二十五 炭焼き小屋
「……いつから気づいていたの?」
ユニは酷く疲れたような顔をしていた。
「両親が――というより、母が父と出会う以前から、吸血鬼狩りをしていたという話を聞いてからです。
父は爆裂魔法が使えるほどの魔導士ですから、まだ分かります。
ですが、いくら母が武術の達人であったとしても、普通の人間が吸血鬼と戦えるはずがありません。
私の治癒力や闇に潜る能力のことを考え合わせると、母が私よりもさらに強い能力、即ち吸血鬼のそれを受け継いでいる……という答えしか出てきません」
ユニは小さく溜め息をついた。
「証拠はないの。あたしが二度も帝国に渡って調べた結果、〝そうじゃないか〟って推測しただけなのよ。
あたしは吸血鬼に襲われ、あなたのお母さんに救われたという村を回って、丹念に村人たちの話を聞き取ったの。
あなたのお母さんはダンピールっていう、吸血鬼と人の間に生まれたハーフだと思うわ。
滅多にあることじゃないらしいけど、過去に何度か出現した記録が残っているそうよ」
「母の父、つまり私の祖父は、オルロック伯爵ですか?」
「分からない。でも、可能性はあるわね。
ごめんなさい。さっきも言ったように、あたしは物証を何も持っていないのよ。
いつか、エイナがお母さんと再会した時に、直接彼女の口から聞くしかないわね」
エイナはこくんとうなずいた。その答えは、予想していたのだろう。
「分かりました。軍ではどこまでこの話を知っているのですか?」
「あたし以外では、蒼龍帝とマリウスだけよ。女王陛下も知らないはずだわ」
「そう言えば、ユニさんに調査を命じたのは、シド様でしたね?」
「ええ。蒼龍帝は、あなたが最初に闇の通路を使った話を聞いた時から、この可能性に気づいていたわ。
若いけど、恐ろしい人ね。
エイナはシルヴィアに打ち明けるつもりなの?」
彼女は首を横に振った。
「いえ。母に会って、確かなことが分かるまでは、黙っているつもりです」
ユニはようやく笑みを取り戻した。
「それがいいわ。
とにかく、エイナに吸血鬼の血が流れているとしても、それは薄いものだわ。
あんたは普通の人間とあまり変わらないんだから、あまり悩まないことね」
「はい。それじゃ、ちょっと行ってきます!」
エイナも微笑み返し、吸血鬼が消えたという床の上に立った。
足元の闇が、ねっとりとした粘液のように波立ち、彼女の身体をゆっくりと呑み込んでいった。
* *
エイナが闇の世界に潜るのは、これが四度目である。
実を言うと、オークの住居に入った時に、彼女はすぐに闇の入口に気づいていた。
暗がりの中に、淡い青色の光が浮かんでいたからだ。
だが、オークの家族はもちろん、ユニやジャヤもそれに気づく素振りを見せなかった。
どうやら、吸血鬼の痕跡は、エイナにしか見えていないらしい。
闇に全身が沈み込むと、例によって重力の喪失とともに、上下前後左右の方向感覚が一切失われた。
しかし、今回は蒼白い光の痕跡が、この場からずっと遠くまで続いているのが見えた。
『これを辿っていけば、オークの女の子たちを幽閉している場所に行けるはずね』
エイナはそう確信し、足を踏み出そうとした。
ところが、その前に身体が移動していることに気がついた。と言っても、周囲の風景は真っ暗なままだし、顔に空気が当たるわけでもない。
ただ、足元の光の跡が、もの凄い勢いで自分の方に向かってくるのが見えた。
彼女が慌てて後ろを振り返ると、光跡が遥か遠くまで続いていて、どんどんと流れていく。
それでやっと、光ではなく自分自身が移動していると気づいたのだ。
この前、オルロック伯の案内で闇に潜った際、『行き先がはっきりイメージできれば、それだけでよい』と言われたとおりである。
今回は行き先は分からなくても、〝目に見えている光跡を追いたい〟というエイナの意志が大切なのである。
体感時間で十分ほどであろうか、エイナの移動が不意に止まった。
延々と続いていた細い光跡が途切れ、同時に彼女の身体が浮き上がり、頭が半分地面に出た。
周囲は真っ暗だったが、今までの闇の世界とは、雰囲気がまったく違う。
ひんやりとした空気に乗って、乾いた木と灰の臭いが鼻腔をくすぐった。
普通の人間なら何も見えなかっただろうが、エイナは夜目が利いた。
これも吸血鬼の血の恩恵なのだろう……彼女は改めてそう気づいた。
そこは土とレンガでできた、小さなトンネルのような場所だった。
エイナは腕を出して、灰が薄く積もった床に手をつき、身体を闇の中から引き上げた。
先の方にレンガ造りの通路があり、その奥から微かに外光が入ってきている。
