十七 懇願
「……前が見えん」
マグス大佐がぼそりとつぶやいた。
彼女の視界は、前をのしのしと歩く、タケミカヅチの広い背中で占められていた。
異世界から召喚されたこの武神は、身の丈が三メートルを超していて、横幅もそれに見合うだけある。まさに肉の壁であった。
大佐が案内されている蒼城の廊下は、両側とも美しいつづれ織りのタペストリーで覆われ、窓も隠されていた。
自分がどこを歩いているかの方向感覚が、次第に怪しくなってくる。
大佐は溜息をついて後ろを振り返った。
そこにはプリシラとアスカという二人の大女が並び、後方の視界を遮っていた。
「どうかなされたか?」
アスカが無表情のまま、低い声で訊ねた。
「いや何、実に見事な織物だと思ってな。
蒼城では、どこもこのような物で廊下を飾っているのか?」
プリシラが取ってつけたような笑顔を浮かべた。
「いえ、普段は殺風景なものです。
これは大佐に失礼がないよう、慌てて取り繕ったものです。誠にお恥ずかしい」
「ふん、私のような武骨な女には、過ぎた配慮だな」
大佐は鼻を鳴らした。
『こいつらは、どうあっても城の構造を見せないつもりだ。
いっそのこと、目隠しをしてくれた方が諦めがつくぞ、まったく!』
しばらく歩き続けると、先頭のタケミカヅチがぴたりと足を止めた。
プリシラが前に出て扉を開けたので、ここが大佐が泊まる客室だと知れた。
「晩餐会の時間になりましたら、またお迎えにあがります。
どうぞそれまでは、ごゆるりとお過ごしください。
大佐殿のお荷物は、すべて運び入れてございます。
では、私どもはこれで」
「ちょっと待て」
「何でしょう?」
「厠はどこだ?」
「部屋の奥に個室がございます。そちらをお使いください」
プリシラは冷たく言い放ち、無情に扉を閉じた。
がちゃりと外から鍵をかける音が響く。
否も応もない。体のいい軟禁であった。
* *
ひととおりの歓迎行事が済み、マグス大佐は翌朝、マルコ港の視察に向かうべく、蒼城市の北門から出立した。
結局、城内では儀式が行われた大広間と客室を往復しただけで、市内の見物もなかった。
第四軍としては、一刻でも早く大佐を追い出したかったのだろう。
蒼城市からマルコ港までは四十キロもなく、馬車で一日の距離である。
近くを流れるアナン川を船で下ればもっと早いのだが、わざわざ陸路を選んだのは、当然〝見せたくない〟からだ。
マルコに着いたのは午後四時ころで、今は夏であるから十分に日は高かった。
港までかなり距離がある段階で、街道の周囲には店や住宅が目立つようになり、その密度は、進むにつれてどんどん増していった。
どの建物も新しく、建築中の家も多かった。重厚な石造りではなく、どれも木造で工期の短縮を重視しているようだった。
街道を行き交う人の姿も多くなり、身なりは豊かではないものの、その表情は一様に明るかった。
大佐は窓から見える市街の光景を、感心しながら眺めていた。
「ずいぶんと活気に満ちているな……」
護衛として同乗していたエイナは、素直に相槌をうった。
「はい。ここは来るたびに大きく、賑やかになっていきます。
十数年前までは、人口が百人にも満たない漁村だったというのが、とても信じられません」
大佐は窓から顔を離し、エイナの方を向いた。
「今はどのくらいなのだ?」
エイナは向かいに座る外交官に、ちらりと視線を送った。
彼が小さくうなずいて、代わりに答えてくれた。
「それが、あまりに人口の流入が急すぎて、誰にも分からないのです。
恐らく十五万は超しただろうと言われていますが……。
ただ、今や四古都に次ぐ、第五の都市になったことだけは、間違いないでしょうな」
「つまり、王都よりも大きいということか?」
「はい」
「信じがたいな……。わずか十年余りで、そこまで成長したのか」
「それもこれも、大佐殿のお陰と言えるでしょうな」
「私の?」
「マルコ港の再開発は、大佐殿が黒城市を占拠した事件がきっかけとなっています。
一つの港を押さえられただけで、国の経済が麻痺するという事態は、悪夢でしかありませんでしたからね」
「なるほどな……。ではそのうち、港に私の銅像が建つかもしれんな」
大佐の笑みに合わせて、頬傷が蛇のようにぐにゃりと動いた。
