三十二 闇の戦い
白く輝く光球は、これまでエイナが見たこともない速さで、ジルドに向かっていった。
アデリナが言ったとおりである。
エイナがいるこの闇の空間は、そこに存在する者の意志を可能な限り実現しようとする。
敵に魔法を当てようとするエイナの意志が、魔法効果にも作用しているのだ。
だが、その条件は相手のジルドにとっても同じである。
吸血鬼は、光球が当たる直前に姿を消した。
ほとんど同時に、エイナの背中にぞくっとした悪寒が走る。
彼女は振り返りもせず、前方に跳躍して位置を変えた。
わすかに遅れ、エイナが消えた空間の背後にジルドが出現した。
彼の長く伸びた爪が、エイナがいるはずだった空間を切り裂いたが、それは空振りに終わった。
エイナはだんだんと分かってきた。
確かにこの闇の中では、自分の思いどおりに身体を動かすことができる。
しかし、それにも限界というか、物理的な制約が存在するのだ。
つまり、相手の背後を取ろうとしても、そこへの移動には一定の時間がかかる。極めて高速ではあるが、瞬間移動できるわけではないのだ。
そして、その気配はエイナの鋭敏な感覚で捉えることができた。
彼女はぎりぎりで危機を逃れ、ジルドから大きく距離を取った。
ジルドは相手がどこに移動したのか、把握するまでにわずかな時間を要した。
その間に、エイナは魔法の軌道を操作して、再びジルドに向かわせる。
当然、ジルドはそれを避けて、再びエイナの背後を取ろうとした。
だが、それは彼女が仕掛けた罠だった。
エイナはこの短い時間で、この世界の仕組みを完全に把握していたのだ。
ジルドの現在地に魔法を撃ち込むのでは、何の意味もない。
それは、あくまで囮だった。
彼女はジルドが背後に回る気配を感じる前に、すでに移動していた。
そして自分がいた場所に、身代わりとなる新たなファイア・ボールを発生させた。
ファイア・ボールのような高等魔法の場合、複数起動は不可能とされている。
だが、エイナはこの闇の空間内ならば、それが実現できると踏んでいた。
そして、その読みは正しかった。
移動速度が凄まじいだけに、五感が脳に伝える情報が追いつかない。
つまり、高速移動を止めて、いったん静止しないと周囲の状況が掴めないため、そこにわずかな時間差が発生する。
エイナの背後に出現したジルドは、そこにいるはずのエイナの代わりに、炸裂する爆炎を目撃することになった。
自分が罠に嵌ったと気づいた時には、もう手遅れだった。
ファイア・ボールはジルドを取り込む結界を発生させ、その内部に凄まじい高熱を発生させた。
結界内の酸素が一瞬で消費され、数千度の炎が襲いかかる。
ジルドの皮膚は紙のようにめくり上がり、肉が焼け、血と脂が沸騰して蒸発する。
鼻から口から入り込んだ熱気が気道を焼き、肺胞を爛れさせた。
エイナは、自らの勝利を確信した。「私は父の敵を討ったのだ!」と。
しかし、高揚感に打ち震える彼女に、冷水が浴びせられた。
魔法の持続時間である十数秒が経過し、結界とともに荒れ狂う炎が消失すると、そこにはジルドが立っていたのだ。
肉も臓器も焼けて灰となり、骨格しか残らないはずなのに、ジルドは肉体を完全に保持していた。
衣服は焼けて消滅していたが、筋肉が盛り上がった逞しい肉体は、オオカミのような獣毛に覆われていた。
半ば獣人と化したジルドは、白い牙を剥き出しにして醜い笑いを浮かべた。
「貴様のことは誉めてやろう。ダンピールの娘にしては、信じがたい能力だ。
闇の空間に入ったのも、初めてではないな? 適応があまりに早すぎる」
「魔法が……効かなかったの?」
エイナは『信じられない』といった顔で、思わず本音を洩らしてしまった。
「どうした、俺が無事で驚いているのか?
