五十四 殿軍
パッサウ市に向かって退却している帝国軍は、五千人を切るまで減少していた。
これを全力で追撃するケルトニア軍は八千人、その先頭を走る騎馬隊は三百騎ほどであった。
残りの二万人余は陣容を整え直し、通常の進軍速度でその後を追う。
本隊には足の遅い工兵隊や輜重隊、役目を終えた弓兵隊(疲労で継戦不能)などを含んでいるからである。
そうでなくても、逃げる敵を追撃するのに大兵力は不要なのだ。
帝国軍は先行しているものの徒歩である。騎馬隊が捉えるのは時間の問題であり、戦闘が始まれば後続の歩兵もすぐに追いつくだろう。
こうした場合、退却する側は殿軍が追撃を食い止め、味方を逃がすのが常道である。
私の予想どおり、帝国軍はこの殿軍を残していた。
殿軍は時間稼ぎが目的であって、生還できないことを覚悟しなければ務まらない。
私は感心せざるを得なかった。最初の陣地戦でもそうだったが、なぜ彼らは死を恐れずに、こうまで規律を保っていられるのだろうか?
エルフであるという身分を隠し、帝国領に入り込むのは面倒だったが、私は来てよかったと考えている。
少なくとも、私の人間観はかなり変わったような気がする。
* *
踏み荒らされた牧草地に留まっていたのは、およそ二百人の帝国兵であった。
彼らは大きな盾を構えた兵を前列に並べ、円周防御の態勢を取っていた。
盾はこのために用意されていたのだろう、帝国兵の標準装備とは全く別物であった。
全金属製で、下部に長い爪が付いており、それを地面に突き刺して固定している。ケルトニアの重装歩兵の盾と似たような感じであった。
追撃軍の先頭を走る騎馬隊は、半数を左右に分けて、この殿軍を迂回する動きを見せた。
相手は二個大隊程度の寡兵で、カメのように首をすくめているのだ。騎馬隊全軍で相手にする必要がないと判断するのは、至極当然であった。
だが、帝国兵たちはただの置物ではなかった。
自分たちの脇をすり抜けていこうとする騎馬隊に対し、円陣からの一斉射撃が始まったのだ。
地面に片膝をついた弓兵たちが、並んだ盾の隙間から続けざまに矢を放つ。
私の視力は、彼らが持つ奇妙な武器の姿を捉えていた。
一般兵が持つ携帯弩に比べて一回り大きく、上部に長方形の箱のようなものが付いている。
弓兵たちはろくに狙いもつけずに矢を放つと、大型の取っ手を手前に倒し、すぐに次の矢を発射した。
取っ手は、張力の高い弦を引くための装置だと分かったが、矢をつがえる動作がないのが不思議だった。
後で知ったのだが、これは連弩と呼ばれるものだった。上についている箱に矢が入れられており、自動的に装填される仕組みだ。
弩は強力だが、発射速度が遅いという欠点がある。これを補うための工夫らしいが、これにも感心させられた。
ケルトニアのロングボウには、一方的に叩かれていた帝国軍であるが、中・近距離で集団運用される弩は、強力な打撃力となる。
相手は騎馬兵だから、別に人間を狙う必要はない。的の大きな馬に当たれば落馬は必至で、巨大な軍馬は凶器に変わる。
馬さえ倒せば、騎兵は簡単に無力化できるのだ。
左右に分かれた騎馬隊の指揮官は、大きな弧を描いて回頭し、本隊に合流した。
強引に突破を計れば、無防備な横腹や背中に攻撃が集中し、とんでもない損害を被るから、これは当然の判断である。
小賢しい抵抗を見せる敵を一気に殲滅する。騎馬隊はそう覚悟を決め、突撃態勢を取った。
正面からの攻撃でも損害は免れないが、前面投影面積は最小となる。
一トンに近い体重の軍馬が突進すれば、いかに頑丈な盾を構えようとも無意味である。
いったん距離を取った騎馬隊は、楔形となって馬の尻に鞭をくれた。
蹄が一斉に土を蹴って、腹に響く重低音が轟きわたり、騎兵たちは槍を構えて雄叫びを上げた。
全力突撃を敢行する騎馬隊に対し、帝国兵たちはなぜか矢を射たなかった。
その代わり、予想外のことが起きた。
騎馬隊の進路に、突如として炎の壁が出現したのだ。
本来、馬は臆病な動物である。いくら障害物を恐れず踏み潰すよう訓練されていても、相手が火となると話は違う。
馬たちは甲高い嘶きを上げ、棹立ちとなった。
