五 出頭
エイナはヨナーシュの家に戻り、マルチナとオルガに二冊のノートを持ち帰りたいと告げた。
「そんな帳面だけで……本当にいいのかい?」
マルチナおばさんは、少し意外そうだった。
「気になる物があったら、遠慮しなくていいのよ?」
オルガも心配そうである。
エイナは微笑んで首を振った。
「全部確認しましたが、今の私に必要なのはこれだけなんです。
お父さんの直筆ですし、小さかった私のことが、たくさん書いてありました。
汚いノートに見えるでしょうが、私にとっては宝物なんです」
そしてエイナは二人に、残っている書物はもう燃やさないよう助言をした。
蒼城市あたりに持っていけば、いい値段で売れる。もし都会に行く機会がないなら、親郷の商人でも買ってくれると教えたのだ。
二人はエイナに、今晩は泊まっていくように勧めたが、彼女はそれを固辞した。
「ごめんなさい。あまりゆっくりしている時間がなくて……。
父の墓参りをしたら、そのままカイラ村に向かう予定なんです」
「それはまた、ずい分と南の親郷だね。誰か知り合いでもいるのかい?」
「はい。召喚士のユニさんを訪ねるつもりです。
彼女のことは、おばさんもご存じでしょう?」
マルチナは驚きながらもうなずいた。
「そりゃまぁ、辺境でユニのことを知らなきゃもぐりだからね。
だけど、化け物みたいなオオカミと暮らしている変わり者だよ。
喰われちまったら、どうするんだい?」
エイナは思わず吹き出した。
「大丈夫ですよ!
それに私、あのオオカミたちとは仲がいいんです」
* *
村の郊外にある共同墓地は、訪れる人もなく深閑としていた。
記憶をたどって探し当てた父の墓は、とっくに墓標が失われ、わずかに土が盛り上がっている程度だった。
エイナは途中で摘んだ野花を供え、ひざまずいて長い祈りを捧げた。
しばらくして彼女は立ち上がり、街道の方へと引き返していった。
一度だけ、何か言いたそうに振り返ったが、結局その言葉は呑み込んでしまった。
* *
エイナがカイラ村に着いたのは、それから五日後のことだった。
カイラ村は辺境南部の中核村で、かなり規模が大きい。多くの商店や宿屋のほか、女郎のいる歓楽街までもある。
実質的には町と呼んでいいような、栄えた親郷であった。
村に着いたのはもう夕方だった。彼女はまず、今夜の宿を取った。
そこは素泊まり専門の安宿だったので、部屋に荷物を置いて、食事は外で摂ることにした。
宿の人に訊ねると、この村では〝氷室亭〟という料理屋が有名らしく、初めて来たのなら是非行くべきだと勧められた。
村の繁華街には多くの飲食店が並び、夕食時とあって、どこも混みあっていた。
宿に教えられた氷室亭は、すぐに見つかった。
人見知りのするエイナは、扉の前でしばらく逡巡してから、思い切って扉を開けて入ってみた。
店の中はたくさんのランプで明るく照らされ、美味しそうな料理の匂いがふんわりと漂っている。
席はほぼ満席で、陽気な笑い声がそこかしこから聞こえてきた。
賑やかだが下卑た感じはなく、いかにも居心地のよさそうな雰囲気だった。
入口でまごついてるエイナを、給仕の娘が目敏く見つけ、お盆を胸に抱いて駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」
「ええ……でも、何かいっぱいみたいですね。他を当たってみま――」
腰が引けるエイナの腕を、娘ががっちりと掴む。
「今の時間なら、どこに行っても同じですって!
相席でよければ、すぐにご用意しますから。
ええ、ええ、もちろん女性同士になるようにしますから、安心なさってくださいまし!」
はち切れそうな笑顔を浮かべた娘は、エイナをずるずると店の中へ引きずっていった。
店の奥まで行くと、少し薄暗いが静かな席が並んでいる。その一つに、二人の女性客が座って食事を楽しんでいた。
丸テーブルには空いた椅子が三つある。
「お客さま、恐れ入りますが相席をお願いできますでしょうか?」
ビールをぐいぐいと飲んでいた女性客が、どんと音を立てて陶器のマグを卓上に置き、顔を上げた。
「あら、エイナじゃない! 何でこんなとこにいるの?」
「あれ、ユニさんのお知り合いですか?
ならちょうどよかった。相席、大丈夫ですよね!」
給仕の娘は、ぱんと手を叩いて、エイナを無理やり椅子に押し込んだ。
「で、ご注文は何にいたしましょう?」
座ったエイナの目の前に、さっとメニューが広げられる。
「えと、あの、私……」
「取りあえずビールね!
