六十 約束
「はいっ、質問があります!」
エイナが勢いよく手を挙げた。
ぶつぶつ言っていたアッシュは、少し意外そうに顔を上げた。
この下世話な話題に、ユニとシルヴィアが喰いついてくるのは何となく予想できたが、エイナはいかにも真面目そうに見えたからだ。
「何だ?」
「生まれた赤ちゃんは、どうなったんですか?」
「は?」
アッシュは一瞬絶句して、取り繕うように咳払いをした。
「い、いや、私はサシャが妊娠したなどとは言っていないぞ?
ちゃんと聞いていたのか?」
だが、エイナは澄んだ目で、エルフの女王を真っ直ぐに見詰めてくる。
「でも、二人は肉体関係を持ったわけですよね?
だったら、赤ちゃんができるはずですよ!」
シルヴィアが慌ててエイナの襟首を掴んで、後ろに引っ張った。
「ちょっとエイナ、あんた何バカなことを言ってるのよ。
アレをしたからと言って、子どもができるとは限らないでしょ!」
「うそ! だって、そういうことは赤ちゃんが欲しい時にするのよ?
できなかったら、おかしいじゃない」
シルヴィアは呻き声をあげ、天井を仰いだ。
ユニはテーブルに突っ伏して、痙攣しながら笑いを堪えている。
アッシュは肩を落として溜息をついた。
「えーと……シルヴィア?
君はエイナの友人として、よくよく彼女に説明すべきだな」
「もっ、もちろんです!
あたしが責任を持って言い聞かせますから、この娘の発言は忘れてください」
シルヴィアは後ろからエイナの口を塞ぎ、顔を真っ赤にして弁解する。
「あー、いや……エイナの質問は論外だが、ちょうどいいから説明しておこう。
私たちの長い歴史で、エルフと人間が関係を持ったという話は、実はそう珍しくはないのだ。
ところが、そのエルフが男女いずれの場合でも、子ができたという記録は存在しない。
恐らく、種族的な差異で混血が不可能なんだろうな」
彼女はそう言うと、ちらりとエイナに視線を送った。
大柄なシルヴィアに押さえ込まれたエイナは、「でも、コウノトリが……」と言いかけたところで、再び口を塞がれた。
「とにかく、二人は別れる日までの六日間、昼は呪文の最適化に費やし、夜は互いの身体をむさぼった。
エルフがそんなにも連続して行為に及ぶというのは、繁殖期であっても稀なんだ。
最初はサシャに誘惑されたんだろうが……結局、伯父上は彼女に溺れてしまったのだろうな。
手記にはその様子が克明に記述されていてね。正直に言って、目を通すだけでも苦痛だったよ」
アッシュは軽く溜息をついた。
ユニは目尻に滲んだ涙を拭いながら、テーブルから顔を上げた。
「あら、アッシュ。その言い方は酷いと思うわ。
二人は本当に、お互いを愛していたんじゃないの?」
「この悪趣味な手記を読んだら、ユニだって辛辣な感想を漏らすと思うぞ。
サシャ・オブライエンが人として異常な長寿を獲得したのも、この期間が原因だろうね」
「へえ、エルフと関係を持つと、人間の寿命が伸びるってこと?」
「いや。さっきも言ったとおり、両者が関係を持ったという記録は多いのだが、人間側に何らかの影響をもたらしたという話は伝わっていない」
「サシャは特別だったってこと?」
「私が王としての見聞を広めるため、何度か人間世界を旅したことは知っているだろう?
人間がエルフをどう思っているかは大きな関心事だったから、私はいろいろな話を漁り歩いた。
そんな中で、面白い伝承を耳にしたことがある。
〝エルフの肉を喰った人間が、不老不死になった〟というものだ」
「あ、それ……あたしも何かの本で読んだことがある。
家族も知り合いも年老いて死んでいくのに、自分だけが若いままで絶望する話だったわ」
シルヴィアが声を上げると、エイナもそれに続いた。
「私が両親から聞いたのは、エルフが死んだ人間の恋人に、自分の生き血を飲ませるっていう筋でした。
恋人は甦って不老となり、エルフと一生幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……で終わるの」
「ああ、地域ごとに少しずつ話が違うんだよ。
北の方ではエイナの言うように、血を飲んで不老不死になる話が一般的だ。
肉を喰うの奴は、大陸中部で広く伝わっている怪談じみた話だ。
南部では、エルフの祝福を受けた液体を飲むことになっていて、具体的にそれが何かはぼかされている」
「いずれにしろ、エルフの一部を摂取することで、不老不死になるのは共通しているのね?」
ユニの言葉に、アッシュはうなずいてみせた。
「私たちの記録には存在しないが、人の間にこれだけ広まっているということは、そうした事実があったと推察できる。
もちろん、こうした話は大げさに伝わるものだ。そもそもエルフ自身が不老不死ではなく、ちゃんと寿命があるからな。
実際にはサシャと同様、老化が遅くなって、結果的に長寿となったというところだろう」
「ということは、二人が一緒だった間に、サシャがネクタリウスの血か肉を口にしたってこと?」
ユニは目を見開いたが、アッシュは首を横に振った。
「いや、手記にはそんなことはひと言も書かれていない。
だが、さっき話しただろう?
