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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第五章 辺境の虜囚
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十五 逃亡

 カメリアが潜んでいた地下空洞は、石材を切り出していた場所であるから、壁は垂直で床は平坦――かなりすべすべしていた。

 坑道から落ちてきた水が流れた後は、それが白く凍りついて鏡のようになった。

 次々と押し寄せる水がその上を滑るように広がり、驚くべき勢いで白く塗りつぶしていった。

 それと同時に、カメリアに向けて強烈な冷気が襲ってくる。


 あらゆる物を凍らせる、その未知の液体の正体は分からなかったが、カメリアは本能的に危険を感じていた。

 彼女は寒さで震える唇を動かし、高速で詠唱を続けた。

 それは〝バリスタ〟の呪文であったが、エイナを攻撃するためのものではなかった。


 重力の方向を変え、自在に操る対象は岩ではなく、自分自身だったのだ。


 もどかしい思いで詠唱を終わらせると、カメリアの身体はすっと浮き上がった。

 間一髪で、彼女が立っていた地面が凍りついた。


 傍目には上昇したように見えても、実際に彼女が味わったのは、頭から真っ逆さまに〝落ちる〟感覚であった。

 自ら唱えた魔法によって、重力の作用方向が百八十度反転したのだ。


      *       *


「バリスタを、私自身にかけろと言うのですか?」

 カメリア少将はマグス大佐の正気を疑った。


「そうだ。

 私が黒死山で王国の連中と鉢合わせした時は、あまりに近すぎて攻撃魔法が使えなかった。

 敵には国家召喚士がいて、怪物のような力を持った幻獣を従えていた。

 我々三人は、全員が魔導士だった。接近戦では勝ち目がないから、どうしても距離を取る必要があった。

 そこで、私はエッカルト(大佐の副官)に圧縮空気弾を撃つことを命じたのだ」


「はぁ! 馬鹿ですか?

 そんなことをしたら、敵を攻撃できても、反動で自分たちまで吹っ飛びますよ!」

「そこが狙いだ。後方に飛ばされれば、一瞬で距離が取れるだろう?

 そうなれば後は魔法の撃ち合いだ、こっちの負けはなくなる。

 無論、エッカルトが魔法を撃つと同時に、ユリアン(もう一人の副官)には物理防御を展開させた。

 とっさに考えたにしては、我ながら完璧な作戦だったな」


「頭がおかしいです!

 いくら魔導士だと言っても、私たちは生身の人間なんですよ?

 例え防御魔法を張っても、もの凄い勢いで地面に叩きつけられたら、無事で済むわけがないでしょう!」

「馬鹿者、帝国軍人がそのくらい耐えられなくてどうする!

 実際、私は無事だったぞ? 副官どもは骨折したらしいが……まったく、男のくせに軟弱な奴らだ」


「それが普通で……あっ、さては副官たちが大佐を庇ったんでしょう?

 あの子たちが可哀そうだと思わないんですか?」

「副官が上司を守るのは当然だ」


「相変わらず鬼ですね――って、バリスタを自分にかけるって、そういう意味ですか?」

「そうだ。自分を石みたいに投げれば二、三キロは飛ばせるだろう?

 それを何度か繰り返せば。脱出など容易たやすいはずだ。

 ふむ……これは魔導士単体での長距離飛行が可能になるかもしれんな。今度、高魔研に論文を出してみるか」


「冗談じゃありませんよ!

 大体、私は重力魔導士なんですから、防御魔法が使えないって、大佐殿もご存じのはずです。

 どうやって身を守れというのですか?」

「そこは一応考えているぞ。

 まず鉄の棒を溶接して、球体の檻を用意するのだ。

 分解して持ち込み、現地で組み立てられるような工夫が必要だな。

 お前は綿をパンパンに詰めた防護服を着装して、その中に入るのだ。

 これなら地面に激突しても耐えられるし、転がることで衝撃も軽減できるだろう」


 カメリア少将は蒼白になって、大佐の顔をまじまじと見た。

「大佐殿……あなた、それ本気で言ってるのですか?」


 マグス大佐は涼しい顔で答える。

「当たり前だろう?

