十五 伏兵
「ふぅ~!」
エイナは背中を塹壕の土壁につけたまま、目を閉じ、深呼吸をした。
そしてぱちりと目を開き、意を決して梯子に足をかけ、上半身を外に出した。
手を真っ直ぐに伸ばし、もう五十メートルにまで迫っている敵兵に向ける。
突然、エイナの掌の十センチほど先に光が出現し、弾かれたように飛んでいった。
光球は敵の集団のど真ん中で巨大な閃光を放ち、すぐに光は消え去った。
強い光で目をやられた十数人の兵士が、呆然として突っ立っている。
その後ろから、判定役の士官が彼ら十数名の死亡、または重傷による戦闘不能を宣告した。
「やるじゃない、エイナ!」
エイナの隣の踏み台に上って、頭だけを出していたシルヴィアが歓声を上げた。
だが、エイナの顔に笑みはない。すでに彼女は次の攻撃のために、早口で呪文を唱えている。
守備側の塹壕からは、エイナと同様に魔法科生徒たちによる反撃が始まっていた。
実戦形式という重圧のためか、初撃はバラバラで正確に着弾させた者は六割ほどだった。
それでも、五十人近い魔導士による集中攻撃は、凄まじい威力を見せた。
攻撃側の第一軍兵士は、一気に二百人ほどが戦闘不能の判定を受けたのである。
しかし、大打撃を受けたからといって、突撃を開始した敵兵が止まるはずはない。
魔導士の攻撃魔法は確かに強力だが、一度撃つと次の魔法発動まで時間がかかる。
優れた魔導士ほど魔法の威力が強力であるのはもちろんだが、呪文詠唱の早さはそれ以上に脅威となる。
攻撃側の部隊指揮官や、鬼より怖いと恐れられる下士官たちが、兵士たちを罵倒しながら追い立てる。
「相手は半人前のひよっ子だ! 貴様ら、これ以上死体を増やしたら、今日の晩飯はないものと思え!」
防御側も黙っていない。射程は短いが連射の利く短弓で迎撃しつつ、円匙(スコップ)を握りしめて塹壕戦に備えた。
魔導士候補生たちの対応は、二つに分かれた。
ほとんどの生徒たちは、呪文を唱えつつ後方の塹壕に移動した。
白兵戦においては足手まといでしかない彼らは、安全な位置から第二撃を放ち、後続する敵を削るのが役目である。
彼らとは対照的に、七人の召喚士候補生と組んだ魔法科の者たちは、敵が迫る前に塹壕を飛び出していた。
高い攻撃力を持つ幻獣(この場合はユニのオオカミたち)と攻撃魔法、あるいは防御魔法を組み合わせ、敵に斬り込む作戦である。
エイナとシルヴィア、そしてロキも、その一員として塹壕を飛び出して走った。
ここから先は、彼女たち自身の判断で行動するのだ。
エイナたちは塹壕の最左翼に配備されていたので、誰もいない左側に迂回して敵の側面を突くことを打ち合わせ済みであった。
走りながらエイナは叫んだ。
「次、いけます!」
「よし、やって!」
エイナが足を止め、塹壕前の土塁に取り付こうとする敵兵の群れにめがけて魔法を放つ。
再び光球が直線的に飛んでいく。至近距離であり、外しようがなかった。
だが、エイナが放った魔法は、敵兵に吸い込まれていったものの、その光はふっと消えてしまった。期待した閃光は起きなかったのだ。
敵側も馬鹿ではない。
塹壕を出たエイナたちの動きは当然見えていたし、その意図も明確であった。
突撃部隊に同行していた魔導士が、対魔法障壁を展開して待ち構えていたのだ。
エイナの目に、ちらりと相手魔導士の顔が映った。去年卒業したフランコ先輩だった。
「エイナ、次の呪文の用意!」
シルヴィアはそう言い捨てるとロキの横腹の毛を掴み、身軽に飛び乗った。
「目標敵魔導士! 蹴散らすわよ!」
威勢のいい叫び声とともに、ぱんとロキの肩を叩く。
オオカミは楽しそうにひと声吼えると、矢のように敵軍へ突進していった。
シルヴィアは姿勢を低くして、その巨体にしがみついている。
彼女は全力疾走のオオカミに乗ることが、いかに恐ろしいかを知らない。だからまったく躊躇しなかった。ただ本能で動いているとしか思えない。
まるで干す前の洗濯物の水気を払うように、身体が上下に撥ね上げられ、叩きつけられる。少しでも毛並みを掴む手や、胴を挟む膝の力を緩めたら、たちまち落下して大けがを負うだろう。
おまけに身体を掠めて敵の矢がびゅんびゅんと飛んでくる。
敵軍は猛獣の突進に驚愕したが、逃げずに剣を構えたのはさすがだった。
魔導士を帯同して攻める場合、その防衛は最優先とされる。
五、六人の兵士たちが魔導士の前に出て、自分の数倍はある巨大なオオカミに立ち向かった。
そのただ中に、ロキは迷わず突っ込んだ。
同時に、シルヴィアが地面に向け、横っ飛びに転がった。