止まろうにも勢いがついているから、壁の直前でつんのめるように倒れ、騎手を炎に向けて吹っ飛ばした。
そこに後続の騎馬が突っ込み、突撃の先頭は大混乱となった。
しかも、炎の壁を突き破って帝国軍の矢が飛んできた。
隊の指揮官は暴れる馬をどうにか抑え込み、生き残った部下をまとめて後退させるしかなかった。
帝国軍はしたたかだった。彼らは殿軍の中に魔導士を残していたのだ。
炎の壁は、時間稼ぎのコケ脅しに過ぎないと露見していたが、こと騎馬隊に対しては、極めて有効だと見越していたのだ。
これでは騎馬隊の突入は不可能である。
指揮官は止むなく後退し、円陣から距離を取った。
だが、ここで幸いなことに、後続の歩兵が追いついてきた。
歩兵たちは騎馬隊の失態を目撃していた。
彼らは仲間の復讐を誓い、槍を構え、喚きながら突入していく。
当然のように、帝国軍の円陣からは矢が飛んできた。
彼らは敵を追うため、盾を捨てていた。帝国の矢は次々に放たれ、どれも面白いように当たった。
ただし、帝国の弓兵は百に満たない数である。殺到する数千の敵を、すべて倒すなど不可能であった。
ケルトニア軍は味方がどれだけ斃されても、怯むことなく突撃した。
その目の前に、待っていたように炎の壁が出現した。
だが、彼らは馬ではない。恐れずに目を閉じ、息を止めて飛び込めば、容易に突破できると知っていたのだ。
「同じ手がいつまでも通用すると思うな!」
ケルトニア歩兵は嘲笑い、次々に炎に突っ込んでいった。
* *
「あ~あ」
私は思わず嘆声を洩らすと同時に、目を閉じて首を振った。
この戦いに感心するのは、これで何度目だろうか?
その一方で、私は帝国軍の作戦立案者に不満を覚えていた。
帝国軍が炎の壁を利用して、騎馬隊の突撃を阻止したのは見事だった。
彼らはろくな攻撃魔法を持たない魔導士を、創意工夫によって存分に活用してみせた。
それはいいが、帝国にとって魔導士は希少で、替えの利かない存在のはずだ。
殿軍にその魔導士を十人近く残したということは、彼らをここで失うことを意味している。
いくら五千に近い本隊を救うためとはいえ、あまりに近視眼的な作戦ではなかろうか。
そう思っていたのだが、人間の知恵は私の浅はかな思慮を上回っていた。
私は高いスギの梢近くから、猛禽類に匹敵する視力で、戦場を俯瞰するように眺めていた。
したがって、帝国の魔導士たちが出現させた炎の壁の違いに、ひと目で気づいていた。
これまでの炎の壁は一枚だったのが、今回に限っては〝五枚重ね〟だったのだ。
思えば最初の戦いでは、多数の魔導士が協同して、数百メートルに及ぶ長大な壁を現出させていた。
それは、総兵力三万の敵と対峙するのに必要な措置だった。壁が短ければ、回り込めばいいだけの話だからだ。
一方、この撤退戦で騎馬隊に対して使用した壁は、三十メートルほどの長さしかなかった。
楔形陣形で突入してきた騎馬隊を遮るだけだから、長い壁は不要であることは分かる。
だが、そうだとしたら、十人もの魔導士を殿軍に残す必要はないはずだ。
ところが、帝国の魔導士たちは、ここで初めて多重壁を展開したのだ。
すなわち、一枚の壁(恐らく二人がかり)の後ろに、三十センチほどの距離を空けて次の壁を作る。これを繰り返して五重の壁を構成すれば、その厚みは五メートルを超える。
当然、炎を目の前にしたケルトニア兵が、そんなことに気づくはずもない。
彼らは〝壁は一枚で、厚みは一メートル〟という固定観念に囚われていたのだ。
そこに勢いよく突っ込んでしまった者たちの運命は、推して知るべしである。
一瞬で抜けるはずの炎の先には、また次の炎が待ち受けていた。
歩兵たちは、たちまち炎に包まれた。熱さと苦しさに絶叫しようにも、口を開けば気管に数百度に熱せられた空気が入り込み、喉から肺胞までが焼け爛れた。
悲鳴を上げることも許されない兵たちは、炎の中で死の踊りを舞い、次々に斃れていった。
後続の者たちが、どうも様子がおかしいと気づいた時には、百人を超える兵士が焼死した後だった。
壁の長さは三十メートル足らずなのだから、最初から回り込めばいいだけの話だったのだ。