 すでに調達課には、装備を開発するよう話を通しておいた。

 喜べ、難しいが不可能ではないそうだ」


      *       *


 見世物小屋で客引きをする〝着ぐるみ〟のような姿は、マグス大佐が笑い転げるほど、滑稽な恰好だった。

 球状の鉄の檻の中で、肉襦袢を着込んだカメリアは、手足を動かすことすらままならない。

 せめてもの救いは、この屈辱的な姿が敵に見えないことであった。


 囚人のように閉じ込められた少将は、地下空洞の天井目がけて真っ直ぐに〝落ちて〟いった。

 彼女が鉄の檻を設置したのは、天井に開いた換気口の真下であり、その直径は通過するのに十分な余裕があった。

 カメリアは換気口に吸い込まれるように落下し、外から蓋をしていた腐った板をぶち破って飛び出し、上空で停止した。

 重力の方向を元に戻し、慣性速度と均衡させたのだ。


 周囲は濛々とした水蒸気に包まれており、離れた地上にいる敵魔導士からは、ろくに見えていないだろう。

 呪文で指定された手順に従い、魔法は次の段階に移行した。

 重力方向が南東に向けた真横に変わり、カメリアは再び落下を開始した。


 人は誰しも一度は、鳥のように空を飛ぶことを夢見る。

 それは爽快な経験であるはずだったが、実際に飛んでいくカメリアにとっては、恐怖でしかなかった。


 憐れな囚人を閉じ込めた球形の檻は、およそ三キロ近くも吹っ飛ばされた挙句、地面に落下した。

 そこは収穫直前の小麦畑で、風に穂を揺らす黄金の波を、鉄の檻が数百メートルにわたって蹂躙し、醜い傷跡を残した。

 カメリアがお百姓さんの呪いを免れたのは、奇跡と言ってもよいだろう。


 計画では、檻が停止したところでもう一度呪文を唱え、逃亡のためにさらに距離を稼ぐ手筈であった。

 だが、それは容易にできることではなかった。


 着ぐるみでほとんど身動きできないカメリアは、畑を転がったことで完全に目を回してしまい、吐瀉物で喉を詰まらせ、危うく窒息死するところだった。

 地面に激突した衝撃で、身体中の骨や関節が悲鳴を上げ、内臓がひしゃげ、大小便を洩らしていたことにも気づけなかった。


 どうにか気力を取り戻すには三十分ほどを要し、カメリアは鉄の意志で再度の逃避行を試みた。

 最初の着地点からさらに三キロ先、今度は森林の中に突っ込んだ挙句、鉄の檻は大木に激突して停止した。


 この逃走ルートは最初から決められていて、森林の中に落ちるのも計画どおりである。

 そこまで正確に自分の身体を飛ばしたカメリアの能力は、やはり一流だと言わざるを得ない。


 カメリアは鬱陶しい着ぐるみをナイフで切り裂き、どうにか身体の自由を取り戻した。

 太い針金で固定していた檻の扉を開けて外に出た彼女は、ポケットから通信用の狼煙のろしを取り出し、傍らの樹の幹に擦って火をつけた。

 筒状の狼煙の端には硫黄と燐が塗られていて、摩擦で簡単に発火する。

 あらかじめ森の周囲に待機していた工作員たちが、立ち上る黄色い煙を発見して救出に来てくれたのは、それから三十分後のことだった。


      *       *


 約二時間後、カメリアは馬車に乗り込み、田舎の脇街道を東南に向かっていた。

 彼女はそれなりに身なりのよい、商人の妻という体の服装に着替えていた。


 馬車に同乗するのは、彼女の夫である商人と二人の使用人であるが、もちろん全員帝国の工作員たちである。

 森の中に残してきた鉄の檻は、別の工作員が分解して、どこかに持ち去ってしまった。


 役目を果たしたカメリアは、すみやかに帝国側に脱出しなければならない。

 正規のルートなら、黒城市から川を渡って対岸のクレアに入ればよいが、〝ネームド〟のカメリアがすんなり国境を通過できるはずがない。


 マグス大佐の一行を謎の魔導士が襲撃し、しかもその人物はバリスタという特異な魔法を使っている。

 情報は最優先で国境に伝達されるだろうから、そんな危険を冒せるわけがない。


 結局、辺境からほぼ無人のタブ大森林に入り、北上してボルゾ川を渡るという方法を取らざるを得ない。


 当然、王国軍も警戒を強めているだろうが、広大な辺境をカバーしきれるものではなく、タブ大森林にさえ入ってしまえば、渡河地点などいくらでもある。

 カメリアたちが遠回りとなる南東を目指したのは、馬鹿正直に最短ルートの北東を目指して、敵の警戒網に引っかからないためである。


 カメリアたちの一行はこの二日後、辺境中南部の主要都市であるカイラ村に入った。

 彼らは白城市から煙草の葉を買い付けにきた商人、という触れ込みで宿に数日滞在して準備を整えた後、身代わりの工作員と入れ替わり、騎馬で辺境の奥へと向かった。

 そして点在する開拓村には立ち寄らず、そのまま真っ直ぐ大森林に入った。


 タブ大森林は遥か昔の寒冷期に成立した原生林であるが、辺境地帯に接する辺りは、ある程度人の手が入っている。