サシャは伯父上をその気にさせるため、いろいろ手管を使ったと……」
ユニがぽんと手を打った。
「あっ、察し……!」
少し遅れて、シルヴィアも顔を真っ赤にした。
「うそっ、アレを飲んだってこと?」
エイナはユニとシルヴィアの顔を、交互に見ながら叫んだ。
「え? ええっ! 何で二人とも納得してるんですか?
あたしにも分かるように説明してください!」
シルヴィアは引き攣った笑いを浮かべつつ、再びエイナを羽交い絞めにした。
その耳元に、彼女のドスの利いた声がささやかれる。
「今夜じっくり教えてあげるから、あんたは黙ってなさい!」
アッシュも苦笑いしながら、話を再開した。
「二人が野営を始めて一週間後、サシャは伯父上に別れを告げ、パッサウ市の西部軍司令部に戻った。
ユニが指摘したとおり、二人は深く愛し合っていたが、別れは案外あっさりしたものだったらしい。
その部分だけ、読み上げておこう」
* *
十月九日
サシャは夜明けとともに起き、荷物をまとめ始めた。
簡単な朝食を済ますと、彼女はここを出て、パッサウ市に向かうと宣言した。
それはお互いに覚悟していたことで、私に彼女を引き留める権利など、あろうはずもなかった。
この一週間の間に、私は何度か戦況の偵察に出かけていた。
サシャの予想どおり、補給線を断たれたケルトニア軍はパッサウの包囲を解き、侵攻前の勢力圏まで撤退していた。
その過程で帝国軍の挟撃に遭い、ケルトニアは約二万人を失う大打撃を受けたが、見方を変えれば、彼らは壊滅することなく、多数の兵員を無事に帰還させたとも言える。
徴兵された農民が主体の帝国軍と違い、職業軍人である傭兵で構成されたケルトニア軍は、危機に瀕した時に強さを見せる。
ケルトニアを撤退させた帝国側も、司令部直前まで侵攻を許した影響が深刻だった。
西部方面軍は大規模な再編成が必要で、ケルトニアを追ってエウロペ諸王国に攻め入る余力はなかった。
サシャが司令部に出頭するには、絶妙なタイミングであった。
慢性的な魔導士不足に悩む帝国軍にとって、全滅と思われた部隊で生き残った彼女は、貴重な人材として評価されるだろう。
十日以上消息が不明だったのも、負傷の身で敵軍との遭遇を避けていたと言えば、許されるはずだった。
サシャは女としての欲望に正直過ぎる人間だったが、それ以上に根っからの軍人だった。
彼女は自らの魔力で出世することを望み、自ら開発した魔法で敵を殺すことを渇望していた。
そのためか、私との別れもあっさりしたものだった。
準備を終えた彼女は、私に心からの感謝を述べて握手をしたが、ついに涙は見せなかった。
朝から堅苦しい軍人言葉に戻っていたのも、彼女の決意の固さを示していた。
ただ、最後には握手した手を乱暴に振りほどき、私の頬を両手で挟み込み、長い口づけを交わしてくれた。
名残惜しそうにサシャの柔らかな身体を抱きしめた私を、彼女は押し退けた。
そして、私の両腕を痛いくらいに握りしめ、胸に軽く頭突きをした。
うつむいたままの彼女から、掠れた声が聞こえてきた。
「好きな男に抱かれるのが、これほど幸せだとは知らなかった。
この短い日々は、一生の宝物だ。
この先どれだけ人を殺し、敵の怨嗟を浴び、血塗られた道を歩もうとも、アデルを思うことで私の正気は保たれるだろう。
ああ、アデル……、アデル、アデル! 私はあなたを愛している!」
私は彼女を抱くことも許されず、ただ空虚な言葉を吐くことしかできなかった。
「ああ、私もサシャを愛しているよ」
「……うすうす感づいていた。アデルは身分のあるエルフなのだろう?」
「ああ、私は西の森のエルフ王だ。黙っていて済まなかった」
「やはりな。
私は卑しい身分だし、穢れた身体をしている。アデルにふさわしい女だと、己惚れるつもりはない。
だけど……、だけどお願いだから、私のことを覚えていて欲しい」
「当たり前だ。サシャは私の名付け親だからな。
私を〝アデル〟と呼ぶことができるのは、サシャだけだと誓おう」
彼女は私の胸から頭を離し、一歩下がって向かい合った。
浮かべていた女らしい笑みがすっと引っ込み、真剣な表情が浮かんだ。
「私は自らを律し、修行に打ち込むことを約束しよう。
そして、いつの日か西の森のエルフ王を訪ねようと思う。私の成長を見て欲しいのだ」
「それは楽しみだね。
王の名において君を歓迎することを、私も約束しよう」
彼女は小さくうなずいた。
「ありがとう。
その時、アデルが私の力を認めてくれたなら、爆裂魔法を教えてくれるだろうか?」