心配するな、貴様の魔法は確かに効いたぞ。
ああ、熱かったとも。貴様は全身を焼かれる苦痛を味わったことがあるか?
熱かった!
熱かったぞぉ!!
生きたまま身を焼かれる苦痛を、舐めんじゃねえぞ!
このド畜生がぁぁぁーーーっ!!」
「いいか! 下等な人間である貴様に教えてやろう!!
お前の魔法は、外界とは比べ物にならないほどの威力を発揮した。それは自分でも感じているだろう?
だがな、俺の方の再生能力も、桁違いに上がっているのだ、馬鹿野郎!
つまり、貴様がいくら魔法を撃とうと、俺様には通じんのだ!」
「どうだ、試してみるか?
人間である貴様の魔力と、真祖直系の眷属であるこの俺様の再生能力、どちらが先に尽きるかを!」
* *
アデリナの長刀が弧を描き、空間を切り払った。
「残念、ハズレだねぇ!」
イザベラが高笑いを響かせ、長く伸びた爪を突き出す。
爪がアデリナのマントを掠めた時には、もうそこに相手の姿はない。
「どこを狙っている!」
からかうようなアデリナの声のしたあたりを、吸血鬼の手刀が薙ぐ。
両者は目まぐるしく位置を変え、何もない闇に向かって剣を振るい、爪で刺突し続けた。
敵を視認してから攻撃したのでは、逃げられるのが目に見えている。
彼女たちは、相手が出現するであろう地点を予測して、そこに攻撃を加えていた。
お互い闇の世界には十分に慣れているから、いかに相手の裏をかくかが勝負だった。
当然、予測した攻撃が当たることもある。
アデリナの剣は、何度も吸血鬼の身体を切り裂いた。
手首を切り飛ばし、眼球を潰し、乳房を裂いた。
しかし、致命傷を与えない限り、相手はあっという間に再生してしまう。
一方、イザベラの爪も、アデリナの身体に深い傷を負わせていた。
吸血鬼の爪は数センチの長さだが、突き出された瞬間にいきなり伸びる。
場合によっては三十センチほどまで飛び出してくるので、避けようとしても間合いが掴みにくかった。
アデリナの分厚いマントは穴だらけになっていて、足を伝わって落ちてくる血で、彼女のブーツは赤黒く染まっていた。
一般的に、ダンピールはある程度の再生能力を持っている。
しかし、それは親である真祖に比べ、どうしても劣る。
回復が遅れて血を失い続ければ、ダンピールといえども体力を消耗して、動けなくなってしまうのだ。
延々と続く戦いは、着実にアデリナの身体に疲労を蓄積させていった。
呼吸が乱れ、肩が大きく上下するようになった。長刀を握る手が、ぷるぷると細かく震えているのが、傍目にも分かった
「どうした、もうへばったのかえ? ざまぁないね!」
闇の中で哄笑が響いた。
二人は高速での移動合戦をいったん止め、数メートルの距離で睨み合っていた。
アデリナは呼吸を整えようと唾を呑み込み、無理やり笑顔を作った。
「あなた、ベラベラとよく喋るわね?」
「おや、気に障ったかい?
そうさ。あんたと違って、あたしには余裕があるからね」
「じゃあ、ひとつ訊いていいかしら?」
イザベラは意外だという表情を浮かべた。
「何だい? 言ってみな」
「あなたの見た目、あたしより年上……そうね、三十歳前後に見えるけど、吸血鬼になった年齢っていくつだったの?」
「失礼ね。まだ二十九の時だったわよ!」
二十九も三十もあまり変わりないように思えるが、そこは女性にとっては大問題である。
「あら、それはごめんなさいね。
ベラスケスが眷属にしたってことは、当然、あなたはその時に処女だったわけよね?
真祖が女を眷属にする時は、犯して処女を奪うのが定番だもの」
「それがどうした? ベラスケス様に初めてを捧げるのは、至上の悦びなのよ!
