二十三 虜囚
エイナもシルヴィアも疲れ果てていた。
二人とも強行軍でやっとカイラ村にたどり着き、ろくな休憩なしに大森林へと飛んだのだ。
そして半日かけて森の中を歩き、オーク村の幹部たちとの会談を経て、夜遅くまでジャヤとの突っ込んだ話し合いが続いた。
心身ともにくたくたで、ジャヤが小屋から去って十分もしないうちに、倒れるように眠ってしまった。
「あんたたち、いつまで寝てんの?
もう陽が昇っているわよ!」
何だか懐かしい声で叩き起こされたエイナは、眩しそうに目をこすった。
入口の簾が開けられ、差し込んでくる鮮烈な朝日が顔を照らしていたのだ。
もともと朝が弱いシルヴィアは、起き上がったもののぼぉーっとして、ほとんど頭が働いていないようだった。
「えーと、あの……お早うございます」
エイナは眠そうに欠伸をしながら、間の抜けたことを口走った。
次の瞬間、彼女は冷水を浴びせられたように、飛び上がった。
ここはオークの集落なのだ!
驚いて顔を上げたエイナの頬を、ざらざらとした舌がべろりと舐めた。
目の前にいたのは、真っ白な毛並みの巨大なオオカミだった。
「え! ロキ? 何であんたがここにいるの?」
べろべろとエイナの顔を舐めまくるオオカミの頭を抱え、彼女は混乱した声を上げる。
「目が覚めた? お寝坊さん」
人間の言葉が、すぐ背後から浴びせられた。
振り返ると、懐かしい顔が笑っている。
ロキがいる時点で予想できたことだが、それは辺境に済む二級召喚士、ユニの姿であった。
「あれえー、ユニ先輩、いたんですかぁ?」
シルヴィアがふにゃふにゃとした寝惚け声を上げた。
「あたしは昨日の深夜に着いたのよ。あんたたちは眠りこけてたから、起こさなかっただけ。
外に水を張った甕があるから、顔を洗って目を覚ましてきなさい」
エイナとシルヴィアは、のろのろと起き上がって、その指示に従おうとした。
その途端、全身に筋肉痛が走り、娘たちは小さな悲鳴を上げた。
* *
二人が顔を洗って、身支度を整えている間に、ジャヤが朝食を持ってきてくれた。
四人は車座になって座り、食べながら互いの状況を確認しあった。
ユニは王国側の使者として、定期的にオークの村を訪ねていたのだが、今回は南部密林のダウワース王に会いに行ったその足で来たのだと明かした。
「どうして南部密林に?」
やっと頭が働き出したシルヴィアが訊ねる。
「お別れの挨拶よ。
あたしがこの世界から消えるまで、あまり時間がないからね。
世話になった人たちには、ひと通り回っているの。
西の森のアッシュも、その一人だったのよ」
和やかだった食事の雰囲気が、一瞬で凍りついた。
ユニは年齢的に、召喚士としての能力が枯渇する時期に来ている。
もう、いつ肉体が消滅して幻獣界に転生してもおかしくない。
エイナたちもそれは知っていたが、努めて話題にすることを避けていたのだ。
「もう、〝里帰り〟が始まったのですか?」
エイナが訊ねる。
里帰りとは、召喚した幻獣が一時的に元の世界に戻ってしまう現象で、召喚士の転生の兆しであった。
「うん、この間、初めてライガがいなくなったの。
今まで何人も召喚士の消滅を見てきて、里帰りの話も聞いていたから、それがどれだけ辛いか知っていたつもりだったけど……」
ユニは疲れたような表情で、深い溜め息を洩らした。
彼女は四十という年齢にしては、身体も引き締まったままで若々しかったが、この時ばかりは皺が目立つ、中年女の顔になっていた。
「予想以上にきつかったわ。
まぁ、あたしの場合、ヨミや群れのオオカミたちがいたから、大分ましなんでしょうけどね。
ライガは三日で戻ってきたけど、この先一年、何度も同じ経験をするかと思うと、憂鬱になるわ」
ユニは笑っていたが、エイナもシルヴィアは何も言えずに、うつむいてしまった。
「そう陰気にならないでよ。あたしが消えるのは、まだ一年近く先の話なんだから!
それより、当面の問題を話し合いましょう。
事情はジャヤから聞いているわ。あんたちはどうするつもりなの?」
エイナは軍服の袖で目をごしごしと擦り、顔を上げた。
「オークたちの要請に応えて、吸血鬼から攫われた女の子を救うつもりです!」
ユニは少し難しい顔をした。
「うん、その心意気はいいんだけど……。
まず第一に、人質がどこにいるかを、どうやって探るつもり?
