十四 地下空洞
地面に投げ捨てられたエイナの上着を拾おうと、マグス大佐は腰をかがめた。
その瞬間、彼女は強い衝撃を受けて尻餅をついた。
大量の魔力が放出された際に起きる、衝撃波のせいだ。
不意打ちで突き飛ばされた大佐だったが、その目は魔力を解放したエイナの姿を捉えていた。
〝バシッ!〟という破裂音とともに、ほとんど裸になったエイナの前面から、強烈な光が放たれた。
エイナの身体が盾となってくれたお陰で、大佐は視力を奪われずに済んだ。
とは言え、大佐の視界は大量の水蒸気に遮られ、何も見えなくなったから、あまり有難味がない。
濡れた地面に尻をついたことで、ズボンが水を吸ってズロースまで染みた。
慌てて立ち上がろうとした大佐を、今度は背後から突風が襲い、彼女は顔面から泥の中に叩きつけられた。
度重なる理不尽な暴力に翻弄され、大佐は怒りよりも先に現状把握に必死になった。この辺は、さすがに歴戦の軍人であると言えた。
腕立て伏せのような恰好で顔を上げた大佐は、眼前の光景に唖然とした。
採石場は石を採り尽くしたせいで、掘り下げられて皿のような地形になっていた。
その盆地の底が真っ白に凍りつき、しかもそれを水溜りが覆っていたのだ。
水面からは、白い水蒸気がゆらゆらと立ち上っている。
その煙の中で、空気中の水分が凍ったダイヤモンダストが舞い、きらきらと輝きを放っている。
どうにか立ち上がった大佐は、そそくさと服を着ているエイナの横に歩み寄った。
「これは……お前がやったことなのか?」
「単なる凍結魔法です。別に珍しくはありません」
エイナはシャツの袖に腕を通しながら、そっけない返事を返した。
「単なる……だと?」
凍結魔法なら、マグス大佐だって飽きるくらいに見てきた。
魔法はざっくり地火風水にの四系統があり、魔導士によって相性の良し悪しがある。
攻撃型魔導士の場合、大半が炎熱魔法(火系)を得意とする者で占められ、次いで凍結魔法(水系)が多く、雷撃魔法(風系)と地形魔法(土系)を使うものはごく少数である。
要するに、凍結魔法を使う魔導士は、そう珍しくはないのだ。
だが、眼前のような現象を、マグス大佐はこれまで一度も目にしたことがない。
凍結魔法は範囲魔法で、地表を凍りつかせる。効果範囲にいた敵は足が凍りついて動けなくなり、強烈な寒気で最悪凍死してしまう。
しかし、これほど広大な面積を凍結させるには、膨大な魔力が必要なはずだ。
範囲を拡大すれば、その分効果が落ちるのが常識であるが、目の前に出現した強烈な氷の世界を、一体どう説明したらいいのだろうか。
しかも、地表を水が覆い、湖のような光景を生み出すなど、見たことも聞いたこともない。
エイナは呆然としている大佐を無視し、空を見上げて叫んだ。
「シルヴィア、坑道の入口を破壊して!
今ならまだ、次の攻撃はないはずよ」
エイナの声が届いたのか、上空を旋回していたカー君が翼を畳み、すとんと高度を落とした。
地上二十メートルほどまで急下降した彼は、再び翼を広げて羽ばたくと、急旋回して坑道の入口に正対した。
盆地の底で半分水に浸かっている扉に急速に接近すると、衝突の寸前でオレンジ色の火球が吐き出され、同時にカー君が急上昇した。
分厚い木の扉は魔法でカチカチに凍りついており、近距離から放たれた火球の爆発によって、水しぶきとともに粉々に砕け散った。
ぽっかりと開いた坑道へ、盆地に溜まっていた大量の水が一気に流れ込んでいく。
ざーっという水音は、二百メートル以上離れた場所にいるエイナたちの耳にも届いた。
水が坑道へと吸い込まれた結果、水蒸気も薄れて視界が明瞭になった。
それとは対照的に、坑道の入口からは濛々《もうもう》と白い蒸気が吐き出されている。
「あの水はどこから生じたのだ……と言うか、そもそも地面が凍りついているのに、なぜ氷結もせずに流れている?」
マグス大佐はエイナの肩を掴んで揺さぶったが、その返事は意外なものだった。
「あの水は、大気が液状化したものらしいです。
絶対零度下では、空気ですら凍りつくはずなのですが、効果範囲外の大気と広く接しているせいで、そこまでには至らないようなのです。
いくら地下にまで凍結魔法が及ばないとしても、あれだけ大量に極低温の液体が流れ込めば、襲撃犯も無事ではいられないでしょう」
大佐はあんぐりと口を開けた。
「絶対零度……だと?
