三十一 強襲
森の中は朝靄で白く煙っていた。
エイナたちは夜明け前には畑を出発し、森の中を十キロ近く奥にある、メド爺さんの炭焼き小屋を包囲していた。
今は朝の五時を回っており、もう太陽が低く昇っているはずだった。
あと三十分もしないうちに、その角度が高くなり、朝日が小屋を照らすはずである。
攻め手のエイナたちは、吸血鬼たちの待ち伏せを予想し、十分に警戒しながら接近した。
相手だって当然襲撃を予想しているだろうから、罠を仕掛けていない方が不自然である。
だが実際には、炭焼き小屋にたどり着くまで、何事も起こらなかった。
人間側は少し拍子抜けしつつも、さらに警戒の度を上げて監視を続けていた。
しかし、敵の動きはなく、小屋はひっそりとして物音ひとつ聞こえてこない。
様子を窺っているうちに、陽の光が小さな空き地を照らし出し、朝靄もすっかり消えてしまった。
大きな包囲の輪を形成しているユニのオオカミたちからは、周辺に敵の気配を感じないという報告しか入ってこない。
小屋の中に吸血鬼がいるという点では、カー君とアデリナの意見が一致していた。
『すんごく邪悪な気配が二つ、ほかにも二、三人の吸血鬼の気配がするけど、これは下っ端みたい』
カー君が顔を顰めてみせた。
「さすが精霊族の感覚は鋭敏ね。その見立てで合ってると思うわ。
でも、妙な話ね……こちらの襲撃を大人しく待てるような奴らかしら?」
アデリナは首を傾げた。
「じゃあ、このままじっとしてるの? あたしの趣味じゃないわね」
巨木の陰から小屋を窺いながら、ユニがからかうような声を出した。
アデリナがにやりと笑い返す。
「偶然ね。あたしも黙って足を開くより、上で動く方が好みなのよ」
シルヴィアが顔を赤くし、エイナはきょとんとしている。
カメリアは苦々しい表情を浮かべた。
「若い娘の前で、よくそんな下品な冗談が言えるな?
だが、ひと当てして反応を見るのは賛成だな」
彼女の周囲には、すでに偶力で圧縮され、石のような硬さになった森の土が、数個浮遊していた。
「じゃあ、打ち合わせどおりに頼むわ。
メド爺さんが悲しむから、破壊は最小限にしてね」
ユニがカメリアの肩を、ぽんと叩いたのが合図となった。
「任せろ!」
カメリアが言い終わらぬうちに、黒い土の塊りが唸りを上げて飛んでいった。
一つは直進して、頑丈そうな木の扉に激突し、小屋の内部に吹っ飛ばした。
扉自体は無事だったが、それを戸口の枠に止めていた蝶番をもぎ取ったのだ。
残る二つは左右に分かれ、閉じられた蔀窓の板を粉砕して、中に飛び込んだ。
内部で何かが壊れたような音が、五十メートルも離れた森の中まで聞こえてきた。
ユニとエイナはオオカミに乗って茂みを飛び出し、シルヴィアはカー君に跨って上空に舞い上がる。
アデリナだけは自分の足で走り出したが、驚いたことにオオカミたちと互角の速度だった。
彼女たちは小さな広場をあっという間に駆け抜ると、ライガから滑り降りたユニが、まっ先に小屋に飛び込んだ。
あまり広くない炭焼き小屋の内部は、滅茶苦茶になっていた。
ぶち破られた窓は、すでにテーブルと食器棚で塞がれ、何者かが扉を持ち上げて元に戻そうとしていた。
その前に飛び込んできたユニに、扉が投げつけられたが、彼女は素早く身をかわして床を転がった。
扉を投げた男が、意味をなさない怒号を上げて襲いかかった。
その伸ばした両腕が、ぼとりと床に落ちた。
両者の間に割って入ったアデリナがくるりと回転すると、腕に続いて男の首が吹っ飛んだ。
黒いマントから出た彼女の右手には、刀身の短い剣が握られている。
首を刎ねられた男の身体は、急激に萎んで崩壊を始めた。
薄暗い部屋の隅から黒い影が跳ね上がり、天井を蹴って上からアデリナに飛びかかってきた。
同時に、別の男が正面から突っ込んでくる。
床に転がっていたユニが身を起こし、握っていたナガサを投げた。
青白い燐光を放つ山刀は、上から襲ってきた男の右目に突き刺さった。
顔を押さえて落ちてきた男の腹に、アデリナのブーツの底がめり込む。
戸口から外へ蹴り出された男は、降り注ぐ朝日をまともに浴び、絶叫しながらのたうち回り、みるみるうちに灰と化した。
一方、正面から突っかかってきた男は、蹴りを放ったアデリナに組み付くことに成功した。
剣を持つ方の手首を掴んで動きを止め、肩で体当たりしながら、拳を顎のあたりに叩き込もうとした。
吸血鬼の怪力で人間をまともに殴れば、顎が砕け、顔の半分がぐちゃぐちゃに潰れるはずだった。
