二十四 交渉妥結
一週間以上前の話であるが、カメリアと二人の帝国工作員は、大森林の中で突然、何者かに襲われた。
目の前を歩いていた男の頭が、柘榴のように砕け散った瞬間、カメリアは反射的に地面に伏せていた。
「敵襲!」
カメリアはそう叫ぶと、ごろごろと横に転がり、大きな木の陰に回り込んだ。
彼女が伏せていた地面に、〝どすっ!〟という重い音がして、拳大の石がめり込む。
『投石器か?』
彼女の頭の中に、すぐに古めかしい武器の名前が浮かんだ。
だが、投石器が戦場の花形だった時代は、もう百年以上昔の話だ。
確かにその武器は、飛ばす石が現地調達できることと、当たった時の威力で一世を風靡していた。
しかし、命中率の悪さと飛距離の制限から、次第に弓矢に取って代わられ、廃れていったのだ。
正体不明の敵は、よほど投石器の扱いに熟達しているらしい。
これほど正確に狙えるのは、驚くべきことだった。
巨木を盾にしたことで、カメリアはようやく状況を把握しつつあった。
後方を歩いていた男は、彼女の警告に反応して地面に伏せたようだったが、その場にへばりついたままだった。
「何をしている! 早く移動しないと狙い撃ちにされるぞ!」
カメリアが男を叱咤しても、彼はぴくりとも動かない。
彼女は舌打ちをし、背をかがめて木の陰から飛び出した。
たちまち〝ぶんっ!〟という低い音とともに、二方向から石が飛んできた。
それは恐ろしい精密さで、カメリアの頭部を打ち砕き、ぼとりと地面に落ちたように見えた。
しかし、彼女は何事もなかったかのように、伏せている男のもとに駆け寄り、乱暴に背を揺さぶった。
男の頭がぐらりと傾き、顔がこちらを向いた。
「うっ!」
カメリアは思わず息を呑んだ。
男の顔面にめり込んでいた石が外れ、ごろりと転がったのだ。
その跡から、どろりとした流動物が溢れ出る。
砕けた白い骨、潰れた眼球、そして黄色い脳漿が、鮮血とともに苔の生えた地面に広がった。
「くそっ!」
男を掴んでいた手を離すと、カメリアは立ち上がった。
すぐに第三の攻撃が襲ってきたが、彼女の胸を撃ち抜く寸前で、石は目に見えない盾に当たったように、ぼとんと下に落ちて転がる。
それは〝マジック・シールド〟と呼ばれる防御魔法だった。
魔導士は強力な攻撃力を持つだけに、敵から狙撃されやすい。
そのため彼ら魔導士は、飛び道具に自動で反応する防御魔法を身にまとっている。
攻撃に応じて発動し、普段は魔力を消費しないので、魔導士はこの魔法をかけたままにしている。
重力魔導士や、攻撃特化型で防御魔法を使えない魔導士でも、これだけは例外的に叩き込まれる、基礎中の基礎とされる魔法である。
ただし、これは中・長距離からの物理攻撃にしか反応せず、近接戦闘ではまったく機能しないという弱点もあった。
――飛び道具が通じないと分かれば、敵も姿を現わすだろう。
相手が何人だろうと、近寄ってきたところを、重力魔法で叩き潰せばいい。
カメリアはそう思っていた。魔力消費の激しいバリスタを使うまでもないのだ。
「どうした、姿を見せぬのか! 私に投石など効かぬぞ!」
彼女は挑発するように、声を張り上げた。
それに呼応するように甲高い叫び声が上がり、シダの茂みを掻き分けて、いくつもの大きな影が現れた。
だが、それは〝人〟ではなかった。
貫頭衣のような服をまとった者たちは、いずれも二メートルに近い巨体で、一見すると人間のように思えた。
だが、その顔を見ると、下顎から伸びる大きな犬歯、潰れて横に広がった鼻、豚のように先の垂れた大きな耳は、人間とは明らかに違う。
