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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第五章 辺境の虜囚
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九 夜伽

「エイナ、あんたどうしたの?

 なんか顔赤いし……風邪でも引いた?」


 隣のベッドのシルヴィアが身を起こし、心配そうに訊ねてきた。

 第一軍の演習場には、複数のテントが立てられていた。


 歓迎会の会場やマグス大佐の宿泊所などは、儀礼的行事で使用される非常に豪華なテントである。

 一歩中に足を踏み入れると、そこは宮殿かと見紛うばかりだった。

 ふかふかの絨毯が敷き詰められ、壁面と天井は美しい織物で覆われて、生花や絵画が所狭しと飾られている。


 これに比べ、エイナたちの宿所に宛がわれたテントは、野戦用の極めて無味乾燥なものだった。

 だだっ広い内部には、記録を争うかのように多数の兵士が詰め込まれ、その体温と汗臭い体臭で、テント内の空気は澱んでいた。


 エイナやシルヴィアたち少数の女性兵士の寝床は、申し訳程度に吊られたカーテンで仕切られていたが、覗きや侵入者を警戒するため、女たちは交替で不寝番を立てなければならなかった。


 組み立て式のベッドには、堅くて薄いマットに薄汚れた毛布が一枚あるだけで、全員軍服を着たままで寝なければならなかった。

 神経の太い者は、そんな環境を気にせずに貴重な睡眠時間をむさぼっていたが、エイナとシルヴィアはなかなか寝付けなかった。

 特にエイナは毛布をかぶっているものの、寝返りを繰り返すばかりでちっとも落ち着かない。

 シルヴィアがそれに気づいて、心配するのも当然であった。


 エイナはシルヴィアの質問を待ち構えていたように、マグス大佐から密かに呼び出されたことを打ち明けた。


「えっ? ちょっ……それって、結構ヤバいんじゃない?」

「シルヴィアもそう思う?」


「当たり前よ! 夜の十時っていったら、もうみんな寝静まっているわ。

 そんな夜中にベッドに誘うなんて、絶対にとぎの命令だわ!」

「よっ、夜伽って何?」


「馬鹿ねっ! マグス大佐の欲求不満を鎮めるために、あれこれご奉仕することに決まっているじゃない」

「ま、マッサージをするとか?」


「そんなもんで済むはずないでしょ!

 もっと恥ずかしい所を触ったり舐めたり……下手したら、お互いにあれこれし合うってのもありかもよ?」

「どどど、どっ、どうしよう!

 私、そんなことしたことない……っていうか、無理よ、出来ないわ!」


「でも、相手は国の賓客で、将官待遇の高官よ。

 そういうのも、接待の内に含まれるって聞いたことがあるわ」

「わっ、私、自信ないわ! お願い、シルヴィアも一緒に来て!」


「駄目に決まってるじゃない! 夜伽の付き添いなんて聞いたことがないわ」

「でもっ、女同士なのよ? そういうことがしたいなら、男の人が呼ばれるんじゃないの?」


「あら、あんた、マグス大佐は男女見境ないって噂を知らないの?」


 シルヴィアが口にした噂は、もちろん出鱈目である。

 大佐はほとんど生ける伝説と化した人物で、しかも独身女性であるだけに、帝国内でも突飛な噂が飛び交っていた。

 それらは九割以上が根拠のない妄想であったが、ある程度の敬意を含んだものだった。


 ところが、他国では大佐が怪物視されており、噂に盛大な尾ひれが付いて、真面目に信じられていた。

 その大半は大佐の性癖に関するもので、中には「大佐の尻には、先が男根の形をした尻尾が生えている」といった酷いものもあった。


 それに比べれば「相手が女でもいける」というのは、噂としては可愛いものである。

 もちろん、大佐にその手の趣味はなく、事実に反するのだが、こうした風評が立つのは、ある意味自業自得と言えなくもない。


 エイナとシルヴィアが毛布にくるまりながら、ひそひそと想定される事態と、その対処法を相談するうちに、時は無情に過ぎていく。

 そして、とうとう約束の時間が近づいてしまった。


「気をしっかり持つのよ!

