五十三 戦場
九月二十六日
夏の名残りの生温い風が、なだらかな丘陵地帯を吹き渡っていた。
この辺りはそう豊かな土壌ではないので、半農半畜が主体となっている。
比較的条件のよい土地は畑に、それ以外は牧草地として、ヒツジやヤギを放牧しているのだ。
古くから開発された地域なので、ある程度規模の大きな森は伐り尽くされ、平地へと変わっている(エルフとしては、大いに不満である)。
だから、その小高い丘に立つ三本のスギは、周囲からもよく目立っていた。
土地の者からは〝三本杉〟という、情緒に欠ける名で呼ばれているそれは、いずれ劣らぬ巨木である。
特に真ん中の樹は際立って大きく、樹高三十メートルに近かった。
そのスギの梢近くで、私は幹に背を預け、枝に足を伸ばしていた。
枝は風にゆっくりと揺られていたが、樹上生活者であるエルフにとっては、どうということもない。
揺り籠のような心地よさに、私は目を閉じ、うとうととしていた。
だが、ふいに私の長く尖った耳が、ぴくりと動いた。
四、五キロほど離れた戦場から、風に乗って鬨の声が聞こえてきたのだ。
私は目蓋を上げ、遠くに小さく見える人間たちの陣形に焦点を合わせた。
エルフはその長く大きな耳から、聴力に勝れていることが知られているが、実はそれ以上に視力がよい。
私たちは生まれついての狩猟民であるから、当然ともいえる。
人間の兵たちはよく訓練されているらしく、整った陣形で対峙していた。
西側の軍は、正方形のタイル状に整列した部隊を一定の間隔で展開し、大きな弧を描いている。
鶴翼の陣と呼ばれる構えである。
一方、東側の軍は比較的密集しており、何重にも張り巡らせた馬防柵や土塁の陰に塹壕を掘り、じっと身を伏せていた。
西が攻める側、東が陣地に籠って防衛に徹する構えであるのは明らかだった。
「それにしても戦力差が絶望的だな……」
どうにも不思議であった。
西から攻めるケルトニアの軍勢は、恐らく三万人を超えているだろう。
あちこちで集めた情報によれば、同軍の規模は十二万人程度と推測された。
ということは、いま目にしている部隊は先遣隊のようなものだろう。
これに対し、防衛する側の帝国軍は、どう見ても一万に届かない。せいぜい八千人といったところか。
攻める側の方が多勢なのは戦争の常道ではあるが、この差はどう見たらよいのだろう?
帝国側の遥か後方には、パッサウ市の大城壁が、小さく霞んだ姿を見せていた。
距離にして、およそ十五キロといったところだ。
あの都市は、帝国西部の中心となる要衝である。少なくとも、十万以上の兵力は有しているはずである。
敵を迎え撃とうというのに、これしか兵を出せないということはないだろう。
「ひょっとして、捨て駒なのか?」
私の頭に、そんな推測が浮かんだ。
ケルトニア軍が帝国領に攻め込んで以来、彼らの進撃は驚くほど速かった。
帝国軍も、これほど早くパッサウ市近郊に迫られるとは、思っていなかったのかもしれない。
兵員や戦闘に要する物資の集積か、各城門の強化工事の進捗か(あるいはその両方か)が、間に合っていない可能性は考えられる。
とにかく、いま城塞都市を攻められると困る、何らかの事情があるのだろう。
そのために、〝戦力の小出し〟という愚を承知で、時間稼ぎをする必要があるのかもしれない。
いくら何でも、相手の戦力や戦術を測る程度の意図で、師団規模の兵力を犠牲にするほど、帝国も馬鹿ではあるまい。
いずれにしろ、圧倒的な戦力を相手にして、摺り潰される運命にある兵こそ憐れである。
* *
開戦を告げる鬨の声に続いて、西側から一斉に矢が放たれた。
ケルトニア軍が誇るロングボウ部隊だ。