姿勢が猫背の上に、胴長で腕が地面に届くほど長く、南方に棲息するというゴリラという類人猿に近かった。
「オークなのか!」
カメリアは目を瞠った。
帝国にオークはいない。だが、王国の大森林にオークが出没し、人間や家畜を襲って喰っていることは、隣国であるから広く知られていた。
彼女も実際に見るのは初めてだったが、以前に見た絵図にそっくりであった。
ただ、学校で習ったオークはほぼ半裸で、動物の生皮で作った腰巻しか身につけていないはずだった。
彼らは知性も理性もない野獣に等しい存在で、棍棒のような単純な武器を振るい、単独で行動すると教わっていたのだ。
だが、目の前に出現したオークたちは複数で、それなりに衣服も身につけている。
しかも、手にしているのは戦斧や槍といった、人間が使う武器であった。
彼らの行動も、妙に統率が取れていた。
将校であるカメリアの目には、オークたちが指揮官の指示に従って動いているように見えた。
オークたちは甲高い声でしきりに叫んでいた。意味は分からぬまでも、警戒や命令といった意図をもって発していることが感じ取れた。
『こいつら……知性があるのか?』
カメリアは驚くと同時に、それが重大な意味を持つことに気づいていた。
帝国では、かつてオークの兵士化を計画していた……。彼女はそうマグス大佐から聞いていた。
それが実現しなかったのは、オークに知性がないことが原因だったはずだ。
なぜこんな森の中に、知性をもったオークがいるのか分からないが、もう少し情報が欲しかった。
相手は全部で十二人。皆殺しにするのは容易いが、それでは何も情報が得られない。
一人だけ生かして連れ帰るか……?
いや、もし彼らに理性があるのなら、投降してオークの捕虜になる手もある。
こちらが魔導士であることを覚られなければ、いつでも逃げることは可能だろう。
『これは、うかつに魔法を見せない方がいいな』
カメリアはゆっくりと腰の剣を抜き、青眼に構えた。
ここは上手く演じなければならない。
剣を見たオークたちは色めき立ち、一斉に怒号を上げた。
指揮官らしい大柄なオークが何事か叫ぶと、彼らはカメリアを取り囲むように移動した。
その瞬間、彼女は背後に回ったオークに目がけて突進した。
慌てたオークは、威嚇するように槍を持った手を大きく振り上げ、次いで横薙ぎに振り回してきた。
思ったとおりだった。
いくら人間の武器を手にしたからといって、武術まで身につけているわけではないらしい。
無駄な動きが多過ぎて、槍の利点を全く理解していない。
カメリアは敵の懐に飛び込み、すれ違いざまに相手の太った腹を切り裂いた。
腹圧で腸がどっと溢れ出し、切られたオークは驚いたように目を見開き、腹を押さえ、うつ伏せに倒れた。
オークの横を駆け抜けた彼女は、その横にいたオークの腋の下に潜り込んだ。
斧を振り上げた相手は、自分を切ってしまうので腕を下ろせない。
カメリアはにやりと下から見上げ、オークの二の腕を深々と切り上げた。
オークが悲鳴を上げて斧を取り落し、吹き出す血を押さえた。背を丸めたせいで、ちょうど頭が手頃な位置に下がった。
彼女は刀身をオークの頸動脈に当て、さっと剣を引く。
動脈から間欠泉のように鮮血が噴き出し、二人目も倒れた。
二人が倒れたのはあっという間だったが、そのわずかな時間で、オークたちは態勢をどうにか立て直した。
指揮官らしいオークが何かを叫ぶと、彼らは包囲の輪を広げ、再びカメリアの退路を断った。
そして、彼女の左右と後方の三方から、一斉に襲いかかってきた。
左右のオークは脇をしっかりと締めて槍を突き出す構え、後方の敵は戦斧の柄を短く持って体当たりをする勢いだ。
