十八 闇の空間
何故そんなことをしたのか、後になってエイナは何度も質問されたのだが、彼女はうまく答えることができなかった。
いつ隣の部屋から男たちが入ってくるか分からないという焦りの中、何かに縋りつきたかったとしか説明できないのだ。
暗い闇の中に伸ばした足の踵が、こつんと堅いものに当たった。
板張りの床である。
エイナは演習の場から連れ去れたままの恰好であるから、軍服を着て、足には軍靴を履いていた。
それは編み上げ式の革のショートブーツで、その底は釘など踏み抜かぬように堅く、分厚くできている。
なるべく音を立てないよう、その踵で押したり揺すったりしてみたが、床板はまったく動かなかった。
妙にこの場所に惹きつけられたのだから、ひょっとして隠し通路があるのかもしれない――そんな甘い期待は、あっさりと打ち砕かれた。
『どう?』
シルヴィアの押し殺したささやき声が聞こえた。
その途端、エイナは自分が彼女に無駄な期待を抱かせたのだと気づき、激しい罪悪感に囚われた。
エイナは答える言葉を見つけられないまま、必死に頭を回転させた。
自分は魔導院の五年以上にわたる厳しい教えの中で、何を学んできたのか?
思い出せ!
思い出せ!
思い出せ!
強く念じ続けるうちに、ふいにケイト先生の優しい顔が浮かんできた。
「呪文の詠唱に入る時に一番重要なのは、ただ呪文に集中して無になることです。
唱えている間は、あらゆる雑念を心から追い出しなさい。
呪文のリズムに身を委ねるのです。余計なことを少しでも考えると、リズムと音階に乱れを生じ、たちまち魔法は暴走してしまいます」
そうだ。発火の魔法をこっそりと試した時、自分は一瞬だが級友のミハイルに負けまいとして、彼の表情を窺った。
その結果、魔法は見事に失敗し、自分ばかりかミハイルにまで怪我を負わせたのだ。
ケイト先生の顔が消えると、今度は軍事教練の教官だったホーク大尉の顔が浮かんできた。
「いいか、戦闘中は頭を空っぽにして、余計なことは考えるな。
お前らの未熟な頭で考えることは、まず役に立たんと思え。
それよりも、訓練で戦いの機微を繰り返し叩き込まれた身体の方が、よほど賢い判断をしてくれる。
だから自分の〝勘〟は信じてもいい。勘という奴は、要するに経験を積んだ身体がささやいてくれる、助言のようなものだ。その声に従っている内は、悪いことはそうそう起きん。
よく覚えておくんだな」
二人とも、エイナが心から尊敬している導き手だった。
彼女は大きく深呼吸をして、気持ちを静めた。
心を無に、自分の勘を信じて身を委ねる。
ただそのことだけに集中して、彼女はもう一度、暗い空間に足を差し入れた。
宙に浮かせた両脚を、すうっと下ろしていく。その先には何もないのだと心にイメージして、ただ闇に身を任せた。
力を入れた腹筋が緩んでいき、軍靴の重みで自然に足が下がっていった。
ふと気がつくと、エイナは膝のあたりまで闇に沈んでいた。
冷たく堅い板張りの床だった場所が、まるで小さな池に変わってしまったかのようだった。
ゆっくりと足に力を入れて動かしてみた。
闇の中は、水というよりも生暖かい油――少し粘度を感じさせる液体のような感じがした。
それを自分の両脚がゆっくりと掻き回している。
しかも、足首が縛られているはずなのに、左右の足が別々に動かせる。
一体自分の身に何が起きているのか、エイナの理性は事態を把握できずに混乱していたが、〝勘〟は『よし、いける!』とささやいていた。
彼女はそのまま身体を滑らせるようにして、闇の中に沈んでいった。
膝から太腿、そして丸いお尻が沈むと、身体の重心が地下に移り、ずるりと全身が闇に引き込まれていった。
そのまま一気に頭まで沈み込む。
反射的に目をつぶり、息を止めた。
恐るおそる目を開くと、周囲は完全な闇の中だった。
黒い油の中に浮かんでいるような感じだったが、身体が濡れているという感覚はない。
彼女の黒い髪の毛も、さらさらと顔や首に触れていることが分かる。
エイナは思い切って息を吐いてみた。思ったとおりに泡は出ない。
勇気を出して、今度は息を吸ってみる。
生温かくとろりとした闇が肺に吸い込まれていったが、むせることはなかった。
苦しくはない。息ができている。
彼女は少し安心して、改めて自分の身体を見回そうと身体をよじった。
その拍子に、後ろ手に縛られていた両手が、ふいに自由になった。
驚いて手を前に回してみると、手首に巻きついているロープがぷっつりと切れていた。
完全な闇の中のはずなのに、何故か自分の手を(というか、身体全体が)はっきりと見ることができた。
