十三 決断
彼女は目をぱちりと開いた。
途端に、キーンという耳鳴りが頭の中で反響した。
目に映ったのは、痛いくらいに白い壁――いや、違う。天井だ。
酷い頭痛にも関わらず、意識は急速に覚醒していく。
ここは高魔研から宛がわれた、寝るためだけの、広いが殺風景な部屋だ。
ごわごわするシーツと掛け布団からは、消毒薬臭い嫌な臭いがした。
彼女は小用がしたくて、ベッドから起き上がろうとした。
しかし、全身の関節が悲鳴を上げてその動きに抗い、だるくて筋肉が言うことを聞いてくれない。
股間に違和感を感じて思い出した。長時間の昏睡に対処するため〝おしめ〟をされていることに。
彼女が屈辱に唇を噛んでいると、ふいに横から声が聞こえた。
「お目覚めになったのですね、マグス中尉。
お身体を起こしますか?」
マグス中尉は声の主の方に顔を向けた。
ベッドの横の丸椅子に、小さな子ども(十歳くらいか?)がちょこんと座っている。
いつもの世話係ではない。
「ああ、済まんが手を貸してくれ。
情けないが、自分ひとりでは身体が動かせん」
少女は椅子から立ち上がり、マグス中尉の上半身を起こし、背中にクッションを当てがってくれた。
中尉は身体の痛みに顔を顰めながらも、ほうっと息をついた。
「ありがとう。
ところで、君は誰だ? 高魔研の職員のようには見えないが?」
少女は少し緊張した面持ちで〝気をつけ〟の姿勢を取り、敬礼をした。
「申し遅れました! 自分は第三十一魔導士養成機関所属、カメリア・カーン訓令生であります」
マグス中尉は驚き、まじまじとカメリアの顔を見詰めた。
「訓練生だと?
驚いたな、魔導士不足は今に始まったことではないが……最近は子どもまで集めているのか」
中尉が目線を椅子に向けうなずいたので、カメリアは素直に腰を下ろした。その顔には苦笑いが浮かんでいた。
「いえ、私はこれでも今年で十七歳になりました。
身体が小さい上に童顔なので、よく子どもに間違われます」
「そっ、そうか。それは失礼した。
で、その訓練生が、なぜ高魔研にいる? およそ場違いな所だぞ」
カメリアは、自分が重力魔法を応用した新しい魔法を開発したため、その検証で高魔研に呼ばれたという事情を話した。
「当分の間は検査が続くそうですが、中尉殿と相部屋になると説明されました。
よろしくお願いします」
彼女はそう言って、ちらりと反対側の壁際にある、もう一つのベッドに目を遣った。
ベッドの上には、彼女の私物と思われる荷物が置かれていた。
――これがマグス大佐とカメリアの、最初の出逢いであった。
当時、大佐はまだ二十三歳の中尉で、史上初めて爆裂魔法を成功させたとして高魔研に呼ばれ、検査と訓練を受けていたのである。
爆裂魔法の再現実験は可能な限り行われたが、まだ未熟だった彼女は、一発撃っただけで魔力切れに襲われる始末だった。
昨日も実験後に気絶してぶっ倒れ、昏睡してこの部屋に運び込まれていたのだ。
* *
一か月後、カメリアは高魔研から養成機関へと戻されたが、その後の運命は大きく変わることとなった。
何しろ、彼女は重力魔導士でありながら、攻撃魔法を使える異能者だと高魔研がお墨付きを与えたのだ。
そのため、養成機関を卒業して軍の魔導士として採用された際、彼女は重力魔導士枠ではなく、一般魔導士として任官した。
つまり、裏方として輜重隊に帯同するのではなく、戦場に立ち堂々と敵と渡り合える身分となったのである。
もっともはじめの内は、カメリアに対する評価は決して高いものではなかった。
彼女が飛ばすことができたのは、拳大の石がやっとで、その到達距離も二、三百メートルに過ぎなかった。
これでは、当時すでに廃れていた投石器と変わりなく、戦力として期待するにはあまりに威力不足であった。
ただ彼女の魔法は、投石器とは比べ物にならない命中精度を誇ったので、敵の指揮官を狙い撃ちにする狙撃手として重宝されるようになった。
また、カメリアは魔導士でありながら、積極的に白兵戦にも打って出た。
