二十八 黒球
爆発が起きた――そう思ったのは、吸血鬼であるジルドだけであった。
襲われたユニと、カメリアを助けるべく駆け寄ってきたエイナ、シルヴィア、オオカミたちも、そしてユニ自身ですら、爆音など聞かなかったし、衝撃波も感じなかった。
彼女たちは、ただユニの胸のあたりから、強烈な光が生じたことに驚いただけであった。
だが、ジルドは確かに爆発を感じていた。
物理的な衝撃とともに、焼けつくような痛みが襲ってきたのだ。
彼はすぐにその正体に気づいた。
記憶に刻みつけられた恐怖が甦る。それは吸血鬼が唯一恐れる、太陽光に曝された記憶であった。
剥き出しの顔と手は、一瞬で焼け爛れた。
外皮が収縮して血が噴き出し、ピンク色の肉が引き攣って醜いケロイドとなり、瞬時の再生を許さなかった。
衣服に覆われている部分は、外見上無事に思えたが、実はその内側では同じ現象が起きていた。
「があぁぁぁぁーーーっ!」
顎が外れたように大きく開けられた口から絶叫を撒き散らし、ジルドは後方に跳び下がった。
着地をした瞬間に地を蹴って跳躍する。これを何度も繰り返し、彼の姿はあっという間に夜闇に紛れてしまった。
「ユニ先輩、大丈夫ですか!」
駆けつけたシルヴィアがユニの上半身を抱きかかえ、悲鳴にも似た叫び声を上げた。
エイナが地面に転がっている晒布を引っ掴み、血だらけになった裸の胸に押し当てた。
血を拭い取ると、傷口から鮮血が小さな玉となって、ぷくっと浮かんでくる。
「平気、傷は深くないわ。
そこに落ちている傷薬を塗ってちょうだい。包帯を巻いて押さえつければ、すぐに血が止まるはずよ。
あと、悪いけど上着を貸してくれる?」
吸血鬼の爪で切り裂かれたため、ユニの両の乳房は剥き出しになっていた。
鍛えているせいか、年齢の割に垂れておらず、色白で小さな乳首は薄い色をしている。
「何ですか、この光?」
とりあえずユニの無事が確認できたことで、エイナはホッとした。
そして、吸血鬼を追い払った光の正体に意識が向く。
光を発しているのは、細い鎖で首から下げられた小さな石だった。
それが真っ二つに割れ、その断面が直視できないほどに輝いている。
ただ、割れた瞬間こそ、強烈な光で周辺一帯を昼間のように変えたのだが、今はランプ程に弱まり、どうにか彼女たちだけを明かりで包んでいるに過ぎない。
「太陽石よ。あんたたちも見たことあるでしょう?
昔、ドワーフから貰ったの。でも、割れたら光るなんて、あたしも知らなかったわ」
太陽石はドワーフが掘り出す特殊な鉱石で、陽の光に当てるとそれを吸収する。
数日外に放置するだけで、半月以上は光を放出してくれる、便利な代物である。
とはいえ、使えるのは洞窟や完全に閉鎖された建物内などに限られ、地上においては夜になっても光らない。
ドワーフたちの説明では、夜でも大気には太陽光が残留しており、石はそれを吸収し続けているからだという。
エイナはユニの傷口にべたつく薬をたっぷり塗り込み、きれいな晒布を当ててから、包帯を襷のように巻いた。
そして、自分の軍服の上着を脱いで、ユニの肩にかけてやった。
* *
「おい、のんびりはしていられないぞ!」
胡坐をかいていたカメリアが立ち上がり、周囲を見渡した。
実際には彼女の方が遥かに重傷で、ユニの手当てによって血は止まっていたが、肩が包帯でがちがちに固められ、左腕はだらんと垂れ下がっていた。
「その太陽石とやらの光が消えれば、奴はまた襲ってくるはずだ。
くそっ、どこに行ったか、暗くて全然見えんな」
エイナはユニの世話をシルヴィアに任せて立ち上がり、吸血鬼が去った方角の暗闇に目を凝らす。
「東南東、およそ八十メートルほどの畑の中です」
カメリアはあんぐりと口を開けた。
「お前……見えるのか?」
「はい。私は生まれつき夜目が利きますから。
吸血鬼はまだうずくまっています。太陽光に焼かれて、回復に手間取っているのではないでしょうか」
「ふむ……それだけ離れているなら、かえって都合がいい。
おい、エイナ。貴様、奴に向けてファイア・ボールを撃て」
「しかし、あの男は先程その魔法を無効化しました。
もう一度やっても、同じ結果だと思いますが……」
「馬鹿者! 上官の命令には黙って従うのだ」
叱り飛ばされたエイナは『私、あなたの部下じゃないんですけど』という言葉を呑み込み、高速で呪文の詠唱を始めた。
「不満そうな目だな」
エイナの表情をちらりと見たカメリアが、にやりと笑った。
太陽石の明かりに下から照らされた彼女は、痛みのためか額に脂汗を浮かべ、鬼気迫る表情をしていた。
「見ていろ、私の身体に穴を空けた報いを、きっちり思い知らせてやる!」
カメリアはそう言うと、無事な方の右手をすっと上げた。
それと同時に、地面が小刻みに揺れ、地響きが起きた。
カメリア以外の者たちは、驚いて辺りを見回した。
彼女たちは小麦畑の中にいたが、その土がぼこりと盛り上がり、巨大な土塊となって宙に浮かび上がっていた。
浮き上がった土塊は三つ。それが地上数メートルの高さで静止している。
カメリアが〝バリスタ〟を撃とうとしていることは、明白だった。
「あんた、この泥団子で吸血鬼を倒すつもり?