あたしのオオカミたちは人探しが得意だけど、さすがに闇に潜った吸血鬼は追えないわよ。
それと第二。
もし、人質の居所を掴めたとして、どうやって吸血鬼と戦うの?
拉致された女の子は三人。それぞれの家に向こうの要求が伝えられたから、相手は指揮をしている第二世代を含めて、最低四人はいると見るのが妥当だわ。
下っ端の吸血鬼なら、エイナとあたしたちで対処可能だけど、第二世代を倒すのは厳しいわよ」
エイナはユニの指摘に、こくりとうなずいた。
「はい。まず、人質の居所に関しては――私に考えがあるので、任せてください。
吸血鬼との戦いについては、カーン少将の協力を得るつもりです。
重力魔法が吸血鬼にも有効ですから、少将を味方に引き入れれば、勝ち目は十分にあると思います」
「それはそうだろうけど……。
帝国の魔導士が、あたしたちに協力すると思う?」
「はい、当然ですが、向こうが飛びつくような条件が必要です。
昨夜考えた時は、ちょっと自信がなかったのですが、ユニさんが現れたことで、どうにかできそうな気がしてきました。
「何、あたしが関係するの?」
「実は……」
エイナは胸に温めていた計画を、三人に説明した。
シルヴィアはその案を聞いた途端、エイナに詰め寄った。
「あんた正気? それって明らかな命令違反よ! 参謀本部にどうやって釈明するつもりなの!」
ユニがシルヴィアの肩を掴んで引き戻す。
「そう興奮しないで、冷静に考えましょう。
でも、シルヴィアが怒るのももっともね。エイナはちょっと弱気過ぎない?」
だが、エイナはきっぱりとそれを否定した。
「今の私の力では、正直に言ってカーン少将には勝てません。それは、彼女の魔力を身近で感じることで、はっきりと分かりました。
魔力量はともかくとして、私にはまだ技術と経験が全然足りません。
私の案が〝熊を倒すのに虎を放つ〟の例えなのは分かっています。
ですが、その虎がこちらに牙を向けないよう、首輪をつけてしまえばよいのです。
確かに命令には違反しますが、臨機応変、現場の判断です。
結果として得られる政治的な利益の方が、ずっと大きいのではないでしょうか?」
ユニはにやにやと笑い出した。
「エイナの口から〝政治〟が聞けるとはね。
あたしの目には、あんたは出会った時の痩せっぽちのままなんだけどなぁ……。
本当、歳はとりたくないわ。
分かった! マリウスの説得はあたしに任せてちょうだい。でも、ちょっとした懲戒は覚悟しときなさいよ。
ジャヤは今の話、どう思う?」
「オルグがいま、一番頭を悩ませているのは、王国への臣従に不満を隠そうとしない一派の存在です。
もし、皆さんのお陰で女の子を取り戻し、吸血鬼の脅威が除かれるのなら、村人の支持はオルグに集まるでしょう。
私はエイナさんの案に賛成です」
「話は決まりね。シルヴィアもこれでいいでしょ?」
心酔するユニに笑いかけられ、シルヴィアも渋々うなずいた。
* *
「それで、吸血鬼の目的については、みんなどう考えているの?」
一段落がついたところで、ユニが話題を変えた。
シルヴィアが少し傾げながら答える。
「ジャヤは昨夜、オークを吸血鬼にして、彼らの戦力に加えようとしているのではないか――と言っていました。
妥当な説だと思いますが、『なぜそれを企むのか』と問われると、さっぱりです」
「うん。その仮説で合っていると思うわ」
ユニはそう認め、意外なことを明かし始めた。
「この村に現れた吸血鬼は、間違いなくベラスケスの配下ね」
「ベラスケス……ですか?」
「ベラスケスっていうのは、帝国の南部を縄張りにしている、古い吸血鬼なの。
エイナのご両親がもともと帝国人で、吸血鬼狩りをしていたって話は、前に教えたわよね?
