六 要人警護
ケネス大尉の存在で、エイミーから前情報を聞き出そうとするエイナの目論見は、もろくも崩れ去った。
落ち着かない数十分を過ごしたのち、二人はマリウスの執務室に通された。
執務机の上に積み上げられた書類の山で、座っているマリウスの顔は見えなかったが、その陰から応接のソファにかけるよう、声が聞こえてきた。
ふかふかの長椅子に座ると、その前に淹れ直した紅茶のカップが運ばれてくる。
秘書室で出たものとは、明らかに香りが違う。
ケネスはカップを取り上げると、その薔薇のような芳香に目を細めた。
「いつもながら、素晴らしい茶葉だな。
ケルトニア本国だって、そうそう口にできるもんじゃないぞ」
ケルトニア人は紅茶好きで有名である。
北方の島国であるケルトニアでは、茶の木の栽培はできない。
紅茶を嗜む習慣は、海洋国家として発展した結果根付いたものだ。
エイナはマリウスの執務室で出される茶葉が、彼女の家主であるロゼッタが提供していることを知っている。
ファン・パッセル商会は東沿岸諸国との貿易による、コーヒー・紅茶の輸入をほぼ独占しているのだ。
紅茶好きのロゼッタは、エイナとシルヴィアによく秘蔵の茶葉をご馳走してくれるのだが、エイナはその値段を聞いて、ひっくり返ったことがある。
しばらくすると、書類仕事に区切りをつけたマリウスが応接の方にやってきて、二人の向かい側の肘掛椅子に腰を下ろした。
彼は一枚の書類を携えており、それをエイナの方に差し出した。
エイナは〝ぽかん〟とした顔で、それを受け取った。
ひと目で分かる。それは軍の書式に則った辞令である。
「エイナ・フローリー准尉、君は本日付で少尉に昇進した。
おめでとう、これからも軍務に励みたまえ」
マリウス参謀副総長は、時候の挨拶でもするように、さらりと伝えた。
「あと、あの……どうして私が?」
「何だね、昇進が不満か?」
「いえ! 決してそのような……」
まごつくエイナを見て、マリウスの顔に笑みが広がり、目が糸のように細くなった。
同時に、彼の軍服の襟元からトカゲが這い出し、テーブルの上をちょこちょこ走ってエイナに飛びついた。
小動物は馴れた様子で彼女の肩に駆け上がり、長い尻尾を彼女の首に巻きつけた。
そのトカゲは、召喚士でもあるマリウスの幻獣で、ゴーマという名がつけられていた。
体長は四十センチほどだが、その半分は細長い尻尾が占めているから、実際にはかなり小さな印象を受ける。
その可愛らしい見た目に反し、ゴーマは龍の血を引く火蜥蜴で、怒らせると炎のブレスを吐く危険生物である。
ゴーマはエイナが気に入っているらしく、彼女が来るといつもこうやって肩に駆け上がり、頭を掻いてもらおうとする。
「君はエルフ王への副使として、立派に任務を果たした。
軍としてはその功績を評価した……というのが、表向きの理由だね。
まぁ、相方のシルヴィアが国家召喚士になって少尉に昇進したから、バランスを取ったというのが本当のところだ」
紅茶の味を堪能していたケネスが、にやりと笑って口を挟んできた。
「いやいや、エイナが准尉のままじゃ、何かと都合が悪いからだろう?」
「そう話を急かすものじゃないよ」
マリウスも笑い返したが、ケルトニア人の言葉は否定しなかった。
彼はエイナに視線を移すと、真面目な顔つきに戻った。
「フローリー少尉の報告書は、昨日受け取って読んだ。
その件についてはいずれ相談するとしても、現時点で君にできることはない。
今は任務に集中してもらおう」
「はい」
エイナはうなずいた。もとよりそのつもりである。
「よろしい。それでは本題に入ろう。
君が休暇に入ってすぐのことだが、帝国の公使から、わが国に対して内々の打診があった」