それと鶏の炭焼きに鴨のスープ、あと焼きたて白パン、ナツハゼのジャムと羊バターたっぷりで!」
目を白黒させるエイナを無視して、ユニがしゃしゃり出た。
「かしこまりぃ~!」
注文を復唱した娘は、その場でくるりとターンをしてみせた。
長いスカートがふわりと舞い上がり、白いふくらはぎが見えた。
注文を伝えに厨房に駆けていく彼女に、あちこちの席から拍手が浴びせられた。
「ユニ姉さん、この娘知り合いですか? なんか固まっちゃってますけど」
「まぁ、ちょっとした縁のある娘なのよ。
それよりマリエ、あんたいい加減に帰りなさい。旦那と子どもが待ってるんでしょ?」
「ええ~、もうちょっといいでしょう?」
「いいわけないわ! ここはあたしが奢ってあげるから」
「やったぁ~!」
マリエと呼ばれた三十代くらいの女性は、バックの中から鍋をさっと取り出し、テーブルに残っていた料理を詰め込み始める。
「じゃあ、あたしは帰るから、ユニ姉さんのお相手、よろしくね~」
マリエはエイナの肩をばしっと叩き、軽い足取りで帰っていった。
「えと、あの……なんか済みません。私が追い出しちゃったみたいで」
「気にすることないわよ。
あの娘、どうせ最初からあたしに集る気だったんだから。
それよりエイナ、あんた故郷に帰ったんじゃなかったの?」
「ええ。そのご報告と、いくつか訊きたいことがあったものですから……」
「報告って……律儀な子ね~。それで、何か見つかったの?」
エイナは懐から二冊のノートを取り出して、ユニの前に差し出した。
これは彼女にとって重要な物だったので、荷物には入れずに肌身から離さないでいたのだ。
ちょうどそのタイミングで、給仕の娘がビールと、揚げた薄切りジャガイモを運んできた。
「わ、私、あんまりお酒は……」
「ビールくらい大丈夫でしょ? ここのは氷室で冷やしているから、すごく美味しいのよ。
この店、あたしのお気に入りでね、しょっちゅう来てるのよ」
「ああ、それで……。
ユニさんは森の中に住んでいると聞いていましたから、明日訪ねるつもりだったんです。偶然とはいえ、驚きました」
エイナはビアマグを持ち上げ、少しビールを飲んでみた。
ユニの言うとおりによく冷えていて、びっくりするほど美味しかった。
この時代のビールは常温で飲むのが一般的で、苦みが強いためエイナは苦手だったのだ。
冷えたビールはそれが気にならず、爽やかに喉を駆け下っていく。
ユニの方は、無言でノートを読んでいた。
かなり速いペースで頁をめくっているのは、農作業関連を飛ばし、それ以外の記述を拾い読みしているせいだろう。
その間に、エイナは後から運ばれていた料理に手をつけてみた。
炭火で焼いた鶏肉は香ばしく、噛むと脂と肉汁がじゅわっと溢れ出て、たまらなく美味だった。塩味の揚げジャガイモも、ホクホクとしてビールによく合う。
焼きたての自家製パンは、外がパリッとして中は柔らかく、甘酸っぱいナツハゼのジャムと、塩気の多い田舎風バターで食べると絶品だった。
熱い鴨肉のスープは、表面に玉のような脂が浮かび、口に含むと複雑で不思議な味わいがした。
「これ、色は似てますけど、コンソメじゃないですね。
鴨の味に隠れて、お魚の風味もします……。でも、美味しい!」
「魚醤で味付けしてるのよ」
「〝ぎょしょう〟……ですか?」
「小魚を塩漬けにして発酵させた、搾り汁のことよ。
前に南カシルの子汚い飲み屋で出されてね、気に入って買ってきたの。
それをここの料理人に分けてあげたら、このメニューができあがったってわけ」
ノートに目を落としたまま答えたユニは、やっと顔を上げた。
「なるほどね。
これを見て、あたしが何か隠していると踏んだわけか」
「いえ、そこまでは……」
「いいわよ。実際、すべてを教えたわけじゃないからね」
エイナは思い切って、気になっていたことを訊いてみた。
「父が書いていた〝奴ら〟って、吸血鬼ですよね?
ベラスケスって、何者ですか?」
「帝国の南部に巣食う吸血鬼よ。オルロック伯と同じ真祖ね。
もっとも、伯爵と違ってベラスケスは古いタイプの吸血鬼でね。人間との共存なんて考えもしない、荒っぽい奴よ。
あんたのご両親は、主にこいつの手下を狩っていたから、恨みを買っていたみたい」
「父が死んだのは、吸血鬼の仕業でしょうか?」
ユニは首を振った。
「何ともいえないわ。証拠は何一つないもの。
ただ、当時あなたのお父さんと一緒に作業していた人たちは、『あり得ない方向に木が倒れてきた』って口を揃えて証言しているわ」
「母が失踪したのは、私に危害が加わることを恐れたためでしょうか?」
「多分ね。前に説明した時にも、そう言ったはずよ。
お父さんが亡くなって、一人ではエイナを守り切れないと思ったんじゃないかしら」
「私の記憶にある母は、とても優しい人でした。
女性の身で吸血鬼と戦っていたとは、とても信じられません。
一体、母は何者なのですか?」
ユニはしばらく黙り込んだ。
そして肩を落とし、溜息をついた。
「かなり確度の高い推測はできているわ。
ただ、それを明かす権利は私にはないの。それが許されるのは、あなたのお母さんだけなの。分かる?」
「ユニさんは〝母が生きている〟と断言しましたね。
爆裂魔法の呪文を持っていることも、知っていたのですか?」
「呪文のことは、あたしも知らなかったわ」
「なぜ、母は私に会いに来てくれないのでしょう?
