一 復讐
カリカリカリ……
静かな部屋の中に、ペン先が走る微かな音が響いていた。
大きなマホガニー製の執務机の傍らには、ユリアン・エメリヒ中尉が静かに立っていた。
大きな窓から入り込む陽光が、栗色の巻毛に当たって金色に輝いている。
机の主がサインを終えた紙片を脇に寄せると、彼はそれを取り上げ、すばやく次の書類を差し出す。
『大佐殿は筆圧が高いから、すぐにペン先が減って駄目にするんだよなぁ……』
心の中のぼやきは、おくびにも出さない。
立派な肘掛椅子にちょこんと座っている小柄な人物は、渡された書類に素早く目を通しながら、インク壺の中にペン先を浸した。
機械的な動きで署名をしようとした手が、ぴたりと止まる。
彼女はペンを置き、束ねられた附属資料をめくり始めた。
「大佐殿、何か問題でも?」
ユリアン中尉は顔を曇らせ、控えめに訊ねた。
机の主は上体を起こし、書類を彼に突き返した。
「却下だ。何だ、この見積りは?
初めて見る業者だが、なぜ変えた?」
ユリアンは首を傾げる。
「これまでの業者よりも、若干ですが納入単価が安いからです。
最近は経費節減の要求が厳しいですから、止むを得ないかと……」
「馬鹿者! 見積り総額の下に書いてある、付帯事項をよく読んでみろ。
炎暑の夏季、酷寒の冬季、並びに春秋の泥濘期の輸送費は牛馬・人員の消耗が激しいため、二割増と書かれている。
要するに年中割増が発生するということだ。それを加味すれば、前の業者より高くつくぞ」
「ああ……確かに。
大佐殿は、よくこんな但し書きに気がつかれますね」
「契約書では、一番小さい文字で書かれた部分から読むのが常識だ。
よく覚えておけ!」
「肝に銘じておきます。
それでは、こちらの書類を……」
ユリアンが次の書類を差し出そうとすると、扉をノックする音がした。
もう一人の副官、エッカルト・アードラー中尉が扉を少し開け、廊下の人物と小声で言葉を交わした。
エッカルトが振り返る。
「大佐殿。ホフマン大佐殿とマイヤー中佐殿がお見えです」
「金髪と赤毛が? 珍しいな、通せ」
中尉が扉を大きく開けると、やや小柄で金髪の美しい男と、赤毛で長身の凛々しい士官が連れだって入ってきた。
二人とも実年齢は三十代半ばのはずだが、二十代でも通りそうな若々しさだった。
彼らは部屋に一歩入ったところで直立不動となり、見事な敬礼をしながら声を合わせた。
「ご無沙汰しております、大佐殿! お元気そうで何よりです」
「貴様らこそ、暴れまわっているようで何よりだ」
立ち上がったミア・マグス大佐が、ゆったりとした答礼を返す。
「イアコフは大佐に昇進したのだったな?
かつての副官に追いつかれるとは、私も歳を取ったものだ」
マグス大佐がにやにやしながら祝いの言葉を述べる間に、エッカルト中尉が客人を応接に誘導する。
マグス大佐も机を回って、応接のソファにどかりと座った。
それを待って、二人の客人も長椅子に腰を下ろした。順序が逆のようだが、両者はかつての上司と部下の関係だから、それが身に染みついているのだ。
「何をおっしゃいます。
大佐殿は皇帝陛下に認められた、大将待遇ではありませんか。
いまだに大佐を名乗ってらっしゃるのも、現場に出たいがための我儘でしょう?」
金色の巻毛を一筋額に垂らしたイアコフが、にこやかな笑顔で皮肉を返す。
* *
イアコフが言うとおり、マグス大佐が異例の出世で大佐に駆けあがってから、もう十五年以上になる。
帝国最強の魔導士の名を欲しいままにする彼女が、それだけ長く今の地位に留め置かれたのには、複雑な事情がある。
ケチのつけ始めは、帝国軍がリスト王国のノルド地方に進駐した事件だった。
マグス大佐は、その進駐軍の指揮官を務めていたのだ。
ノルド地方と呼ばれる王国北西部を占領した帝国軍は、黒蛇帝率いる王国第二軍とぶつかり合った(黒龍野会戦)。
激しい戦いの末に帝国軍は撤退したのだが、その際、黒蛇ウエマクが起こした地震で、帝国の東西を結ぶ大隧道が崩壊してしまったのだ。
帝国はこの復旧のため、足かけ二年にわたる突貫工事で、莫大な財政支出を強いられ、対ケルトニア戦線にも影響が及んだ。
軍部内では、指揮官であるマグス大佐の責任を追求する声が上がった。彼女にはそれだけ敵も多かったのだ。
しかし彼女の戦力は絶大であり、現場からの圧倒的な支持を受けていた。
結果として、マグス大佐の処分は行われなかったが、彼女の〝昇進停止〟が暗黙の了解となったのだ。
皇帝はむしろ彼女の功績を高く評価していたものの、軍の総意を覆すことはしなかった。
その代わり階級は大佐のままで、彼女を准将待遇とすることを命じた。
その後も大佐の活躍は目覚ましく、何度も正式な将軍任官が取り沙汰されたが、今度は当の大佐が頑として受けなかった。
彼女は徹底した現場主義者で、前線に立って敵を殺すことを生きがいとしていたからである。
また、大佐の名声が敵味方に轟くにつれ、〝マグス大佐〟という呼び名が、一種の固有名詞化したという事情もある。