通路は狭く、人一人が屈んでやっと通れるくらいの高さしかない。
この通路の奥が、どうやら出口らしい。
潜り込んだ彼女が手で押してみると、わずかな抵抗を感じただけで、扉はばたんと外側に倒れた。
外から強烈な光が差し込んできて、エイナは思わず目をしばたたいた。
扉だと思っていたのは単なる木の板で、穴を塞ぐだけのものだった。
エイナは四つん這いになって外に出た。手や膝が、煤で真っ黒に汚れていた。
立ち上がって振り返ると、ようやくこの構造物の正体が掴めた。
辺境育ちのエイナは、それをよく知っていた。炭焼きの窯である。
炭焼きの季節は冬であるから、夏の今は放置されているのだろう。
炭焼き窯があるということは、近くに炭焼き人が寝泊まりする小屋が、必ずあるはずだ。
エイナは慎重に森の中を進んでいった。
案の定、二十メートルと進まない内に、樹木を切り拓いた小さな空き地が現れ、そこにちんまりとした丸太小屋が建っていた。
小屋の周りを、赤い花を咲かせた低木が取り囲んでいるのが印象的であった。
丸太小屋の蔀窓は閉じられていて、人気は感じられない。
今は夏だから、人がいるなら必ず窓を開けて、風を通しているはずである。
エイナは巨木の陰から顔を覗かせ、そっと小屋の様子を観察しただけで、戻ろうと決心した。
今は昼間だから、吸血鬼の活動時間ではない。
だが、閉め切った小屋の中なら、吸血鬼が起きて見張っていることが十分に考えられる。
うかつに近づいて彼らに警戒されては、計画そのものが台無しになってしまう。
彼女は再び炭焼き窯に入り、内側から入口を板で塞いでから、再び闇の通路の中に沈み込んだ。
帰途もあっという間に移動を完了し、エイナはもとの掘立小屋の床から、ぽこんと頭を出した。
すぐ側にユニが立っていて、手を差し伸べてくれた。
エイナは冷たい土間の上に転がり出ると、足を開いたままうつむいて、どうにか呼吸を整えた。
オルロック伯の言うことを信じれば、闇の通路を使うことで、エイナは寿命を縮めていることになる。
全身に感じる気持ちの悪い倦怠感は、そのせいなのかもしれない。
「大丈夫? それで、どうだった?」
ユニがエイナの背中をさすって按じながら、急かすように訊ねてきた。
エイナは顔を上げ、どうにか笑顔を作ってみせた。
「思ったとおりです。
吸血鬼は、辺境のどこかの村近くにある、炭焼き小屋に潜んでいるみたいです。
多分、オークの娘たちも、そこに囚われているのだと思います」
「辺境に? いや、……ああ! そういうことね」
一瞬驚いたユニだったが、すぐに納得したようにうなずいた。
吸血鬼たちは、できるだけ人目につかない場所に潜伏する必要があった。
炭焼き小屋は大森林の中、と言っても、せいぜい森の境界から五キロ程度入ったところにあるのが普通だ。
ちなみに、タブ大森林は針葉樹林であるため、辺境で生産される炭もそれを原料としている。
針葉樹炭は着火性が非常に良いので、すばやく屋内を暖めることができる。ただし、その分燃焼時間は短くなる。
一方で、広く普及している広葉樹林炭は火持ちがよく、料理屋などで重宝されていた。
辺境で生産される炭は、ほとんどが地元で暖房用に消費されるため、針葉樹炭で問題はないのだ。
とにかく、原料を森に依存しているので、必然的に炭焼き小屋は森の中に作られる。
つまり普段、里人が出入りする(薪や山菜等を採るため)浅い地域よりも、奥まった場所にあるのが普通なのだ。
村とは隔絶された森の中で暮らすため、炭焼き人は変わり者が多い。
冬の間だけ炭を焼き、それ以外の季節は村で農耕に従事する者もいるが、多くはそのまま炭焼き小屋を拠点として動物を狩り、毛皮や肉を売って生計を立てている。
「いくら吸血鬼が闇の通路を使えても、何百キロも離れた帝国の本拠地まで往復するはずがないわ。
オークの村と無理なく行き来ができて、人目につかない森の一軒家。
足を延ばせば餌となる人間が住んでいて、人質に与える食糧も奪うことができる。
辺境の炭焼き小屋は、うってつけの場所よね。
それで、その小屋の特徴は何か覚えている?」
「えと、あの……ごく普通の丸太小屋でしたけど、家の周りにたくさん赤い花が咲いていました。
遠目から見ただけですが、多分、サルスベリの花だと思います」
「ああ、なるほどね。
それなら、キルト村のメド爺さんの小屋だわ。
あたしの住んでいるカイラ村より、だいぶ南の小さな開拓村ね」
「どうしてそこまで分かるんですか?」
エイナが驚きの声を上げたのを見て、ユニが少し得意そうに鼻をうごめかした。
「あたしが何十年、辺境で暮らしていると思っているの?
