五十五 恢復
九月二十八日
女が意識を取り戻したのは、戦闘から二日後のことだった。
パッサウ市西側の広大な丘陵地帯は、無人の荒野と化していた。
農民たちは着の身着のままで、縁戚や知り合いを頼ったり、難民となって東部に逃げ去っていたのだ。
ケルトニア軍は、進撃速度に追いつかない補給の多くを、現地調達で補っていた。
地元民が倉庫に貯蔵してあった収穫物や、野に逃がした家畜はもちろん、これから播くはずだった種籾すら収奪された。
家屋は兵の宿所として利用されたが、面白半分に破壊や放火を受ける例は、枚挙に暇がなかった。
二日前、私が女を連れ込んだのは、放棄された農具置場だった。
粗末で狭い小屋だったが、片隅に干草が積まれていたので、彼女の寝床としては申し分ない。
ケルトニア軍が移動した後、その本隊がやってくる前に、私は帝国殿軍が全滅した地点に行ってみた。
踏み荒らされた草地は血と臓物に塗れた泥濘となり、歩くだけでぐちゃぐちゃと音を立てる。
数百の死骸が散乱しているのはよいとして、まだ息のあるケルトニアの重傷者までが放置されていた。
彼らの回収は、後続の本隊に任せるつもりなのだろう。それまでに息絶えてくれれば、無駄な治療が省けるというものだ。
私は眉を顰めながら、あの女魔導士を探した。
彼女の最期は、樹上でしっかり確認していたから、見つけるまでにそれほど時間はかからなかった。
女の死体の上には、帝国兵がかばうように折り重なっていた。
私はその男たちを脇に転がし、小柄な女の身体を抱き上げた。
血と泥で汚れた女の唇に頬を近づけても呼気は当たらず、耳の下に指を当てても脈動は感じられなかった。
もし少しでも息があれば、治癒魔法でどうにかできるかもしれない……私は一縷の望みを抱いていたが、世の中はそう都合のよいものではないようだ。
私は諦めて、彼女の身体を元どおりに横たえようとしたが、ふと妙なことに気がついた。
女が槍でめった刺しにされてから、もう二十分以上は経っている。
それにしては、彼女の身体はそれほど冷たくなかったのだ。
もちろん、生者のような温かさではないが、露出した手や顔を触っても、どこか奥底の方に温もりを感じる気がする。
私はもう一度、彼女の息と心音を確かめていた。
やはり鼻や口からの呼気は感じないし、押さえた頸動脈も動いていなかった。
しかし、私は諦めずにじっと待ってみた。
すると、本当に弱々しくはあったが、指先に〝トクン〟と反発する感触を、確かに感じ取った。
舌を出し、彼女の鼻の穴に当ててみると、微かな空気の流れがあることも分かった。
『この女は生きている』
私は確信した。
彼女は己の身体の代謝機能を極端に低下させる、何らかの魔法を使ったのだろう。
私はあまり治癒魔法が得意ではないが、巫女であり〝万能の治癒者〟の名を持つ私の姪は、その方面の専門家だった。
いつだったか、その姪から聞いたことがある。
止むを得ない理由で、その場で治療ができない場合、対象者の代謝機能を落として、仮死状態にする魔法があるそうだ。
人間に過ぎないこの女が、その魔法を使ったかどうかは分からないが、もしそうだとしたら、信じがたいことだった。
そもそも、彼女が見せた攻撃魔法も、人間の扱えるような代物ではない。
あの魔法は、火系と風系の複合魔法を結界(防御魔法)の中に閉じ込め、威力を倍増させた複合魔法だ。
しかも、この女は明らかに魔法の軌道を、自分の意思で制御していた。
そんな複雑で面倒臭い魔法は、エルフの魔法大系には存在しない。単純だが大出力の魔法で、敵を圧倒すれば済むからだ。
あれは人間の限られた魔力で、最大限の威力を発揮させるための工夫に違いない。
そうはいっても、私が目撃した攻撃魔法は、人間の限界を超えているように思えた。
攻撃の基礎となっている火系の魔法は、わずかだが爆裂魔法の要素を含んでいた。
爆裂型の魔法は威力が強すぎるとして、人間への伝授が禁じられた高等魔法のはずである。
私は取りあえず、女にできる限りの治療を施した。