そして、この数分間の悲喜劇の間に、帝国側の円陣が崩れた。
後方の盾の列が扉のように開き、円陣の中から騎馬の群れが飛び出したのだ。
私は樹上で思わず背筋を伸ばし、眉根を寄せて目を凝らした。
円陣から駆けだしたのは九騎。馬上の人物は、ほかの帝国兵とは異なり、肩から黒いハーフマントを靡かせていた。
なるほど、殿軍の中にはあらかじめ馬が用意されており、ケルトニアの混乱に乗じて魔導士を逃がしたのだ。
帝国軍は極めて合理的な軍だということを、今さらのように思い知らされる。
もちろん、ケルトニア軍も黙っているわけがない。
歩兵たちの多くは、弓と矢筒を背負っていた(ロングボウではない普通の弓)。
筒に入った矢は十本足らずだったが、彼らはそれを引き絞って、走り去る魔導士たちに向け、てんでに射ちまくった。
だが、魔導士たちはすでにかなりの距離を稼いでいた。
そのため、ケルトニアの矢はほとんどが届かず、わずかに一本だけが、最後尾を走る魔導士の背中に突き刺さった。
その魔導士は馬上で大きくぐらついたが、落馬はどうにか免れ、背中に矢を突き立てたまま、仲間の後を追って走り去ってしまった。
ケルトニア軍も、逃走したのが魔導士だということに気づいていた。
不覚にも逃がしてしまったが、逆に言えば、もう炎の壁は出現しないということだ。
そのため、いったんは下がった騎馬隊が、再び突入の態勢に入った。
ところが、騎馬の一団が帝国の円陣にあとわずかの距離まで迫ると、またしても地面から炎が吹き上がった。
つまり、魔導士隊の中にも殿軍を命じられ、残った者がいたということだった。
さすがにケルトニア側も最初から警戒しており、同じ手は喰わなかった。
騎馬隊を率いる隊長は、炎の壁の直前で馬の方向を変え、鮮やかな手際で部下たちを回頭させた。
撤退した騎馬隊に替わり、再び歩兵隊が殺到する。
すれ違いざまに馬上の隊長が怒鳴った。
「敵の魔導士は恐らく一人だ! 今度こそ壁は一枚、薄いぞ!」
その言葉は、歩兵たちを勇気づけた。
帝国の円陣から矢が飛んでこなくなったのも、彼らの勢いを増した。
矢を射ち尽くしたか、迂回を試みる騎馬隊を妨げるために残しているのか、どちらかなのだろう。
歩兵たちは槍を振りかざして吶喊した。
帝国の円陣は、分厚い大型金属盾を地面に喰い込ませて備えている。あれに槍を突き入れても、ほとんどダメージは与えられまい。
ケルトニア軍は長柄の槍で襲いかかった。
それを槍と呼んでよいのか、いささか疑問が生じるところである。
長さは三メートルを超し、その端には丸い金属球がついていた。
槍というよりも、棒と呼んだ方が正確かもしれない。
歩兵たちはその長い棒を振り上げ、渾身の力を込めて叩き下ろした。
棒はよくしなり、反動で勢いのついた先端の鉄球が、帝国守備兵の頭上を襲った。
盾を構える守備兵は、一般兵のような革兜ではなく、面頬のついた金属製の兜を装着していた。
それなのに、振り下ろされた鉄球は、ぐしゃりと兜を陥没させた。
狙いが外れて、棒が肩や腕に当たることも多かったが、守備兵は革鎧しか装着していない。
骨が砕ける鈍い音が響き、苦悶の声があちこちから湧き上がった。
兜ごと頭蓋を叩き割られ、即死した兵は幸せだったのかもしれない。
ケルトニア兵は、長柄の槍で滅茶苦茶に叩き続けた。
あっという間に守備兵の隊列は崩れ、地面に喰い込ませた盾だけが残った。
そこへ、普通の槍を構えた歩兵が突入する。
盾を蹴り倒し、立っている者は見境なく突き殺した。倒れている者は容赦なく踏みつけた。
帝国側も槍を突き出し、剣を抜いて躍りかかってきたが、人数と勢いの差が圧倒的であった。
帝国兵たちは人の波に呑み込まれ、次々に斃れていった。
彼らは知略を尽くし、自分たちとほぼ同数のケルトニア兵を道連れにした。
必要な時間を稼ぎ、仲間の大部分の命を救ったのだ。
殿軍の兵士たちは、定められた運命に従うしかなかった。次は殺される番だった。
* *
私は感慨を抱きながら、帝国軍の円陣が崩壊し、ケルトニア軍に吞まれていくさまを眺めていた。