 これも任務の内だからね、犬に嚙まれたと思って我慢しなさい」

 シルヴィアが手を握ってささやいてくれたが、あまり慰めにはならない言葉だった。


 エイナは泣きたくなる気持ちで覚悟を決め、眠っている周囲の兵たちを起こさぬよう、そっと外に出ていった。


      *       *


 マグス大佐のテントに近づくと、その入口の両脇には篝火かがりびが焚かれ、二人の武装した兵士が警戒に当たっていた。

 エイナはそれを見て、少しだけ安堵した。


 考えてみれば、第一軍が護衛を付けるのは当然である。万一、何か大佐から理不尽なことを強要されても、最悪、大声を出して助けてを求めることができる。

『だけど、それで恥ずかしい姿を見られたらどうしよう?』

 彼女の不安の種は尽きなかった。


 エイナがテントに近づいていくと、目敏く気づいた兵士が槍の穂先を向けた。

「止まれ! 何者だ?」


 鋭い語気の誰何すいかに、エイナは両手を挙げ、篝火の明かりの範囲にゆっくりと進み出た。

「マグス大佐殿の護衛を務めている、エイナ・フローリー少尉です」


 兵たちは顔を見合わせたが、すぐに槍を引いた。

「失礼しました。大佐殿から話は伺っております。

 どうぞお入りください」


 ああ、できることなら通して欲しくなかった……エイナは恨めしい目で背の高い衛兵を見上げ、ドキドキしながら中に入った。


 絨毯が敷き詰められたテントの中央に、天蓋付きの豪華なベッドが据えられており、大型のランタンで明るく照らされていた。

 薄い絹のカーテンから、ベッドのから身を起こしている大佐の姿が透けて見える。


 エイナは入口の内側で直立不動の姿勢を取り、敬礼をして申告した。

「エイナ・フローリー少尉、お呼びにより参上いたしました!」


 カーテンの向こうから、大佐の低い声がかかる。

「ああ、来たか。

 そんなところで突っ立てないで、こっちへ来て座れ」


 言われたとおりに近寄ったものの、エイナはそこで戸惑った。

 ベッドの脇には椅子があったが、その背には大佐の上着とズボンがかけられ、座面には軍帽が置かれている。

 他に椅子は見当たらないし、座れと言われてもその場所がない。


 立ち尽くしているエイナを見て、大佐が少し苛ついた声を上げた。

「何をしている? 早くこっちに来んか」


 彼女はそう言って、ベッドの端をぽんぽんと手で叩いた。

 どう見ても、ベッドに腰かけろという合図だ。


 エイナの頭の中を、一瞬、幼いころの思い出が走馬灯のようによぎった。

『お父さん、お母さんごめんなさい。エイナはいけないことをされそうです!』


 エイナはぎこちない動きで、大佐の指示どおりにベッドに腰を下ろした。

 マグス大佐は天蓋から下がった飾り紐を引き、ベッドにかかったカーテンを引いた。

 彼女は開いていた本を閉じて傍らに置き、顔から眼鏡を外した。


 大佐は布団をめくり、腰をずらしてエイナの横に並んだ。

 彼女は肌着姿だったが、それはレースもリボンもない、綿生地の質素なものであった。


「夜分に呼び立てて済まなかった。歓迎会とやらが長くてな」

「お役目、お疲れさまです」


「まったくだ。こうした儀礼は、正直好きになれん。

 かといって、情報収集には欠かせない場だから、気を抜くわけにもいかんのだ。

 私は政治が不得手とは言わんが、やはり根っからの軍人だと思うよ。