畑を集団で襲うイナゴの群れが飛び立ったように、黒い矢の塊りが放物線を描いて宙を舞う。
ケルトニアのロングボウは、かなり強力な武器だ。
射程は四百メートルを超え、上空から降り注ぐ太い矢の貫通力は凄まじい。
帝国軍は盾や戸板、葭簀を巻いた束など、手に入り得るあらゆる物を頭上に掲げ、これを防ごうとしたが、ほとんど意味を為さなかった。
ロングボウの矢は、厚い金属盾すら易々と射抜くのである。
伝統的に機動戦を重視する帝国兵士が装備する、軽量の盾(木製に革を張ったもの)など役に立つはずがなかった。
帝国軍の陣地周辺が一瞬で針の山に変わり、射貫かれた兵士の絶叫が、私のいるスギの梢にまで聞こえてきた。
だが、これは試射に過ぎない。
ケルトニアの観測兵が即座に修正の指示を出し、射手たちは次の斉射にかかる。
狙いはより正確となり、帝国の犠牲はどんどん増えていく。
帝国側も応射するのだが、その攻撃は散発的な上に、ケルトニア軍にまで届かない。
帝国兵が装備しているのは、携帯型の弩である。
これは中・近距離では恐ろしい威力を発揮するが、ロングボウとは射程が比較にならなかった。
携帯用ではない大型の弩であれば、射程も威力もケルトニアに対抗できるのであるが、矢の装填に時間がかかるという欠点を持っていた。
もし、私がいま観戦している帝国軍に、こうした弩の専門部隊がいたとしても、最初の斉射を行った次の瞬間には、ロングボウの集中射撃を喰らって全滅していたことだろう。
私たちエルフも弓を得意とするが、この射程と威力という点では、ロングボウに及ばないと認めなければなるまい。
ケルトニア軍の射撃は、一時間近くにわたって続いた。ロングボウは引くだけでかなりの筋力を必要とするから、この辺が限界であろう。
帝国軍の陣地周辺の地面には、万を超す数の矢が突き刺さり、足の踏み場もないほどだった。
犠牲者の数は夥しく、彼らの総兵力の三分の一は失われたように思われた。
この一方的な殺戮が長時間続いたにもかかわらず、帝国軍が崩壊しなかったのは驚きだった。
その要因はすぐに理解できた。指揮官たちが健在であったからだ。
彼らの頭上に降り注ぐ矢の雨は、目に見えない傘によって、ことごとく弾き飛ばされていたのだ。
そこには防御魔法による結界が展開されおり、すなわち魔導士が存在しているということだった。
私が帝国軍の戦いを見てみたいと思ったのは、実にこの点にある。
帝国軍は、他国にさきがけて軍組織に魔導士を組み込んでいた。
私は人間が戦争において、魔導士をどのように運用しているかを、この目で確かめたかったのだ。
人間の魔力はたかが知れているし、使える魔法も限られている。エルフと違って誰でも魔法を扱えるわけでもない。
そうした制限のある中で、彼らがどんな工夫をしているのか、実に興味深いではないか。
弓矢による遠距離戦が展開されている現状では、帝国の魔導士たちが防御に徹しているのは納得できる。
驚いたのは、魔導士たちが守っているのは指揮系統そのもので、それ以外の兵士たちの命には目もくれないことだった。
人間の魔力では、全軍を保護できる規模の結界を張ることは、とてもできない相談である。
だから帝国軍は、平等であるべき命に優劣をつけたのだ。
これは、私たちエルフにはない発想だった。
そして、もう一つ驚いたことは、この〝命の差別〟を、帝国軍の兵士たちが粛々と受け入れていることだった。
誰だって死の恐怖に晒されれば、自分だけは助かりたいと望むものだ。
人間という未成熟の種族であれば、防御結界に入れてもらおうと殺到し、恐慌が起きそうなものだが、現実は違っていたのだ。
