六十一 帰路
「何度も言わせるな」
アッシュの答えは、冷たいものだった。
「エルフの王は独裁者ではない。
私はあくまで各部族の調停者だ。皆が決めたことを覆すようなことは許されない。
私たちはこれ以上、人間に力を与えることをよしとしない。
伯父上の研究資料が発見され、神聖語への翻訳が可能になったとしても、爆裂魔法をエイナに教えることはできん」
「爆裂魔法は、すでに人間の手に渡っているではありませんか。
今さら秘密にしても、意味がないと思います」
「だから、危険な力を無差別に拡散させろと言うのか?」
エイナは黙らざるを得ず、その様子を見たアッシュは溜息をついた。
「エイナの働きには感謝しているし、その思いも分かる。
だから、君が爆裂魔法を知ろうとすることまで、止めるつもりはない。
君は亡き父上から、魔法を何も伝えられていないのかね?」
エイナは首を振った。
「私は父が魔導士だったということすら、知らなかったのです。
……ただ、父は幼い私に、爆裂魔法の呪文を聞かせていたらしいのです。
多分、子守唄の代わりだったのだと思います」
「ふうん……」
アッシュはちらりとユニの顔を窺った。
ユニはその視線に気づきながら、知らぬ顔を決め込んでいる。
「なぁ、エイナ。
君は何と言うか、その……父上の遺伝もあるのだろうが、人間にしては過大な魔力を持っている。
爆裂魔法を操るほどの魔導士なら、娘の潜在魔力に気づかぬはずはない。
君が将来魔導士になることを、父上は予測していたと思うぞ」
「そうかもしれませんが、それが何か?」
「ならば娘のために、爆裂魔法の呪文を書き残していたのではないだろうか?
一流の魔導士なら、自分が得た強大な魔法を娘に継がせたいと思うのが自然だ。
もちろん君が成長したら、直接教えるつもりだったのだろうが、不慮の事故や病気によって、それが果たせない可能性を自覚していただろう。
万一に備えて呪文をどこかに隠してたか、あるいは行方不明になったという、母上に預けていたとも考えられる。違うか?」
エイナは黙していたが、強い衝撃を受けているのは明白だった。
「帝国側から爆裂魔法の情報を得るのは、まず不可能だろう。
私が立てた仮説を、追ってみてはどうだ?」
* *
宿舎を去ろうとするアッシュに、ユニは「そこまで送っていく」と言って立ち上がった。
二人はぶらぶらと人気のない広場を横切っていった。
かなり酒を飲んだはずだが、二人とも酔っているようには見えない。
「ずい分と焚きつけてくれたわね?」
ユニがぼそりとつぶやく。
「あの娘は伯父上の資料を発見してくれた功労者だ。
何も与えずに帰すのでは私の気が済まん。せめてもの罪滅ぼしだ」
アッシュは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「エイナが呪文を見つけたとして、あの娘に使いこなせるかしら?」
「今のままでは無理だろう。エイナは自分の魔力を、まだ完全には引き出せていない。
それができるようになったら、可能性は高まるな」
「あたしにはよく分からないけど、エイナってそんなに凄いの?」
「ああ。さっきは〝父上の遺伝〟と言ったが、むしろ吸血鬼の血のせいだろう」
「いいの? その……エルフと吸血鬼は敵同士なんでしょう?」
「確かにな。だが、母親がヴァンピール(吸血鬼と人間の混血)となれば、話は別だ。
エルフを除けば、吸血鬼が最も恐れる敵はヴァンピールなんだ。エイナはその娘だし、血が薄いからほとんど人間に近い。
彼女が強くなるのは、エルフの利益にもなるはずだ」
「直接戦うわけじゃないのに、やっぱり吸血鬼は気になるの?」
「あいつらは、鏡に映ったエルフのようなものだからね。
何もかもが正反対なのに、恐ろしいほど似ている。だからこそ、存在そのものを許せないんだよ。
だから私たちは、吸血鬼の動向に常に気を配っている。
実を言うと、この百年ほどで、奴らは勢力を急激に拡大しているんだ」
「それって、帝国での話よね?」
「ああ。よほど頭の切れる奴がいるらしくてな。支配層の奥深くまで喰い込んで、共生関係を築いている。
帝国の膨張は奴らの思う壺なんだ。伯父上も、そのことには気がついているはずなのだが……」
ユニとアッシュは広場を抜け、歩みを止めて向かい合った。
「ユニたちは、そろそろ帰国するのだろう?」
「うん。明日には発とうかと思っている」
「そうか……」
「アッシュは分かっているだろうけど、あんたの顔を見るのは、これが最後だと思う」
「人間の命は儚いものだが、召喚士は格別だな」
「転生するだけで、死ぬわけじゃないのよ?