そんな現象を起こすほどの魔力を流し込んだら、腕が内部から破裂する……まさかお前!
直接、子宮から撃ったのか! 正気なのか?」
エイナはシャツの裾をズボンに押し込み、大佐が手にしていた上着を受け取った。
「服を着たままだと、魔力を放出した一瞬でボロボロになるんです。
今回は見ているのが、同性の大佐とシルヴィアだけなので助かりました。
――待ってください!
どうやら、敵が出てきたようです!」
エイナが指さしたのは、坑道の入り口ではなかった。
その背後の岩塊だらけの小山から、煙のように水蒸気が噴き出した辺りだった。
はっきりとは視認できないが、黒い影は人間というより、球体に近い形をしていた。
「シルヴィア!
敵魔導士が脱出を試みているわ。魔力反応からみて間違いない。
火球で攻撃してちょうだい!」
『了解!』
短い返信が頭の中に響き、上空のカー君が身体を翻して水蒸気の煙に突っ込んでいった。
しかし火球の光は見えず、カー君はそのまま白い煙を突き抜けてしまった。
『どういうこと? 誰もいないわよ!』
シルヴィアの怒気を孕んだ声が、頭の中でわんわんと反響する。
「そんなはずは――あれっ?」
『何?』
「魔力反応が消えている!
うそ! さっきまで確かに上空で浮揚していたのに……」
横に立っていたマグス大佐もうなずいた。
「半径三キロ以内で魔力反応を出しているのは、私たちとあの幻獣以外にいないな。
つまりは〝まんまと逃げられた〟ということではないかな?」
「そんな……一体どうやって! 帝国魔導士は空が飛べるとでも言うのですか?」
「お前は馬鹿か? それこそ軍事機密だ。私が答えるはずがなかろう。
まぁ、襲撃犯は逃亡し、私はこのとおり無事だ。
よかったではないか。エイナは立派に護衛任務を全うしたのだ。
珍しい魔法を見せてもらったことを含めて、礼を言わねばなるまいな」
大佐はエイナに向かって、取ってつけたような笑顔を見せた。
口の端から伸びる傷跡が、蛇のようにぐにゃりと踊った。
* *
そもそも、マグス大佐が皇帝から王国行きを命じられた際、茶番に過ぎない襲撃役の人選は、全面的に彼女に任された。
皇帝のお墨付きであるから、誰を選ぶかは大佐の一存であった。
彼女はあまり悩うことなく、カメリア少将を指名した。
魔導士養成を始めたばかりの後進国の、たかが新米魔導士の能力を測るため、現役の将官を担ぎ出すなど、非常識極まりないことであった。
周囲は必死で大佐に翻意を促したが、彼女は錦の御旗を振りかざしてそれらを一蹴した。
悪いことにカメリア少将は、長年大佐のもとで副官を務めた人物であるから、例え見かけの階級が上であろうと、直に頼まれれば断れるものではない。
「……というわけだ。
カメリア、私のためにまたひと骨折ってくれんか?」
帝国司令文部の大佐の部屋に呼び出された少将は、溜息をついた。
「相変わらず、無茶苦茶なことを命じられますね。
陛下云々の話ではなく、大佐殿の頼みですから、もちろんやらせていただきます。
ですが、極秘裏に潜入となると、現地工作員の助けを借りても困難が伴いますね」
「ははは、敵魔導士との戦闘については案じないのか?」
カメリアは微笑み返した。
「さすがに……。
それとも、大佐殿は私が王国の若造に後れを取ると、本気でお思いですか?」
「毛先ほども心配はしておらん。だが、油断も禁物だぞ」
少将の表情が、少し真剣になった。