いずれも、小柄で俊敏な人間を懐に入れまいとする意図が見えた。
カメリアは慌てずに剣先を下げ、すっと息を吸った。
左右の槍の切っ先が伸びた途端、オークたちが石に躓いたように〝がくん〟と膝をついた。
カメリアが周囲のオークに気づかれぬよう、ほんの一瞬だけ重力魔法を放ったのだ。
突き出された槍は狙いが逸れ、カメリアの軍服をわずかに切り裂いただけだった。
つんのめったオークは、カメリアの目の前で互いの頭をぶつけ、同時に首が気管まで切り裂かれていた。
二人のオークが相撲でも取るように組みあったまま、血しぶきを上げて倒れた。
振り返ったカメリアの目の前には、少し遅れて飛び込んできたオークが迫っていた。
体格差を利してカメリアを弾き飛ばし、倒れたところを斧で叩き潰す算段である。
だが、オークの巨体がぶつかる寸前で、またもカメリアが重力魔法を放った。
いきなり頭上から数トンの圧力を受けたオークは、それでも斧を胸に構えたまま、人間に抱きつこうした。
カメリアは斧の刃をまともに剣で受けたため、〝パキン〟と乾いた音がして、剣が中ほどで折れた。
その折れた剣の上に、重力に堪えかねたオークの頭部が落ちてきた。
牙の生えたオークの首が、ごろごろと地面に転がった。
そこに立っていたのは、返り血を浴びたカメリアただ一人である。
彼女は折れた剣をじっと見つめると、諦めたようにそれを地面に捨てた。
そして両手を上げ、投降の意志を示したのである。
* *
こうして捕虜になったカメリアだったが、オークの村に連行され、檻に入れられることで、彼らの生活を観察することができた。
オークたちの文明は、人間の世界から千年以上も遅れていたが、ちゃんと秩序があり、社会が成立していた。
それ以上に驚きだったのは、ジャヤと名乗る女オークが、人間の言葉で話しかけてきたことであった。
オークと意志の疎通が可能であるという事実を持ちかえれば、帝国に大きな衝撃を与えるだろう。
カメリアは、自分の判断が正しかったことを確信した。
ジャヤは、カメリアがオークの戦士を五人も殺したことで、その遺族に八つ裂きにされることになると告げた。
しかし、彼女はまったく動揺しなかった。
カメリアは捕らえられた時に両手を縛られたが、檻に入れられる際にその縛めは解かれていた。
もちろん、猿轡もされていないことから、オークたちが魔法に気づいていないと確信できた。
呪文さえ唱えられれば、檻を破ることは簡単だったし、行く手を遮るオークは容赦なく殺せばよい。
しかし、森を案内してくれる工作員を失ったことは痛手だった。
彼女が捕まった地点から、この村はかなり南に離れていた。恐らく、ここからボルゾ川までは百五十キロ以上あるはずだ。
どうせ道はないのだから、ただ北を目指せばよいのだが、どう考えても五、六日はかかりそうだった。
食糧は何とかなるかもしれない。森の動物を捕らえて肉を焼いて喰えばよい。
だが、問題は水だった。
原生林の中を歩くのは、ただでさえ体力を消耗する。そして、今は真夏である。
この村で水が得られても、途中で補給できなければ二日と持たないだろう。
『これは分の悪い賭けになりそうだな……』
彼女はそう覚悟していたのだ。
そんなところに、王国の人間が現れた。
王国がオークたちと、ある程度良好な関係を築いていることで、ますます彼女の情報は重みを増したことになる。
そして、王国の者たちは『協力するならば、森を案内して帰国させてやる』と持ちかけてきた。
〝渡りに船〟と言いたいところだが、果たして王国人を信用してよいのだろうか?
