五十二 地下室
金属製の螺旋階段を、ぐるぐると回りながら降りていくと、ほどなく地階に着いた。
最初に落下した分を含めると、地下六~七メートルといったところだろうか、予想よりも深く掘ってあるのは、結界を潜り抜けた影響なのかもしれない。
アイヴィの照明魔法で照らし出された部屋は、きわめて単純な造りだった。高さが二メートル半ほどの、四角い箱である。
白い漆喰で塗られた四方の壁に書棚が据え付けられ、ぎっしりと書物が詰め込まれている。
それ以外の調度といえば、部屋の中央に置かれた机と椅子だけである。
天井からは針金で編んだ小さな籠が下がっており、そのなかに灰色の石が入っていた。
それは〝太陽石〟だと思われたが、年月が経って蓄えた光をすべて放出してしまい、ただの石ころに戻ったのだろう。
机の上には、うっすらと白い埃が積っており、干乾びたインク壺と、何本かの羽ペンが入れられた筆立てが、ぽつんと置かれていた。
そして床には、何も書かれていない原稿用紙が数枚、散乱していた。
「凄い量の本って言うか、部屋自体が怖いですね……」
エイナは地下室を見回しながら、深い溜め息を洩らした。
天井には通気口があり、地上のどこかにつながっているらしいが、階段に通じる扉以外は窓がなく(地下だから当然だが)、全てが白い漆喰で塗りつぶされていた。
実に無味乾燥な部屋で、絵や花といった潤いを感じさせる装飾が一切ない。
棚も台所もないから、お茶を飲んで一息つくこともできなかっただろう。
こんな殺風景な部屋に何時間も籠って、読書と執筆に没頭していられるのだとしたら、それは恐ろしく意志の強い人物だろう。
少なくともエイナは『自分だったら、気が変になる』と感じた。
いまこうして立っているだけで、胸が潰れそうな圧迫感を感じてしまうのだ。
彼女の溜め息は、そういう意味だった。
一方のアイヴィにはそんな感慨はないらしく、壁面の書棚から無造作に本を抜き出しては、パラパラと頁をめくっていた。
「間違いないわね。これ、全部あの子の筆跡だわ」
彼女が手にしている本は、革張りの堅い表紙で製本された、いわゆる上製本ではない。
手描きの原稿に厚手の紙の表紙をつけて、背側にキリで数か所穴を空け、糸でかがった簡易製本である。
「どれも神聖文字に関する研究の覚え書きみたいね。
里の人たちが期待しているものとは、ちょっと違うみたいだわ……」
彼女は次々に本を開いては棚に戻す、という行為を繰り返しながら、そんなことをつぶやいていた。
その一方で、エイナは椅子に座り、テーブルの上に広げた一冊の本を前にして、固まっていた。
本漁りに夢中になっていたアイヴィも、ようやくその異変に気づいたらしい。
「あらあら、エイナちゃんったら、どうしたの?
いきなり目当ての物が見つかったのかしら」
声をかけられたエイナは、涙ぐんだ目で顔を上げた。
「いえ、これ……ほとんど、って言うか、一文字も読めません!」
考えてみれば当たり前だった。
先王ネクタリウスの肉筆原稿は、当然エルフ語で書かれていたのだ。人間であるエイナに、読めるはずがなかったのである。
* *
結局、二人は地下室の書庫に、それほど長居をしなかった。
千冊以上はありそうな書物に、アイヴィがすべて目を通すには、あまりに時間が足りなかったし、エルフ語が読めないエイナは何の役にも立てなかった。
二人は相談し、ここはいったん地上に戻り、女王であるアッシュに報告するのが最善だと判断したのだ。
地下室から脱出する手順は、エイナが推測したとおりだった。
遺跡の石畳であった石板に二人が乗ると、それは自動的に上昇を始めた。
天井を塞いでいた別の石板が横滑りして、地上への通路を開け、二人を外の世界へと戻してくれた。
元どおりになった石板は、周囲の舗装と隙間なく嵌め込まれ、ここが入口だとはまったく分からない。
本来ならそこに草の生えた表土が乗っているから、草が継ぎ目を隠してしまったことだろう。
まったく、よく考えられた仕掛けであったが、重い石の塊りを上下させる動力の想像ができなかった。
後で採掘工房長に訊けば、嬉々として教えてくれそうだったが、きっとエイナには理解できない予感がする。
「先王の手記が発見されたとなれば、部族長会議が召集されるでしょうね。これは軽々しく口外できるような話じゃないの。
秘密保持を考えると、王への報告はエイナちゃんの責任ってことになるわ。頑張ってちょうだい」