これでもエルフの王である。治癒魔法が苦手というのは、他の魔法との比較の話で、実際には相当強力な術が使える。
女の出血は止まっていたから、切断された血管や組織を結合し、皮膚を再生して傷口を塞いだ。
これで見た目の上では無傷の状態に戻ったが、人の身体はそう単純なものではなく、衰弱した身体はあらゆる機能が低下していた。
彼女は血を大量に失っていたが、血を増やす魔法を私は知らなかった。
私の姪であれば、それを知っているかもしれないが、今はどうにもならない。
あとは、この女の生命力に賭けるしかない。
私は女の身体を抱きかかえ、戦場から離脱した。
ケルトニア兵や、まだ残っている地元民に見つかった場合に備え、認識阻害の魔法を使う。
スギの木の上から、よさそうな小屋を見つけていたので、そこに向かうつもりだった。
* *
「ここは……?」
女の第一声は、掠れて無音に近いものだった。
エルフの聴力がなければ、とても気づけなかっただろう。
私は膝上の本に落としていた視線を上げ、干草に仰向けで横たわっている女に目を向けた。
彼女の顔色は真っ白で、まるで血の気がなかった。
「逃げた地元民の農具小屋だよ。
ケルトニア軍は今ごろパッサウ市を包囲しているだろうから、ここは安全だ。安心したまえ」
「私は……死んだのではないのか?」
「そうだね。私が助けなければ、死んでいたはずだ」
「そうか……」
女はそうつぶやくと再び目を閉じ、眠ってしまった。
* *
九月二十九日
昼頃になって、女は再び意識を取り戻した。
いつものように女の身体を起こし、匙で少しずつヤギの乳を飲ませているところだった。
ヤギは、近くの木立に食糧を探しに行った際に偶然見つけ、小屋に連れてきたのだ。
彼女は気怠そうに目を開くと、定まらぬ視線を私に向けた。
まだ、身体を動かすことはできないようだったが、昨日より頬に赤みがさしている。
「何日……経った?」
声はまだ掠れている。唇も白く、かさかさにひび割れていた。
「三日だよ。ずっと眠ったままだった」
「そうか……。私の部隊は、どう……なった?」
「君以外、全滅だね。
私には理解できない行為だが、見事な最期だったことは認めよう」
彼女は私の答えに対し、これといった反応を見せなかった。
元より覚悟をしていた結果だったのだろう。
私に支えられて上半身を起こしていた彼女は、視線を自分の身体に向けた。
彼女をこの小屋に連れてきて寝かせた段階で、服は脱がせた。
血に染まった軍服は洗濯し、乾いたので畳んで枕元に置いてある。
上着は穴だらけだったが、あいにく針と糸を持ち合わせていないので、そのままにしている。
エルフは手先が器用で、男女を問わず裁縫が得意である。その腕前を披露できないのは、いささか残念であった。
下着の方も同じく脱がし、洗濯をして軍服の上に畳んで重ねてある。
私は彼女を裸にし、白い絹のシーツ(私の荷物だ)にくるんだ状態で寝かせていた。エルフが紡ぎ、織った布は、薄くても高い保温力があった。
今は身体を起こしているので、それが腰までずり落ちていた。
女は小柄だったが、着痩せをする性質らしく、女にしてはしっかりと筋肉のついた、よい身体をしていた。
乳房もずっしりと重そうで、それが今は露わになっている。
だが、彼女はあまり恥ずかしそうな素振りは見せなかった。
そこまで頭がはっきりしていないのと、隠そうにも身体の自由が利かないので、恥ずかしいという感情を忘れているのだろう。
彼女はそれよりも、自分の身体に傷がないことを不思議がった。
「確か、私は槍で何か所も貫かれていたはずだが……なぜ傷がないのだろう?」
「当然だよ。私が治癒魔法で治したからね。
ただ、傷は消えても身体が受けたダメージは深刻だ。正直に言って、こうして目覚めたことも奇跡に近い。
君はよほど頑丈にできているらしい。あるいは、悪運が強いと言うべきかな?」
私は笑ってみせたが、彼女の表情は強張ったままだった。
「これが治癒魔法……だと?