これは、私の人間に対する認識を、大幅に修正する必要がありそうだった。
なおも観察を続けると、帝国軍の指揮官すべてが、魔導士の庇護下に入っているわけではないことが分かった。
結界で守られているのは、大隊長クラスの高級将校に限られ、中隊長や小隊長といった、現場に即した指揮官たちは、兵とともにロングボウの的となっていたのだ。
当然、それら中級以下の指揮官たちは、平等に命を落としていった。
しかし、中隊長が斃れると小隊長がその任を継ぎ、小隊長が死ねば下士官が指揮を執った。
指揮官たちは部隊の掌握を絶対に離さず、塹壕に身を潜めながら、ひたすら兵とともに耐え続けていた。
弓隊の射撃が終了する前に、ケルトニア軍の本隊が前進を開始した。
帝国軍があちこちに木組みの馬防柵を設置していることもあって、常道である騎馬隊による突撃は行われなかった。
ケルトニア軍は巨大な盾を構え、全身を金属鎧で覆った重装歩兵を前面に押し出し、じりじりと距離を詰めてきたのだ。
やや古臭い戦術であったが、この場合においては有効であった。
最前列の重装歩兵の大型盾は、通常の金属盾より遥かに分厚く、帝国兵の携帯弩の矢を通さなかった。
二列目、三列目の重装歩兵は柄の長い槍を抱え、前列の盾の隙間から切っ先を突き出し、槍衾を形成していた。
重装歩兵の後ろには、戦場の命知らずと呼ばれる工兵隊が随伴していた。
彼らは馬防柵にぶつかると、鉤のついたロープを投げて柵を引きずり込み、掛矢(大型の木槌)で叩き壊した。
こうして敵陣に迫り、土塁に達した瞬間、後続の歩兵たちが塹壕に突入する作戦である。
四倍近い兵力を誇るケルトニア軍に、負ける要素はなかった。
私は好奇心を抱きながら、ことの成り行きを見守っていた。
両軍の距離は三十メートルを切ろうとしており、ロングボウ部隊の射撃はすでに止んでいた。
魔導士が防御から攻撃に転じてもよいころである。
私の知る限り、人間は強力な攻撃魔法を持っていないはずである。
私たちの祖先は、人間がこの世界で唯一、知性と理性を持った種族であることを認め、魔法を伝えた。
しかし、同時に人間は仲間同士で容易に争い、戦争という組織的な殺し合いを始める〝蛮性〟を持っていることにも気づいていた。
そのため、祖先たちは人間に、自分の身を守る程度の初歩的な攻撃魔法しか与えなかったのだ。
「確か、人間が持つ攻撃魔法といえば、〝マジックアロー〟くらいのものだ。
あれを使うくらいなら、普通に弓矢を射た方がよほど役立つからなぁ……」
その時である。ケルトニア軍の前に、突如として|炎の壁が出現した。
高さ三メートルほど、幅は三百メートルに及ぶ前線のほとんどを、遮るような広がり方である。
「なるほど……」
私はうなずいた。炎を出す魔法はごく初歩的なもので、当然人間にも伝授されている。
炎で壁を作ってしまえば、敵の進軍を阻止することができる理屈である。
ただ、これだけの規模の炎の壁を、一人の魔導士の魔力で維持できるはずがない。
恐らく、何人もの魔導士が連携し、一斉に壁を築いたということなのだろう。
あの炎の壁を操作して敵を包み込めたなら、立派な攻撃魔法になるのだが、さすがにそこまではできないらしい。
その代わり、単に一定の範囲に炎を出現させるだけなら、大した魔力は消費しないという利点がある。
「惜しむらくは、壁の厚みと火力が足りないなぁ……」
私はそう独り言を洩らした。
ここから見る限りでは、あの炎は焚火とさして変わらない。温度は三百~四百度といったところだろう。どう考えても威力不足だ。
炎系の攻撃魔法が多用されるのは、熱に上限がないからである。
エルフが使用する魔法では、一千度を超える高熱を発生させるのが常識なのだ。
