九 夜伽
「エイナ、あんたどうしたの?
なんか顔赤いし……風邪でも引いた?」
隣のベッドのシルヴィアが身を起こし、心配そうに訊ねてきた。
第一軍の演習場には、複数のテントが立てられていた。
歓迎会の会場やマグス大佐の宿泊所などは、儀礼的行事で使用される非常に豪華なテントである。
一歩中に足を踏み入れると、そこは宮殿かと見紛うばかりだった。
ふかふかの絨毯が敷き詰められ、壁面と天井は美しい織物で覆われて、生花や絵画が所狭しと飾られている。
これに比べ、エイナたちの宿所に宛がわれたテントは、野戦用の極めて無味乾燥なものだった。
だだっ広い内部には、記録を争うかのように多数の兵士が詰め込まれ、その体温と汗臭い体臭で、テント内の空気は澱んでいた。
エイナやシルヴィアたち少数の女性兵士の寝床は、申し訳程度に吊られたカーテンで仕切られていたが、覗きや侵入者を警戒するため、女たちは交替で不寝番を立てなければならなかった。
組み立て式のベッドには、堅くて薄いマットに薄汚れた毛布が一枚あるだけで、全員軍服を着たままで寝なければならなかった。
神経の太い者は、そんな環境を気にせずに貴重な睡眠時間をむさぼっていたが、エイナとシルヴィアはなかなか寝付けなかった。
特にエイナは毛布をかぶっているものの、寝返りを繰り返すばかりでちっとも落ち着かない。
シルヴィアがそれに気づいて、心配するのも当然であった。
エイナはシルヴィアの質問を待ち構えていたように、マグス大佐から密かに呼び出されたことを打ち明けた。
「えっ? ちょっ……それって、結構ヤバいんじゃない?」
「シルヴィアもそう思う?」
「当たり前よ! 夜の十時っていったら、もうみんな寝静まっているわ。
そんな夜中にベッドに誘うなんて、絶対に夜伽の命令だわ!」
「よっ、夜伽って何?」
「馬鹿ねっ! マグス大佐の欲求不満を鎮めるために、あれこれご奉仕することに決まっているじゃない」
「ま、マッサージをするとか?」
「そんなもんで済むはずないでしょ!
もっと恥ずかしい所を触ったり舐めたり……下手したら、お互いにあれこれし合うってのもありかもよ?」
「どどど、どっ、どうしよう!
私、そんなことしたことない……っていうか、無理よ、出来ないわ!」
「でも、相手は国の賓客で、将官待遇の高官よ。
そういうのも、接待の内に含まれるって聞いたことがあるわ」
「わっ、私、自信ないわ! お願い、シルヴィアも一緒に来て!」
「駄目に決まってるじゃない! 夜伽の付き添いなんて聞いたことがないわ」
「でもっ、女同士なのよ? そういうことがしたいなら、男の人が呼ばれるんじゃないの?」
「あら、あんた、マグス大佐は男女見境ないって噂を知らないの?」
シルヴィアが口にした噂は、もちろん出鱈目である。
大佐はほとんど生ける伝説と化した人物で、しかも独身女性であるだけに、帝国内でも突飛な噂が飛び交っていた。
それらは九割以上が根拠のない妄想であったが、ある程度の敬意を含んだものだった。
ところが、他国では大佐が怪物視されており、噂に盛大な尾ひれが付いて、真面目に信じられていた。
その大半は大佐の性癖に関するもので、中には「大佐の尻には、先が男根の形をした尻尾が生えている」といった酷いものもあった。
それに比べれば「相手が女でもいける」というのは、噂としては可愛いものである。
もちろん、大佐にその手の趣味はなく、事実に反するのだが、こうした風評が立つのは、ある意味自業自得と言えなくもない。
エイナとシルヴィアが毛布にくるまりながら、ひそひそと想定される事態と、その対処法を相談するうちに、時は無情に過ぎていく。
そして、とうとう約束の時間が近づいてしまった。
「気をしっかり持つのよ!
