三 里帰り
シルヴィアを乗せたカー君は、地を蹴ってふわりと浮き上がった。
肩口に生えた黒い翼が、ばっと左右に広がったが、その長さは一・五メートルほどしかない。
体長三メートルを超す身体を飛翔させるには、あまりにも貧弱であった。
だが、翼が大きく羽ばたくと、カー君はぐんぐんと上昇を始めた。
同じ飛翔幻獣であるロック鳥の場合、飛び立つ時は凄まじい風圧が生じる。
マリウスたちはそれをよく知っているので、カーバンクルの周囲から十分な距離を取っていた。
ところが、身構えた立会人は、ほとんど風を感じることがなかった。
「これは……まるで龍の飛翔と同じじゃな!」
「まさしく! それならば翼面積の不足にも説明がつく」
魔導院の老人たちは興奮を隠さず、早口で語り合った。
カー君は真っ直ぐに上昇していき、あっという間に豆粒ほどに小さくなった。
十分に高度を稼ぐと羽ばたきを止め、大きな円を描くように滑空を始める。
彼の旋回範囲は次第に大きくなり、やがて広大な王都がすっぽりその輪に入るようになった。
何周かした後、カー君は立会人の上空に戻り、翼をたたんで急降下に移った。
自由落下する岩塊のように速度を増し、地面に激突する勢いで突っ込んでくる。
そして、地上から五十メートルほどまで迫ったところで、翼が開いて急制動がかかる。
乗っているシルヴィアは、内臓が口から飛び出るような重力加速度を味わったことだろう(もちろん、彼らは何度も訓練を重ね、自分たちの限界を熟知していた)。
地面から数メートルの高さで慣性速度を殺しきり、カー君はふわりと地面に降り立った。
シルヴィアは『よしよし』と言うように彼の肩を叩き、飛行服の胸元に下がった金属環に、指をかけて引っ張った。
ぱちんと音がして、彼女の身体を騎乗具に固定していた、四本の革ベルトが一度に外れた。
これは飛行服を作ってくれたドワーフの工夫である。
シルヴィアがカー君の背中から滑り降りると、立会人たちが一斉に彼女を取り囲んだ。
「今のは高度四百くらいと見た。もっと上がれるのか?」
喰い気味に訊ねたのは、第二軍の駐在武官だった。
「一時的なら、八百くらいまでは大丈夫です。
ただ、長続きはしないので、巡航高度は二百から三百メートルがいいところです。
私はアラン少佐と違って、幻獣との視界共有ができません。
カーバンクルは人間より視力がいいのですが、偵察に使える高度も似たようなものになってしまいます」
「航続距離はどのくらいだ?」
「どこを飛ぶかによりますが……地形を考慮に入れなければ、一日に飛べるのは四百キロ程度かと」
「地形が関係するのか?」
武官を押し退けて、魔導院の審問官が顔を突き出した。
「はい。カーバンクルは生物の発する精気を糧にして生きる幻獣です。
飛行には大量の精気を消費しますので、飛びながら補充をしないと、長時間は飛べないのです。
ですから山岳地帯や砂漠だと、高度を落としても短距離しか飛べません」
「なるほどのう。やはり龍族と同じ飛行原理なのだ……。
うむ、うむ! 実に興味深い!」
「かなり速度が出ていたが、あれは巡航速度なのか?
それと、操縦者以外に、人や物資の運搬はどれほど可能なのか?」
参謀将校が質問に回ったところで、マリウスが〝ぱんぱん〟と手を叩いた。
「気持ちは分かるが、きりがない。もうそれくらいでいいだろう。
各自質問事項をまとめて、本日中に参謀本部へ提出したまえ。
こちらで整理した上で、グレンダモア准尉からまとめて聞き取りをする。
結果は資料として配布するから、後日それを踏まえて協議しよう」
* *
二日後に開かれた検討会議において、シルヴィアの国家召喚士任命が正式に決定され、これに伴い彼女は少尉に昇進した。
同時に彼女の所属は、引き続き参謀本部付ということも決まった。
四軍の駐在武官たちは、会議においてこれに異議を唱えた。
特に、数年前に飛行幻獣を失った赤城市第三軍、北の帝国と直接対峙する黒城市第一軍の抵抗は激しかった。
ただ、第三軍は南部のサラーム教国家群と敵対する関係上、砂漠地帯での作戦が主になる。
だが、カーバンクルの飛行特性は、砂漠との相性が最悪だということが分かり、結局引かざるを得なかった。
また、第一軍に対しては、アラン少佐とロック鳥を同軍の所属とすることで合意にこぎつけた。
現在アラン少佐は活動の拠点を黒城市に置いており、その任務も帝国の偵察と測量が大半を占めていた。
実質的に少佐は第一軍の所属と言ってよく、緊急の輸送任務が発生した際に王都に呼び戻すため、参謀本部付としていたに過ぎない。
これを現状に則した配属に正すことで、手を打ったということである。
参謀本部では、ドワーフが製作した騎乗具を分析し、複座タイプのものを作らせた。
実験の結果、カー君は二人を乗せた状態でも飛べる(それが限界である)ことも分かった。
ロック鳥ほどの輸送力はないが、緊急の移動に対応できるのは大きかった。