彼らの本隊は、もう数キロ先に逃れており、私の視力でも土埃しか見えなくなっていた。
この撤退戦は、本当によく練られていたから、彼らが撤退した先には、馬や馬車といった移動手段が用意されているに違いない。
視線を元に戻すと、二百人ほどいた帝国の殿軍は、ほぼ制圧されていた。
傭兵が主体のケルトニア兵たちは、伝統的に捕虜を取らない。敵兵は例え降伏したとしても、無造作に殺すのが彼らのやり方であった。
帝国兵でまだ立っていたのは、わずか十数人の集団だけだった。
彼らは少人数で円陣を組み、最後の抵抗を続けていた。
ケルトニア兵は下卑た笑い声を上げながら、いたぶるように槍を突き入れ、一人、またひとりと、愉しみながら敵を殺していく。
仲間が斃れても、帝国兵たちは円陣を崩さない。普通なら一か八かで相手に挑みかかり、一人でも道連れにしようとするものだが、彼らは誰かを必至で守ろうとしているようだった。
私は目を凝らした。戦いの決着はついたが、彼らの行動に興味を抱いたのだ。
やがて、ようやく帝国兵たちの意図が読めてきた。
彼らが円陣の中央に入れて守っているのは、小柄な女性兵であった。
肩から黒いハーフマントを垂らしているのが垣間見えたから、一人だけ残された魔導士なのだろう。
ケルトニア兵たちも、それに気づいたようだった。
女がいるのならば、それは一級の戦利品である。生け捕りにして、死ぬまで犯し尽くすべきだ。
今夜の野営では、この女の前に長い行列ができることだろう。
そうとなれば、邪魔をする帝国兵たちと遊んでいる場合ではない。さっさと殺して、女を縛り上げねばならない。
ケルトニア兵たちは憐れな犠牲者を取り囲み、槍を持つ手に力をこめた。
その時である、帝国兵の円陣から、白い光が爆ぜた。
「明かり魔法……いや、マジックアローか?」
私にはその光が魔法によるものだと、直感的に理解できた。
男たちに守られている女魔導士が、最後の抵抗として敵を攻撃しようとしたのだろうか?
白い光は、魔導士の頭上から、放物線を描いて飛び出した。
そして、まるで意思があるかのように、空中でふらふらと左右に揺れ動いた。
わずかな間を置いてから、その光はケルトニア兵が最も密集している場所を見つけ、そこに吸い込まれていった。
次の瞬間、信じがたいことが起きた。
白い小さな光が突然爆発を起こし、巨大な炎の渦を発生させたのだ。
しかも、それは直径十メートルを超す、半球状の結界に閉じ込められていた。
炎の龍は白橙色に輝き、結界内部で縦横に暴れ狂った。
炎の壁とは段違いのエネルギーである。恐らくあの中は、数千度の灼熱地獄と化しているだろう。
結界に取り込まれた兵の数はよく分からなかったが、少なくとも五十人を超していただろう。
荒れ狂う炎は、わずか十秒足らずで忽然と消え失せたが、焼け焦げた地面には、真っ白な骨の破片だけが残されていた。
装備も肉体も焼け、溶け、蒸発し、周囲には吐き気を催す悪臭が漂った。
突然の惨劇に、ケルトニア兵たちは呆然とするばかりであった。
だが、すぐに彼らの脳内で、帝国の魔導士が放った白い光と、あの恐ろしい爆発とが、因果関係として結びついた。
ご親切なことに、帝国の女魔導士はその検証を手伝ってくれた。
再び彼女の頭上から白い光が放り出され、今度は迷うことなくケルトニア兵の集団に飛び込んだのだ。
そして、先ほどと寸分違わぬ大爆発が起き、炎の龍が結界の内部で暴れまわり、またしても五十人余の命が奪われた。
もう疑う余地はなかった。
あれはただの女ではない、恐ろしい〝魔女〟だ!
生け捕って犯すなど、とんでもない話だ。膣に牙が生えていて、挿れた瞬間に男根が喰いちぎられるに決まっている。
ケルトニア兵たちは、傭兵としての経験を積んだ強者揃いだった。その判断はすばやい。
彼らは怒号を上げ、三度目の悲劇が起きる前に、一斉に槍を円陣に突き入れた。
十人程の帝国兵は、あっさりと殺された。
小柄な女魔導士も、全身を穴だらけにされ、悲鳴を上げる暇もなく絶命した。
かくして、帝国の殿軍は運命に従い、全滅したのである。
見物をしていた私は、樹上で呆然としていた。
「何なのだ? あの魔法は……!」