「ただ、王国の魔導士とやりあった後が問題です。
何しろ敵の懐の中ですから、大軍に囲まれるとも限りません。
もちろん、例え相手が何千人でも負ける気はしませんが、あまり派手に暴れるのもまずいのでしょう?」
マグス大佐は黙ってうなずいた。
「私にとって、カメリアは今でもかわいい部下だ。特にお前の淹れてくれるコーヒーは絶品だからな。
そこで、お前のためにとっておきの策を授けようと思う。
これは去年、偶然王国の奴らと遭遇戦になった時に試した方法の応用だ」
大佐はカメリア少将にその手段を教えたが、それはかなり無茶なものだった。
カメリアは溜息を洩らしながらも、その案を受け入れ、軍の調達課に対してある特殊な装備を用意させた。
実験の結果、その方法は危険も伴うが、十分実戦に耐えられるとの判定が下ったのだが……。
マグス大佐は実験に向かうカメリアの姿を見て、腹を抱えて笑い転げたのだった。
* *
カメリア・カーン少将は、採石場の地下にできた大空洞に立っていた。
外の様子はさっぱり分からないが、感知魔法によって、大佐の接近とその位置は把握できた。
後はそこに目がけて岩石を投げ込めばいい。
どうせ大佐は、自分の魔法ごときで死ぬわけがない。
あの人がそんな生易しい人物でないことは、何年も仕えてよく知っている。
護衛についた王国の魔導士は、ひたすら防御魔法で耐えるしかないだろうが、それでは大質量の物理攻撃で魔力を削られるだけである。
その魔導士が、どう反撃するかが見物であった。
上空に魔力を持った幻獣らしき存在も感知したが、こちらは大した攻撃力を持っていないらしく、当てずっぽうの攻撃に、空洞上部の大岩盤はびくともしなかった。
高度を下げてきた時に、適当に攻撃して追っ払っておけば脅威とはならないだろう。
あくまで興味の対象は、護衛魔導士の方であった。
感知魔法の反応からすると、なかなかの魔力量を持っているようだった。
普通に考えれば、自分の攻撃に耐えているだけでは〝じり貧〟となる。
となれば、防御魔法を維持したまま接近して、魔法の届く範囲から攻撃を試みるだろう。
案の定、敵は予測どおりの動きをしてきた。
二つの魔力反応が同時に移動を開始したのも、織り込み済みであった。
工作員からの情報で、大佐と護衛魔導士以外に、外交官や護衛の騎馬小隊などが帯同していることも分かっていた。
敵魔導士が接近する代償として、残りの有象無象を皆殺しにして、後悔させてやることも考えたが、それは許してやることにした。
この雨の中、大佐が乗るべき馬車まで粉砕してしまうのは、気が引けたからからである。
どうせ自分の正体など、バリスタを見れば一目瞭然であろうが、帝国側としては知らぬ存ぜぬで通せばよい。
「わが国の現役少将が、王国に潜入してマグス大佐を襲撃しただと? 寝言は寝て言え」
――これで話は仕舞いとなるはずだ。
絶対にありえないことだが、自分が王国軍に捕まりでもしない限り、証拠などないからだ。
二つの魔力反応は採石場に近づき、およそ二百メートルの位置で動きを止めた。
接近し過ぎて、重力魔法で圧し潰されることを恐れたのだろう。
賢明な判断であるが、果たしてその距離で、地下にいる自分をどうやって攻撃するつもりだろうか。
地上につながる坑道の入口は、頑丈な扉で封鎖されている。
それなりの威力のファイア・ボールでも使えば、これを破壊することは可能だろう。