あんたみたいな中途半端な紛い物には、一生そんな名誉は訪れないでしょうけどね」
「ふ~ん、つまり、あなたは二十九っていう〝いい歳〟まで処女だったわけだ。
あなたたちの住む帝国の田舎じゃ、娘は十五、六で嫁に行くのが普通よね。二十歳過ぎたら〝行き遅れ〟って笑われるわ。
あなたはその歳まで貰い手がなく、恋人すらいなかったわけね。
そこそこ美人なのに、よっぽど性格が悪かったのかしら?」
「言いたいことはそれだけか? この腐れ○○○がぁーっ!」
耳をつんざくような甲高い絶叫に、圧倒されたわけでもなかろうが、いきなり背後に現れたイザベラに対する反応がわずかに遅れた。
ぎゅんと伸びた爪を、アデリナは長刀の鍔元でどうにか払った。
吸血鬼の左手を撥ね上げた瞬間、その下を掻い潜って右手が滑り込んだ。
鋭い爪が深々と刺さって背中に抜け、アデリナは堪らずに身体を折り、口から血の塊りを吐き出した。
確かな手応えにイザベラの口が端が吊り上がり、白い犬歯が剥き出しになった。
だが、前のめりになったアデリナも、その瞬間に相手の二の腕をがっちりと掴んでいた。
万力のような握力で、アデリナの指が肉の中に潜り込み、鮮血が噴き出す。
イザベラは完全に捕まってしまったのだ。
右手はダンピールの肺腑を貫いていたが、腕を握り潰されて動かすことができない。
左手は首元に押しつけられたアデリナの剣を、食い止めることで精一杯だった。
「往生際の悪い女だねぇ!」
イザベラは口汚く喚くと膝を高く上げ、相手の腹に前蹴りを叩き込んだ。
アデリナは数メートルも後ろに蹴り飛ばされた。
「ふんっ!」
イザベラが血の混じった唾を吐き、右手をぶるんと振ると、骨が砕け、ちぎれかけた腕は、もう再生していた。
うずくまっているアデリナに向けて、イザベラはわざとゆっくり歩いていった。
「あたしの爪はねぇ、鉄でも切り裂くんだよ。人間の剣なんざ、あっさりと叩き折れる。
あんたのその剣、どこで手に入れたんだい?」
時間の猶予を与えられたアデリナは、剣に縋りながら、どうにか立ち上がった。
「あら、知りたいなら、地獄に行って悪魔にでも聞いてみたら?」
穴の開いた肺に血が溜まり、少し喋っただけで、彼女は激しく咳き込んだ。
「立っているのもやっとのくせに、よくそんな強がりが言えたもんだね?
待ってな、いま楽にしてあげるよ!」
イザベラは予備動作なしに、いきなり動いた。
アデリナの視界から吸血鬼の姿が消える。
彼女は気力を振り絞り、剣の柄を握る手に力をこめた。
右か左か、それとも後ろか? あるいは上か?