何より参謀本部としては、迅速な情報伝達手段を持つことの方が重要だった。
帝国は通信魔導士による緊急伝達網を整備していたが、魔導士の養成を始めたばかりの王国が、そこまでになるには何十年かかるか分からなかった。
現状は伝書鳩や早馬に頼るほかなく、情報速度は王国軍最大の弱点と言えた。
実際、国家召喚士としての勤務が始まると、シルヴィアは王都と四古都間の伝令任務に忙殺されることになる。
ただ、偵察や測量任務が生じる可能性も捨てきれなかったため、彼女はこれに先だって黒城市に派遣され、アラン少佐のもとで一か月の研修を行うことになった。
この研修の詳細は省くが、シルヴィアとカー君の両者にとって、想像以上に過酷なものだった。
* *
シルヴィアとカー君の運命が大きく変わろうとする間、エイナは休暇を申請し、辺境のソドル村を訪ねていた。
同村は彼女が生まれ、十一歳まで育った故郷である。
これはもちろん、アッシュから示唆された爆裂魔法の手がかりを探るためであり、参謀本部のマリウスにも事情は説明済みであった。
エイナと同じく報告を終えたユニも、ちょうど辺境に帰るところだったので、オオカミに乗せてもらえた。
親郷のクリル村でユニと別れてからは、徒歩でソドルに向かう。
八年ぶりの故郷は、エイナの記憶とほとんど変わっていなかった。
彼女はまず、村の役屋(役場と公民館を兼ねたような施設)を訪ねた。
運よく肝煎のデニスは役屋にいて、書類整理をしていた。
彼はエイナが村を出た当時も肝煎を務めていて、少し老けて頭髪が淋しくなっていたが、そう変わっていなかった。
エイナは懐かしさに、思わず目を細めた。
「デニスさん、ご無沙汰しております。
エイナ・フローリーです」
入ってきたエイナを訝し気に迎えた肝煎は、その言葉に驚いたが、すぐに満面の笑顔になった。
「エイナ! エイナ・フロリーだと?
いやいや、よく見ると面影が残っている。本当にエイナだ!
これはたまげたぞ! あんたが召喚士さんに連れていかれて、何年になる?」
「八年ぶりです」
「そうか、もうそんなになるのか! いやぁ~立派になったもんだな!
その制服ってことは、軍に入ったのか?」
「はい。今は参謀本部付の准尉で、王都で勤務しています」
「はぁ~、その若さで将校様か、大したもんだ!
わしはてっきり、蒼城市で女給か何かをしてるんだろうと思っていたんだがね。
それで、帰ってきたのはエリク(エイナの父)の墓参りかね?」
「はい。それもありますが、実家がどうなっているかも気になっていまして。
まだ家は残っていますか?」
肝煎は「うんうん」とうなずいた。
「あんたの家は、隣のヨナーシュが買い取って、離れとして使っておった。
今は倅のボリスが嫁を貰ったんで、二人が住んでいるよ」
ボリスは四歳年上の明るい男の子で、エイナからすると兄のような存在だった。
「まぁ! あのボリスが結婚したんですか?」
「ああ、去年の夏だよ。
相手はオルガだ。エイナも覚えているだろう?」
もちろん忘れるわけがない。オルガの家は少し離れてたが、同い年の女の子だったからよく遊んだものだ。
彼女は十九歳だから、田舎では結婚してもおかしくない年齢だ。
「あのオルガが奥さんですか……。何だか信じられないわ。
私、会いに行ってみます」
「ああ、そうするがいい。
ボリスは畑仕事に出ているが、オルガの方はヨナーシュの家にいるはずだ。
ヨナーシュのカミさんは二年前に怪我をして、気の毒なことに歩けなくなったんだよ。
それでオルガが介護と家事をしに通っていたんだが、いつの間にかボリスとできちまったというわけだ」
「まぁ、マルチナおばさんが?」
隣家は男の三人兄弟だったので、ヨナーシュの妻のマルチナは、女の子であるエイナを可愛がってくれた。
末っ子のボリスは背が高くて恰好がよく、女の子に人気があった。
一方のオルガは気立てのよい優しい娘だったが、小太りでお世辞にも美人とは言えなかった。
そんな二人が結ばれたというのが不思議だったが、これで納得がいった。
エイナは肝煎に礼を言って、役屋を出た。
勝手知ったる村の中である。彼女は迷うことなくヨナーシュの家に向かった。
村の人たち(日中なので女性が多かった)は、彼女とすれ違うとおずおずと頭を下げたが、その目には不審の色が浮かんでいた。
何年も前に村を出た痩せ細った女の子のことなど、覚えている道理もない。
だが、あと数時間もすれば、村中を噂が駆け巡り、好奇心に駆られた奥さん連中が話しかけてくることだろう。
* *
ヨナーシュの家の扉をノックすると、「はーい」という明るい声が聞こえ、すぐに扉が開いた。
てっきり村の誰かが訪ねてきたのだろうと思ったオルガは、目の前に軍服を着た見馴れぬ女が立っていたので、驚きで固まってしまった。
だが、それも一瞬のことだった。
「あんた、ひょっとしてエイナ……じゃない?」
「気づいてくれて嬉しいわ。オルガ、久し振り!
