二十九 黒い女
ユニ、エイナ、カメリアの三人は、オオカミの背に乗って現場に向かった。
夜目の利くエイナが、カメリアの魔法が吸血鬼に命中し、さらに上空からカー君が火球で焼き払ったことを確認したからだ。
八十メートル程度の距離なら、オオカミたちは十数秒で到着できる。
三人の女たちは、激しく揺れるオオカミの背中にしがみついていたので、その間にシルヴィアがジルドに止めを刺そうとして、突然倒れたことを知らない。
しかし、夜闇を切り裂くようなカー君の咆哮によって、何らかの異変が起きたことには気づいた。
エイナはロキの背から、明かり魔法を放った。
強烈な光が上空に打ち上げられて小麦畑を照らし、彼女たちにも現状が呑み込めた。
シルヴィアがうつ伏せに倒れ伏し、土にまみれた金髪が乱れて広がっていた。
その周りをカー君がぐるぐると回り、ひんひんと悲し気な声を上げている。
ユニとエイナがオオカミから滑り降り、シルヴィアのもとに駆け寄った。
カメリアは、肩の怪我を気遣ったヨミがのそのそ歩くので、到着が大幅に遅れた(カメリアが走るよういくら命令しても、オオカミは頑として聞き入れなかった)。
「シルヴィア、しっかりして!」
エイナがシルヴィアを抱き起して揺すぶった。
「カー君、何が起きたの? 吸血鬼はどこ!?」
ユニは素早くシルヴィアの状態を確認しながら、カー君には目もくれずに怒鳴った。
シルヴィアには外見上の傷はなく、出血も認められなかった。
耳の下に指を押し当てると、しっかりとした鼓動が感じられるし、鼻からは規則正しく息が吐き出されている。
ユニはシルヴィアを抱きかかえているエイナを手で制し、そっと土の上に寝かせた。
そして、今度は手足を順に持ち上げて、骨折の有無を確認する。
「命には別条ない。大きな怪我もしてないみたいね。
多分、軽い脳震盪を起こしているんだと思うわ。しばらく動かさない方がいい」
ユニはそう診断を下すと、エイナと顔をくっつけて安堵の溜息を洩らしたカー君を睨みつけた。
「あたしは質問したはずよ、カーバンクル。
その頭にまともな脳みそが入っているなら、さっさと答えてちょうだい!
何が起きたの? 吸血鬼はどこにいったの!?」
ユニの詰問に、カー君はしどろもどろになった。
『えっと、それが……僕にもよく分かんないんだよ。
シルヴィアは吸血鬼の首を刎ねて、それでも死なないから、バラバラに切り刻むっていってたの。
そしたら、あいつが突然現れて、後ろからシルヴィアの首に手刀を当てたんだ。
僕がシルヴィアを助けようと飛びかかったら、そいつは消えちゃって、気がついたら吸血鬼も姿を消していたんだ』
「あいつって、新手の吸血鬼?」
『多分……違うと思う。
吸血鬼と似た雰囲気があったけど、闇の一族特有のぞくっとする感じはなかった。
でも、絶対怪しいよ! なんたって、シルヴィアを襲ったんだから』
「姿は見たんでしょ? 顔は見たの?」
『それが……一瞬のことだったし、黒づくめで大きな帽子を被っていたから、顔は見えなかったの。
でも、女にしては割と背が高かった。シルヴィアと同じくらいかな?』
「え! そいつ、女だったの?」
『うん、女の人の匂いがしたから……』
「しかし妙だな……」
遅れて到着し、周辺を調べていたカメリアが、側に寄ってきて話に加わった。
「状況から考えて、その女が瀕死の吸血鬼を救ったのだろう?
背後から不意打ちができたのなら、なぜシルヴィアを殺さなかった?
カーバンクルが吸血鬼じゃないと言うからには、そいつは人間だということになる。なぜ人間が吸血鬼の味方をする?」
ユニは肩をすくめた。
「さあ……その女に直接訊いてみないと、何とも言えないわね。
でも、あんたの言うとおり、現時点では敵と見做した方がよさそうね」
「あら、それは困るわ」
ユニの耳朶に暖かな吐息がかかり、不意に女のささやき声がした。
「!」
ユニは息を呑み、一瞬で振り向いた。
その手にはナガサ(山刀)が握られ、いつの間にか背後に立っていた、女の首元に突きつけられていた。
だが、女はナガサの鋭い刃を、右手の親指と人差し指の二本だけで挟んで受け止めていた。
ユニが力を渾身の力をこめて引こうとしても、ナガサはぴくりとも動かない。
「おお、怖い! いきなり切りつけるなんて、危ないわよ」
上空には、ユニが出した明かり魔法が煌々と輝いていたが、女はつばの広い帽子を被っているため、陰となって顔がよく見えない。
ただ、真っ赤な紅を引いた唇の端が、きゅっと上がっていることだけは、見てとれた。
「よくご覧なさい。あなたのナガサ、刀身が青く光っていないでしょ?
