五十七 野営地
十月二日
サシャの恢復は順調だった。まだ杖を使っていたが、足取りはしっかりしてきた。
もう日中はほとんど起きていて、寝ていた間に落ちた筋力を取り戻す鍛錬に努めていた。
その時も、彼女は椅子代わりに立てた丸太に腰を下ろし、結構重そうな農具を握って上下させることを、延々と繰り返していた。
私が顎を手で支えながら、その様子を眺めているのに気づいた彼女は、運動を中止して、額に滲んだ汗を拭った。
「見ていて面白いのか?」
彼女の問いに、私は軽く肩をすくめた。
「別に。この分なら、明日には杖なしで歩けるだろうな……と思っただけだよ。
精神の強さが肉体に影響するというのは、なかなかの見物だ」
「そうだな」
サシャは気のない返事とともに腕を上げ、自分の身体をすんすんと嗅いだ。
「私は臭くないか?」
「エルフは人間よりも五感が鋭いから、サシャの体臭は感じるよ。
臭いか? と言われると何とも言えないけど、君の匂いが不快だとは思わないな」
彼女は少し顔を曇らせて、小さな溜め息をついた。
「最後にシャワーを浴びたのは、遠い昔のような気がする。
軍隊――特に前線に放り込まれると、身体を拭くだけでも贅沢なんだ。
自分も臭いが、周りの男どもはもっと酷い。だから、あっという間に嗅覚が麻痺して、自分の腋の臭いすら分からなくなる。
兵士というのは、女には向かない職業だとつくづく思うよ」
私は軽く咳払いをした。あまりこの話題に付き合いたくなかったのだ。
「実を言うと、私はこの小屋をそろそろ離れようと思っている。
ここは農具小屋であって、住居ではないからね。偶然見つけた燕麦も、今日の分を食べたらなくなるだろう。
サシャはどうするつもりか、訊きたいんだ。原隊に復帰したいのかい?」
彼女はゆっくりと首を振った。
「私は軍人だから、戻らないという選択肢はない。逃亡罪は最悪死刑だからな。
ただ、動けるようになったからといっても、今はまだ無理だ」
「なぜ?」
「私の部隊が戦ったのは先遣隊、パッサウ市と外部の連絡を断って孤立させ、陣地を構築するのが役目だ。
あれから五日経ったということは、今ごろはおよそ十万の本隊が加わり、包囲の真っ最中だろう。
そんな状況でのこのこ出ていったら、殺してくださいと言うようなものだ。
奴らが撤退するまで、最低でもあと一週間はかかる。司令部出頭は、それからだな」
「ケルトニア軍がたった一週間で、パッサウ攻略を諦めるわけがない……と思うのだがね?」
私は当然の疑問を口にしたが、サシャは〝ふふん〟と笑った。
「何のために、私の仲間が犠牲になったと思う?」
「明らかに時間稼ぎだろう? ただ、その理由については私も疑問だった。
パッサウの防衛準備が間に合っていなかったんじゃないかな?」
「そんな馬鹿な話があるか。パッサウは帝国西部の要となる城塞都市だぞ。最低でも一年は戦える糧食を蓄え、城門は数分もあれば閉じられ、鉄壁の守備力を発揮する。
それに、西部方面軍の司令部が置かれているから、平時でも数万の兵が常駐している」
「では、援軍の到着を待っていたのかね?」
「惜しいな。援軍はとっくに到着していたんだ。
ただ、それは防衛戦のための戦力ではない。
彼らはパッサウを大きく北に迂回して、ケルトニアの伸びきった補給線を襲う遊撃軍だ。
ただ、強行軍で進出してきた関係で、彼ら自身の糧食も尽きかけていてな。最初から、パッサウで補給する計画だったんだ。
その援軍の集結地に、物資を搬出する作業が遅れていて、どうしてもあと半日の時間が必要だった。
もし我々が足止めをしなかったら、敵の先遣隊は補給の荷馬車をあっさり発見し、大量の糧食が鹵獲されただろう」
「……なるほど、そういうわけだったか」
私は納得した。実際、ケルトニア軍の進撃は急に過ぎたのだ。
彼らはこれまで、不足する糧食を〝現地調達〟(略奪)で凌いできたが、パッサウという大城塞都市の包囲戦を敢行すれば、あっという間に破綻するだろう。
当然ケルトニア側も、大量の物資を送り込んでいるだろうが、長大な補給線を防衛する戦力など、あるはずがなかった。
パッサウを迂回した遊撃軍が、補給線を分断するのは赤子の手を捻るより容易いだろう。
後方を遮断されたと気づいた本隊は、反転せざるを得ない。
しかし、背中を見せた途端に、パッサウ市に立て籠もっていた軍勢が、城門を開けて追撃に移るのは必定である。
補給を断たれた大軍が、前後を挟み撃ちにされて、勝てる道理があるだろうか。