鎧騎士にパイを投げるようなものじゃない」
ユニが呆れたような声を上げた。
だが。カメリアは自信満々だった。
「黙って見ていろ!」
彼女は広げていた手で何かを掴むように、ぎゅっと握りしめた。
すると、浮き上がっていた土塊がぐるぐると回転を始め、そこから物凄い量の泥水が、滝のように流れ落ちた。
直径五、六メートルもあった巨大な土の塊りが、みるみる収縮していく。
最終的に、土塊は直径一メートルほどの完全な球形になった。太陽石に照らされ、滑らかな表面がてらてらと光っている。
「私のバリスタが、なぜ戦場で恐れられているか教えてやろう。
私は撃ち出すべき岩石など必要としないのだ。ただ地面さえあれば、それを重力で圧し固め、石と変わりない威力を生みだせるからだ。
エイナ、準備はできたか?
私には敵の姿が見えないが、魔力なら追える。後は説明不要だろう!」
エイナはすべてを了解した。
カメリアはファイア・ボールの光跡を頼りに、バリスタを撃ち込むつもりなのだ。
言われなくても呪文詠唱は終えていた。
エイナの伸ばした手の先に、小さな白い光球が発生し、弾かれたように飛び出した。
数秒遅れて、宙に浮いていた三つの球体も、ごうっと唸る風を巻き起こしてその跡を追った。
見送る女たちの周りに、土臭い空気が漂っていた。
* *
ジルドはまだ地面に片膝をつき、立ち上がることができないでいた。
焼けて剥がれた皮膚の下には、やっと薄い膜が張ってきたが、まだじくじくと浸出液が染み出してくる。
彼は俯いたまま歯を食いしばり、紳士らしからぬ呪詛を吐き出していた。
「くそがっ、クソが! 糞ったれがぁーーっ!
卑しい人間の分際で、よくも高貴なこの俺様にぃぃぃぃ……ぶっ殺してやるぁぁぁーーーーっ!!」
完全に油断していた。長い年月を生き延びてきた彼は、太陽石の存在を知っていたが、まさか人間が持っているとは思いもよらなかったのだ。
真祖の血を与えられた自分だからこそ、これくらいで済んだ。
これがもし、下っ端の眷属であったら、一瞬で灰になっているところだった。
目尻に悔し涙を滲ませながら、彼はようやく顔を上げた。
人間の女どもが固まっているあたりでは、まだ忌々しい明かりが、ぽつんと灯っている。
相当の距離を取ったから害はないが、見るだけで目がひりついてくるようだった。
ただ、その光は明らかに弱まっている。もう少し待てば、消えてくれるだろう。
『あのクソども、どうやって殺してやろうか……』
全身を苛む痛みを忘れるために、ジルドはそれだけを考えていた。
四人の女のうち、二人は若かった。あの小便くさい匂いは、処女特有のものだ。
年増の二人は不味いだろうから、頭を叩き割って殺してやる。
処女の方は手足を折って自由を奪い、かわるがわる犯して血を吸い尽くしてやろう。
そう考えると、久しぶりに処女を奪える期待に、股間が膨張してきた。
考えてみれば、王国入りしてから男の血しか吸っていなかった。
それも一週間も前の話だ。
彼は〝オークを眷属に仕立てる〟という任務を、ふいに思い出した。
いくら主人の命とはいえ、吐き気を催すような仕事である。
いくらか冷静になると、複数のオークに血を与えるためには、二人の女の血では不十分だと気づいた。
ならば、年増の方もすぐに殺さず、魅了をかけて、後でゆっくり血を吸った方がいいかもしれない。
成人の血液量は、女でも四リットルを超す。一度に大量の生き血を吸うと、血液酔いを起こすからである。
ジルドが妄想に耽っている間に、肉体の修復は確実に進んでいた。
壊死した皮膚がようやく再生し、ひりつく痛みもだいぶ楽になった。
彼は膝についた土を払い、震える足で立ち上がった。誰かが見ているわけではないが、膝をついた姿は屈辱的に思えたのだ。
そして、吸血鬼は闇を見通す視力で、改めて敵の様子を観察しようとした。
「何だ、あれは?」
女たちの周囲に、何やら黒っぽい球体が浮かんでいる。
何かの魔法だろうか。さっき見た時は、そんな物などなかったはずだ。
いずれにしろ、下等な人間の魔法など、この自分には通用しない。