あたしは敵じゃないわよ、ユニさん」
「ずい分と詳しいじゃない? それに、あたし自己紹介をした記憶なんてないわよ」
「そりゃあ、お互い様よ。
あなただってしつこく嗅ぎ回っていたでしょ。気づいていないと思った?
それだけ熱心な求愛者なら、どんな人か気になるのが、人情ってもんじゃない?」
「…………!」
ユニは一瞬、言葉を失った。今の言葉で、相手が誰であるかを覚ったのだ。
女は相手の害意が失せたと判断したのか、ナガサから指を離してくれた。
ユニも右手を引き戻し、物騒な武器を腰の鞘に刀身を戻した。
そして、改めて女の姿をまじまじと眺めまわした。
つばの広い黒い帽子で顔を隠し、長く黒いマントで全身を覆っているので、身体も見えない。
かろうじて、黒い編み上げブーツを穿いた足元と、背負った長刀の柄が左肩から覗いているのは確認できる。
ユニが彼女を見るのはもちろん初めてだが、その出で立ちには馴染みがあった。
帝国南部の農村で、何度も話に聞いた姿そのものだったからだ。
『マントと帽子を身に着け、全身が黒ずくめで、長刀を背負ったぞっとするような美女』
ユニはいきなり女の腕を引っ掴み、唖然としているエイナとカメリアに背を向け、その場から連れ出した。
そして、肩を抱くようにして、背の高い女をかがませる。
ユニは彼女の耳に顔を寄せ、掠れた声でささやいた。
「あんた、〝吸血鬼狩り〟のアデリナ――って言うより、エイナのお母さんでしょ!」
「あらあら……」
女がくすくすと笑い、それに答えようとした時、背中から声がかけられた。
「えと、あの、お母さん……ですか?」
「ひっ!」
ユニが悲鳴を上げて振り向くと、いつの間に近寄ったのか、そこにはエイナが立っていた。
彼女は今にも泣きそうな顔で、両手を胸の前で組んでいる。
ユニは慌ててアデリナを突き飛ばすと、今度はエイナの肩を抱いてさらに五、六歩先へ歩いた。
「いいこと、エイナ!
お願いだから、今は他人の振りをしてちょうだい!
あんただって、母親がダンピールだってことは、秘密にしておきたいでしょ?
シルヴィアはいつ目を覚ますか分からない。それ以上に、カメリアに知られるのが一番まずいわ。
後で必ず二人きりにしてあげるから、今は我慢してちょうだい。いいわね!!」
「そうよぉ! 帝国の軍人に〝吸血鬼の子〟だって知られたら、お母さん困っちゃうわ」
「ぎゃっ!」
いきなり耳元でささやかれたユニは、再び悲鳴を上げて跳び上がった。
「もうっ、あんたたち親子は!
お願いだから、気配を消して近づくのは止めてちょうだい!」
ユニは立ち上がり、エイナとアデリナの手を引いて、カメリアの方へと戻った。
「ずい分と堂々とした内緒話だったな。お前たち、知り合いだったのか?」
三人を迎えたカメリアが、疑うような声を上げた。
そして、凄みのある目つきでユニを睨んだ。
「どういうことか、説明してもらえるんだろうな?」
ユニは大きな溜息をついた。
「えーっとね、その説明ってのが、もの凄く難しいのよ!
まず、第一に彼女の名は、アデリナ。苗字は事情があって明かせない。
それで、あたしは彼女と会うのは初めてだけど、噂は聞いて知っている。
アデリナは有名な吸血鬼狩りよ。だから、彼女がここに現れたのも、何となく想像がつくわ。
ただ、詳しいことは何も分からない。説明してほしいのは、あたしも同じよ」
アデリナはユニに紹介されると、ようやく帽子を取った。
明かり魔法の光に照らされ、ようやくその素顔が見えた。
エイナとよく似た大きな目をしており、髪の色も同じ黒だった。
しかし、娘に比べるとずっと成熟した大人の女で、とてつもなく美しかった。
「初めまして、帝国の軍人さん。ただ今ご紹介にあずかりました、アデリナと申します。
お願いだから、あまり睨まないでちょうだいね。怖くておしっこ漏らしそうだわ」
「ふん、ふざけた口を利く娘だな。
とにかく、じっくり話を聞かせてもらおう!」
「そうね……立ったままじゃ何だから、座りませんこと?」
アデリナはそう言って、すっと地面に横座りになった。
カメリアも躊躇せず、どかっと腰をおろして胡坐をかく。土の上でもまったく気にせずに座れるのは、いかにも軍人らしかった。
エイナも黙ったまま、腰をおろして膝を抱えた。ただ、彼女の目はアデリナの顔を見詰めたままで、涙いっぱいに溜めていた。
ユニも座ったが、彼女もエイナと同様、アデリナの顔から目を離せなかった。
ユニは何年もの間、アデリナのことを調べ、跡を追い続けていた。
彼女がエイナを産んだのは、三十歳に近い年齢のはずだった。エイナはいま十九歳だから、アデリナは五十に近いということになる。
それなのに、ユニの目の前にいる女は、どう見ても二十代半ば、あるいは後半としか思えなかった。
エイナは十年ぶりに母親に会った興奮で、少女時代の記憶のままの母に対し、まだ何の疑念も抱いていないようだったが、冷静になればこの異常さに気づくだろう。
それにしても、この見た目は無茶苦茶である。何も知らないカメリアが、アデリナを年下と見做して〝娘〟呼ばわりしたのも当然であった。
* *
「まず、ジルドとかいう吸血鬼はどうした!」
まず最初に、カメリアが尋問口調で詰め寄った。
「逃げたわ……って言うか、見逃してあげたと言った方が正確かしら」
アデリナは顎に人差し指を当て、可愛らしく小首を傾げた。仕草までも娘そのものである。
「だが、奴は私の魔法をまともに受けて、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。
カーバンクルの言うことを信じれば、シルヴィアによって首まで刎ねられたと言うではないか。
そんな状態で、どうやって逃げることができた?