なるほど、それならば三百人程度の兵と、一人の女魔導士を見殺しにしても、十分お釣りがくる戦果を得られるだろう。
「そういうわけだから、ケルトニアは死に物狂いで突破を図ることになる。
十二万の大軍だから、まさか全滅はしないだろうが、相当の損害を出すだろう。
パッサウの司令部に出頭するのは、それからでいい」
サシャの説明に、私はうなずいた。
こと戦争に関しては、私たちエルフよりも人間の方が経験豊富だし、その分知恵も回る。
これは、今回の旅の収穫のひとつだと言ってもよいだろう。
「だが、遊撃軍の情報を私に漏らしても大丈夫なのかい?」
「アデル殿は私の命の恩人だし、信用しているさ。
それに、上からは余人に漏らすなと命令されている。余人というのは〝他の人間〟という意味であって、人間ではないエルフは対象外だろう?」
私は苦笑した。
「とんだ屁理屈だな。まぁ、そういう事情なら、明日にでもこの小屋を出てよう。
種族的な性分で申し訳ないが、私はこうした狭い建物に閉じ込められるのは、どうにも苦手なんだよ。
今日は食材探しのついでに、よい水場のある野営地を探してみよう。
君が望むとおり、水浴びができると思うよ」
「それはありがたい」
サシャも笑顔を向けてくれた。
彼女の説明どおりなら、経過した日数から考えて、ケルトニア軍の補給線は既に分断されているはずだ。
ケルトニア軍は、あと二、三日でパッサウの包囲を解き、撤退を開始するだろう。
彼らが帝国軍の挟撃を突破して、自分たちの勢力圏まで逃れ去るには、確かに一週間はかかろう。
だが、サシャがパッサウの司令部に出頭するだけなら、それまで待つ必要はないはずだ。
私はその疑問を、サシャにぶつけることはしなかった。
彼女には、まだ私と別れたくない理由があるのだろう。
それを問い質すのは、いささか無粋に思われたのだ。
* *
十月三日
私たちは、農具小屋から十キロ以上南に離れた、小さな森の中に野営地を定めた。
サシャは私の見立てどおり、杖がなくてもどうにか歩けるようになっていたが、私は彼女を背負って移動した。その方がずっと速いからだ。
森の中には清水が湧いていて、そこを源とする小さな川は、一帯の生活用水として重宝されていた。
開発が進んだ丘陵地帯の中で、この森が伐採されずに残っていたのは、水源保護のためなのだろう。
泉の周囲には小さな草地が広がり、気持ちのよい寝床を作ることができた。
好天が続いていたので、雨除けの結界を張る必要もない。
この辺はケルトニア軍の進撃路から外れていたので、地元の農民たちも逃げていなかった。
私は焚き木集めと竈作りをサシャに頼み、近くの(と言っても十五キロはあった)農家を訪ねた。
耳さえ髪に隠してしまえば、私をエルフだと思う者はいないが、応対に出た農婦は警戒の視線を向けてきた。ケルトニア軍が攻め込んできたのだから、仕方のないことだ。
その農家で、食糧や必要な物をいくつか売ってもらった。足もとを見られて法外な額をふっかけられたが、私は愛想のよい笑みを浮かべ、言い値を払ってやった。
ちなみに現地の貨幣は、途中で寄った大きな町で、短剣を売って手に入れた。
私から見ればつまらない品だが、ドワーフ製であるから、金貨三十枚ほどになった(多分、それでも買い叩かれたのではないかと思う)。
野営地に帰ると、石で作った小さな竈に火が焚かれ、湯も湧いていた。
近くでは、農具小屋で飼っていたヤギが、のんびりと草を食んでいた。
ヤギは置き去りにしてきたが(さすがに背負ってくるわけにいかない)、私の跡を追うように誘導する、簡単な魔法をかけていたのだ。
私が出かけている間に、ヤギは無事に追いついたらしい。
私は樹の幹にもたれて眠っていたサシャの肩を、そっと揺すった。
二人は沸いていた湯で茶を淹れ、農家から手に入れたパンとバターをぱくついた。
それまでの主食は燕麦の粥であったから、ちょっと酸っぱくて固い黒パンであっても、彼女にはご馳走だったようだ。
私はその姿を微笑んで見ていたが、彼女はそれに気づいて顔を上げた。
「アデルはあまり食べないのだな。
やはり人間の食べ物は、エルフの口には合わないのか?」
「そういうわけじゃないさ。多くの食物を必要としないだけだよ」
「それで腹は減らないのか?」
「そうだね。私たちエルフは水と光があれば、体内で栄養を作ることができるんだ。
そういう意味では、植物と似ているね。私の肌をよく見てごらん。うっすらと緑がかっているだろう?」
「それは……便利だな」
「ははは、そうだろう?