 白城市自慢の料理とやらも、さっぱり味がわからなかった。エイナも夕食を済ませたのだろう。何を喰った?」

「は、はい。配給の食事ですから、大したものでは……。

 黒パンとバター、戻した塩蔵肉が二切れと野菜スープです」


「ほう、立派なものだな。うちの兵どもだったら、泣いて喜ぶぞ」

 大佐は手を伸ばし、椅子に掛けてあったズボンを手に取った。

 腰のベルトには小さな革の物入が通してあり、彼女はその中から細長い物体を取り出して、エイナの膝の上に置いた。


「……これは?」

「開けてみろ」


 薄い油紙の包装紙を開くと、中から棒状のビスケットらしき物が現れた。

帝国軍うち軍用糧食レーションだ。喰ってみろ」


 エイナは恐るおそる、端を齧ってみた。

 かなり歯応えがあるが、欠片は口の中でぼろぼろと崩れる。

 小麦粉に砂糖を加え、乳で練って焼き固めたものらしい。細かく砕いた木の実と、乾燥果実が入っているのだが、独特の青臭さとえぐみがあった。

 何よりも、口中の水分が一気に奪われてしまい、飲み込むことができない。


 目を白黒しているエイナを見た大佐は笑い出し、傍らの小テーブルの水差しからコップに水を注いで手渡してくれた。

「どうだ、お世辞にも美味いとは言えんだろう?

 兵どもは塹壕の中で濡れて震えながら、こいつを二本齧る。それで食事は終了だ。

 あっという間に水筒の水がなくなるから、あいつらはこれを〝水泥棒〟と呼んで忌み嫌っている。

 王国は戦争をしておらんから、贅沢な夕食にありつける。まったく、羨ましい限りだ」


 エイナは食べ残した糧食をテーブルに戻し、黙って大佐の話を聞いていた。

 その強張った表情に気づいた大佐は、小首をかしげた。


「どうした、何をそんなに固まっている?

 大体、勤務時間外なのに軍服を着込んでいるのがいかん。そんな堅苦しいものは脱げ」


 エイナは『とうとう来た!』と思いながら、震える指でボタンを外し、上着を脱いだ。

 シャツ姿で身動きしないエイナに、マグス大佐は大げさな溜息をついた。


「なぜ緊張している? もう少し肩の力を抜かんか」

 大佐がエイナの肩をぽんと叩いた。


「ん……お前、震えているのか?」


 エイナは目をきつく閉じ、必死で声を絞り出した。

「大佐殿、後生です……どうか優しくしてください!」


「なっ、何の話だ?」

「ですからっ、私は夜伽を務めるなど、初めてなのです!

 馴れていませんので、どうか下手でも怒らないで――」


「待てまてまて! 貴様、さっきから何を言っている?

 公式訪問中に、そんなことをする馬鹿がいるものか!

 百歩譲ったとして、どうして私が女を抱かんといかんのだ?」

「ですが、大佐はどちらも〝いける口〟だと、皆が申しております!」


 マグス大佐は脱力し、がくりと頭を垂れた。

 彼女はそれはもう、気の毒なくらいに落ち込んでいるように見えた。


「あのなぁ……戦場の神に誓って言うが、私は生まれてこの方、一度だって女に手を出したことはないぞ。

 なぜ、私が貴様のような小便臭い小娘と乳繰り合わねばならんのだ。勘弁してくれ」

「えと、あの……では、なぜ私は呼ばれたのでしょうか?」


 大佐は仰向けにひっくり返った。羽根布団が〝ぼすん〟と柔らかな音を立てる。

「エイナに訊ねたいことがあったのだ。馬車の中では、向かいに外交官が座っているだろう?