リスト王国とイゾルデル帝国は対立しており、時おり局地的な紛争も起こしている。
しかし、正式に宣戦が布告されたことはなく、両国の外交関係はどうにか維持されていた。
王国は医薬品や先端技術の移入を、先進国である帝国に頼っていた。
一方の帝国は、王国から食糧を輸入しないと、広大な割に生産性の低い東部地区を維持できなかった。
おまけに、両国の国境となっているボルゾ川は、河口の南北カシルという貿易港に通じており、それが唯一の海への出口という点で一致していた。
貿易物資輸送の大動脈となっているボルゾ川は、非武装地帯として両国が共同管理をしている。
このような理由で、いくら反目しているからといって、簡単には断交できないという事情を抱えていた。
したがって、両国の首都にはお互いの公館が存在し、行使が赴任して外交の窓口となっていたのだ。
「何かまた、無理難題を押しつけてきたのですか?」
エイナがそう疑うのは当然である。
「まぁ、そうとも言えるが……内容としては、ごく友好的なものだ」
「……」
「国立魔導院に魔法科が設けられたのがいつか、君は知っているかね?」
「九年五か月前ですね」
エイナは即答した。魔導士は優れた計算能力を持っている。この程度の計算は考えるまでもない。
魔法科の養成課程は六年間だ。エイナは第三期生で、一昨年に卒業した時点で設立から八年が経過していることになる。
「一期生の入学時から起算すると、確かにそうなるね。
ただ、正式な発足日は、その半年前だったんだ。
学科を発足させるには、ある程度の準備期間が必要でね。
もちろん、学科棟や寮の増築は一年くらい前から始まっていた。人事面では、教官や職員に辞令が降りたのが七月一日で、それが公式の創立日となっているんだよ。
つまり、あと一か月ほどで、魔法科は創立十周年の節目を迎えるというわけだ」
これは魔法科卒業生のエイナも、初めて知る話だった。
彼女はゴーマの黒い頭を掻いてやりながら、話の続きを待った。
「そこで、帝国はこれを祝賀する意味で、自国の高名な魔導士を派遣して、魔導院で特別講演を実施したいというのだ。
わが国は魔導士の養成を始めたばかりで、その数は帝国に比べるまでもなく、経験も圧倒的に不足している。
高名な魔導士官の謦咳に接することは、魔導士を志す若者の貴重な財産となるだろう。
――というのが、帝国の言い分だ」
「なるほど……」
エイナは参謀副総長の話に驚いたが、同時に帝国が提案してきた趣旨に、納得もできた。
「確かに、後輩たちにとっては、よい経験になると思います。
でも、わが国は同じことを考えたからこそ、ケルトニアからフォレスター大尉を招聘したのではありませんか?」
「そうだね」
マリウスは同意して、今度はケネスの方を向いた。
「大尉はどう思う?」
なるほど、こうした意見を聞くために、ケネスには事前に教えていたというわけか。
「そうだな。軍事はともかくとして、ケルトニアも魔法に関しては帝国に後れを取っている。
一般魔導士の質では、どうにか対抗しうるようになってきたが、異名持ちクラスの大物には、いまだに歯が立たないのが現実だ。
そんな奴が講演してくれるというなら、俺だって聞きたいくらいだ。金を払ってもいいぞ」
「でも大尉殿、帝国が唐突にそんなことを言ってくるのは、何か変ではありませんか?」
エイナの質問に、ケネスは〝ふん〟と鼻を鳴らした。
「あたりめえだ。奴らが狙いもなしに、そんなことをするもんか。
普通に考えれば、敵情視察だろうな」
「でも、相手は卒業前のひよっこですよ?
わざわざ大物を派遣して、偵察するほどの価値はないと思いますけど」
「おめえは馬鹿か?
ケイト(エイナの上司で魔導院の教官)から聞いたんだが、前におめえとシルヴィアが攫われた事件があっただろう?