召喚士もいるようだが、ただのオオカミと未成熟のカーバンクルなら、恐れるに足りない。
一体人間どもが何をするつもりなのか、彼は興味を抱いて眺めていた。
すると、女の一人からチカッと何かが光った。
その小さな光は、真っ直ぐにこちらに向けて飛んでくる。
『炎系の魔法だな。選択は間違ってはいないが、無駄だということを学習しなかったのか?』
ジルドは呆れてしまった。
炎系の魔法は他系統に比べ、耐性のある吸血鬼にも効きやすい。
だが、彼くらいの経験を積んだ吸血鬼は、身にまとう闇の力で、それすら打ち消すことが可能だった。
それは先ほどの戦闘で、はっきりと思い知らせたはずである。
だから彼は逃げなかった。その必要がないからだ。
だが、その判断が致命的な事態を招いてしまった。
向かってくる魔法の光に気を取られるあまり、その背後から追ってきた、巨大な黒球に気づくのが遅れたのだ。
ジルドは黒球に気づいた瞬間、当然に避けようとした。
しかし黒球は三つ、それが並行して飛んでくる。左右どちらに動いても無駄だった。
彼はその刹那に覚悟を決めた。正面から受け止めようとしたのだ。
その結果を、吸血鬼は自らの身体で知ることとなった。
確かに、黒球が彼の肉体に触れる直前、魔法効果は失われた。
横方向に捻じ曲げられた重力が、元に戻ったのである。
しかし、だからといって慣性は失われず、現実の物質である黒球が消滅するわけでもない。
カメリアとジルドの距離は約八十メートル。
要するに、彼はその高さから落ちてくる、重量二トンを超す岩石をまともに受けたことになる。
一瞬で全身の骨が砕け、肉がひしゃげ、内臓が飛び出した。
顔が潰れ、眼球が左右に飛び出し、頭蓋骨が粉々になって脳漿が弾けて拡散した。
肉体の残骸が十メートル近く撥ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。
黒球はその遥か先で地面に落下し、ごろごろと転がっていった。
ぐちゃぐちゃの肉塊になったジルドは、地面に大の字になったまま、びくびくと痙攣を繰り返していた。
もう人間の形状を保てなくなっても、吸血鬼は再生を始めていた。
だが、人間たちも甘くはなかった。
ジルドの真上から火の玉が連続して降ってきて、すべて直撃した。
シルヴィアを乗せたカー君が、上空から追撃を行ったのだ。
せっかく再生を開始した肉体が、激しい炎に包まれ、黄色い脂肪が沸騰して燃え上がった。
吸血鬼のすぐ近くに着地したカー君から、シルヴィアが降りてきた。
彼女は抜身の剣を片手に、まだくすぶっているジルドを見下ろした。
吸血鬼の砕けた頭は、まだ頭蓋骨が完全に再生されておらず、半ば剥き出しになった脳が熱によって真っ白に収縮していた。
できかけの眼球は蒸発し、黒い眼窩に白い膜だけがへばりついている。
表面が焼け焦げ、茹でられたクラゲのようなぶよぶよの物体――それが、彼の頭部の現実だった。
シルヴィアは無表情に剣を振り下ろした。
頚椎と気道、紐のような血管が剥き出しになっている首が切断され、同時にぼっと炎が上がった。
彼女は切断された頭部を、軍靴で蹴り飛ばした。
畑の土にまみれて転がったそれは、あっという間に崩壊して黒い灰となった。
だが、残った身体の方は、相変わらず再生を続けていた。
下っ端のように、首を刎ねれば終わり……とはいかないらしい。
燃えた首の切断面も、じゅくじゅくと泡立って、新たな頭部を生みだそうとしていた。
「呆れた再生能力だわ」
シルヴィアはうんざりとした表情を浮かべ、大きく溜め息をついた。
『どうするの? 僕が火球で焼き続けようか?』
「いいえ、手足から順に切り刻んでやるわ。
切り離された部分は消滅するみたいだから、繰り返していけば、最後に核となる部分が残るはずよ。
それすらバラバラにされれば、さすがに滅びるでしょう」
シルヴィアはそうつぶやくと、再び剣を振り上げた。
その途端、彼女の視界が暗転し、意識がぶつりと途切れた。
最後に記憶に残されたのは、一度も聞いたことのない、カー君の獰猛な咆哮だった。