辺境のどんな村だって、十回以上は行っているのよ。
メド爺さんはお花が好きでね、小屋の周りにたくさんサルスベリを植えて自慢していたわ。
吸血鬼にやられていなければいいんだけど……」
「とにかく、場所が分かったなら、すぐに行動を起こさないとね。
シルヴィアたちと合流しましょう!」
* *
エイナが闇の通路を使って、偵察に費やしたのは一時間ほどだった。その内移動には二十分しか使っていない。オークの里からキルト村までは、百二十キロも離れていたのに、である。
二人がオークの住居から出ると、ちょうどシルヴィアとカメリアが村に戻ってきたところだった。
川で髪と身体を洗って、予備の服に着替えたカメリアは、見違えるほどさっぱりとした格好になっていた。
シルヴィアから上等の石鹸を借りたらしく、ふんわりと花の香りすら漂っていた。
彼女はかなり上機嫌で、檻の中では険しかった顔が、ずいぶんと穏やかになっていた。
顔の汚れがなくなったお陰で、鼻の周りのそばかすが目立っていて、皺にさえ目をつぶれば、少し男の子っぽい少女(実際は一児の母だが)のようだった。
彼女たちは再び宿舎に集合し、エイナから人質の居場所が推定できたと明かされた。
カメリアとジャヤは、なぜそれが分かったのか不思議がったが、この二人に闇の通路のことを教えるわけにはいかない。
エイナは「軍機に関わること」だからと、質問を突っぱねざるを得なかった。
シルヴィアは何となく察したらしく、何も言わなかった。
ユニが床の上に地図を広げると、すかさずエイナが魔法で明かりを呼び出した。
「あたしたちがいるのがここ。キルト村はこのあたりね。それで、問題の炭焼き小屋は、この辺りかしら」
彼女はそう説明しながら、地図の上に×印をつけた。
「今はまだ、十時くらいよね。うちのオオカミたちの足なら、夕方になる前に着けるわ。
シルヴィアはカー君に乗って、キルト村に先乗りしてちょうだい。
肝煎と交渉して宿を確保するのと、情報収集ね。
メド爺さんの消息と、最近村で不審死や行方不明者がなかったか、訊き出してほしいの」
シルヴィアがうなずきながら地図を覗き込み、頭の中に位置関係を叩き込む。
「誰かオークの戦士を同行させてはいただけないでしょうか?」
ジャヤが申し出た。
「それは不可能よ。さすがにあたしのオオカミたちでも、オークを乗せては走れないわ。
それに、人間の村に行くのよ? オークが現れたらパニックになるのが目に見えている。
だから、ジャヤも連れて行けないの」
「でもっ! それでは人質の子たちとの通訳ができません」
「大丈夫よ。女の子たちは、全員あたしとオオカミたちのことを知っているでしょう?
あたしの顔を見れば、助けに来てくれた味方だって分かってくれるわ」
ジャヤは渋々納得し、人質となった三人の女の子の名前を伝え、「くれぐれも頼みます!」と何度も頭を下げた。
「私はどうするのだ?
この村には、馬がいるようには思えないが……」
カメリアが少し不満そうに訊ねた。
ユニがにやにやしながら答えた。
「何を言ってるのよ、話をちゃんと聞いていた?
あんたもオオカミに乗るのよ。
マグス大佐なんか、結構上手に乗りこなしていたわよ。
お○○○が腫れて痛いって、散々文句を言ってたけどね!」