あれがきっかけで、魔導院に潜り込んでいた帝国の手先は一掃されたそうじゃねえか。
帝国は魔法科の情報が知りたくても、その手立てを失っているんだ。
ネームド級の魔導士なら、学生を見ただけで、その魔力量や実力が判断できる。
それだけでなく、彼らを教育する側の質まで丸わかりだろうし、そこから王国の魔法戦力を、相当正確に予測できるはずだ。
マリウスさんよ。こいつが護衛に付くのも、帝国の出してきた条件なんだろう?」
ケネスは魔導院の指導教官を務めてはいるが、その身分はケルトニア連合王国の現役士官である。
他国とはいえ、実質的な軍のトップに対して、あまりに無礼な言葉遣いだったが、彼が〝そういう性格〟であることは知れ渡っていて、誰も気にしなかった。
ケネスの解説を聞いている間、マリウスの顔には、仮面のような笑顔が張りついたままだった。
「さすがはフォレスター大尉だね。
さてさて、話の順序が逆になってしまったが、そろそろ命令を伝えよう」
マリウスはそう言って、椅子から腰を上げた。
エイナも慌てて立ち上がり、その場で直立不動の姿勢を取る。
「エイナ・フローリー少尉。
貴官には、帝国魔道士官の護衛を命じる」
エイナは敬礼し、「拝命いたします!」と答えた。
短い儀式が終わると、二人は再び腰を下ろした。
「さて、フォレスター大尉の質問だが、確かに講師派遣に当たっては、〝しかるべき能力を持った魔導士〟を護衛につけるよう要請があった」
「ふん、お笑い草だぜ。ネームドに護衛なんかが要るわけねえだろう。
一個連隊で襲いかかっても、一瞬で全滅するのがオチだぞ」
「もちろんそうだが、もし客人である帝国魔導士の手を煩わせたとなれば、わが国の面子は丸潰れだ。
これは外交案件なんだよ」
「へっ、くだらねえ。だったら、どうしてエイナを選んだ?
異名持ちの魔導士なんて、はっきり言って化け物だぞ? そいつを襲おうなんて馬鹿、探したっているわけねえ。
わざわざ〝手の内〟を曝す必要はねえだろう?」
「だから言っただろう、これは外交だって?
適当な魔導士を護衛につけたりしたら、相手には一発でバレる。それこそ恥をかくことになるだろう。
今のわが国では、ケイトかエイナ以外、体面を保てるような人材はいないんだ。
だが、ケイトは魔導院の教官だ。彼女を護衛に付けるということは、人材不足を白状するようなものだ。
となれば、答えは自ずと決まるというわけだ」
マリウスはどこか楽しそうだった。
「それに、大尉は〝襲う馬鹿はいない〟と言ったが、私はそう思わないね」
「正気か? 自殺行為だぞ」
「ああ。むしろ、かなりの確率で襲撃があると思っている。
そうだな……帝国に強い恨みを持ち、両国の友好を望まない過激分子、という設定はどうだね?」
「つまり、襲撃は帝国の自作自演ってことか?」
「多分ね。きっと相当手応えのある相手を用意していると思うよ。
でもまぁ、エイナなら上手く対処できるだろう。
西の森から帰ってきて、また一段と腕を上げたからね。
そう言えば、大尉は彼女の〝絶対零度魔法〟を、まだ見ていないのだろう?
あれは、なかなかの威力だよ」
「ああ、話には聞いている。
そうだエイナ、おめえ今度の非番の時に魔導院に来て、その魔法見せてみろ。
俺だけじゃなく、学生どもにも見学させてやろう」
「絶対に嫌です!」
エイナは言下に断った。
マリウスら幹部の前では、報告の意味もあって仕方なかったが、ケネスや後輩に丸出しの〝へそ〟を見られるなど、とんでもない話だ。
「ふん、生意気になったもんだな。
まぁいい。だが、それなら余計にケイトの方がよくないか?
あいつの実力は、俺とそう変わらないから、護衛には十分だろう。教官だってことは、伏せとけばいいじゃねえか」
「駄目だね。
これは外務部の……というか、レテイシア陛下の指示なんだよ。
魔導士養成の輝かしい成果を見せつけ、わが国の威信を誇示しなければならないそうだ」
「アホらしい……」
「君だって、軍で理不尽を散々味わってきただろう?」
「えと、あの……」
エイナが手を挙げ、おずおずと話に割って入った。
「何だね? 詳しい日程や打ち合わせは、人事に指示しているから、ここでは説明しないよ。
ああ、それと言い忘れていたが、いま黒城市で研修を受けているシルヴィアが、君の補佐につくことになっている。
さっきも言ったように、警護中の襲撃が予測されるからね。シルヴィアには、緊急時の連絡役を務めてもらう。
君だって、いつもの相棒が一緒の方が心強いだろう?」
「ええ、それはまぁ……。あっいえ、お訊きしたいのは、そういうことじゃないです。
その、護衛する帝国の大物魔導士って、私でも名前を知っている人なんですか?」
マリウスは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、すぐに笑い出した。
「いやいや、これは失敬した。肝心なことを伝えていなかったね。
知っているも何も……」
彼は〝こほん〟と小さく咳払いをした。
「喜びたまえ。相手は〝魔女〟の異名を持った、すこぶるつきの大物だ」
「えとあの、それって、もしかして……」
「そう、ミア・マグス大佐だよ」