エルフには特殊な通信手段があるらしいが、それは使えないので、エイナとロキが走って伝えろということだ。
アイヴィに励まされたエイナはロキの背に跨って、西の森中央部へと急ぐこととなった。
* *
エイナがボロボロの姿で、シルヴィアたちが待つ宿舎に着いたのは、二日後のことである。
エルフの女王であるはずのアッシュは、よほど暇を持て余していたのか、その時も宿舎に入り浸ってユニとおしゃべりに興じていた。
彼女はエイナの報告を聞くと顔色を変え、無言のまま宿舎を出ていってしまった。
そして、宿舎にはすぐに見張りがつけられ、三人は外へ出られない軟禁状態に置かれてしまった。
生活自体に不自由はないが、何の説明もない。解放の見通しが知らされないのは、拷問に近い心境だった。
結局、アッシュが再び姿を現したのは、それから五日も経ってのことだった。
* *
女王は数冊の書物を小脇に抱え、不機嫌そうな表情で宿舎の中に入ってきた。
入口につけられていた見張りは、彼女の指示で姿を消した。
アッシュはテーブルの上に本を置くと、椅子を引いてどすんと腰を落とした。
そして大きな溜め息をついて、はしたなく足を広げ、糸の切れた操り人形のように、ごつんと額をテーブルに打ちつけた。
だらだらとお茶を飲んでいたエイナたちは、突然のことに互いに顔を見合わせた。
何だか声をかけるのも憚られるような雰囲気だったのだ。
しばらく沈黙が続いたのち、アッシュはがばっと上体を起こした。
「まずは客人に対する無礼を詫びさせてくれ。緊急の事態とはいえ、申し訳ないことをした!」
彼女は疲れた表情を隠そうとせず、三人に対して頭を下げた。
「確かに、あんまりいい気分じゃなかったけど、その辺はあまり気にしないでいいわ。
それより、説明をしてくれるんでしょうね?」
ユニが代表して訊ねる。
「当然だ」
アッシュがうなずいた。
「稀代の魔導士であった先王の研究著作が発見された事実は、私たち西の森のエルフ、十二部族にとって重大事だったのだ。
私は情報漏洩を防ぎつつ、該当文書の調査を指示するとともに、ただちに部族長会議を召集した。
あの地下室は現状のままとして、遺跡への立ち入りを禁止して、引き続き調査を継続することだけは、会議ですんなり決まった。
だが、調査終了後の資料の扱いに関しては、議論が紛糾してな……」
「私たちエルフは、知的財産の所有に執着する傾向がある。
私は先王の遺産は全部族共通の知財であるから、平等に分配すべきだと提案したのだが、誰一人賛成してくれなかった。
青森族は地下室が領域内にあるのだから、自分たちが管理すべきだと譲らない。
黒森族は、現王である私の出身部族が責任を持つべきだと主張する。
ほかの各部族も、何だかんだと屁理屈をつけて、所有権を申し立てる始末だ」
アッシュは豊かな黒髪を掻き上げ、〝バンッ!〟と平手でテーブルを叩いた。
「まったく、あのクソ爺ども! どいつも欲をかきやがって!」
彼女は椅子の背に上体を預け、天井を仰いだ。
ユニは黙って席を立ち、自分用のケルトニア酒とグラスを持ってきて、アッシュの前に置いた。
「ま~その、なんだ。エルフの女王様も、いろいろあるってわけね。
取りあえず、一杯飲みなさいよ」
アッシュはこくんとうなずき、注がれたグラスを手に取って呷った。
そして、エイナの方に向き直った。
「エイナ。君が走り回り、謎を解いてくれなければ、先王の遺産は発見されなかった。その点ではいくら感謝をしても足りないくらいだ。
だが、それを承知の上で、私は君に謝らなければならない」
女王は唇を噛み、肩を小さく震わせていた。
「確認された資料は約千二百冊。
その八割が先王の直筆原稿で、大半は神聖文字の研究に関する覚え書きだ。
残りはきわめて古い魔導書類で、人間によって書かれたものだった。恐らく先王が独自に蒐集したものだろう。
まだ資料の表面をなぞっただけだが、研究が非常に優れたものだということは分かる。神聖文字の全貌は、ほぼ明らかになったと考えていい。
つまり、ごく近い将来にエルフ語を神聖文字に翻訳することが可能となる。
君の求める爆裂魔法も例外ではない」
それは朗報であるはずだったが、女王の顔は苦渋に満ちたままだった。
「だが、部族長会議はそれを否決した。
私は確かに一族を束ねる王ではあるが、彼らの決定を覆す力はない。
エルフは遥かな昔、人間にこれ以上の魔法を教えることを禁止し、その手段となる神聖文字も廃棄した。