だがその寸前、アデリナの左手が男の拳を受け止めた。
女の手は小さく指は細い。それなのに、男の大きな拳はぴくりとも動かせなくなった。
男は腕を引き戻そうとしたが、アデリナはそれを許さない。
彼女の白い指に力が入り、男の拳に指先がめり込んで血が噴き出した。
アデリナは男の手を、一気に捻り上げた。
男の肘関節が破壊され、腕の骨が折れて皮膚を突き破った。
そして、彼女は男の腕を無造作に引きちぎると床に捨て、自分の右手をなおも押さえている方の手首を掴んだ。
アデリナは恐ろしい力で男の手首を握り潰し、無理やり引き剥がした。
堪らずに飛び下がった男に、彼女は片足を大きく踏み込み、右手の剣を振るった。
弧を描く刃先があまりに速く、ユニは剣の軌跡を視認できなかった。
ほんの少しの間をおき、〝ごとん〟と重い音を立てて男の首が落ちた。
アデリナは素早く周囲を見渡した。
「こいつらは雑魚ばかりね。
それより、ジルドともう一人の幹部がいないわ。どうやら逃げられたみたい」
彼女は血と脂で汚れた剣を、マントで拭ってから鞘に戻した。
「もう倒しちゃったんですか?」
少し遅れて入ってきたエイナが、呆れたような声を出した。
「ほとんどアデリナ一人でだけどね」
ユニが肩をすくめる。
「そういや、オークの娘たちはどこかしら?」
「この小屋の中にはいないようね。気配が感じられないわ」
エイナが小屋の奥の扉を開けて確認してみたが、そこはトイレと物置で、やはりオークの姿はなかった。
「ジルドが連れていったのかしら?」
「う~ん、あいつらは闇に潜ったんだと思うけど、オークは闇に入ったら人間と同じように意識をなくすの。
そんなお荷物を抱えて逃げるような余裕、多分なかったんじゃないかしら」
すると、ユニとアデリナの話にエイナが口を挟んだ。
「えと、あの……ひょっとして、援軍で小屋が手狭になって、炭焼き窯の中に移されたんじゃないでしょうか?
あそこなら、三人くらい入れますから」
「なるほどね、そっちを見てみましょうか」
三人は外に出てカメリアと合流し、エイナの案内で炭焼き窯に向かった。
シルヴィアは上空を旋回したままで、空からの監視を続けている。
窯は小屋から少し離れた森の中に築かれていた。
一緒についてきたライガが、地面をしきりに嗅ぎながら、不機嫌そうな声を出した。
『ああ、オーク臭え! 間違いなく、この中にいるぞ』
オオカミたちはオークが知性を持っていようと、基本的に彼らが嫌いなのだ。
「吸血鬼の気配はしますか?」
エイナがアデリナの方を振り返った。
「いいえ。どうやらオークだけみたいね」
エイナが窯の扉板を外し、ユニが先に入った。エイナとアデリナがそれに続く。
カメリアとライガは警戒するため、外に残った。
狭い通路を腰をかがめて進んで窯の中に入ると、すぐに特徴的なオークの体臭が鼻をついた。
エイナがすぐに魔法で明かりを出した。
窯の奥の壁に、縛られた三人のオークが身を寄せ合って、壁にへばりついていた。
突然ついた明かりと、人間たちを恐れているようだった。
ユニが前に出て、彼女たちの前にしゃがみ込む。
「ワァダ、ユニ。ヨベ? ワァンダ、ンガ、ヒヅネガオン」
彼女は自分を指さし、ゆっくりと奇妙な言葉を話した。
三人の娘たちは激しくうなずき、目から涙をぼろぼろ溢れさせた。
ユニは腰のナガサを抜いて、彼女たちを縛っている縄を切り始めた。
エイナが感心したように訊ねた。
「ユニさん、オークの言葉を喋れるのですか?」
「簡単な単語を並べるくらいだけどね。ジャヤから習ったのよ」
自由になって立ち上がったオークの娘たちは、ユニやエイナとあまり背丈が変わらない。粗末な貫頭衣を着ただけの素足で、ガタガタと震えている。
オークとしては、まだ子どもの範疇に入るのだろう。
「取りあえず、この子たちを外に出しましょう」
ユニはオークの娘の手を引いて、出口へと向かおうとした。
その姿が、ふいに消えた。
手を握っていたオークの娘も同じだった。
まるで、地面に吸い込まれたようだった。
「え?」
何が起きたのか分からず、エイナは無意識に一歩、踏み出した。
その足がずぶりと地面にめり込み、彼女は底なし沼に落ちたように沈んでいった。
* *
気がつくと、そこは暗闇の中だった。
空間の中にいるというより、粘っこい液体に浸かっている感じであったが、呼吸は楽にできた。
これは身に覚えのある感覚――闇の通路に潜った時と同じであった。
周囲を見回すと、近くにユニとオークの娘たちが倒れている。