あたしもオオカミになったら、いつかアッシュに会いにくるわ」
「そうだな。楽しみにしているよ」
ユニは笑って、アッシュの頬に軽くキスをした。
そして、くるりと踵を返し、宿舎の方へ引き返していった。
ユニの言葉どおり、彼女がこの森を去って後、二人が再び会う機会は訪れなかった。
転生したユニが、アッシュに再会できたかどうかは、また別の物語である。
* *
レイテイシア女王の親書をエルフ王に届けるという、エイナたちの公式な役割はとっくに終わっていた。
思いがけずに滞在が長引いたが、彼女たちはいよいよ西の森を去り、帰国することにした。
別れの儀式のようなものは行われず、彼女たちを見送ったのは、アッシュとその母ウィローだけだった。
シルヴィアが最初に正使としての礼を述べた以外、堅苦しい場面はなく、彼女たちは思い思いに和やかな別れの言葉を交わした。
カー君とオオカミたちは、エルフたちから精霊として丁重な扱いを受け、ひどく甘やかされていたので、彼らが一番名残惜しそうだった。
エイナもアッシュに別れの挨拶をして、軽く抱き合った。
「大変お世話になりました。
ご助言のとおりに一度休暇をもらって故郷に帰り、父のことを調べてみようと思います」
アッシュは笑みを浮かべてうなずいた。
「それがよいだろう。
まぁ、例え呪文が見つけられたとしても、簡単には習得できないだろうがね。
日頃から修行に励むことだな。
強い魔法が欲しいのなら、エイナが魔龍を倒したという魔法――あれを極めた方が現実的だぞ」
「絶対零度の凍結魔法ですか?
でも、あれはドワーフの魔槍の力を借りて、偶然成功したものです。
私一人では、とても再現はできないと思います」
アッシュは首を傾げた。
「そうかな? 絶対零度の実現は、単純に大魔力を投入すればいいだけの話だろう?
エイナの魔力量なら、そう難しくはないと思うがな」
「お言葉ですが、あれは魔龍に突き刺した槍先だったから、大魔力の放出に堪えられたんです。
私一人でやろうとしても、魔力を放出する手指が破裂してしまいます」
「ふん……」
アッシュは悪戯っぽい笑みを浮かべ、エイナに顔を近づけた。
「なるほど、学校で魔法を教わると、こういう弊害があるのか。
伯父上がよく言っていたぞ。『魔法を操る者は、自由な発想を持たなければならない』とな」
「えと、あの……意味が分かりません」
「いいか? 魔力を手の先から放出するのは、その方が狙いがつけやすく、制御が容易だからに過ぎん。
魔法に必要なのは、呪文の詠唱と魔力であって、どこから放出するかは関係ない。
確かに、体内の全魔力を集中させたら、細い指先が堪えられないだろうな。
だがその魔力は、もともとエイナの子宮に蓄えられていたものだ。君の子宮は破裂したりはしないだろう?