しかも協力の内容が、よりにもよって〝吸血鬼と戦う〟ことだという。
* *
「普通、そんな話を信じろ――と言う方が無理だろう」
カメリアがそう答えたのは当然だった。
だが、ユニという王国の召喚士は、あっさりとそれを認めた。
「そりゃそうよね。あたしがあんただったら、やっぱりそう言うもの」
「当たり前だ。
それに、私が貴様らを信じないのと同様、そっちだって私を信じられんだろう?」
「あら、そうでもないわよ。
あんたは一度約束したら、それを守りそうな気がするわ」
「なぜそう思える? 私は敵だぞ」
「だって、さっきも言ったけど、あんたマグス大佐と言うことがそっくりだもの。
大佐はいけ好かない女だけど、約束は守る奴だったわ。
あんた、大佐の部下を長いことやってたんでしょ? やっぱ似てるわよ」
カメリアはすっかり気が抜けてしまった。
彼女が『大佐に似ている』という言葉は、帝国軍では〝禁句〟とされていたが、誰もが内心認める事実だった。
何より、カメリア自身がそう感じていたのだ。
それくらい、マグス大佐という女の個性は強烈で、彼女はそれに毒されてしまった。確かに、あの方なら、敵との約束も守るだろう。
もし自分がそうしなかったら、次に会った時に、大佐の顔がまともに見れないような気がしてならなかった。
カメリアは肩を落とし、深い溜め息をついた。
「分かった。貴様らを信用しよう。
だが、私を欺こうとしたら、必ず皆殺しにするからな! それだけは覚悟しておけ。
それと、協力を引き受ける前に、一つだけ条件を吞んでもらおう」
「まだ何かあるの? 欲張りさんねぇ。言っとくけど、お金ならないわよ」
「貴様、帝国軍人を侮辱する気か!
そうではない。まず、ここから出してもらおう」
「そりゃあ、出すわよ」
「それから、その……身体と服を洗わせてほしい。
私の荷物の中に、替えの下着があるはずだ。それも持ってきてくれ。
何しろ、十日も風呂に入っていないのだ。自分でも嫌になるくらい臭い。
今の自分に比べれば、オークの方がましな気がする」
* *
結局、カメリアに対しては、オークの女児が吸血鬼に攫われた事情が簡単に説明された。
その後、族長オルグと幹部たちの立ち合いのもと、人質救出への協力と引き換えに、カメリアの罪を赦すことが宣告され、彼女は外に出された。
そして、シルヴィアとカー君が付き添って、村の近くを流れる川の水浴び場に案内されていった。
エイナはユニとジャヤを伴って、誘拐された女の子の一人の家を訪れた。
その家の家族から、吸血鬼が要求を伝えに来た時の状況を詳しく聞き取ると、エイナはユニ以外を家の外へ出して遠ざけた。
掘立小屋の内部は、天井の煙抜きの穴と、小さな窓から入る自然光があっても薄暗い。
撥ね上げ式の蔀窓を閉じてしまうと、かなり暗くなる。
窓から顔を出し、周囲に誰もいないことを確認してから、エイナは窓を閉じた。
そして、ユニの肩に手を置き、黙って住居内の一画を指さした。
そこは吸血鬼が現れ、消えた場所だと家人が説明した場所である。
物の配置の関係で、外からの光が遮られ、そこにはどんよりとした闇が蟠っていた。
エイナは片膝を突いてそこに手を当て、何事かを確信したようにうなずいた。
彼女は立ち上がり、ユニの方を向いた。
「ここに潜って、吸血鬼の跡を追ってみようと思います」
「できるの?」
ユニがそう訊ねたのはわけがある。
エイナは闇の通路に入る能力を持っていたが、自由に使えるわけではなく、かなり追い詰められた状況が必要だったのだ。
「はい。一度吸血鬼が通ったことで、通路に入りやすくなっているようです。
いける感じがします」
「だったら、みんな一緒の方がよくない?」
「いえ、皆さんはこの中に入ると意識を失ってしまいますから」
「ああ、そうだったわね」
「それに、彼らの居場所を探るだけで、無理をするつもりはありません」
「そう、なら任せるわ」
「それで、一つユニさんに訊いておきたいことがあるんです」
「なに?」
エイナは躊躇うように下を向き、決心したように再び顔を上げた。
「私には、吸血鬼の血が流れているのではありませんか?」