四十七 帰還
「それで、どんなことを聞きたいの?」
ウィローはきらきらした目で訊ねてきた。
「子どものころの話なんですが、先王の秘密の遊び場所をご存じないでしょうか?
男の子たちがよく〝秘密基地〟を作ったりしますよね?
それほど大げさでなくても、親にも教えないようなとっておきの眺めとか、一人になりたい時に決まって行くような、隠れ家的な場所でもいいです」
エイナがそう答えると、ウィローは人差し指を顎に当て、大きな目を上に向けた。
もし、魔導院の同級生がそんな仕草をしたら〝あざとい〟と言われ、皆が嗤ったことだろう。
だが彼女の場合、それが実に自然な動作に思え、しかもよく似合っていた。
「そう言われてもねぇ……。
お兄さま――そう言えば、アッシュちゃんから聞いたけど、お兄さまは人間用にネクタリウスって名乗っているそうね?」
「えとあの、はい……そう聞いています」
「似合わないわって言うか、何かダサいわよ。カッコつけ過ぎだと思わない?」
「確かに。彼、自意識過剰なんだと思いますね」
答えに窮したエイナに代わって、ユニが辛辣な感想を返した。
「でしょう? お兄さまもユニちゃんに名前を付けてもらえばよかったのよ。
やっぱり人間風の名前は、エルフではなかなか思いつかないもの。
でもしょうがないわね。じゃあ兄さまのことは、ネクターって呼ぶことにするわ。その方が言いやすいし。よくって?」
「はぁ……」
エイナは話の先行きに不安を感じつつ、止む無くうなずいた。
「最初に断っておくけど、ネクターはあたしより三百歳以上年上なの。
だからあたしが生まれた時にはとっくに成人してたし、あたしが百歳になる前に王位に就いていたわ」
「では、あまり遊んだ記憶はないのでしょうか?」
「そんなことはないわよ。
エルフはあまり子を産まないから、うちみたいに歳が離れた兄妹って珍しくないの。
それで感覚的には妹っていうより、娘に近い感情を抱いちゃうのね。だからネクターも、小さかったあたしをそれはもう可愛がってくれたわ。
ただね……ネクターは、あたしが生まれた時点でもう巫子(王の後継者候補)になっていたから、構ってほしくて彼の部屋に行くと、いつも本を読むか書き物をしていたわね。
おままごとに付き合ったり、ご本を読んでくれたりははしたけど、外で一緒に遊んだっていう記憶は少ないの」
「そうですか……」
「でもね、やっぱり小さい女の子の相手は大変だったみたいね。
一人になりたい時には、あたしが登れないような高い木の枝に寝転がって、一人で本を読んでいたわ。
隠れ家っていうのとは、少し違うかもしれないけど」
「そうした本は、どこに保管しておくのですか?
エルフの家は樹上に作るだけに、とても簡素だと聞いていますけど」
「そうね、エルフは本好きだから、書庫は地上に建てることが多いわ。
自分で建てる人もいるけど、たいていのエルフはドワーフに依頼するわね。彼らは生まれついてのの職人だから、どんな無理な願いも聞いてくれるもの。
火災に強い白壁の土蔵造りだったり、湿気の入らない高床式の木造倉庫とか、依頼主の希望に沿った書庫が、森のあちこちに建っているわよ。
あたしたちはそれを何家族かで共用しているけど、ネクターは人一倍の勉強家だったから、自分専用の書庫をドワーフに作ってもらってたわ」
「それは、現存しているのですか?」
エイナの胸に希望の明かりが灯った。その書庫を調べれば、何かのヒントが見つかるかもしれない。
「建物自体はちゃんと今もあるし、書庫として利用されているけど、ネクターが集めた蔵書は多くのエルフたちで分け合ったわ。
ほら、あの人ったら、この森を黙って出ていっちゃったでしょ? そういう場合、個人の蔵書は一族全体の共有資産になる決まりなの」
アッシュの説明とはニュアンスが違うが、ウィローは先王が神聖語の研究をしていたことを知らないからだ。見つかった蔵書に、それに関する専門的な資料が含まれていなかったということだろう。
希望の灯はあっさりと吹き消されたが、エイナは諦めきれずに訊ねる。
「その分け合った書物の中に、先王が書き残したものが含まれていませんでしたか?」
「それがねぇ……不思議なのよ」
ウィローは首を傾げてみせた。成人した娘がいるというのに、いちいち仕草が可愛らしい。
「ネクターが書き残したものは、本にしたら百冊を軽く超える量があったはずなんだけど、書き損じの原稿一枚すら見つからなかったの。
彼は魔法が得意なエルフの中でも、不世出の天才と言われた人だから、みんなで隅々まで探したんだけど……」
エルフが言う書物とは、全て手書きの自筆本かその書写である。
この時代、エイナたちのリスト王国をはじめ、多くの国では木版印刷が行われていたし、イゾルデル帝国やケルトニア連合王国のような先進国では、鉛活字による活版印刷が実用化されていた。
読むのも書くのも好きなエルフたちは、自分たちで紙を漉いて原稿を書き、製本し、自分だけの一冊を造るのを楽しみとしていた。
表紙に使う鞣した革だけはドワーフたちから購入したが、それ以外は全て自家製である。
高名な学者、魔導士、文学者たちが著した本は、皆が競って借りては書写し、十二部族の垣根を越えて広まるのである。
エルフの王となるものは、全部族の中で最も強大な魔力と、優れた魔法技術を有する者が選ばれたので、代々の王の著作は特に人気があった。
いくら一族を捨てて出奔した王であろうと、その知識に罪はない。
残されたエルフたちが、必死にネクタリウスの原稿を探したことは想像に難くない。
誰にも知られずに森を抜け出した王が、膨大な原稿全てを持ち去ったとは思えなかった。
やはり先王は、どこかに自らの著作を隠しているに違いない。
「例えばですが、地下に埋めたとは考えられませんか?」
エイナはアッシュに笑われた自説を、懲りずにぶつけてみた。
「あの人が穴を掘るですって?