これも任務の内だからね、犬に嚙まれたと思って我慢しなさい」
シルヴィアが手を握ってささやいてくれたが、あまり慰めにはならない言葉だった。
エイナは泣きたくなる気持ちで覚悟を決め、眠っている周囲の兵たちを起こさぬよう、そっと外に出ていった。
* *
マグス大佐のテントに近づくと、その入口の両脇には篝火が焚かれ、二人の武装した兵士が警戒に当たっていた。
エイナはそれを見て、少しだけ安堵した。
考えてみれば、第一軍が護衛を付けるのは当然である。万一、何か大佐から理不尽なことを強要されても、最悪、大声を出して助けてを求めることができる。
『だけど、それで恥ずかしい姿を見られたらどうしよう?』
彼女の不安の種は尽きなかった。
エイナがテントに近づいていくと、目敏く気づいた兵士が槍の穂先を向けた。
「止まれ! 何者だ?」
鋭い語気の誰何に、エイナは両手を挙げ、篝火の明かりの範囲にゆっくりと進み出た。
「マグス大佐殿の護衛を務めている、エイナ・フローリー少尉です」
兵たちは顔を見合わせたが、すぐに槍を引いた。
「失礼しました。大佐殿から話は伺っております。
どうぞお入りください」
ああ、できることなら通して欲しくなかった……エイナは恨めしい目で背の高い衛兵を見上げ、ドキドキしながら中に入った。
絨毯が敷き詰められたテントの中央に、天蓋付きの豪華なベッドが据えられており、大型のランタンで明るく照らされていた。
薄い絹のカーテンから、ベッドのから身を起こしている大佐の姿が透けて見える。
エイナは入口の内側で直立不動の姿勢を取り、敬礼をして申告した。
「エイナ・フローリー少尉、お呼びにより参上いたしました!」
カーテンの向こうから、大佐の低い声がかかる。
「ああ、来たか。
そんなところで突っ立てないで、こっちへ来て座れ」
言われたとおりに近寄ったものの、エイナはそこで戸惑った。
ベッドの脇には椅子があったが、その背には大佐の上着とズボンがかけられ、座面には軍帽が置かれている。
他に椅子は見当たらないし、座れと言われてもその場所がない。
立ち尽くしているエイナを見て、大佐が少し苛ついた声を上げた。
「何をしている? 早くこっちに来んか」
彼女はそう言って、ベッドの端をぽんぽんと手で叩いた。
どう見ても、ベッドに腰かけろという合図だ。
エイナの頭の中を、一瞬、幼いころの思い出が走馬灯のようによぎった。
『お父さん、お母さんごめんなさい。エイナはいけないことをされそうです!』
エイナはぎこちない動きで、大佐の指示どおりにベッドに腰を下ろした。
マグス大佐は天蓋から下がった飾り紐を引き、ベッドにかかったカーテンを引いた。
彼女は開いていた本を閉じて傍らに置き、顔から眼鏡を外した。
大佐は布団をめくり、腰をずらしてエイナの横に並んだ。
彼女は肌着姿だったが、それはレースもリボンもない、綿生地の質素なものであった。
「夜分に呼び立てて済まなかった。歓迎会とやらが長くてな」
「お役目、お疲れさまです」
「まったくだ。こうした儀礼は、正直好きになれん。
かといって、情報収集には欠かせない場だから、気を抜くわけにもいかんのだ。
私は政治が不得手とは言わんが、やはり根っからの軍人だと思うよ。
白城市自慢の料理とやらも、さっぱり味がわからなかった。エイナも夕食を済ませたのだろう。何を喰った?」
「は、はい。配給の食事ですから、大したものでは……。
黒パンとバター、戻した塩蔵肉が二切れと野菜スープです」
「ほう、立派なものだな。うちの兵どもだったら、泣いて喜ぶぞ」
大佐は手を伸ばし、椅子に掛けてあったズボンを手に取った。
腰のベルトには小さな革の物入が通してあり、彼女はその中から細長い物体を取り出して、エイナの膝の上に置いた。
「……これは?」
「開けてみろ」
薄い油紙の包装紙を開くと、中から棒状のビスケットらしき物が現れた。
「帝国軍の軍用糧食だ。喰ってみろ」
エイナは恐るおそる、端を齧ってみた。
かなり歯応えがあるが、欠片は口の中でぼろぼろと崩れる。
小麦粉に砂糖を加え、乳で練って焼き固めたものらしい。細かく砕いた木の実と、乾燥果実が入っているのだが、独特の青臭さとえぐみがあった。
何よりも、口中の水分が一気に奪われてしまい、飲み込むことができない。
目を白黒しているエイナを見た大佐は笑い出し、傍らの小テーブルの水差しからコップに水を注いで手渡してくれた。
「どうだ、お世辞にも美味いとは言えんだろう?
兵どもは塹壕の中で濡れて震えながら、こいつを二本齧る。それで食事は終了だ。
あっという間に水筒の水がなくなるから、あいつらはこれを〝水泥棒〟と呼んで忌み嫌っている。
王国は戦争をしておらんから、贅沢な夕食にありつける。まったく、羨ましい限りだ」
エイナは食べ残した糧食をテーブルに戻し、黙って大佐の話を聞いていた。
その強張った表情に気づいた大佐は、小首を傾げた。
「どうした、何をそんなに固まっている?
大体、勤務時間外なのに軍服を着込んでいるのがいかん。そんな堅苦しいものは脱げ」
エイナは『とうとう来た!』と思いながら、震える指でボタンを外し、上着を脱いだ。
シャツ姿で身動きしないエイナに、マグス大佐は大げさな溜息をついた。
「なぜ緊張している? もう少し肩の力を抜かんか」
大佐がエイナの肩をぽんと叩いた。
「ん……お前、震えているのか?」
エイナは目をきつく閉じ、必死で声を絞り出した。
「大佐殿、後生です……どうか優しくしてください!」
「なっ、何の話だ?」
「ですからっ、私は夜伽を務めるなど、初めてなのです!