ロキの巨体が立ちはだかる兵士たちを、いとも簡単に弾き飛ばした。
薙ぎ倒され、仰向けに地面に叩きつけられた男の腹に、素早く起き上がったシルヴィアの剣が突き刺さる。
彼女はすぐさま剣を抜き、起き上がりかけた別の男のわき腹を、逆胴で切り裂いた。
そのまま三人目の男に突進して体当たりをかます。
態勢が不十分だった相手は思わずよろけ、シルヴィアの袈裟切りをまともに喰らった。
「よーし、そこの三人、全員戦死だ! 馬鹿者!」
判定役の士官が、半ば呆れたように宣告を下した。
両軍とも使用している武器は刃を潰した訓練用なので、実際には切られていない。
だが、鉄の棒で殴られるようなものだから、革鎧を着ているといっても相当に痛いはずだ。
本人は意識していないのだろうが、シルヴィアの顔には笑みが浮かんでいた。
彼女は猿のように機敏に動き、四人目の敵の剣を下から弾き飛ばした。
同時にロキに向かって叫ぶ。
「ロキ! 合流して!」
護衛役の敵兵を蹴散らしたロキは、魔導士をあっさりと噛み殺していた。
もちろん軽い甘噛みなので、人間を傷つけはしないが、噛みつくまでは本気である。
雄牛よりも巨大なオオカミが牙を剝いて襲ってくるのである。狙われた魔導士は思わず悲鳴を上げ、小便を洩らしてしまった。
「フランコ魔導士、殉職おめでとう!」
苦笑混じりの判定の声が飛んだ。
魔導士を片付けたロキは、手当たり次第に周囲の兵士たちを殺戮していった。
オオカミは巨体に似合わず俊敏で、兵士たちが振るう剣や槍は掠りもしなかった。
十人以上の死亡判定が下されたあたりで、シルヴィアから合流の命令が飛んだのである。
怒号が飛び交う戦場にあっても、オオカミの鋭い聴覚は主人の声を聞き逃さない。
ロキは横から突き出された槍を軽々とかわすと、その場から数メートルも跳躍してシルヴィアの前に降り立った。
四肢を踏ん張り、姿勢を低くして恐ろしい唸り声を立てる白いオオカミと、三つ編みにした金髪を揺らして踊るような剣技を見せる美少女である。
荒い息をつきながら、兵士たちは絵画のような組み合わせに一瞬見惚れそうになる。
だが、指揮官の怒鳴り声がすぐに現実に引き戻す。
「個別で当たるな! 密集して前衛は槍衾を形成、後衛は弓で狙い撃ちにしろ!」
訓練された兵士たちは、すぐさま指揮官の意図を理解した。
金髪の娘は明らかな囮だ。腕は立つだろうが、数人がかりで襲えば体力で圧倒できる――そう思って飛びかかれば、たちまちオオカミの餌食にされただろう。
兵士たちは素早い動きで集合し、盾を構え槍を揃えて突き出した。
統制の取れた見事な動きだったが、シルヴィアの赤い唇が引き攣り、白い歯が見えた。
「ロキ、伏せ!」
彼女はそう叫ぶなり、自分も地面に身を投げ出した。
その背中の上を、ごうという風を巻き起こしてまばゆい光が通過した。
エイナの放った特大の閃光魔法が通過したのである。
大きな光球が、密集した敵の陣形にまともにぶち当たり、巨大な閃光が爆発した。
シルヴィアたちが戦っている最左翼は、中央の本部観閲席からは相当に離れているが、そこからもはっきり見えたほど派手な光だった。
「よーし、残存二十五名、敵魔法攻撃により全員黒焦げとなった。
第一、第二小隊とも全滅だ、馬鹿者!
全員、死体置き場まで駆け足!」
判定士官が怒鳴り、首から下げた板の上の帳面に戦果を書き込んだ。
『召喚士候補生シルヴィア、魔導士候補生エイナ、及び幻獣の攻撃により、第一師団最左翼三個小隊は壊滅。両候補生の成績〝優〟』
* *
立ち上がったシルヴィアのもとに、エイナが追いついてきた。
身体中が泥だらけになったシルヴィアは、エイナに向けて親指を立ててみせた。
「いいタイミングの魔法だったわ」
息を弾ませたエイナの方は、笑顔を見せずにシルヴィアを叱りつけた。
「あんた馬鹿じゃない? 無茶し過ぎよ!」
「あら、ユニ先輩なら、このくらいはやったって聞いたわよ。ねえ、ロキ?」
ロキはきょろきょろと二人の顔を見て困っている。
「塹壕の味方部隊は、半減した敵中隊の掃討にかかっているわ。
加勢した方がいいかしら?」
エイナは周囲の状況を確認して常識的な提案をしたが、シルヴィアは即座に却下した。
「一般兵との連携は午後の訓練でやらされるわ。
今はあたしとエイナでどこまでやれるか、試すべきだと思う」
「じゃあ、どうするのよ?」
「敵の後衛を叩くの。
魔導士の大半は後衛に留まって、援護射撃に専念しているわ。
そこを横から急襲して、できるだけ魔導士の数を削りましょう。
運よく後衛を突破したら、敵司令部まで突っ込むのもありだわ」
「無茶苦茶だわ!