 あいつらは、互いに我々の会話を監視しているのだ。

 別に聞かれて困る話ではないが、できれば二人きりで話したかった……それだけだ」


 エイナの方も気が抜けてしまった。

「それならそうと、最初からおっしゃっていただければ……」

「勝手に変な誤解したのは、お前の方だぞ?」


 二人はしばらく笑いあっていたが、やがてマグス大佐は身を起こしてベッドに座り直した。

「エイナ、お前は二級召喚士のユニを知っているか?」


 もちろん知っているどころではない。半月前にも会って話したばかりであり、その前にはエルフの森まで旅をともにしていたのだ。

 ただ、西の森訪問は〝禁則事項〟である。

 エイナは慎重に言葉を選んだ。


「はい、存じております」

「あいつは生きているのか?」

 エイナは黙ってうなずいた。


「……そうか」

 小さくつぶやいた大佐の顔に、わずかに安堵の表情が浮かんだことを、エイナは見逃さなかった。

 マグス大佐は指を自分の口の端に引っかけ、ぐいと横に伸ばした。

 耳まで届く傷跡が、ランタンの灯火を反射して、てらてらと光った。


「この傷と引き換えに、ユニは確かに殺したはずだ。腹を切り裂かれ、内臓が溢れ出てた人間が助かるわけがない。

 それが無事だったということは、幻獣の能力によるものか?」

「それはお答えできません」


 実際、ユニはマグス大佐と刺し違え、命を落としていた。

 ただ、身につけていた古代エルフの護符のお陰で、奇跡的に蘇生したのだ。

 超自然的な力が働いたという点では、大佐の推測は〝当たらずとも遠からず〟である。


「生きているなら、ユニは今どうしているのだ?

 あいつは軍人ではないはずだ。そのくらいは答えられるだろう」

「相変わらず辺境で暮らしています。

 オオカミたちと一緒に、オークや畑を荒らす獣を退治しているようです」


「そうか、オオカミたちも無事なのだな。

 ……だが、彼らもかなり入れ代わっているのだろう?」

「いえ、私は十一歳の時にユニさんとオオカミたちを知りましたが、今もその時と顔ぶれは同じです」


「しかし、あれから十年以上が経っているぞ。オオカミはそんなに長生きするのか?」

「私も詳しくは知りませんが、彼らだって幻獣です。人間よりは長命だと聞いたことがあります」


「ということは、トキも生きているということなのだな?」


 エイナは目を見開いた。大佐がオオカミたちの名前まで知っていることに驚いたのだ。

「大佐はずい分とお詳しいのですね?

 おっしゃるとおり、トキも元気です。私はロキと仲良しですが、トキも優しくていい子ですよね」


 マグス大佐はトキに対する評価に同意するように、何度もうなずいてみせた。

「そうかそうか、トキも元気なのか……もう一度会ってみたいものだな!」


 大佐はとても嬉しそうだった。

 エイナは知らなかったが、かつて彼女はユニとともに、広大なタブ大森林を走破したことがある。

 トキはその際、昼は大佐を背に乗せて走り、夜は彼女と身体を寄せあって眠った仲であった。


 もともと大の犬好きだった(軍務の関係で飼うことは諦めていた)大佐は、トキをとても気に入っており、実はエイナをわざわざ呼び出したのは、その消息を訊き出すためだったのだ。


 急に上機嫌になった大佐は、しばらくたわいもない世間話をした後で、エイナを解放してくれた。

 事情を知らないエイナは、キツネに摘ままれたような気分で、宿舎になっている軍用テントに戻った。


 まんじりともせずに待っていたシルヴィアは、エイナの腕を掴んで引っ張った。

「どうだった?」


 エイナは返答に困ってしまった。

「う~ん、よく分からないわ。

 なんかね、ユニさんとオオカミのことを訊かれた」

「何それ?」


「だから、私も分からないんだってば」

 エイナは手早く服を脱ぎ、冷たいベッドに潜り込んだ。


「でも、乙女の貞操は守られたわ!」

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― 新着の感想 ―
寿命についても普通のオオカミと同じように思ってたんですね〜 そしたら気が気じゃなかったでしょうね、普通なら死ぬか生きててもヨボヨボのヨボくらいですものね。 ユニがオオカミになって彼らと暮らすかもしれな…
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