深手を負った今、予測を外せば敗北――すなわち死が待っている。
一秒の十分の一にも満たない刹那、数十年にわたって吸血鬼と戦い続けてきた、彼女が勘がささやいた。
「下!」
アデリナは杖代わりに突き立てていた長剣を、ずぶりと押し込んだ。
闇の世界に上下左右の区別はなく、もとより地面など存在しない。
彼女が立っている下にも、無限の空間が広がっているはずだった。
だが、吸血鬼は本能的に地下に潜りたがる。相手の下から不意打ちをするのが得意なのだ。
身体に染みついた習性は、闇の世界だからといって、変わるものではない。
「があぁぁーーーーーっ!!」
絶叫が響き、泥のような闇の中から鋭く伸びた爪に続いて、イザベラが飛び出してきた。
肩口から入った長剣が吸血鬼の身体を貫いて、一メートルもの刀身の切っ先が股間から覗き、滝のような血が流れ落ちた。
アデリナは両手で柄を握りしめると、肩に担ぐようにして強引に剣を持ち上げた。
アデリナの黒いドレスを突き破って、片刃の刀身が飛び出した。
派手な血しぶきが噴き出し、吸血鬼の半身が縦に裂かれたのだ。
アデリナは身体を回転させ、自由を取り戻した剣を大きく振り回した。
『この勢いでイザベラの首を刎ねる!』
真祖の眷属は首を落としても、即座には滅びない。
だが、大きなダメージを受けることは間違いなく、再生にも時間がかかる。
もちろんアデリナは、そんな時間を与えるつもりなどない。
イザベラは身体を大きくのけぞらせ、ぎりぎりでダンピールの剣をやり過ごした。
急激な動きで、閉じかけていた傷口が開いて、噴水のように血が撒き散らされた。
相手は振り抜いた剣から片手を離し、手首を返して逆手で斬り上げようとしている。
吸血鬼は態勢を崩しながらも、片足を軸にして回し蹴りを放った。
再びアデリナを蹴り飛ばして、いったん距離を取ろうとしたのだ。
アデリナの方も同じ手を喰らうつもりはない。
腹を引っ込めて攻撃を躱し、逆に一歩踏み込もうとする。
しかし、彼女はそのまま前につんのめり、どうっとうつ伏せに倒れた。
マントの下に血溜まりができ、それがみるみる広がっていく。
イザベラは両手を腰に当ててふんぞり返ると、アデリナの後頭部を足で踏みつけた。
そのつま先からは、華奢な婦人用革靴を突き破って、二十センチほども伸びた爪が飛び出している。
吸血鬼は蹴りを放った瞬間に足の爪を伸ばし、アデリナの腹部を切り裂いていたのだ。
「上手く避けたつもりだったんでしょう? 残念だったわねぇ!
あたしらはね、足の爪だって自在に伸ばせるんだよ!
どうだい、腹が裂かれて内臓が溢れ出る気分は?
あはははははは! 最高だろう!?」
イザベラはアデリナの頭をぐりぐりと踏みにじり、耳の辺りを蹴った。
そして身をかがめ、今度は片手で彼女の髪を鷲掴みにすると、そのまま高く持ち上げた。
「ふん、これが何人もの仲間を殺した〝吸血鬼狩りのアデリナ〟かい?
噂ほど大したことないのね。……いえ、あたしという相手が悪かったと言うべきかしら?」
イザベラはゲラゲラと笑いながら、頭上高く持ち上げたアデリナを振り回した。
相手は虫の息なのか、呻き声すら上げられない。
吸血鬼はもう片方の手で彼女の胸倉を掴み直すと、がくがくと頭を揺さぶって、頬に平手打ちを喰らわせた。
「どうせ、まだ死んじゃいないんだろう? これからあたしが殺してやるから、ありがたく思いな!
あんたの娘がまだジルドに殺されていなかったら、遺言くらいは伝えてやるよ。
さぁ、何とか言ってみろよ! このあばずれが!」
アデリナの顔は、怪力の吸血鬼から容赦のない平手打ちを何度も受け、無残に腫れあがっていた。
涙が滲んだ目は、膨らんだ瞼で糸のようになっていたが、その中で瞳がぐるりと動いた。
そして、アデリナはわずかに唇を動かし、掠れた声を出した。
「言いたいことは、それ……だけなの?」
「なに?」
「聞こえなかったかしら? 言い残すは、それだけかと訊ねたのよ。
もしジルドがまだ生きていたら、あんたの今際の言葉を伝えてあげるわ」
「貴様、頭がいかれたのか?
それとも、この期に及んでまだ強がりを抜かすのか!」
「強がり……じゃないのよ。
真祖の直系である、あんたの仲間たちは、どうしてダンピールのあたしに敗れてきたと思うの?」
「ほう、このあたしに、偉そうに講釈を垂れる気かい?
いいだろう、聞いてやるから、その秘密とやらを言ってみるがいい!」
アデリナの腫れた唇に、にやりと笑みが浮かんだ。
「簡単……なことよ。
それはねえ、ベラスケスがクソだからよ!!」