それが復活したからといって、禁を破るわけにはいかない――というのが、会議の結論だ」
「そんな! それでは私は何のために――」
「皆まで言うな。私も食い下がったのだ。
エイナがいなければ、私たちは先王の遺産を見つけることすらできなかった。
爆裂魔法は、先王によってすでに人間に知られてしまった技術だ。今さら秘密にする意味がどこにある……とな。
だが、駄目だった。無力な私を許してくれ!」
アッシュは再びテーブルに額を打ちつけ、そこに水滴が零れた。
人間はエルフを高尚な人種だと信じ込んでいるが、彼らにも政治があり、争いがあるのだ。
エイナたちは何も言えなかった。
もともと爆裂魔法の習得は、ダメ元で頼み込んだエイナの我儘である。
叶えられなかったからといって、大したダメージを受けるというわけではない。
むしろ、肩を震わせて泣いているアッシュの方が気の毒であった。
「まぁ、そう気にしないでいいわ。
それより、アッシュが持ってきた本は何なのよ?」
ユニが努めて明るい声を出し、話題を変えようとした。
「せめてもの償いというか、妥協の産物だよ」
顔を上げたアッシュは、自嘲的な笑みを浮かべた。
「これって、先王の著作ですよね。持ってきちゃって平気なんですか?」
エイナが心配そうに訊ねた。彼女は地下室で実物を目にしている。
ネクタリウスが自身で製本した表紙には、彼の趣味で漉かれた、同じ浅黄色の厚紙が使われていたのだ。
「部族長たちの了承は得ている。
これは研究とは関係のない、ごく私的な覚え書き……日記といってもいいものだ。
膨大な量があったが、その中から伯父上が何故帝国へ亡命したか、その真相が書かれた部分を抜き出してきた。
私たちエルフからすれば、恥に当たるものだがな。
爺どもは渋りおったが、『人間に借りを返さぬつもりか?』と詰め寄って黙らせた。
何となく予想はしていた内容だったが、なかなかに興味深いぞ。知りたいだろう?」
「お茶を淹れ直してきます!」
「あたし、お菓子を持ってきます!」
エイナとシルヴィアが同時に立ち上がった。
何しろ五日間の禁足を喰らっている間、話題のネタが尽き果てていたのである。
エイナはもちろん、シルヴィアもユニも聞く気満々であった。
お茶(アッシュとユニは酒と肴)とお菓子の用意が整うと、エルフの女王はテーブルに積み上げた本の一冊を取り、頁を開いた。
「これは今から九十数年前、伯父上がエルフ王に就任して七十年余りが経過したころの話だ。
先王は何度目かの国外視察に出たのだが、この時に初めてイゾルデル帝国にまで足を伸ばしたらしい。
ちょうど帝国とケルトニアが戦争を始めたばかりのころだから、そのあたりに興味があったのだろうな」
ユニがケルトニア酒を舐めながら、片手を挙げた。
「どっちも領土を拡大することで、国内の不満を抑え込んできた国だから、衝突するのは必然だったのでしょうけど、そもそも戦争のきっかけって、何だったのかしら?」
「ロマニア公国の皇太子暗殺事件ですよ。魔導院で習いませんでした?」
優等生だったシルヴィアが呆れたように答える。彼女にしてみれば、ユニが知らないことの方が驚きだった。
「当時はケルトニアがエウロペ諸王国を完全な支配下に置いていて、東側の小国だったロマニア公国の皇太子は、それが不満だったんでしょうね。
彼は新興勢力であるイゾルデルと手を結んで、独立を勝ち取ろうと画策したのですが、それが露見してケルトニアに暗殺されたんですよ。
ところが、当のケルトニアは犯人はイゾルデル帝国だと非難して、一気に帝国領に雪崩れ込んだんです。
最初から準備をしていたケルトニアと、不意打ちを喰らった帝国とでは勝負にならず、開戦初期は攻め込まれた帝国の防衛戦っていう色彩が強かったそうです。
多分、先王が視察したころって、そんな状況下だったと思いますよ」
シルヴィアの要領を得た解説に、アッシュもうなずいた。
「そうだな。伯父上の手記を読んでも、当時の帝国西部のありさまは、相当に悲惨だったようだ。
略奪、放火、拷問、強姦……ケルトニアは傭兵が主体の軍だったから、やりたい放題だったらしい。
手記によれば、伯父上は帝国西部の要衝、パッサブ市の郊外を訪れたとある。
今からすれば信じがたい話だが、当時はそこまでケルトニアに侵攻されていたらしい。
まぁ、その辺を前提として聞いてくれ」
アッシュはそう前置きをすると、ネクタリウスの手記を読み上げ始めた。