シルヴィア、あんたちょっと調子に乗っていない?
いくら訓練だからって、むやみに突進するのは後先考えない馬鹿のすることよ」
「あたしが馬鹿だって言うの?」
「ええ、そうよ! 少しは冷静になって。
あたしとあんたは王国の貴重な戦力なのよ。生きて帰ることをまず第一に考えましょう」
わふっ!
ロキが尻尾を振りながら、小さく吼えた。
「聞いた? ロキも賛成しているわ。
これで二対一、多数決ね」
シルヴィアは頬を膨らませながら、不承不承うなずいた。
この頃には初陣の興奮がだいぶ収まっており、もともと頭がよい彼女は、エイナの主張が正しいことを理解していたのだ。
「じゃあ、作戦変更。
敵後衛を強襲して攪乱するまでは一緒。その後は一撃離脱に徹して、敵を警戒させて戦力をこちらに引きつける。
結果として味方に対する圧力が弱くなるわ。これならどう?」
「いいわね。でも、そうなると相当の機動力がないと難しいわね」
シルヴィアは白いオオカミの首をぽんと叩き、エイナに笑いかけた。
「何言ってんの、あたしたちは三人で一つの戦力でしょ?
機動力はロキに任せましょう!」
* *
エイナとシルヴィアは、ロキの背に跨って原野の演習地を疾走していた。
オオカミは二人の娘を背に乗せても、まったく負担に感じていないように、伸び放題の下草をかき分けて走った。
演習地は特に整備がされていないから、あちこちに棘だらけの灌木の茂みがある。
ロキはその茂みを巧みに利用し、敵に見つからないように後衛部隊の側面に回り込んだ。
敵との距離は三十メートル余り、気づかれるぎりぎりの境目といえる茂みの中に獣と二人の娘が飛び込み、息を殺して身を潜めていた。
敵後衛の右翼は、弓矢(矢尻は訓練用の丸い鉛球で、当たると痛いが刺さることはない)と魔法攻撃に専念しており、側面に対する警戒などまったくしていない。
「防御魔法の展開は感じられないわ。
シルヴィアがロキと一緒に突っ込んで。
敵が気づいたところで魔法を叩き込むから、混乱に乗じて戦果を拡大してちょうだい。
相手が態勢を建て直す前に引くのよ。
お願いロキ、シルヴィアのことをよく見張ってちょうだいね!」
「失礼ね! あたしがロキに命令を下すんだから、変なことを吹き込まないでちょうだい」
「あたしはロキの方を信じるわ」
「ふん、見てなさい! あんたが泣いて土下座するような攻撃を見せてあげる」
「はいはい。土下座で済むなら何度でもしてあげるわよ。
準備はいい? こっちの呪文詠唱は終わっている。いつでもいけるわ」
「了解、派手なのを頼むわよ! 行くよ、ロキ!」
シルヴィアはロキの背に跨り、針金のようなオオカミの体毛を握りしめ、ぐっと姿勢を低くした。
だが、オオカミは動かない。
「どうしたの? あたしの命令が聞こえなかった?」
シルヴィアがぱんぱんとオオカミの肩を叩いても、ロキは姿勢を低くしたまま唸り声を上げるばかりだった。
そして、その顔は敵軍の方ではなく、彼女たちが潜む茂みの後方を向いていた。
エイナもロキの異変に気づいていた。
「シルヴィア、変だわ。
ロキが後方を警戒している」
「後方って……あたしたちは最左翼の外側から回り込んだのよ。
この左に敵がいるわけがないわ!」
だが、エイナはシルヴィアが主張する常識よりも、ロキの反応の方を信じた。
その点では、シルヴィアよりもよほど召喚士らしかった。
「落ち着いて、シルヴィア。
ひょっとしたら、敵の伏兵かもしれない。
あたしたち、裏をかこうとして罠にはまったのかもしれないわ――」
ひゅんっ!
鋭い音を立てて、エイナの頬を掠めて矢が飛び去った。まるで彼女を黙らせようとするかのようだった。
エイナのふっくらとした頬の皮膚が裂け、粟粒のような鮮血が浮かび上がり、たらりと顎まで滴った。