ご両親は、ベラスケスの縄張りで大暴れしたのよ。
並の吸血鬼だけじゃなく、幹部級の第二世代まで、片っ端から倒していったの。
それでベラスケスは勢力を大幅に削られて、窮地に立たされたのね。
ベラスケスは途方もない年月を生きてきた真祖らしいんだけど、それだけにもう能力がかなり落ちているらしいわ。簡単に言えば、歳を取ったってことね」
「吸血鬼って、不老不死なんじゃないですか?」
「限りなく近い……とは言えるけど、イコールではないらしいの。
特に眷属を作る時には、自分の血、即ち能力を分け与えることになるから、いずれ限界を迎えるんでしょうね。
もうベラスケスは、直接の眷属を生み出す力を失いつつあるのよ。
オークの吸血鬼化は、それを補うための手段だと思うわ」
「えっと……ユニ先輩は、ずい分吸血鬼にお詳しいんですね?」
「そりゃあ、何年もかかっていろいろと調べたからね」
ユニはそう言って、エイナに向けて片目をつぶってみせた。
「問題は、何故ベラスケスが今さら戦力を補充しようとしているのか。
そして、わざわざ王国に越境してきたのかよ」
「ひょっとして……私の母に復讐するためですか?」
不安そうなエイナの額を、ユニは指で弾いた。
「それは枝葉の話。
確かにベラスケスは、あなたのお母さまに恨みを抱いているけど、復讐のために戦力を消耗するほど馬鹿でもないわ。
そもそも、帝国に巣食う吸血鬼が、今まで王国に手を出さなかったのは何故だと思う?」
ユニの問いかけに、エイナが手を挙げた。
「召喚士の存在ですか?」
「そのとおり。
王国には召喚士に呼び出された幻獣が、うようよしているわ。
彼らの多くは吸血鬼のような闇の眷属に、敏感に反応するから、あっという間に見つかるわ。
うちのオオカミたちはそこまでの力はないけど、カー君なんかはいい例ね。あの子、結構霊格が高いのよ。
吸血鬼は人間を獲物にするから、ほぼ完璧に擬態ができるんだけど、王国ではそれが通用しないってわけ。
――まぁ、そんなわけで吸血鬼たちは王国を避けていたんだけど、ベラスケスはいよいよ追い詰められたの。何しろ彼の縄張りは、半分以上オルロック伯爵に奪われてしまったからね。
それで、ベラスケスは本気で王国への移住を考えているんだと思うわ。
吸血鬼は冷涼な気候を好むから、温暖な王国は不本意なんでしょうけど、贅沢を言っていられなくなったのね。
でも、いくらオークの吸血鬼を作ったって、国家召喚士レベルの幻獣が相手だと、ひとたまりもないと思うわ。その辺、やっぱりベラスケスは尊大で、現実が見えていないんでしょうね」
* *
話し合いが終わると、四人は連れだってカメリアが入れられている檻に向かった。
村の中は、昨夜と違って多数のオークが外に出ていた。
エイナとシルヴィアは内心びくびくしていたが、オークたちが敵意を向けることはなく、むしろ珍しい動物を見るような視線を送ってきた。
檻は村の外れの通路状に、実に無造作に置かれていた。
それは太い生木の丸太を交差させて植物の蔓で結んだ、極めて大雑把な作りであったが、頑丈そうではある。
大きさは三メートル四方、隅の方に木の蓋のようなものが置いてあり、ジャヤの説明では、その下に穴が掘ってあって、そこで用を足すのだという。
檻の周囲には、子どものオークが取り囲んで、小石を投げたり木の枝を差し込んだりして、中の人間を突いてからかっていた。
カメリアはそうしたちょっかいを全く気にする様子もなく、剥き出しの地面に座ってぼんやりと周囲を眺めていた。
彼女はエイナたちに気づくと、驚いたようにこちらを睨みつけた。
彼女は想像したよりも、遥かに小柄な人物であった。
エイナやユニも背が低いが、さらに一回り小さく、しかもかなりの童顔であった。
年齢的にはもう中年のはずだが、遠目には小学生くらいの男の子のように見える。
側に近寄ってみると、軍服は泥まみれで、顔も薄汚れて疲れ果てているようだった。
ただ、大きな目だけはぎらぎらしていて、気の強さが窺えた。
事前の打ち合わせで、彼女との交渉はユニが行うと決められていた。
「あなた、帝国軍のカメリア・カーン少将ね。
こんな森の中でオークに捕まっているのって、何の冗談かしら?」
「そういうお前たちは何者だ……と訊きたいところだが、お前はユニだな?
その馬鹿でかいオオカミで分かる。
そっちの黒髪が、魔力の特徴からいって大佐の護衛をしていた魔導士か。
そして金髪の方は、空を飛んでいた召喚士だろう。
何だ、その奇妙な動物は?」
カー君が得意気に答えようとするのを、シルヴィアが殴って黙らせた。
ユニが苦笑いしながら、それぞれの名前を紹介し、最後にカー君を指さした。
「ちなみに、この子はカーバンクルね。
どんな幻獣か説明してあげたいけど、あたしたちもよく分かっていないのよ」
「それで、何用だ?