彼女の剣の腕前はなかなかのもので、体格の不利を敏捷性で補い、自在に操る重力魔法で接近する敵を圧し潰しながら、戦場が生まれ故郷であるように暴れまくった。
次第に周囲からの信頼が増してくると、彼女は小隊を任されるようになり、指揮官としての優れた才能を開花させた。
同時に魔力も増大を続け、投擲できる石の重量や飛距離も増していった。
やがて、彼女の魔法は攻城弩砲と呼ばれるようになり、戦場で猛威を振るい始めた。
階級も次第に上がっていき、やがて中隊を指揮するようになった。
そして、マグス大佐と戦場で再会したことがきっかけで、大佐の独立即応大隊の副長に引き抜かれたのである。
その後、独立即応大隊の有効性に着目した軍部は、第二部隊の創設を決定したが、その隊長に指名されたのがカメリアだった。
彼女とその部隊は軍の期待に見事に応え、カメリアは昇進を重ねて、ついには四十代の若さで将官にまで出世したのであった。
余談であるが、カメリアは四十歳を過ぎてから結婚し、現在は一児の母親である(出産時には一年間休職している)。
相手は軍人ではなく、彼女が帝都でよく通っていたパン屋の男やもめであった。
マグス大佐は結婚願望を欠片ほども持っていなかったが、カメリアの結婚を聞いた際には激しい衝撃を受け、かなり落ち込んだと伝えられている。
* *
話を現在に戻そう。
エイナたちは街道上で釘付けにされていた。
石切場から巨岩がひっきりなしに飛んできて、動くに動けなかったのだ。
エイナは単眼鏡で石切場の方を注視しながら、シルヴィアたちに呼びかけた。
「敵の姿は発見できた?」
すぐに頭の中にシルヴィアの声が響く。雨が小降りになり、通信状況はだいぶ改善されてきた。
『駄目、見つからない。
でも、浮上する岩塊は、閉鎖された坑道の入口周りに集中しているの。
やっぱり敵は、地下の大空洞に潜んでいるんだと思うわ!』
「カー君の火球で入口を吹っ飛ばせないの?」
『それが近づこうとすると、石がこっちに向かって飛んでくるのよ。
カー君が何とか躱しているけど、うかつに近づけないわ。
入口の上部は大岩盤だから、高度を下げた横からじゃないと火球を撃ち込めないの。
敵は馬車が見えないのに、どうやって狙いをつけているのかしら?』
「多分、感知魔法で魔力を探っているんだと思う。
こっちは私と大佐がいるから、見えなくても関係ないわ。
そっちはカー君が魔力を持っているからじゃないかしら」
『なるほどね。で、どうするつもり?』
「ちょっと考えがある。
シルヴィアは無理しない程度に攻撃を引き付けてちょうだい」
『了解!』
「ほう、お前は石切場にいるシルヴィアと通信ができるのか。
これもあの幻獣の能力なのか?」
「お答えしかねます」
マグス大佐が興味深げに訊ねてきたが、エイナはにべもない。
もっとも、答えずともバレバレである。
街道上に伏せているオットリーノ外交官の方から、舌打ちの音が聞こえてきた。
エイナが脳内通話ではなく、口頭で通信を続けたことに腹を立ているのだろう。
しかし、そっちの方が圧倒的に楽なのだ。エイナは心の中で詫びた。
『今は緊急時だから許してください!』
マグス大佐も、質問の拒絶を気にしていないようだった。
「それで?
シルヴィアも訊いていたようだが、策があるようだな。
何をするつもりなのか、言ってみろ」
エイナは一瞬躊躇したが、これは大佐の協力が必要だと割り切った。
「このまま巨岩の攻撃を受け続ければ、防御障壁が持ちません。
こちらから撃って出ます」
「騎馬小隊の馬でも借りるつもりか?」
大佐はちらりと馬車の方を見やった。馬は気絶して倒れたままである。
「いえ、自分の足で行きます。一キロなら急げは十分足らず、そのくらいなら防御魔法も十分に持つはずです」
「それはいいが、肝心の私たちは誰が守るのだ?」
「大佐のお手を煩わせて心苦しいのですが、ここの防御は大佐ご自身にお願いしたいのです」
「それは……無理だな」
「しかし緊急時です、曲げてお願いします!」
「そうではない。私は防御魔法を持っていないのだ」
「は?」
「いや、これでも若いころは多少使えたのだぞ?