困った軍の人事部は、皇帝の勅命を前例にして、彼女の待遇を少将格、中将格と順次上げていった。
そして、今やマグス大佐は〝大将待遇の大佐〟という、奇妙な身分になっていたのである。
* *
「同じ西部戦線といっても、イムラエルの部隊は北部、イアコフは南部だったな。
それが揃って私を訪ねるとは、どういう風の吹き回しだ?」
エッカルト中尉が淹れてくれたコーヒーを飲み込むと、マグス大佐は二人に訊ねた。
白磁のカップにつけた唇には紅も引かれず、口の端から耳元まで続く醜い傷跡がぐねりと動く。
「いやぁ、さすがに帝都で飲むコーヒーは美味いですね。
戦場では代用品しかお目にかかれませんから、まさに甘露です」
とぼけるイアコフを横目でちらりと見たイムラエルが、小さく溜息をついて代わりに答える。
「実は、大佐殿を見込んで、お願いがあって参りました」
小柄なマグス大佐は、背の高いイムラエルを下から覗き込んだ。
「どこぞの侯爵の馬鹿息子が、先日事故死した件か?」
金髪のイアコフが、一瞬だが大佐の副官に視線を走らせた。
マグス大佐は気づかない振りをして、座ったまま背を反らせて後ろを向いた。
「おい、エッカルト。お前の淹れるコーヒーはお世辞抜きに美味いな」
「恐縮です。カーン少将に教わりました。
少将も司令部にお戻りになっていましたので、昨日伺いました。
今日の豆とネルは、その時のいただき物です」
「なんだ、そういうことは早く言え。あいつに何か礼をせんといかんな……。
ユリアン、確か昨日の来客が持ってきた菓子は、まだ手をつけていないな?」
「ええ。チョコレートボンボンですね。帝都でも人気の店のものだそうですよ」
「ちょうどいい。今すぐ、それをカメリアのところに持っていけ。あいつは甘い物が好きだから喜ぶだろう。
エッカルトも一緒に行け。私が豆の礼を言っていたと伝えるんだぞ」
「かしこまりました」
ユリアンとエッカルトは敬礼し、戸棚から菓子箱を取り出してから、部屋を出ていった。
「ご配慮、恐れ入ります」
イムラエルが扉が閉まるのを確認してから、軽く頭を下げた。
「何だか彼ら、若い時の僕たちに似ていますね」
イアコフは呑気な感想を洩らす。
「まぁ、お前たちほどではないが、鍛えればモノにはなりそうだな。
ユリアンは先月、中尉に昇進したばかりだ」
「嬉しそうですね?」
「馬鹿を言え。
それより、エーデルシュタインの馬鹿息子は、一階級昇進して大将になったそうだ。
馬車で崖から転落して死んだ間抜けが、昇進するとは世も末だな。
現場の兵には聞かせられない話だ」
「そこまでご存じとは、さすがに情報が早いですね」
イアコフの世辞に、大佐は〝ふん〟と鼻を鳴らした。
「質問が間違っているぞ。『どこまでご存じですか』だろう?」
「ありゃあ、薄々気づいてはいたのですが……すべてお見通しですか」
* *
事故死したというクラウス中将は、エーデルシュタイン侯爵家の跡取り息子である。
イアコフの父イザークは、かつてクラウス中尉(当時)の部下であった。
中尉の無謀な命令でイザークの部隊は壊滅し、ただ一人生き残ったイザークはケルトニア軍に襲われた村から、少年だったイムラエルを救出したものの、敵によって深手を負った。
イムラエルは小舟で川を下って、イザークの故郷にたどり着いた。
そしてイアコフの母によって保護され、同い年だったイアコフと友人になったのだ。
一方、どうにか逃げのびたイザークは、瀕死の状態で軍病院に収容された。
クラウス中尉はイザークが入院中に、彼の美しい妻に邪な欲望を抱き、騙して連れ去った挙句に彼女を犯し、口封じに殺してしまう。
どうにか一命をとりとめたイザークは、除隊して故郷に戻ってイアコフとイムラエルを育てたが、二人が十七歳の時に亡くなってしまった。
すべてを知ったイアコフは復讐を決意し、イムラエルもイザーク夫妻の恩に報いるため、イアコフの騎士となって共に復讐を誓ったのだ。
二人の若く優秀な魔導士を自らの副官に採り上げたマグス大佐は、密かに彼らの故郷を探り、その事情を掴んでいた。
* *
マグス大佐は応接の椅子から立ち上がり、執務机の引き出しから書類を出して戻ってきた。
彼女はそれをイアコフの目の前に放り投げた。
「これは?」
「読んでみろ。クラウス中将の検死報告書だ」
イアコフは五枚ほどの綴りを取り上げ、視線を落とした。
横からイムラエルも覗き込む。
「専門用語ばかりで、かなり難解ですね」
「医者の書く書類は、仲間内さえ分かればいいものらしい。
途中は飛ばしていいから、最後の頁を見てみろ」
「ええと、……すべての手指の爪内部に出血が認められ、左第一指から三指までの爪は剥離して失われている。
また、腹部の内出血は凝固の状態から、転落による打撲とは時間的な差異があると推察される。
熱傷による遺体の損傷が激しく断言はできないものの、生前に拷問を受けていた可能性が捨てきれない……ですか。
あれ、最後の医師のサインが直筆ってことは、これ原本ですよね?