どうしたらよいか、発想を柔軟にして考えてみるがよい。これは私からの宿題だ」
「や、やってみます……」
エイナはそう答えたものの、顔は引き攣っていた。
どうすればよいのか、まったく見当がついていないことが丸わかりであった。
横で聞いていたユニが、にやにやしながらエイナの耳元にささやいた。
「お姉さんがいいことを教えてあげる。
簡単だわ。魔力を子宮に溜めているんだったら、股を開いて〝あそこ〟から魔法を撃てばいいのよ」
〝バシッ!〟
アッシュとシルヴィアが、ユニの後頭部を張り倒す音が響いた。
* *
数日をかけて西の森を抜けた後、彼女たちは寂寥山に入った。
ドワーフたちの国ではグリンの家に泊まり、メイリンと双子の料理を思い切り堪能した。
シルヴィアが頼んでいた飛行用の装着具は完成していて、飛行服(森に滞在中、手紙で依頼していた)も一緒に用意されていた。
寂寥山脈を出てからは、人間世界の旅になる。
テバイ村では、ドワーフ市が予定どおり開催されることを伝え、村人を安堵させた。
セレキアからは川船に乗り、ユルフリ川を遡ってオアシス都市アギルに至る。
そしてハラル海(岩石砂漠)の街道を通って王国南部へと向かう。
要するに往路を逆順で辿るわけだが、行きと帰りでは大きく違っていた。
往路では、行く先々でトラブルに巻き込まれていたが、復路はきわめて順調だったのだ。
ただ、急ぐ旅ではなかったこともあって、かかった日数はあまり変わらなかった。
一か月近くを費やし、一行はようやく王国の国境に近づいていた。
あと一日、二日で赤城市に着くことだろう。
もう三月も後半に入っていたので、周囲はすっかり春めき、彼女たちの気分は上々であった。
「まだ夜は少し寒いけど、本当に暖かくなったわね」
白いオオカミの背に揺られながら、エイナが話しかけた。
隣を進むシルヴィアは、カー君の背に乗っている。
往路は彼女もオオカミに乗っていたのだが、帰りは魔石で大きくなったカー君に乗ることにしたのだ。
「本当に帰りは順調だったわぁ。
もうここまでくれば、旅は無事に終わったも同然ね」
前を行くユニにも二人の会話が聞こえたらしく、彼女は振り返ってシルヴィアを叱りつけた。
「しっ、滅多なことを言わないでちょうだい!」
「どうかしたんですか?」
シルヴィアが不満そうに言い返す。
よい天気で、ヒバリが空で盛んに囀っている。これ以上はないくらいに平和だったのだ
「そういうことを言うとね、必ず悪いことが起きるって、昔から決まっているのよ」
「まさか、そんなの迷信ですよ」
けらけらと笑うシルヴィアの頭の中に、ライガの声が響いた。
『おい、何だあれは?』
ライガが顔を向けている方向を、全員が一斉に視線を送った。
「何だか土煙が見えますけど……砂嵐でしょうか?」
視力のいいエイナがつぶやいた。
「砂嵐なら上空も曇るはずよ。馬車の隊列にしては、街道から外れているわね」
ユニも首を捻る。
シルヴィアはカーバンクルの背中から滑り降りた。
「カー君、あんたちょっと見てきてくれる?」
『人使いが荒いなぁ……』
カー君はぶつぶつ言いながら、コウモリのような羽根を広げ、地を蹴って飛び上がった。
彼が飛行能力を獲得したことで、偵察は思いのままだった。
カー君は何度も羽ばたいで上昇すると、風に乗って滑空を始めた。
あっという間にその姿は小さくなり、視界から消えてしまった。
だが、すぐに彼は戻ってきて、シルヴィアの足もとに転がるように着地した。
『凄い数のトカゲだよ!
何百匹もいる群れが、真っ直ぐこっち目がけて走ってくる。
多分、十分もしないうちに、僕たち呑み込まれちゃうよ!』
「砂漠トカゲの暴走だわ!」
ユニが天を仰いで呻き声を上げた。
砂漠トカゲはハラル海に棲む大型の肉食トカゲで、普段は単独で暮らしているが、春先になると群れをなして暴走することで知られていた。
繁殖行動ではないかと言われているが、問題は進路上で見かけた生物を、すべて喰らいつくすことであった。
「あいつら、うちのオオカミたちと同じくらい大きいわよ。
戦おうにも数が多過ぎるし……」
ユニはエイナの目を見た。
「砂漠トカゲは寒さに弱いの。
エイナ、あんたの凍結魔法で目の前の砂漠を凍らせて!
奴らが勢いで踏み渡れないくらい、できるだけ広範囲によ!」
「えっ? えと、あのっ! だってそんな強力な魔法……」
「つべこべ言わないっ!
西の森を出てから、あんたがずっと凍結魔法の練習をしているの、知らないとでも思っているの?