どうして父の呪文を教えてくれないのでしょう?」
「その答えは、エイナ……あなた自身がよく知っているのじゃなくって?
しかるべき時が来れば、あなたのお母さんは必ず会いに来てくれるはずよ。
それを信じなさい」
「本当に……母は、私を見守っているのでしょうか?」
「それを疑ってはいけないわ。
……そうね、一つだけ教えてあげる。
あんた、帝国の工作員に誘拐されたことがあったでしょう。
その犯人が殺されていたことは、知っているわね?」
「はい。生首を見せられました」
エイナは虚空を睨む、死者の白く濁った瞳を思い出し、身震いをした。
「あいつらの首を刎ねたのは、多分あなたのお母さんよ」
「……!」
「現場に残された轍や足跡から見て、犯人たちが襲われたのは、あなたとシルヴィアが馬車で連れ去られる直前だったと推定できるわ。
あなたたちが闇の通路を使って脱出済みだったことを知らず、お母さんはぎりぎりまで待っていたのね。そして、娘に危害を加えた男たちを許さなかった。
気を強く持ちなさい。そして、お母さんを信じるのよ!」
* *
エイナが王都に戻ったのは、それから十日後のことだった。
下宿であるファン・パッセル家に帰ると、ともに暮らしているシルヴィアは不在だった。
家主であるロゼッタが、シルヴィアは国家召喚士に昇格し、研修のため黒城市に出張していることを教えてくれた。
翌朝、参謀本部に出向いたエイナは、休暇からの帰還を人事部に報告した。
通常は書類を提出し、課長に報告すれば、職務復帰の事務手続きが淡々と進められる。
実際に勤務に戻るのはその翌日である。報告が済めば、もう帰ってよいはずだった。
ところが、課長はエイナに対し、人事部長の部屋へ行くように指示をしてきた。
『なぜ部長のところに?』
そんなことは初めてだ。エイナは疑問を抱きながら、部長室の扉をノックした。
部長は難しい顔をして、取りあえず帰ってよいが、午後一番で再び出頭するよう、彼女に命じた。
ただそれだけである。理由を訊ねても、何も教えてもらえなかった。
わけが分からずに下宿に戻ったエイナは、ロゼッタに事情を説明し、昼食を早めに出してもらうよう頼んだ。
ロゼッタの方も首を傾げていた。
「変ねぇ……。部長が直接伝えたというのは、かなり上の案件ってことよ。
そういえば、このところ外務部の動きが慌ただしくて、マリウス様も陛下と頻繁に打ち合わせをしているみたい。
軍が動いたという話は聞かないから、ケルトニア絡みじゃないかしら?
誰か大物が来訪するなら腑に落ちるけど、それだと遅くとも半年前には情報が入ってくるし……」
ロゼッタは元参謀本部首席副総長の秘書であったが、もう退職して十年以上が経過している。
今はファン・パッセル商会の当主とはいえ、一介の民間人に過ぎない。
それなのに、こうまで政権内部の動きを熟知しているというのは、どういうことなのだろう。
だがその彼女でも、エイナの呼び出しの意味を図りかねている。
* *
エイナは昼食を早めに済ませ、この日二度目の登城をした。
人事部に顔を出すと、すぐにマリウスのもとへ出頭するよう命じられた。
副総長に呼び出されるのは、これが初めてではない。
彼女はまず、秘書官であるエイミーの部屋を訪ねた。
「あら、早かったのね。
里帰りしたんですって? どう、休暇は楽しめた?」
にこやかな顔で秘書官が迎えてくれる。
呼び出しの時刻は午後一時であるから、まだ三十分以上あった。
エイナはエイミーとお喋りをしながら、情報を探るつもりだった。
ところが、エイナの前にお茶のカップが運ばれた途端に、扉をノックする音がした。
エイミーが小走りに駆け寄って扉を開けると、見馴れた人物が顔を出した。
エイナが思わず声を上げる。
「え、ケネス大尉殿?」
秘書室に入ってきたのは、ケネス・フォレスター魔導大尉であった。
彼は大国ケルトニアから派遣されてきた現役の魔道士官で、現在は王立魔導院で魔法の指導に当たっているはずである。
エイナとシルヴィアの初任務は、南カシルに上陸したケネス大尉を、王都まで護衛するというものだった。
長旅をともにしてきただけに、お互いよく知っている間柄である。
「おお、エイナか。久し振りだな」
「大尉殿も、副総長閣下に呼ばれているのですか?」
「ああ、もっとも俺は助言者の立場だがな。
お前さん、今度はまた、えらい大物の警護をやるんだってな?
小便ちびるんじゃねのか?」
「えとあの、私、まだ何も聞いていないんですけど……。誰の護衛なんですか?」
「何だ、まだ知らされていねえのか!
じゃあ、俺の口から言えるわけねえだろ。馬鹿か、お前?」
「えっ、えっ? ええ~っ?」
エイナはわけが分からず、ただ狼狽えるのみであった。