確かに血止めができる魔導士はざらにいる。私もその一人だ。
だが、ここまできれいに傷を消すほどの魔法など、聞いたことがない。
……お前は何者だ?」
いまだ声は弱々しく、身体は私に委ねていたが、彼女の瞳には燃えるような力強さが戻っていた。
私は肩まで伸びた黒髪を、両手でかき上げた。
後ろ向きに畳んでいた長い耳を横に広げ、ぱたぱたと上下に動かしてみせる。
「私はエルフだよ。君たち人間よりは、魔法が得意なんだ。
君も魔導士なら、人間に魔法を教えたのがエルフだと聞いたことがあるだろう?」
彼女は目を大きく瞠ったが、やがて納得したように、瞳から力を抜いた。
「そうか……道理でな。
エルフには初めて会った。確かに私は悪運がいいらしい」
私はヤギの乳の入った椀を彼女の唇につけ、残りを全部飲ませた。
匙でちまちま飲ませるのは時間がかかるから、意識が回復したことは喜ばしい。
「まだ身体が衰弱している。夕方まで眠った方がいいだろう。
それまでに何か食べられる物を用意しておこう」
私はそう言って彼女を干草の上に横たえ、シーツを首のあたりまで引き上げた。
彼女は仰向けのまま、私の目をまっすぐに見詰めていた。
「すまん……いや、ありがとう。
私はサシャ・オブライエン。帝国軍の魔導少尉だ。
エルフ殿のお名前をお聞かせ願いたい」
「さて、困ったな。名を明かすのは別に構わないが、エルフ語は人間には聞き取れないし、発音もできないだろうね」
「そうか。だが、名前がなくては話がしづらい。
もし失礼でなければ、私が仮に名付けてもよいだろうか?」
「ああ、願ってもないことだ」
「そうだな……」
彼女は少し考え、口を開いた。
「では、あなたのことをアデルと呼ばせてもらおう」
「アデル……か。ふむ、よいだろう。何か由来がある名前なのかね?」
「ああ、〝高貴な〟とか、そんな意味だったかと思う。
私は卑しい身分の出で、王侯貴族を仰ぎ見た経験すらない。
だが、あなたは……笑うなよ? 私が思い浮かべる、高貴な方々の姿に近い。子どものころに見た、絵本に出てくる王子様というやつだ」
「そうか。もし、私がエルフの王だと言ったら、どうするね?」
「ははは、エルフの王がこんな田舎をうろついているものか。
とにかくアデル殿、助けていただいて感謝している。この身に代えても、恩は返すと誓わせてもらおう」
「そんなことは元気になってから考えるものだ。
喋り過ぎだよ。もう眠りなさい」
「はい」
サシャは素直にうなずき、目を閉じた。唇の端が少し上がっていたことに、私は気づいていた。
* *
その日の夕方、私はサシャを起こして夕食を与えた。
午後に仕留めたウサギの肉と、強壮効果のある薬草をヤギ乳で煮込んだシチューである。
幸いなことに、小屋の中で燕麦の入った袋を見つけたので、それも入れて粥風に仕上げた。
三日間、固形物を口にしていなかったサシャは、旺盛な食欲を見せた。
私は彼女の不自由な身体を支え、食事の介助をしていたが、サシャはどうにか右手で匙を持てるようになっていた。
食事を終え、身体が温まった彼女は、満足そうに溜め息をついた。
私はサシャに眠るよう促したが、彼女は少し顔を赤らめ、もじもじとした。
不思議そうな顔をする私に、彼女は思い切ったように打ち明けた。
「その……用を足したいのだが」
なるほど、そういうことだったのか。私は納得した。
「だが、まだ歩けないだろう?
別に構わないから、そのまますればいい」
「そんなことができるか!」
彼女は頬を染め、大きな声を出した。
大声が出せるというのは、順調に恢復してきたという証拠で、実に喜ばしい。
「いや、待て!
私はその……何を穿いているのだ?」
彼女は身体をよじって寝返りを打ち、巻かれたシーツから逃れ出た。
少し浅黒い肌のサシャは、ほとんど裸であったが、その股間には下帯が巻いてあった。
「ななななっ、何だ、これは!?」
「何って、見たことないのか? おしめだよ。
人間も赤ん坊に使っていると聞いたが、違うのか?」
「いや、それはそうだが……」
何か言いかけたサシャは、そこでハッと気づいたようだった。
人間はたとえ絶食していたとしても、必ず排泄をする。
身体から水分を絞り出してでも尿を出さなければ、尿毒症に陥ってしまうのだ。
彼女は三日間のほとんどを眠っていたが、私は定期的にヤギの乳を飲ませていた。
当然、寝たまま排尿したし、腸内に残っていた便も出した。
私はおしめが濡れるたびに取り替え、洗濯をして小屋の中に干していた。
ちなみに、おしめは私の着替えを裂いて作ったものだ。
それは快適な作業とは言いづらいが、生理現象であるから、私はあまり気にしなかった。
だが彼女は、なかなかその事実を受け入れることができなかった。
「つっ、つまり、アデル殿はその、これを替えてくれたのか?」
「無論だ。仕方がないだろう? あまり気にするな」
「そっ、それはつまり、その……見たのか?」
「まぁ、そうだな。
私はまだ妻帯していないから、子育ての経験がないのだが、何度かやれば馴れるものだね。
汚れた身体は、ちゃんとぬるま湯で絞った布で、その都度きれいに拭いたから、あまり匂わないだろう?」
「ふふふふ、拭いたのか!」
「赤ん坊みたいに湯に入れて洗うわけにもいかんから、文句を言うのは贅沢というものだぞ?
その代わり、念を入れて丁寧にやったつもりだよ」
「!!!!!」
* *
その後、サシャは自分を背負って外に出るよう私に強要し、どうにか一人で排泄を済ませた。
つけていたおしめも外させ、私がいつものようにそれを洗おうとすると、断固として拒絶した。
『明日には絶対に動けるようになるから自分で洗う』と言って譲らなかったのだ。
私はサシャの剣幕に圧され、思わずうなずいてしまったが、納得していなかった。
身体がまだ不自由なのだから、おしめの方が絶対に楽なはずだし、汚れ物は早く洗った方がいいに決まっている。
『どう考えても、合理的ではないぞ!』
私は安定した寝息を立てているサシャの寝顔を見ながら、内心で抗議せざるを得なかった。