「おやおや、私はそれまでに神聖語の技術を、独力で復活させなばならんということか。……ずい分と重い宿題だな」
「アデルは知らないかもしれないが、人間は弱い生き物なんだ。
私は帝国最強の魔導士を目指すつもりだ。それくらいの餌がなくては、くじけてしまうだろうよ。強欲な女に捕まったと諦めてくれ。
そうだ、もう一つ約束しておこう。
いつになるか知らんが、アデルと再会するまでは、私は決して他の男には抱かれないと誓おう」
私は思わず吹き出した。
「いいのかい? 私の方はそんな約束はできないよ」
「アデルがエルフの娘を抱くのは気にしない。
だけど、人間の女には手を出さないで欲しい」
「そういうことなら、お安い御用だね。
その代わり、また会った時にはサシャを抱かせてもらおう」
「その言葉、後悔するなよ? 私はきっと婆さんになっているぞ」
彼女は拳をつくり、私の腹を軽く殴った。
それが、私たちの別れの合図となった。
サシャは黙って背を向け、野営地から去っていった。
* *
「……とまぁ、これがことの経緯だ。
帰国した伯父上が、神聖語の復活に没頭したこと。
数十年後にサシャが西の森を訪ねてきたこと。
爆裂魔法が密かに帝国に伝わったこと。
最終的には伯父上が帝国に亡命し、帝国魔導士の統領となっていたサシャに協力したこと。
全てはこの十日ほどの出来事に起因している。
……理解できたかね?」
ユニがケルトニア酒を口に含み(もう五杯目だった)、肩をすくめた。
「大体のところは、ね。
で、実際にサシャがこの森を訪ねてきた時には、彼女はもう八十歳に近かったのよね?
その時に約束は果たされたの?」
「恐らく、伯父上は爆裂魔法の呪文を神聖文字に翻訳し終えており、製本してサシャに渡したのだと思う。
手記はそれ以前、神聖語技術復活のあたりで終わっているから、これは推測でしかないんだが、状況からして間違いないだろう」
「もう一つの約束は?」
「もう一つ?」
「とぼけないで!」
ユニがじろりと睨んだ。
「再会した二人は、したの? しなかったの?
ネクタリウスはともかくとして、サシャはお婆ちゃんになってたんでしょ?」
「あ……ああ、そっちの話か。
前に話さなかったかな? 私はその時のサシャを実際に見たが、人間としては四十代でも通りそうな外見だったぞ。
それで、したかどうかという話なら、間違いなく派手にしていたな。
何しろエルフは耳がいい。私は母上に聞いたのだが、サシャはとびきり声が大きかったそうだ」
シルヴィアは、エイナが何かとんでもないことを口走る前に、すばやく口を塞いでしまった。
ユニはそれを横目で見ながら、さらに質問を重ねた。
「爆裂魔法の呪文、それも神聖語に翻訳されたものが帝国に渡ったとして、実際に実用化されたのは二十年後のことよ。
時間がかかり過ぎじゃない?
サシャの魔力がまだ不足していたってことなの?」
「そうとも限らんさ。
伯父上は確かに呪文を伝えた。
ただ、それは人間が使いこなすには、あまりに複雑すぎたんだろう。
サシャは〝帝国の魔女〟として、国内外にその名が轟いていた。恐らく十分な魔力を持っていたんじゃないかな。
それでも爆裂魔法を完全に理解して、人間が使えるように工夫をするには、気の毒だが年を取り過ぎてしまったんだろう。
結局、爆裂魔法の誕生は、マグス・ミアという若い魔女が登場するまで、待たざるを得なかったということだ。
私は実際に見たわけではないが、マグス大佐が爆裂魔法を使う時、七色の魔法陣が浮かび上がるのだったな?」
三人の人間は、同時にうなずいた。
彼女たちは、大佐の爆裂魔法を目撃してたのだ。
「エルフが爆裂魔法を唱える時に、そんなものは出ないんだよ。
魔法陣の出現は、もともとの魔法を七つに分解して、最後に統合するように工夫した結果なのだろう」
その場に、しばしの沈黙が訪れた。
これで、エルフの先王が帝国に亡命し、禁じられていた魔法の伝授を行っている背景が明らかとなったのだ。
これは参謀本部のマリウス副総長や、レテイシア女王に報告して、今後の方針を検討すべき重要な事実だった。
それぞれが自らの思いに沈むなか、エイナは口を押えていた手を押しのけた。
この状況で彼女がボケをかますとも思われないので、シルヴィアも素直に手を引いた。
「アッシュ様。
前にもお話しましたが、私の亡き父は爆裂魔法を成功させた、帝国で三人目の人物でした。
私は魔導士としてだけではなく、父の娘としてこの魔法を会得したいのです。
もう一度お願いします。私に爆裂魔法を伝授していただけないでしょうか?」