そして、黒いマントに身を包んで立っている、アデリナの姿も見えた。
全員、同じ闇の空間に引きずり込まれたのだろう。
闇の中には明かりなどないが、彼女たちの姿はそれ自体が発光しているように、はっきりと見えた。
エイナは明かりの魔法を唱えてみた。確かに明かりは出現したが、ただそれだけで、周囲の闇が照らし出されることはなかった。
エイナがアデリアの側に行こうとすると、足を動かさなくともすっと身体が移動した。
「えと、あの……これって、吸血鬼が使う〝闇の通路〟ですよね?」
エイナはおずおずと母に訊ねた。
「そうね。オークの娘たちは餌で、あたしたちはまんまと罠にかかったみたい。
あの子たちは気を失っているだけだから、あまり心配いらないわ」
「でも変です。私は闇の通路を使って、この炭焼き窯の中に出たことがあります。
あの時は、オークの村へと続く道筋が、はっきりと知覚できました。
でも、今は何も感じません」
「それは、ここが私の世界だからだ」
ふいに聞き覚えのある男の声が響いた。
振り返ると、いつの間に現れたのか、すぐ近くにジルドと見知らぬ女が立っていた。
「世界……というのが大げさならば、私が生み出した結界だと言ってもいい。
どこにもつながっていない、ひとつの部屋のようなものだな。ただし、無限の広さを持っているがね」
ジルドは含み笑いをして、隣に立つ女の方を見た。
「紹介しよう。この女はイザベラという。ベラスケス様にお仕えする、私の同僚だ」
女は優雅な仕草で礼をしてみせた。
「イザベラよ、お嬢さん。どうかお見知りおきを……と言っても、アデリナの方は会うのは三度目ね」
「さて、こちらが自己紹介したのだ。
そちらのお嬢さんにも名乗っていただこうか?」
前に出ようとしたエイナを抑え、アデリナが代わりに答えた。
「この娘はエイナよ」
「そうか……」
ジルドは短い口髭を摘まみながら、小さくうなずいた。
「エイナ嬢とは昨夜お手合わせを願ったが、王国の魔導士であったな。
単刀直入に訊こう。
なぜ、この闇の中で人間が意識を保っていられる?」
「そうよ。そこのアデリナなら分かるわ。汚らわしいダンピール、吸血鬼の出来損ないだもの。
だけどエイナ、あんたの臭いはただの人間だわ。これはどういうことなの?」
答えようとするエイナを、再びアデリナが制した。
「だって、エイナはあたしの娘だもの。別に不思議はないわ。
あたしたちを闇に引きずり込めば、あたし以外は気を失うから、二対一で勝てると踏んでたんでしょう?
お生憎さまね」
「嘘をお言いでないよ!」
イザベラが喚く。
「ダンピールの子は、吸血鬼の能力をほとんど失って、ただの人間と変わらなくなる。
闇に潜れるなんて話、聞いたこともないわよ!
どうせ怪しげな魔法でも使っているんでしょう? この嘘つき!」
「イザベラ、そのくらいにしておけ。
人間の魔導士が一人増えようと、どうせ足手まといになるだけだ。結果は変わらぬさ」
「ああ、分かっている。ここでアデリナを始末すれば、ベラスケス様がどれだけお喜びになることか!」
「あら、大した自信だこと。
あたしの娘は、その辺のボンクラ魔導士とは出来が違うのよ。そっちこそ引導を渡してやるから、覚悟しなさい!」
エイナはとっくに気づいていた。
さっきから母が自分に発言を許さなかったのは、呪文を唱える時間を稼ぐためだ。
エイナは音が洩れないよう、口の中で静かに詠唱を続けていた。ここは吸血鬼にも効果がある、炎系の魔法一択である。
アデリナが吸血鬼にも聞こえるよう、大声で叫んだ。
「いい、エイナ? ここは意志の力が支配する世界よ!
あなたがジルドを倒すの! その意志を貫きなさい!!
あたしはイザベラと決着をつける!」
彼女は背負っていた長刀に右手を伸ばした。
左に突き出た柄を握ると肩に担ぎ、ぐるりと弧を描くように抜き放つ。
わずかに湾曲した片刃剣の刀身は、一メートルを超していた。
かなりの重量があるそれを、アデリナは右手だけで軽々と振り回し、大上段に構えた。人間離れした膂力である。
次の瞬間、アデリナだけでなく、イザベラの姿までも消えていた。
彼女たちが動きがあまりに速く、視覚情報として入ってこないのだ。
エイナの耳には、アデリナの剣と、イザベラの長く伸びた鋭い爪が打ち合う、乾いた音だけが響いてくる。
エイナも覚悟を決めた。
母に言われるまでもない、父の敵は自分が取らねばならない。
彼女は右手をすっと上げ、特大のファイア・ボールを撃ち出した。