* *
夕方前にマルコ市街に入った大佐は、取りあえず用意された宿に入ったが、翌日からは精力的な活動を開始した。
港湾施設や倉庫群、そして軽工業団地を次々に視察し、港の代表者たちと連日にわたる協議を行った。
大佐は王国側に対し。ボルゾ川の対岸で帝国が進めている新しい港と街の、詳細な計画図を提供した。
重要な軍事機密に該当する情報を公開したことは、王国側に驚きを与えた。
帝国は先進国であり、広大な領土を誇っている。
しかし、彼らは東の果てにある北カシルを除いて、外洋港を持っていなかった。
そのため、国内生産物の消費は、ほぼ内需に依存しているのが現実だった。
それが海洋国家であるケルトニアとの、経済規模における絶対的な格差を生んでいたのだ。
貿易の拡大は、帝国に課せられた最大の命題であり、西をケルトニアに封じられている以上、出口を東に求めるのは当然の成り行きである。
帝国が王国と対立し、しばしば衝突を繰り返しながら、本格的な戦争に踏み切れないでいるのも、そこに理由がある。
現時点では、王国が最大の貿易相手国で、かつケルトニアとの迂回貿易の窓口であったからだ。
大佐は新港が扱う物資の種類と量の目論みを示し、王国に対して対岸貿易の専用桟橋新設の検討を求めた。
また、実務的な打ち合わせを円滑に進めるため、マルコに帝国の連絡事務所を設けることを提案した。
さらに、王国が計画している工業団地の増設に関し、ケルトニアよりも割安な設備を輸出して、技術指導も行うことまで申し出たのである。
もちろん、これらの要求・提案は即決できるものではなかったが、合意形成に向けた道筋を示したことは大いに評価されよう。
彼女が王国関係者に行った説明・説得は見事なもので、本職の外交官が「私の仕事がない」と嘆くほどだった。
結局、大佐はマルコに五日間滞在し、十分な成果を残した後、港から船に乗って帰国の途につくこととなった。
護衛であるエイナは、船の無事な出港を確認すれば、それで任務を全うしたことになる。
船への同乗を求められなかったのは、ボルゾ川が両国合意の非武装地帯だからである。
* *
すべての公務を終え、宿の部屋に戻ったマグス大佐は、さすがに肩の荷を下ろした気分で軍服を脱ぎ、簡素な部屋着に着替えた。
後は明朝一番のチャーター船に乗り、真っ直ぐクレア(黒城市対岸にある帝国の港)に向かうだけである。
公式な目的である魔導院での講演は無難にこなしたし、マルコでの外交交渉も順調だった。
エイナという王国の若手魔導士の実力は予想外のもので、それを知れたのも収穫であった。
魔導院で会った他の魔導士には、教官を務めるケイトという女を除き、特に警戒を要する者は見当たらなかったが、油断は禁物だということだ。
蒼龍帝との会談で、いいように手玉に取られたのは癪だったが、そもそもなぜ吸血鬼に関する情報を探られたのかは、どう考えても分からなかった。
まぁ、これは本国に帰還して報告をすればいいことで、自分が思い悩む問題ではない。
ただ、大佐が個人的に吸血鬼の動向を探っていることを、上に覚られないよう説明するのが多少面倒ではある。
重責から解放されたことで、大佐の気分は上々であった。
彼女は王国の滞在中、歓迎行事の席以外では、酒を一切口にしていなかった。
第一、そんな場で飲む酒は、どんなに上等のものだとしても、美味いはずがない。
最後の晩に、一杯寝酒を嗜んでも罰は当たるまい。
大佐はそう思い立ち、宿の者を呼ぶために部屋の外へ出ようとした。
ところが、ドアノブに手を伸ばしたタイミングで、扉の向こうからノックする音が響いた。
彼女は反射的に壁に背をつけ、左手でドアノブを押さえたまま、低い声を出した。
右手には、いつの間に抜いたのか、短剣が握られている。
「誰か?」
間髪入れずに返ってきた誰何に、驚いたような間があった。
「ベネディクトです」
扉を通して聞こえてきたくぐもった声は、帝国外交官のものであった。
大佐は少しだけ気を抜いて、扉をそっと開いた。
外交官は中に入ろうとして、大佐が握っている白刃に気づいてぎょっとした。
ベネディクトの凍りついた表情に、大佐は苦笑しながら裾をめくりあげ、太腿に巻いた鞘に短剣を収めた。
「こんな夜中にどうした?