しかもあの炎の壁は、厚みが一メートル余りしかないように見える。
あれなら思い切って突っ込めば、火傷もせずに抜けられそうだ。
もっとも、私はこうして木の上から俯瞰しているから、そんなことが言えるのだろう。
実際、ケルトニア軍は大いに混乱して、炎の壁から距離を取って進軍を停止してしまった。
彼らのほとんどは、魔法を初めて見たのではなかろうか。
とは言え、ケルトニア軍もただ手をこまねいていたわけではない。
水や土砂、あるいは濡らした毛布などをかけ、炎を消そうと試みた。
しかし、それは普通の火災に対する消火法である。
魔法で出現させる炎は、そんなことで消えたりはしない。
そもそも、壁の根もとに可燃物があるわけではないのだ。
炎系の魔法は、火の精霊に働きかけ、何もない空間にでも炎を出現させる。
化学的な仕組みで言えば、空気中に含まれる炭素を固定して、燃焼させていることになる。
つまり空気が存在し、精霊に働きかける魔力が供給される限り、消すことができないのである。
いつまでたっても消えない炎に、ケルトニア軍も痺れを切らし始めた。
その内、何を思ったのか、工兵隊の一人が炎の壁に向けて鉤つきのロープを投げ込んだ。馬防柵を引っかけるための道具である。
その工兵は、少し待ってからロープを引き戻した。
当然、炎の壁に焼かれた部分は、表面が黒く焦げていた。
だが、その幅は一メートルほどで、その先の鉤のついた先端部分は何ともない。
工兵は〝炎の壁が案外薄い〟ということに気づいてしまったのだ。
彼は消火のために運ばれていた木桶を手に取ると、それを頭からかぶった。
軍服を濡らした工兵は、そのまま助走をつけ、壁に突っ込んでいった。
周囲の兵たちは、唖然としてそれを見ていたが、すぐに壁の向こうから彼の声を聞くこととなった。
「おーい、大丈夫だ! 思い切って駆け抜ければ、難なく突破できるぞ!
こいつは、ただのコケ脅しに過ぎん!」
その声に励まされ、仲間の工兵たちが数人、同じように炎に突進していった。
そして、勇気ある工兵の言葉が、真実であると証明したのだった。
「あ~あ、バレちゃったよ……。帝国の魔導士はどうするつもりなのかね」
私は樹上で呆れた声を出したが、帝国軍も馬鹿ではなかった。
ケルトニア軍が炎の壁の弱点に気づいたと見るや、帝国軍は陣地を捨てて一斉に退却を始めたのだ。
その組織だった動きからすると、彼らはこうなることを最初から見越していたらしい。
長時間の弓攻撃、そして徒歩によるゆっくりとした進撃、最後に炎の壁による足止め。
この三つの段取りで、帝国軍はそれなりの時間を稼いだのだ。
そしてこれから始まる撤退戦でも、何らかの作戦を持っているようだった。
* *
敵魔法に関する工兵隊からの情報は、すぐさま全軍に伝えられたが、実際にケルトニア軍の主力が炎の壁を突破し終えるまでには、相当の時間を要した。
そして、壁を抜けて陣容を整えた時には、目の前にいたはずの帝国軍は、もぬけの殻だった。
いきり立ったケルトニア軍は、当然後を追った。追撃戦こそ、最も戦果が大きいというのは、戦争の常識である。
帝国軍が一足先に撤退したとはいえ、彼我の距離はわずか数百メートルに過ぎない。
敵が逃げ込む先はパッサウ市に決まっているし、そこまでは十数キロはある。捕捉するには十分過ぎる距離だった。
ケルトニアの歩兵たちは重い装備をその場に脱ぎ捨て、得物だけを持って走り出した。
すかさず伝令が回され、出番のなかった騎馬隊が後方から呼び寄せられた。
彼らはこれから始まるであろう、一方的な虐殺の予感に身を震わせながら、追撃に取りかかったのである。