今ここでやらなかったなら、何のための修行よ!」
ユニの剣幕と時間の切迫は、エイナの逡巡を吹き飛ばした。
エイナは目を閉じ、高速で呪文を唱え始めた。
「ちょっ! エイナ、あんた何してるの?」
シルヴィアが制止しようとして、ユニに阻まれる。
シルヴィアが叫んだのは、エイナが呪文を唱えながら、服を脱ぎ始めたからだった。
軍服の上着だけではなく、下に着込んだシャツも脱ぎ捨てた。
彼女の上半身は、胸を覆うコルセットだけとなり、引き締まった腹が丸見えになっていた。
そればかりか、エイナはカチャカチャと音を立ててベルトを外し、ズボンも足もとまで下ろした。
さらにズロースに手をかけ、それも腰骨のあたりまでずり下げた。
あと少しでも下げれば、彼女の薄い陰毛が見えてしまいそうだった。
遠くに見えていた土煙は、あっという間に迫ってきて、今では身体をくねらせて疾走してくるトカゲたちの姿すら見えてきた。
オオカミたちは前に出て姿勢を低くし、カー君は火球を吐こうと喉を膨らませたその時、エイナが目を開いた。
同時に半裸の彼女の腹のあたりが、白い輝きに包まれた。
一瞬で視界が真っ白となり、立ちこめる白い靄の中を、ダイヤモンドダストがきらきらと舞った。
靄が春風で吹き飛ばされると、目の前の砂漠は氷の大地に変わり果てていた。
突っ込んできたトカゲの先頭が凍りつき、爆走の勢いのまま氷の大地に激突し、粉々に砕け散る。
数百頭に及ぶ後続は慌てて方向を変え、砂漠へと走り去っていった。
エイナたちの前に出現した氷結帯は、幅二百メートル、長さは一キロにも及んだので、さすがの大群も諦めざるを得なかったのだ。
* *
ユニとシルヴィアは、へなへなとその場に座り込んだ。
一方のエイナは、顔を真っ赤にしてズロースをへそのあたりまで引っ張り上げると、しゃがんでズボンに手を伸ばした。
慌てて服を着る彼女を見上げながら、シルヴィアが呆れたような声を上げた。
「お見事と言いたいところだけど、何だってあんた、裸になったのよ?」
エイナはシャツの袖に腕を通しながら、ますます顔を赤くした。
「だってしょうがないでしょ!
着たまま魔法を撃ったら、ぼろぼろになって服が破けちゃうんですもの」
「はぁ? 何で魔法を撃ったら服が破けるわけ? 意味分かんないわ」
ようやく身繕いをしたエイナは、少し落ち着いて説明を始めた。
西の森を出て以来、エイナは絶対零度の凍結魔法を自分のものとするため、毎日のように特訓を重ねていた。
通常の凍結魔法なら問題ないが、威力を高めるために大魔力を手から放出しようとすると、太い血管の通らない指先が耐えきれずに破裂する。
アッシュが指摘したのは、その大量の魔力を子宮は問題なく貯蔵していることだった。
これは臓器の容量の問題ではなく、血管が集中していることに起因している。
だったら、子宮に近い腹から直接魔力を放出すればいい……エイナは単純にそう思いついたのだ。
何度か実験を重ねるうちに、魔力を手から放出するのはイメージがしやすいからで、意識さえ変えてしまえば、腹からでも撃てることが分かった。
もちろん、手のような精密な狙いをつけるのは難しかったが、凍結魔法は範囲魔法であるから、それほど問題とはならなかった。
むしろ問題なのは、大魔力を放出すると、着ている衣服に影響が出ることだった。
魔力は衣類を透過するはずだったが、強大な魔法を使うと、冷気が身体にまで及ぶのだ。
肉体は魔法で自動的に保護されているので無事なのだが、極低温にさらされた衣類はぼろぼろとなり、あっという間に崩れ去ってしまうのだ。
「なるほど、そういうことなのね」
ユニが納得したような顔で立ち上がり、まだ座り込んでいるシルヴィアのつむじを、こつんと拳で叩いた。
「痛っ! 何するんですか、ユニ先輩」
「そもそも、あんたが変なフラグを立てるから、こんなことになったのよ!
反省しなさい!」
「え~っ! トカゲはあたしのせいですかぁ?」
一瞬の間を置いて、三人の女たちは一斉に吹き出した。