夜這いに来たのなら、悪いが断るぞ。私にも好みというものがあるからな」
外交官もまた、苦笑いを浮かべた。
「いえ、大変なお役目を果たされたご苦労に対し、わずかでもお慰めしたいと思いまして。
些少ですが、このような物をお持ちしました」
彼はそう言うと、左手に持っていた美しい小瓶を差し出した。
「何だこれは……酒か?」
「この港には、本国では手に入らないような、ケルトニアの産物が豊富に出回っております。
酒屋の店主が自慢しておりました。ワイン樽で熟成させた、二十年物の逸品だそうです」
「ほう、それは気が利くな。
ちょうど寝酒を頼みに行こうと思っていたところだった」
「それは重畳。こちらは肴によいかと思って、一緒に買い求めました」
ベネディクトはポケットから、可愛らしい花柄の紙で包まれた、小さな巾着を取り出した。
「フランツ王国産のチョコレートを見つけました」
「高級品ではないか! だが、私はあまり甘い物は好かんぞ」
「ご安心を。ビターなもので、酒にもよく合うそうです。
騙されたと思って、お試しください」
「そうか。せっかくの心遣いだ。遠慮なくいただこう」
「では、私はこれで。
明日も早うございますから、ほどほどになさいませ」
「貴様は私の母親か? 用が済んだらとっとと帰れ」
ベネディクト外交官は軽く頭を下げ、そっと扉を閉めた。
マグス大佐は遠ざかる足音を確認してから、扉に内鍵をかけ、ベッド脇の小さなテーブルセットに腰を下ろした。
水差しのグラスを取ってテーブルに置き、さっそく小瓶から酒を注いだ。
琥珀色の液体を少しだけ口に含め、舌の上で転がしてからゆっくりと飲み込んでみる。
華やかなレーズンとハチミツの香りが、口いっぱいに広がって鼻腔から抜け、ほんのりと煙臭い後味が残った。
なるほど、美味い。塹壕の中で引っかける焼酎とは、雲泥の差があった。
大佐は上機嫌でまたグラスに酒を注ぎ、今度はチョコの包みに手を伸ばした。
金糸の入った赤いリボンを解き、花柄の巾着を開くと、中には銀紙に包まれたチョコが五、六個入っている。
大佐はその一つを取り出し、ハート型をしたチョコを口に放り込んだ。
外交官が言ったとおり、カカオの苦い風味が際立ち、あまり甘すぎない。
ゆっくりと口の中で溶かすと、残っていた酒の刺激がやわらぎ、次の酒が欲しくなる。
「あいつめ、ナスのような締まりのない顔をしている癖に、なかなかの趣味をしているな」
大佐は独り言をつぶやきながら、次のチョコを摘まみ上げ、銀紙を開いた。
その途端、彼女の頬に走る傷跡がびくんと引き攣った。
彼女は無言で銀紙を握り潰し、テーブルに置かれたランプの〝ほや〟の中に放り込んだ。
銀紙の塊りは火花を散らしながら燃え上がり、たちまち白い灰となった。
その銀紙の内側には、小さな文字でこう記されていた。
「カーン少将、大森林にて消息を断つ」
* *
翌朝、まだ薄暗いうちにエイナの泊まる部屋の扉がノックされた。
彼女は熟睡していたが、すぐに目を覚ました。
部屋の外から、身の危険を感じるほどの魔力を感じたからだ。
これほど暴力的な魔圧を放つ人物など、マグス大佐以外にあり得ない。
エイナはがばっと起き上がり、足をもつれさせながら扉へ駆け寄った。
内鍵を外してそっと扉を開けると、案の定、そこにはマグス大佐が立っていた。
「ああ、まだ寝ていたか。起こしてしまって済まん。
ちょっと話があるのだが、いいか?」
エイナはうなずき、大佐を部屋の中に迎え入れた。
彼女は寝巻のままだったし、髪も梳かしていなかった。
それに比べて、大佐は糊のきいた軍服を一分の隙もなく着込み、顔もきちんと洗っているようだった。
いくら同性とはいえ、寝起きの顔で会うのは気まずかったが、大佐は一向に気にしない様子で、部屋にある椅子に勝手に座った。
エイナも仕方なく、その向かいに腰を下ろす。
「貴官も知ってのとおり、私はこの後、船に乗ってクレアに向かう。
この数週間、世話になったことには、改めて礼を言いたい」