それ以前に、止めを刺そうとしていたシルヴィアを、なぜ貴様は襲ったのだ?」
「やだぁ、それだと、まるであたしが〝悪者〟みたいじゃない。
違うのよ。あたしは、そのシルヴィアちゃんを――いえ、あなたたち全員を救ってあげたのよ。いわば命の恩人ね」
「ふざけたことを抜かすな!
奴は瀕死の状態で、反撃する力などもう残っていなかったはずだ!」
「ジルドはね」
アデリアはうなずき、顎に当てていた人差し指を立てて、左右に振ってみせた。
「でも、そこが甘いのよ。
あなたたちの戦いは、こっそり覗いていたわ。
ねえ、エイナちゃん。あなたが出した炎系の魔法って、ジルドに通じなかったでしょ?」
エイナは鼻をすすり上げながら、こくんとうなずいた。声を出したら泣いてしまいそうだった。
「ジルドは真祖じゃないのよ。あくまで眷属に過ぎないわ。魔法を無効化する能力なんて、持ってるわけないのよ。
あれは、あいつの主人である、ベラスケスの能力だわ。
ほら、ジルドは粘性のある闇を身にまとっていたでしょ? ベラスケスはあれを利用して、自分の眷属を守っていたのよ」
だが、カメリアの追及は続いた。
「しかし、そのベラスケスとやらは、帝国の南部に巣食う吸血鬼であろう?
南部のどこにいるかは知らんが、少なくともここから七、八百キロ、下手をしたら千キロも離れているかもしれない。そんなことが可能だとは、俄かには信じがたいな」
「吸血鬼にとって、闇の世界では距離や時間なんて意味を持たないのよ。
ベラスケスは有力な眷属を失い過ぎたの。
だから、ジルドを王国に派遣するに当たって、万が一にも彼が滅びないよう、保険をかけたのね。
満足に再生ができなくなっていたジルドの残骸を、連れて行ったのは人の形を成した闇だったわ。それはベラスケス本人の姿だと言い換えてもいいわね」
アデリナはいったん言葉を切り、呼吸を整えた。
「さて、ここで問題です。
もし、シルヴィアちゃんが、あのままジルドに止めを刺そうとしていたら、ベラスケスはどうしていたでしょう?」
「あの闇が、シルヴィアと戦っていた……のか」
「あら、惜しい。でも、あの闇はジルドとベラスケスをつなぐ、魔法の通路みたいなもので、それ自体に戦闘能力なんてなくってよ。
だから、本当に緊急事態で眷属を救う必要が生じたら、ベラスケス本人が出てくるしかなくなるのね」
「千キロも離れているのにか?」
「だーかーらぁ、距離は関係ないって言ったでしょ!
もちろん、そんな無茶をすれば、いくら真祖でもごっそりと寿命を削る羽目になるから、滅多にできることじゃないわ。
だけど、今のベラスケスにとって、残り少ない直系の眷属は、絶対に失いたくない手駒なのよ。だから、リスクを覚悟で出てきたでしょうね。
そして、もし彼が現れたなら、その原因を作ったあなたたちを、絶対に許さないわ」
「真祖とは、そんなに強いのか?」
「ええ。いくらあなたたちが魔導士や召喚士であっても、勝ち目はないわね。
あたしがいたとしても、自分の身を守って逃げるのが精一杯だわ。
だから、あたしはシルヴィアちゃんを止めて、ジルドを見逃したの。
あたしが〝命の恩人〟だって言った意味、分かってくれた?」
「……ああ。ひとまず貴様の言うことは信じよう」
カメリアは渋々とうなずいた。
カメリアは艶然と笑ってみせた。
「あら、素直じゃないのね。もっと褒めてくれてもいいのよ?」
だが、その細められた目の奥には、ぞっとするような冷たい光が宿っていた。