捕虜となったこの身を嗤いにきたのか?」
「うん、確かに笑えるわね。あんたならいつでも逃げ出せるくせに。
大人しく捕まっているのは、できるだけオークの情報を集めるためでしょう?」
カメリアは素直にユニの言葉を認めた。
「そうだ。そこにいるジャヤの話では、今日が処刑だということだから、そろそろ帰ろうかと思っていたところだ」
「まぁ、そうだろうとは思ったわ。
でも、残念ね。あたしたちが来た以上、そう思いどおりにはいかなくなったわよ」
「王国は、このオークどもと通じていたのか? 驚いたな、これでまた土産話が増えたぞ。
で、貴様らは本気で私を止められるとでも思っているのか?」
カメリアはちらりと左右を見た。
さっきまでいた子どもたちは、ユニのオオカミたちに追い払われ、周囲にはユニたち以外に誰もいなくなっていた。
「エイナが大佐の護衛についたのには、それなりの理由があるのよ。
あんたは、まだこの娘の実力の一部しか知らない。
素直に投降するなら、オークたちの処刑は中止させるわ」
「ほう……面白い。
エイナとやら、防御障壁を張っているらしいが、それで勝ったつもりか――ぎゃふっ!」
突然カメリアは地面に叩きつけられ、悲鳴を上げた。
まるで上から見えない手で、圧し潰されたような感じだった。
彼女は咳き込んで、すぐに手をついて起き上がった。
「くそっ、何をした?
その障壁は対物理のはずだ。なぜ魔法が効かない? どうやって対象を私にすり替えた?」
もちろん、カメリアの重力魔法を撥ね返したのは、カー君の特殊能力なのだが、そこは〝はったり〟である。
ユニはせせら笑った。
「あんたは檻の内外関係なく、何でもぶん投げるでしょう?
物理防御を張るのは当然。しかもエイナは、その状態で魔法を撥ね返すことができる。
よかったわね、手加減しておいて。もしあたしたちを殺すつもりで重力魔法を使っていたら、今ごろあの世行きだったわよ。
どう? これでも逃げられるかしら」
「手などいくらでもある!」
「おおっ、強気ね~。
でも、逃げられたとして、その後どうするつもりなの?
あんたを案内していた工作員は、オークに殺されちゃったんでしょ。
ここから北のボルゾ川まで、百キロ以上あるのよ。道もない原生林を、迷わずに進む自信があるの? 水や食糧は、どうやって調達するのかしらね?」
「そっ、それは……貴様らに教えてやる筋合いなどない」
「へえへえ、そうですか……。
それにしてもあんた、偉そうな話し方が、マグス大佐によく似てるわね?」
それまで冷静を装っていたカメリアの顔が、みるみる真っ赤になった。
「きっ、貴様! 私を愚弄する気か?
私は断じて大佐殿ほど、その……酷くはないぞ!!」
ユニはたまらず吹き出した。
「あ、やっぱり気にしてたんだ。そうよね、普通の神経をしてたら『大佐みたいだ』なんて、言われたくないわよね。
それこそ嫁に行けなくなるわ」
「ばっ、馬鹿にするな!
私は大佐殿と違って、ちゃんと結婚しているし、子どももいるからな」
「あら、そうなの? それは失礼」
張りつめていた緊張感が崩れたところで、ユニは一気に踏み込んていく。
「別にあたしたちは、あんたをからかいに来たわけじゃないのよ。
どうかしら、あたしたちに力を貸す気はない?
もちろん、ただとは言わないわ」
カメリアは猜疑心を露骨に表情に出しながら、確認だけはしてきた。
「一体、何をさせるつもりだ?」
ユニもまた、率直に返す。
「吸血鬼と一戦交えるの。あんたは戦力になりそうだわ」
「はあ? 気でも違ったか!
なぜ、こんな森の中に吸血鬼が出る? 王国に奴らはいないと聞いていたぞ」
「協力するなら、事情をちゃんと説明するわ」
「お断りだ!
……と言いたいところだが、一応、見返りとやらも聞いておこう」
ユニは打ち合わせどおり、エイナの提案を口にした。
「あんたの自由と安全を保障するわ。
あたしとオオカミたちが、あんたをボルゾ川まで案内し、責任をもって帝国に帰してあげる……ってのが条件よ。
悪くない取引だと思うけど?」