それと、ボリスと結婚したんだってね? おめでとう!」
オルガの丸い顔がくしゃりと歪み、垂れた目から大粒の涙がこぼれ出した。
彼女は小柄なエイナを抱きしめ、駄々っ子のようにその場で地団太を踏んだ。
「久し振りじゃないわよ! 手紙も寄こさずに、どこで何をしてたの?
びっくりして心臓が止まるかと思ったわ!」
エイナは苦笑いをして、震えるオルガの丸い背中をぽんぽんと叩いた。
「ごめんなさい。私の方もいろいろと事情があったのよ。
それより、いいかげん中に入れてくれない?
マルチナおばさん、いるんでしょう? ご挨拶がしたいわ」
オルガはエプロンの裾で涙を拭い、愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「ああ、ごめんなさい。どうぞ入って。
お義父さんは畑に行っているの。ボリスも一緒よ。
だから今は、お義母さんとあたしだけなの」
ヨナーシュは村では裕福な方の農家だったので、家も広かった。
大抵の家は扉を開けるとすぐ居間に続いていたが、この家では独立した玄関間があって、居間はその先になっていた。
玄関からの物音と話声で来客を察していたのだろう。マルチナは扉の前で待ち構えていた。
彼女は椅子に座り、膝の上に毛布をかけていた。
椅子の両側には馬車のような車輪が、背もたれには押すための取っ手が付いている。いわゆる車椅子というもので、田舎では珍しいものだった。
いかにも重そうだったが、自力で移動できたということは、マルチナは歩けなくとも元気らしい(彼女はまだ五十代だった)。
マルチナはすぐにエイナだと気づいてくれた。
玄関先に続いて感動の再会が繰り返され、落ち着いたところでオルガがお茶を淹れ、女たちの怒涛のお喋り大会が始まった。
話は村を出たあとのエイナの消息が主だったが、オルガの結婚話、マルチナの怪我の話も織り込まれた。
エイナが軍服を着ていたので、彼女が軍に入ったことはすんなりと受け入れられた。
ただ、彼女が魔導士になったという話は、なかなか理解してもらえなかった。
辺境の開拓村では、魔法というのはお伽噺の世界に登場するもので、現実にそれを見ることなどなかったのだ。
エイナが証拠として、簡単な明かり魔法を出してみせると、マルチナたちは酷く驚くと同時に怖がった。
何とか二人をなだめ、話が落ち着いたところで、エイナは肝心の話を切り出した。
「オルガとボリスは、私の昔の家に住んでいるのよね?」
オルガは少し気まずそうにうなずいた。
「ええ。でも、お義父さんが改築してたし、あたしたちが入る前にも手を入れたから、あんまり面影は残っていないと思うわ」
「その……聞きづらいんだけど、家を買い取った時に、家具以外で中にあった物って、どうなったのかしら?」
これにはマルチナが答えた。
「ああ、うちの旦那が改築する前に、全部農具小屋に詰め込んだんだよ。
使えそうな道具は修理したけど、それ以外は捨てたり燃やしたりしたね。
悪く思わないでおくれ」
「いえ、それは仕方のないことですから。
そうした物の中に、本とか書類なんかはなかったですか?」
「ああ、あんたの両親はずい分と本が好きだったようだね。
分厚い本がたくさんあったよ」
「それは残っていませんか?」
「それがねぇ……ほら、あたしもヨナーシュも、ろくに字が読めないからね。本は焚きつけに使っちまったのさ。
でも、たくさんあったから、まだ少しは小屋に残っているかもしれないよ」
「それ、探してもいいでしょうか?」
エイナは勢い込んだ。
マルチナは少し驚いたが、親の遺品を勝手に処分した引け目があったのだろう。
「ああ、構わないとも。
もし、大事なものがあったら、遠慮なく持ち帰んなさい。
あたしもヨナーシュも異存はないよ。マルチナもそれでいいかい?」
「もちろんです!
じゃあ、あたしエイナと一緒に行ってきます。小屋の鍵を開けなきゃいけませんからね。
それと、あたしの家も見て欲しいし。
ね、エイナ。行きましょう」
オルガはエイナの手を取り、椅子から立ち上がった。