 開拓民が焚き木や落葉、山菜や木の実を採取するため森に入るからで、その他にも肉や毛皮を獲る狩人や、炭焼き人も入り込んでいる。

 したがって、辺境から十キロくらいの範囲は比較的歩きやすく、馬でも十分に進むことができた。


 ところが、その先の人手の入らない奥にまで進むと、とても馬では進めなくなる。

 カメリアたちの一行も、そこで工作員をつけて馬を帰し、徒歩で進むこととなった。

 ここから東に五十キロほど進んだ後、進路を北に変え、あらかじめ決めていたボルゾ川の渡河地点を目指すという計画だった。


 最後までカメリアを案内することとなった工作員は二人であった。

 カメリア自身が強大な戦力となるから、要人護衛という概念はなかったのだ。


 二人の工作員は、何度も密入出国を繰り返していたので、大森林の踏破には馴れていた。

 カメリアにはまったく分からなかったが、森には彼らなりの〝道〟があって、水場や野営地も決まっているらしかった。


 カメリアは工作員たちに、ただ付いていけばいいだけだった。

 彼女は現場上がりの将校であるから、行軍や野営には馴れている。

 しかも、彼女の荷物は男たちが運んでくれ、食糧の確保から食事の支度や後片付けまで、すべて彼らがやってくれた。


 カメリアは家事能力が高く、実際それを自慢にもしていたので、食事を作りたくてうずうずしていたのだが、将官という立場上、どうにかその欲求を抑え込んだ。

 悔しいことに、男たちの作る食事はお世辞抜きに美味かった。


 ただ、彼らは工作員という職業柄か、異様に無口であった。

 もちろん、こちらが話しかければ返事はするのだが、ぶっきらぼうで必要最小限の答えしか返ってこない。

 まったく話題が広がらないのだ。


 マグス大佐も不愛想なことでは人後に落ちないが、彼女はその気になれば、ちゃんとお喋りの相手になってくれる。

 この辺は男女差もあるのだろうが、カメリアとしては不満を抱えた旅となった。

 まぁ、これは遊びではなく軍務であるから、文句を言うわけにはいかない。


 大森林に入って三日目の朝、炊事の痕跡を隠して出発の支度を整えたところで、男の一人(彼らは名乗りもしなかった)が珍しく自分から口を開いた。


「今日から北を目指します。順調なら四、五日で渡河点に着けるはずです。

 申し訳ないのですが、少将殿には今しばらくご辛抱願います」


「いや、お前たちはよくやってくれている。私のことは気にするな。

 それより、ひとつ訊いてもよいか?」

「何でしょうか?」


「タブ大森林は危険だと聞いたことがある。

 つまりその……人喰いのオークが出るのではないか?」


 男は無表情のまま答えた。

「ああ、それは十年も前の話です。

 完全になくなったわけではありませんが、最近はオークそのものの出現が稀になっています。

 この森はそう豊かというわけではなく、大型の肉食獣はもともと少ないのです。

 まぁ、一番危険なのはクマですが、それとて数が少ないのです」


 もう一人の男もうなずいた。

「クマが襲ってくるのは、春先の子連れと出くわした時くらいで、普段は向こうの方が先に気づいて避けてくれます。

 やはり危険なのはオークですが、奴らの接近は臭いでそれと分かります。

 それに奴らは馬鹿です。少将殿であれば、簡単に対処できるはずです」


 カメリアは少し顔を赤くした。

 落ち着いている男たちに対して、将校である自分が、不安に駆られた臆病者に思えたのだ。

「そうか……いや、つまらんことを訊いて済まなかった。

 では、行くとしようか」


 彼らは野営地を後にして、針葉樹の巨木が立ち並ぶ森の中を、無言で歩き始めた。


 森を進む際は、工作員の二人がカメリアを前後に挟む形となる。

 先頭に立つ男が、手にした山刀で藪や蔦を伐り払いながら進み、その後ろをカメリアが付いていく。

 最後尾の男は少し離れ、二人分の荷物を背負って後方を警戒するのだ。


 その日も同じ隊形で、黙々と歩き続けた。

 背の低いカメリアは、自然と目の前の男の広い背中を見つめる恰好になる。

 森の中は深閑としており、鳥や動物の鳴き声はほとんど聞こえてこない。

 顔の周りにたかる羽虫や、重い羽音を立てて飛んでくる甲虫の類が、煩わしいくらいである。


 ブンッ!

 その時に聞こえた低い音も、そうした甲虫の羽音だと思った。


 思わず顔を上げたカメリアの目前で、いきなり赤い花が咲いたように思えた。

 だが、一瞬で彼女はその正体に思い当たった。それは戦場で嫌というほど見てきたものた。


 目の前に立っていた男の頭蓋に何かが当たって砕け、大量の鮮血と白い脳漿が飛び散ったのだ。

 男の少し猫背な背中がゆっくりと傾き、そのままどさりと崩れ落ちた。


「敵襲ーーっ!」

 カメリアは反射的に叫び、身体を投げ出すように地面に伏せた。

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