ロープの切断面は刃物で切ったのではなく、引きちぎったように不揃いだった。
試しに、まだ手首に巻きついているロープを指で摘まむと、軽く力を入れただけで粉々の糸くずになった。
この闇の中では、ロープが脆くなるのか、それとも自分の力が極端に強くなるのか分からないが、とにかく身体の自由を取り戻せたのは朗報だった。
エイナは上を見上げてみた。そこには自分が潜り込んだ入口があるはずだが、真っ暗で何も見えない。ただ、そこから上に出られると〝勘〟がささやいている。
水中で泳ぐように、両腕で大きく左右に闇をかいてみる。
腕には何の抵抗も感じられないが、自分の身体が浮き上がるように進んでいることは、何となく分かった。
床から頭が出た瞬間に、鼻腔からさまざまな刺激を伴った空気が肺に流れ込んできた。
黴臭く澱んだ部屋の臭い、巻き上がった埃、そして少し汗の匂いが混じった香油の香り――それはシルヴィアのものだとすぐに分かった。
そのことで、今まで潜っていた闇の空間が、完全な無臭の世界であったことが強く印象付けられた。
『シルヴィア』
エイナが小さな声でささやく。
『エイナ! エイナなの?』
シルヴィアが声のした方向を見ながら、焦りと安堵の入り混じった声を出した。
彼女には相変わらずエイナが見えていないようだったが、真の闇に浸かっていたエイナの目には、シルヴィアの表情まで完璧に視認できた。
金髪の美少女の目尻には涙が滲み、鼻水が垂れていた。
シルヴィアは手を闇雲に伸ばし、エイナの頭に当たると、ぺたぺたと手で髪や頬、唇、床板まで触りまくった。
『ちょっ! え? 何! エイナ、あんた床から首が生えているわよ!
どういうこと? 床に穴でも開いていたの?
さっきまで手探りで触っていたけど、確かにただの床板だったわ。
あんたの気配が急に消えたから、あたし怖くて叫びそうになったのよ!
一体何が起こっているの?』
シルヴィアの疑問はもっともだったが、今は詳しく説明している暇がなかった(というか、エイナ自身が事態を掌握しきれていなかったのだ)。
『説明はあと。
とにかく、ここから逃げられそうだわ。あたしに付いてきて!』
エイナはそうささやくと、自分の頬を触っているシルヴィアの手首を掴んだ。
そのまま〝どぷん〟と闇の中に沈み込む。
しっかりと掴んだシルヴィアの腕が引きずり込まれ、その瞬間、シルヴィアは耐えきれずに悲鳴を上げた。
だが、同時に彼女の全身は濃密な闇の中に呑まれてしまったのだ。
* *
シルヴィアの悲鳴は隣の部屋にまで聞こえていた。
「何だ? 娘っ子が騒いでいるな」
「大方、目を覚ましたんだろう。どうせ縛り上げているんだ、問題はない。
ちょうどいい、そろそろ馬車が来る頃だ。誰か猿轡を噛ませてこい」
リーダーらしき男の低い声に、部下の一人が立ち上がった。
彼は汚いテーブルの上に置かれていた、ランプと汚い晒の布を鷲掴みにすると、面倒くさそうな表情で隣の部屋に通じる扉を開けた。
そこには分厚い生地の毛布が下がっていたが、部下の男はうるさそうに片手で引き剥がした。
小さな物置部屋の中に、男の持ったランプの光が差し込み、殺風景な部屋の様子が露わになった。
だが、そこには誰もいない。
男は慌てて中に入っていき、奥の角の先まで覗き込んだ。
だが、そこにも虜囚にした二人の娘の姿はなかった。
「大変だ! ガキどもが逃げたぞ!」
男は駆け戻ってきて叫んだが、部屋に残っていた六人の仲間たちは、誰も彼のことを見ていなかった。
いや、確かに彼の方を見ていたのだが、視線は男ではなく、そのすぐ横に向けられていたのだ。
男は仲間たちの視線につられて、自分の横を向いた。
そこには一人の女が立っていたのだ。
「何だ手前!」
予想外の女の存在に、男は瞬間的に跳び下がると同時に、懐から短刀を引き抜いていた。
その怒号に呪縛を破られたのか、部屋にいた仲間たちもそれぞれに武器を手にして、椅子を蹴り倒した。
「畜生、一体どこから現れやがった!」
リーダーの男が怒鳴ると同時に、呪文を唱え始めた。
彼らは女がそこに存在しているという事実に驚愕していた。
何しろ、今まで誰もいなかった部屋の隅に、突然見知らぬ女が出現したのである。
部屋の隅は薄暗い場所だったが、人がいれば当然気づく程度にはランプの光が届いていた。
ほんの一瞬だが、彼らが驚きで固まってしまったのも無理からぬことだった。
「あらー、タイミングが悪かったわね。
そうかぁ……あの子、自分で潜れたのね。驚いたわ。これって、喜んだらいいのかしら?」
女は男の怒声を無視して、ぶつぶつと独り言をつぶやいた。