馴れていませんので、どうか下手でも怒らないで――」
「待てまてまて! 貴様、さっきから何を言っている?
公式訪問中に、そんなことをする馬鹿がいるものか!
百歩譲ったとして、どうして私が女を抱かんといかんのだ?」
「ですが、大佐はどちらも〝いける口〟だと、皆が申しております!」
マグス大佐は脱力し、がくりと頭を垂れた。
彼女はそれはもう、気の毒なくらいに落ち込んでいるように見えた。
「あのなぁ……戦場の神に誓って言うが、私は生まれてこの方、一度だって女に手を出したことはないぞ。
なぜ、私が貴様のような小便臭い小娘と乳繰り合わねばならんのだ。勘弁してくれ」
「えと、あの……では、なぜ私は呼ばれたのでしょうか?」
大佐は仰向けにひっくり返った。羽根布団が〝ぼすん〟と柔らかな音を立てる。
「エイナに訊ねたいことがあったのだ。馬車の中では、向かいに外交官が座っているだろう?
あいつらは、互いに我々の会話を監視しているのだ。
別に聞かれて困る話ではないが、できれば二人きりで話したかった……それだけだ」
エイナの方も気が抜けてしまった。
「それならそうと、最初からおっしゃっていただければ……」
「勝手に変な誤解したのは、お前の方だぞ?」
二人はしばらく笑いあっていたが、やがてマグス大佐は身を起こしてベッドに座り直した。
「エイナ、お前は二級召喚士のユニを知っているか?」
もちろん知っているどころではない。半月前にも会って話したばかりであり、その前にはエルフの森まで旅をともにしていたのだ。
ただ、西の森訪問は〝禁則事項〟である。
エイナは慎重に言葉を選んだ。
「はい、存じております」
「あいつは生きているのか?」
エイナは黙ってうなずいた。
「……そうか」
小さくつぶやいた大佐の顔に、わずかに安堵の表情が浮かんだことを、エイナは見逃さなかった。
マグス大佐は指を自分の口の端に引っかけ、ぐいと横に伸ばした。
耳まで届く傷跡が、ランタンの灯火を反射して、てらてらと光った。
「この傷と引き換えに、ユニは確かに殺したはずだ。腹を切り裂かれ、内臓が溢れ出てた人間が助かるわけがない。
それが無事だったということは、幻獣の能力によるものか?」
「それはお答えできません」
実際、ユニはマグス大佐と刺し違え、命を落としていた。
ただ、身につけていた古代エルフの護符のお陰で、奇跡的に蘇生したのだ。
超自然的な力が働いたという点では、大佐の推測は〝当たらずとも遠からず〟である。
「生きているなら、ユニは今どうしているのだ?
あいつは軍人ではないはずだ。そのくらいは答えられるだろう」
「相変わらず辺境で暮らしています。
オオカミたちと一緒に、オークや畑を荒らす獣を退治しているようです」
「そうか、オオカミたちも無事なのだな。
……だが、彼らもかなり入れ代わっているのだろう?」
「いえ、私は十一歳の時にユニさんとオオカミたちを知りましたが、今もその時と顔ぶれは同じです」
「しかし、あれから十年以上が経っているぞ。オオカミはそんなに長生きするのか?」
「私も詳しくは知りませんが、彼らだって幻獣です。人間よりは長命だと聞いたことがあります」
「ということは、トキも生きているということなのだな?」
エイナは目を見開いた。大佐がオオカミたちの名前まで知っていることに驚いたのだ。
「大佐はずい分とお詳しいのですね?
おっしゃるとおり、トキも元気です。私はロキと仲良しですが、トキも優しくていい子ですよね」
マグス大佐はトキに対する評価に同意するように、何度もうなずいてみせた。
「そうかそうか、トキも元気なのか……もう一度会ってみたいものだな!」
大佐はとても嬉しそうだった。
エイナは知らなかったが、かつて彼女はユニとともに、広大なタブ大森林を走破したことがある。
トキはその際、昼は大佐を背に乗せて走り、夜は彼女と身体を寄せあって眠った仲であった。
もともと大の犬好きだった(軍務の関係で飼うことは諦めていた)大佐は、トキをとても気に入っており、実はエイナをわざわざ呼び出したのは、その消息を訊き出すためだったのだ。
急に上機嫌になった大佐は、しばらくたわいもない世間話をした後で、エイナを解放してくれた。
事情を知らないエイナは、キツネに摘ままれたような気分で、宿舎になっている軍用テントに戻った。
まんじりともせずに待っていたシルヴィアは、エイナの腕を掴んで引っ張った。
「どうだった?」
エイナは返答に困ってしまった。
「う~ん、よく分からないわ。
なんかね、ユニさんとオオカミのことを訊かれた」
「何それ?」
「だから、私も分からないんだってば」
エイナは手早く服を脱ぎ、冷たいベッドに潜り込んだ。
「でも、乙女の貞操は守られたわ!」