大佐はそう言って、律儀に頭を下げた。
こうなると、エイナは自分のだらしない恰好が、ますます恥ずかしくなる。
「あの、済みません。
ちょっと顔を洗って着替えますので、少々お待ちいただけますか?」
早口で言い訳し、腰を浮かしかけたエイナの腕を、大佐はがっちりと掴んで引き戻した。
まるで男のような、強い力だった。
「いい、時間がない。そのまま聞いてくれ」
「……はい」
そこまで言われると、エイナは従うしかない。
「例の採石場で襲ってきた犯人だが、その後の捜査については何か聞いているか?」
「いえ、特には。
そもそも捜索は第四軍の管轄ですから、部外者の私には情報が入ってきません。
ただ、もし発見されたのなら、それなりに動きがあると思います。
そういう感じはありませんから、多分まだ行方は掴んでいないと思います」
「まぁ、そうだろうな。
ところで、王国内にはわが国の情報部員が、それなりに入り込んでいる。
もちろん、公式にはそんなことは認めてはいないが、これはお互いに周知の事実だ」
「はい」
「これは、その工作員から入手した情報だ。
襲撃犯は、辺境のカイラ村から大森林に入ったらしい。
そこから五十キロほど東に進んだ上で進路を北に変え、ボルゾ川のどこかで渡河する計画のようだ」
「えと、あの……なぜ、そんなことを私に教えるのですか?」
エイナが戸惑うのも無理はない。
襲撃犯が帝国軍のカメリア・カーン少将であることは、誰も認めないが暗黙の了解事だ。
その逃走ルートを、よりにもよって大佐が洩らす意図が分からない。
「まぁ、黙って聞け。
こちらの観測では、犯人はいまだにボルゾ川を渡っていない。
あの襲撃から、もう十日近くになる。普通なら、とっくに帝国領内に逃走しているはずだ。
つまり、襲撃犯は何らかの事情があって、いまだに大森林内に留まっている可能性が高い」
「えーと……」
「私の伝えた情報が正しいと仮定した場合、王国軍はどう動く?」
「それは……当然、捜索隊を森に入れることになるでしょうね」
「うむ、それでよい」
大佐はおもむろにうなずき、エイナの手に一枚の紙片を押しつけた。
「これは?」
「襲撃犯が逃走に使ったと推定されるルートを、地図に落とし込んだものだ。
×印は予想野営地点だ。
野営の痕跡をたどれば、犯人がどこまで進み、どこで消息を断ったか、およそ判断できるだろう」
「意味が分かりません。それではまるで『犯人を捕まえてくれ』と言っているとしか――」
マグス大佐はエイナの両腕を掴み、ぐっと顔を近づけた。
「そのとおりだ! 犯人の行方を追い、捕まえてほしいのだ。
もっとも、そう簡単にはいかんだろうがな」
大佐の握力があまりに強く、エイナの二の腕が痺れてきた。
「襲撃犯は、あれだけの強力な魔導士だ。
それが消息を絶ったということは、よほどのことが起きたに違いない。あるいは、もう死んでいるのかもしれない。
それならば、それでよい。
だが、私はその魔導士がどうなったかを知りたいのだ!」
大佐の顔が、まるで口づけを迫るように近づいた。
「これだけの情報を伝えたのだ。
その見返りに、犯人の生死だけでも教えてくれ。詳しい事情までは要求しない。
死体を見つけたか、生きて捕らえたのか――それを王都の公使館に伝えてくれ、頼む!」
エイナは身をよじり、どうにか大佐の手から逃れた。
そして、腕をさすりながら、震える声で答えた。
「私の一存ではどうにもなりません。
私も軍人です。上に報告して、その指示を仰ぐ必要があります。
ただ、大佐の要望ができる限り伝わるよう、努力をすることだけはお約束します」
マグス大佐は安堵したように、かくんと肩を落とした。
その顔にいつものような精気はなく、生活に疲れた中年女のようだった。
「それでよい。頼んだぞ」
彼女はそう言い残し、部屋を出ていった。
エイナは衣装かけからガウンをひったくると、腕を通しながら自分も廊下に出た。
隣の部屋で寝こけている、シルヴィアとカー君を叩き起こすためだった。