どうして大佐殿がお持ちなのですか?」
「私が買い取ったからだ。
監察部に上がった報告書は、もっと物分かりのいい医師に頼んだものだ。
騒ぎそうな奴は黙らせたし、必要な火消はしてある。これで満足か?」
マグス大佐は不機嫌そうな声を、いっそう低くした。
「いいか、私は貴様らが何をしたかなど興味がない。
だが、やるならもっと上手くやれ!
何だこの体たらくは? お前はもっと頭の切れる奴だと思っていたが、失望したぞ!」
「返す言葉もありません。
私とイムラエルは十分に計画を練り、万全を期したつもりだったのですが、誤算がありました」
「誤算? 何があった、言ってみろ」
「クラウス中将には、私的な護衛がついていました。そいつが予想以上の強敵で、二人がかりで倒すのがやっとでした」
「ふざけたことを言うな!
今のイアコフなら、並みの魔導士が束になっても一蹴できるはずだ。
たった一人の相手を、イムラエルと二人がかりでようやく倒しただと? そんな化け物がいるなら、今すぐ軍に勧誘してやる。
つくならもう少しマシな嘘をつけ!」
イアコフとイムラエルは顔を見合わせた。
「それがですね……冗談ではなく、化け物だったんですよ。
大佐殿は、レイア様の護衛で南カシルへ渡った時のことを覚えておられますか?」
「忘れるわけがなかろう」
「ではあの時、最後の夜に襲ってきた化け物のことは?」
「おい待て! まさか中将の護衛が吸血鬼だったとか、言い出すんじゃなかろうな?」
「そのまさかです。しかも、桁違いに強い相手でした。
もし、あの時の経験がなかったら、二人がかりでも勝てたかどうか分かりません。
僕が重力魔法で押さえつけ、イムが最大火力で焼き殺しました。
それを三十回以上繰り返したんですよ!
こっちの魔力と奴の回復力と、どっちが先に尽きるかの勝負でしたが、本当に冷や汗をかきましたよ。
現場から魔法の痕跡を消すのが精一杯で、私たちは中将の馬車を崖から突き落として、逃げるよりなかったんです」
「ということは、その護衛は最初から中将についていたわけではなかったのか?」
「はい。中将を攫ったのは昼間でしたから、吸血鬼の奴は動けなかったんだと思います。お陰でこっちは、すっかり油断していました。
死体を馬車に詰め込んで山道を目指したのですが、夜になって襲われました。
吸血鬼は中将が死んでいることを知らずに、奪還しようと追って来たのでしょう」
「しかし、吸血鬼だぞ? どうやって侯爵家はそんな奴を飼っていたんだ?
いや、それよりも、これは由々しき事態だ!
もし、貴族どもが吸血鬼を使って、皇帝陛下を弑奉る計画を立てたらどうする?
私やお前たちならまだしも、城の近衛兵ではとても太刀打ちできまい」
マグス大佐は血相を変えて立ち上がった。
イアコフとイムラエルも慌てて腰を浮かした。
「大佐殿、どちらへ?」
「知れたこと、陛下に拝謁を願い出る!」
「では、私たちも……」
「馬鹿者! 貴様ら、陛下の前で『侯爵家の馬鹿息子を殺しました』と白状する気か?
そっちの話はうまく誤魔化してやるから、貴様らは自分の部屋に帰れ!」
マグス大佐はそう言い残すと、足音も荒く部屋を出ていった。