だが、そこから延びる坑道は、固い岩盤を刳り抜いた坂道となり、螺旋を描いて大深度まで続いている。
大空洞の天井は、二十メートル近い厚みがある大岩盤で、これを撃ち抜くことは不可能だ。
かといって、坑道の入口を破壊して、そこから魔法を撃ち込もうとしても、円を描いて傾斜する坑道に阻まれて、地下までは届くまい。
地下の大空洞は、難攻不落の要塞のように思えたが、実を言うとたった一つだけ、直接攻撃できる手段があった。
それは、空洞の天井から地上まで、垂直に掘られた換気口である。
ただし、採石場が放棄された際に、この換気口も外から板で塞がれ、現在では土砂に覆い隠されている。
この換気口は、いざという時のカメリアの脱出路にする予定だった。
カメリアは、相手がどんな手を使うのか楽しみにしながら、淡々とバリスタで攻撃を続けていた。
何しろここは採石場跡である。地表には攻撃に使う手頃な大きさの岩石が、無尽蔵に転がっているから、弾切れの心配がない。
ただ、バリスタは一発撃つと、次の攻撃のための呪文詠唱が必要だった。
彼女は超一流の魔導士であったから、当然のように三重詠唱を使いこなしたが、それでも二分ほどの時間を要した。
停止している魔力反応に向け、また一発の攻撃を撃ち込むと、カメリアはすぐに詠唱に入った。
その直後、頭の中で激しい光が爆発し、彼女は思わず詠唱を止めた。
感知魔法は、術者の脳内に魔力が小さな光点となって現れるイメージである。
光点の輝きは、魔力が大きいほどに強くなる。
これに自分が把握している地形を重ね合わせ、魔導士の位置を計算によって算出するのである。
ところが、その光点の一つがいきなり膨張し、強烈な輝きを放ったのだ。
これは、敵の魔導士が大出力の魔法を撃った証拠である。
それがただの魔法でないことは明らかで、マグス大佐の爆裂魔法以外では見たこともなかった。
『一体どんな魔法を使ったのだ?』
こうなると、安全ではあるが、外の情報が分からない地下にいる自分がもどかしかった。
しかしそれに続いて、今度ははっきりとした攻撃の兆候が耳に届いた。
轟音が坑道を伝わって大空間に反響し、爆風のようなものが吹き込んできた。
恐らく坑道の入口を破壊したのだろう。だがこれも、ある程度予想された動きである。
しかし、異変はそのすぐ後に起きた。
不気味な音が響いてきたかと思うと、傾斜した坑道を駆け抜けた大量の水が、地下の大空洞へと流れ落ちてきたのだ。
カメリアは訝しんだ。
この採石場の周辺には、目立った水源など存在しない。
となれば、現在降っている雨を利用した、未知の水系魔法かもしれない。
なるほど、頑丈な地下に立て籠もる敵に対して、水攻めとは考えたものだ。
だが、見通しが甘すぎる。
この地下空洞は、幅が約六十メートル、奥行きに至っては百メートル近くある。
これだけの空間を、相手が溺れるほどの水で満たすには、どれだけ時間がかかると思っているのだ?
大佐の護衛についた魔導士は、攻撃魔法を撃つために防御を解除したはずである。
どんなに熟練した魔導士でも、もう一度防御魔法を張り直すには、数分かかるはずだ。
その前にバリスタを撃ち込めば、勝負は簡単に決してしまう。
「大体、大佐殿は王国の魔導士などに期待をし過ぎなのだ……」
カメリアは幾分かの嫉妬を交えた独り言を洩らし、詠唱を再開しようとした。
――が、彼女はすぐに視線を戻した。
坑道から流れ込んでくる水が、ただの水ではないことに気づいたのだ。