だが、私は攻撃魔法に特化した魔導士だ。
身体中にそれ用の魔法回路ができあがっていて、もう防御魔法を使うために魔力を通す隙間がないのだよ」
「しかし、それでは……」
「ふむ、ではこうしよう。
私もお前と一緒に石切場に向かう。
それなら二人とも防御範囲内だし、魔力反応が移動してしまえば、敵もこの地点を攻撃すまい。
まぁ、外交官が死ぬくらい、どうということもないがな」
大佐は気の利いた冗談でも言ったように、含み笑いをした。
「やっ、止むを得ません。では、ご同行をお願いします!」
「うむ。貴殿のお手並み拝見といこう」
防御魔法は魔導士にとって、基礎中の基礎と言える魔法だ。
いくら攻撃特化型と言っても、それが使えなくなったというのは、俄かには信じがたい話であった。
恐らくは、エイナがどんな策を使ってカメリア少将(仮名)に立ち向かうのか、見物をしたいというのが大佐の本音だろう。
実際の話、マグス大佐の話は真っ赤な嘘であった。彼女はいざとなれば、防御魔法を使うことができたのである。
* *
エイナとマグス大佐は小雨の中、駈足で石切場を目指した。。
相変わらず巨岩が襲ってくるが、物理防御障壁はそれに耐え続けた。
攻撃の間隔は約二分おきで、これは呪文詠唱に必要な時間だのだろう。もし連続した集中攻撃を受けていたら、結界はあっという間に崩壊していただろう。
道は広かったが、ほとんど人が通らないので荒れており、雨でひどくぬかるんでいた。
およそ十分で、二人は石切場に到着した。
近づいてみると、それはかなり広大な敷地であった。元は山だったのだから当然である。
現在は、崩れた岩塊の小山が散在している廃墟であった。
上空を旋回しているカー君に乗ったシルヴィアが高度を下げ、こちらに向かって手を振ってきた。
すると突然、地面から一メートル四方の岩塊が浮上して、シルヴィアたち目がけて吹っ飛んでいった。
衝突ぎりぎりのところで、カー君がひらりと身を躱し、高度をぐんぐん上げて避難する。
どうやらこの魔法の狙いは正確だが、一度発射されると真っ直ぐ飛ぶだけで、術者のコントロールが利かないらしい。
しかも、射出速度は思ったよりも速くない。エイナたちが街道上で受けた攻撃は、こんなものではなかった。
だから近距離であるにも関わらず、カー君が避け切れるのだろう。
これはバリスタの特性で、投擲される物体は重力方向に向かって自然落下しているからであった。
つまり、距離が大きければ、それだけ重力加速度がつくという原理である(もちろん、エイナはそんなことを知らない)。
「どうした、先へ進まんのか?」
大佐が訊ねたが、エイナは無言だった。
その口もとからは、ぶつぶつと低い声で奇妙な旋律が洩れ出していた。
彼女は石切場の入口に到着する少し前から、ずっと呪文を唱え続けていたのだ。
「ほう、この娘、三重詠唱まで使えるのか……」
マグス大佐が感心したようにつぶやいた。
三重詠唱は、帝国の魔道士官でも、ごく限られた者しか使えない、超高速の詠唱技術である。
もっとも、マグス大佐はさらに一段階上の、四重詠唱まで使えたのであるが……。
『だが、この呪文は凍結魔法ではないか?』
大佐の頭には、そんな疑問が湧き上がっていた。
彼女は主に炎系の魔法を扱うので、水系魔法には詳しくないが、エイナの口から洩れ出る呪文を聞けば、大体の予測はつく。
エイナが相手との距離を詰めようとしないのは、接近すれば重力魔法に捉えられて動きを止められるか、最悪圧し潰されるのを警戒してのことだろう。
凍結魔法は中距離魔法で、この位置からでも届く――という点では、ある程度の理屈は立つ。
だが相手は恐らく、採石によって生まれた地下の大空間に潜んでいるはずだ。
凍結魔法で地表を凍らせても、地下にまで影響が及ぶとは考えにくい。
『エイナは何を考えているのだ……?』
マグス大佐は興味津々であった。わくわくしていたと言ってもよい。
目の前に立つ若い魔導士は、明らかに才能に恵まれていた。
魔力量だけで言えば、大佐が十代だった頃を遥かに凌駕している。
彼女は呪文を唱え続けるエイナを眺めながら、ある感慨に囚われていた。
『私は五十代になったとはいえ、まだ十年やそこらは暴れられるだろう。
だが、自分は先代の〝魔女〟刀自売様と違って、普通の人間に過ぎない(刀自売様とはサシャのこと)。
体力や反応速度は、歳とともに明らかに衰えてきている。
時代はもう、いま目の前にいるような若者のものなのかもしれない……』
『だが、私はその前に立ちはだかる壁になってやる!
カメリア、お前もその仲間だ。よもや不覚をとるまいぞ!』
大佐の決意を吹き飛ばすように、次の巨岩が飛んできた。
防御障壁が眼前わずか三メートルでそれを防ぎ、四散した石榑が飛び散って、バラバラと音を立てる。
次の瞬間、エイナの詠唱が止み、同時に防御結界が消え去ったことが感じられた。
エイナが攻撃魔法を撃とうとして、障壁を解除したのは明らかである。
次の攻撃までは、約二分ほどの猶予がある。そこで有効な攻撃ができなければ、再度防御を張り直す時間などない。危険な賭けであった。
固唾を呑んで見守る大佐の前で、エイナはカチャカチャと腰のベルトを外し、軍服のズボンをズロースごと膝まで下ろした。
意外な行動に呆気にとられる大佐の目には、丸出しになった白い尻が映っている。
続いてエイナは上着を投げ捨て、下のシャツまで脱ぎ去った。
要するに、エイナは胸を覆うコルセット以外、ほぼ全裸となったのだ。
マグス大佐には状況が理解できなかった。
かろうじて口をついて出た言葉は、何とも間の抜けたものだった。
「あー、その……小便がしたくなったのか?」