だけど植物ほど完全じゃないし、夜にはその機能は働かないからね。
最低限の食事は必要なんだ」
遅い昼食を済ませると、私は食糧以外に農家から買ってきた物を広げてみせた。
「肌着と石鹸!」
サシャは目を輝かせて手を伸ばした。
「替えの下着がなくては、洗濯もままならないだろう?
農家の奥さん手製の品で、新品だそうだ。布地は古着を解いたものらしいが、まぁ我慢してくれたまえ」
「文句を言ったら罰が当たる。それに石鹸まであるとは……夢のようだ!」
「洗濯だけじゃなく、髪や身体も洗いたいだろう?
これも自家製らしくてね。レンガのような塊りを、鉈で切ってもらったんだ。
申し訳程度の香りしかついていないから、これを使うといい」
私はそう言って、自分の荷物から小さな瓶を取り出し、彼女の掌の上に乗せた。
「これは?」
「香油だよ。いくつかの花と香草を油に漬け込んだものだ。
水浴びの後でこれを数滴手に取り、髪や身体に伸ばして塗ると、少量でもよい香りがずっと続く。
君が体臭を気にしていたから、余分があることを思い出したんだ」
「いいのか?」
「もちろんだ。ただ、これは自分用に調合した物だから、私と同じ香りになってしまうよ?」
「……嬉しい!」
サシャは肌着と石鹸、そして香油の瓶を胸に掻き抱いて、ぐすぐすと泣き出した。
それまでずっと軍人口調だった彼女が、ふいに少女のような言葉を漏らしたので、私は少し慌ててしまった。
「でっ、では、私はウサギでも狩ってこよう。ぐずぐずしていると日が傾くからな。
せっかくだから、君はその間に水浴びをするといい」
私は言い訳のように早口で伝え、その場から逃げ出した。
なぜそんなに慌てなければならないのか、自分でも理解ができなかった。
* *
十月四日
この日、サシャは朝から上機嫌だった。
前日に水浴びをして、石鹸で身体を洗い、新しい肌着に着替えたことが、やはりよほど嬉しかったらしい。
朝から何度も近寄ってきて、「いい匂いがするでしょう?」と確認しては、満面の笑みを浮かべていた。
黒パンとバターに搾りたてのヤギの乳、そして昨夜の残りを温めたシチューの朝食は、そんな彼女の気分をさらに上げたらしい。
いつもは私がしている洗い物を、「私がやるわ」と言ってやってくれた。
片付けが終わり、お茶を飲んでくつろいでいると、サシャは草の上で膝を揃えて改まり、真面目な表情を浮かべた。
「散々世話になっておいて図々しいとは思うけど、アデルにお願いがあるの」
「何だい? 言ってみたまえ」
「私の魔法を見てほしいの」
「魔法と言うと、例の〝地獄の業火〟かね?」
彼女はうなずいた。
「そう。八割がた完成しているとは思うけど、まだ制御が不安定なのよ。
それと、呪文の構文にまだ無駄があるような気がするの。
今まで誰にも相談できずにいたから、第三者の公平な意見が欲しいわ。
アデルはエルフだから、私よりもずっと魔法が得意なんでしょう? どこが悪いのか、指摘してほしいのよ」
「それは私にとってもありがたい話だね。実はもう一度、間近で見てみたいと思っていたんだ。
ただ、呪文については神聖語だろうから、役に立てる自信はないな」
「ううん、それで十分よ。
それともう一つ……前に私に爆裂魔法のことを訊いたわよね?」
「ああ。だが、君は知らないと答えたね」
「それがずっと気になっていたの。
その爆裂魔法を……見せてもらえないかしら?」
「それも構わないよ。だが、この辺であれを使える場所か……。
下手な所で撃つと、地元の人に迷惑をかけるからね。
午前中のうちに、よい場所がないか、昨日の農家に訊きにいってみるよ。
魔法の実験は、午後からでもいいだろう?」
サシャはきょとんとした顔をしていた。
「ずいぶん大げさなのね。爆裂魔法って、地形を選ぶの?」
「あれは威力が強い上に、広範囲魔法だからね。使うのはいいが、後が大変なんだよ」
実際に爆裂魔法を見たことがない人間には、なかなか想像がつかないだろうから、仕方のない話だった。
この世界の文明はそこそこ発展しているが、不思議なことに火薬が存在していなかった。
エルフはその知識を持っているし、ドワーフたちは坑道の岩盤を崩す〝発破〟として、実際に使用していた。
人間たちは火薬を持たないので、爆発という概念そのものが薄い。
そんな種族に爆裂魔法を見せてもよいのか、私は慎重であるべきだった。
だが、この時の私の思考は停止していたと言ってもよい。
それよりも、変わってしまったサシャの話し方と、低く掠れた声の心地よさに、すっかり気を取られていたのだ。