見たところ、まだ二十代半ばくらいの若い女、それもなかなかの美形であった。
抜けるように白い肌、艶やかな黒髪をきれいに結い上げている。
まるでこれから貴族の夜会にでも出かけるような、濃紺のぴったりとしたドレスに身を包んでいる。
肩や胸元、背中まで大胆に露出しており、首には深紅の絹のチョーカーを巻いていた。
貴族の令嬢というよりは、高級娼婦といった出で立ちで、なおさらこの粗末な小屋の佇まいに激しい違和感を醸し出している。
「おい、聞いてんのか!」
すぐ傍にいた男が、右手の短刀を突きつけながら、女の露出した肩に左手をかけた。
女が眉をわずかに顰めてその手をちらりと見る。
次の瞬間、ごとりと重い音がして、男の頭部が床に落ちた。
すこし遅れて首から上を失った身体が、鮮血を撒き散らしながら棒のように倒れた。
部屋にいた男たちの表情が、一瞬で堅くなった。女がどうやって仲間の首を刎ねたのか、理解ができなかったのだ。
女は身動き一つしなかったし、手には刃物など握られていない。豊かな胸とくびれたウエスト、丸い尻といった身体の線が、露骨に分かるドレスでは、武器の隠しようがない。
外に通じる扉近くにいた男が、退路を確保するために無言で扉を蹴った。
だが、鈍い音を立てるばかりで扉は開かない。
農家の作業小屋といった感じの建物である。扉には鍵などなく、内側からかける閂は嵌まっていなかった。
「なっ?」
扉を蹴った大柄な男が、今度は肩で体当たりをかましたが、やはり粗末な板扉はびくともしなかった。
「あー、ごめんなさい。
その扉、開かないようにしてあるから、何をしても無駄よ。
あなたたちをここから帰すつもりはないの。気の毒だけど、諦めてちょうだいね」
女がころころと笑った途端に、リーダーらしき男が右手を突き出した。
「あっ、馬鹿!」
残りの男たちが慌てて目を閉じ、耳を手で押さえて一斉にうずくまった。
バンっ!
激しい音とともに閃光が輝いた。
男の手から青白く輝く放電が起き、女に向けて走った。雷撃魔法を放ったのだ。
雷撃魔法は強力だが、今のような近距離で使うと非常に危険だった。
稲光と雷鳴のショックで目と耳をやられる上に、攻撃対象の周囲にまで放電が及ぶからである。
そのため、術を放った男は魔力量を調整して、相手を行動不能にする程度に威力を抑えていた。
そうでなければ、この場にいた全員が巻き添えを喰っていただろう。
きな臭い空気が漂い、白い煙が女の身体からぶわりと立ち上った。
煙が収まると、女の姿が再び現れる。が、笑みを浮かべたままの女は何事もなかったかのように立ったままだった。
「ふぅん、雷撃系の魔導士さんなのね。
惜しかったわ。やるなら一か八か、全力を出さなきゃ……ね?
どうせお仲間さんは死んじゃうんだから、気を遣っている場合じゃないと思うな~」
若い女は笑顔を浮かべたまま、部屋の中に視線を走らせた。
部屋の誰一人としてその誘いには乗らず、女から視線を外さなかった。
リーダーである魔導士の唇は忙しく動いて、次の呪文を唱えている。
彼は呪文を詠唱していることもあって、部下たちに命令することができない。その代わりに、さっと片手を振った。
言葉にせずとも、部下たちは何をすべきか分かっているはずだった。
数の有利を活かして、左右から一斉に飛びかかり、めった刺しにする。そのくらいの判断ができない者はいないはずだった。
だが、部屋の中からは物音一つしなかった。合図をしたのに誰も女に飛びかかろうとしない。
意外な事態に、男はほんの一瞬、女から視線を逸らして部下たちの様子を確認した。
その目に映ったのは、呆けたように突っ立っている部下たちの姿だった。
「お前ら、何をしている!」
堪りかねたリーダーが、呪文を中断して怒声を上げた。
それが刺激となったのか、馬鹿みたいに突っ立っていた部下たちの身体がゆらりと傾き、一斉に床に倒れた。
それと同時に、全員の頭部がごろごろと床を転がったのである。
男は慌てて視線を戻そうとしたが、女の姿を捉えることができなかった。
その代わり、薄暗い屋根裏が見えた。部屋には天井がなく、屋根を支える細い丸太が剥き出しになっている。
屋根を葺いている茅の束と、それを丸太に固定しているロープは、煤で真っ黒に汚れていた。
上を向いたわけでもないのに、そんな光景が見えたことが不思議だった。
だが、それも一瞬で、視界がくるりと回転し、丸太がむき出しの壁、次いで泥だらけの床板が迫ってきた。
ごとっという音がして、男の視界が真っ暗に暗転した。
そして、やや遅れて首を失った男の身体が、椅子を薙ぎ倒して床に倒れる音が鳴り響いた。