世界が訪れるのだ。
ところが、魔法を放った結果は意外なものだった。
エイナとジルドが立つ仮想大地は、凍りつくどころか、霜さえもつかなかった。
もちろん、大気の代わりに充満している闇が、液状化することもない。
この世界を構成する闇は、確かにそこに存在するが、同時に観念的なものでもあった。
実態があるようでない――そんなあやふやなものが、凍るはずがないのだ。
したがって、エイナの周囲では何も変化が起きなかった。
ただ一人、ジルドを除いては。
ジルドの肉体は現実であった。
吸血鬼と言えども、組成は人間とそう変わらない。身体の半分以上は水分なのだ。
呼気はもちろん、全身の皮膚からは汗とともに微量の水蒸気が放出されている。
そうした水分が凍りつき、ジルドの全身を白い氷の膜で包み込んだ。
水気をたっぷり含んだ身体の内部が、ガチガチに凍結したことは言うまでもない。
吸血鬼は石膏像のように、白く固まってしまった。
『やったのか……?』
そう自問するエイナの脳裏に、馬鹿にしたようなジルドの声が響いた。
『そう思うか? 私は生きているぞ。
だから無駄だと言ったではないか、人間!』