いくら変わり者の兄さまでも、それだけはないわ~。彼は妹のあたしから見ても、もの凄い〝いいカッコしい〟だったもの。
絶対にそんな恥ずかしいことはしないと思うわ」
半ば予想はしていたが、ウィローの反応は娘のアッシュと同じだった。
だが、エイナはなおも食い下がる。
「では、ご自分で穴を掘るのではなく、えとあの、たっ、例えば……。
そうです! 例えばドワーフに依頼して、彼らに地下室を作ってもらった可能性はないでしょうか?」
それは苦し紛れに出た言葉だったが、エイナは目の前がパッと明るくなった気がした。
「先王の書庫って、やっぱりドワーフに建ててもらったんですよね。
ひょっとして、彼はドワーフと仲が良かったのではないですか?」
「それは……う~ん、確かにあたしたち青森族のテリトリーは、寂寥山脈に接しているから、他部族よりもドワーフとの交流が多いわ。
そう言えば、ネクターのところにも、何度か若いドワーフが遊びに来ていたことがあったっけ。
名前は覚えていないけど、同じ人だったと思うわ」
「それです!
そのドワーフは、どういう用件で訪ねてきたのですか?」
「ええと……」
ウィローは眉根を寄せて、どうにか思い出そうと努めた。
握った小さな拳で、形のよい額をこんこんと叩く仕草も可愛らしかった。
「ドワーフは、いつも本を持ってきていたわ。
ネクターはどんなことにも興味を抱く性質だったから、他種族の歴史や伝承も集めていたのよ。
でも、そのドワーフに報酬を与えていたようには見えなかったわね。
どちらかと言えば、ドワーフの方がネクターの希望に応えようと、一生懸命になっていた印象だったかしら……」
エイナの頭に疑問がよぎった。
「エルフはドワーフたちに書庫を建てさせたり、いろいろな道具を購入する際、どうやって報酬を支払っているのでしょう?」
「そうねぇ物々交換っていうか、彼らの造る武具に祝福を与えたり、山中の鉱脈の在りかを占ってあげたりするわね。
あと一番多いのは治療ね。
ドワーフたちって、落盤なんかの事故で大怪我をしたり、製錬や焼入れで大火傷を負うことが結構多いのよ。
彼らなりの治癒魔法や薬はあるんだけど、手に負えない場合は、あたしたちエルフを頼るの。
あたしたちの治癒魔法なら、死んでいない限りは助かる確率が高いの。何しろドワーフたちって、笑っちゃうくらい頑丈だもの。
治療の依頼は頻繁にあるから、その代金代わりに無償で労働を提供してもらうことが多いわけ」
「じゃあ、そのドワーフが、自分か身内の治療を先王に依頼して、それを恩に着ていた可能性は……」
「うん、その線じゃないかしら。
ただ、その若いドワーフが遊びに来ていたのは、ネクターが王位に就く直前のことだったから、もう二百年は経っているわよ」
時期的にも矛盾がない。アッシュの話では、先王が神聖文字の研究を開始したのは、王位就任後に行った視察旅行から帰ってからだという。
エイナは立ち上がった。
「私、ドワーフたちの里に戻ります!
ユニさん、ロキを借りていいですか?」
「別にいいけど、今から出発するの?」
ユニが少し呆れたような声を出したが、エイナはもう宿舎を飛び出していた。
* *
オオカミたちは、暇を持て余していた。
そのため、ユニが惰眠をむさぼっていた彼らを叩き起こし、ロキにエイナのお供を命じると、彼らは若いオオカミを羨ましがった。
エイナは乗り慣れたロキの背中に跨り、しっかりと両膝でオオカミの胴を挟み、長い体毛に両手を突っ込んで握りしめた。
踵で軽く横腹を蹴って合図をすると、ロキの白い身体がバネのように弾け、あっという間に森の中に消えていった。
山中の隧道を出てから、西の森中央部の広場に着くまでは四日かかった。
エイナとロキは、この行程をわずか二日半で走り抜いた。
青年期で精力に溢れたオオカミにとって、それは大した負担ではない。ユニはよく強行軍を断行するので、馴れてもいた。
むしろ大変なのは、騎乗する人間の方である。
しかし、エイナは自分の異常な回復力を信じて、ほとんど休憩を摂らなかった(通常は三時間おきくらいに休憩を取る)。
彼女は何かに取り憑かれたように無理を通した。自分でもそのわけが分からかった。
* *
巨木の切れ目から、寂寥山脈の山肌が見えるようになって半日が経ち、そろそろ森を抜けようかというところで、お約束のように矢が飛んできた。
ロキはエイナを乗せたまま、きれいな跳躍で射線を飛び越し、急停止した。
今回はあまりもったいをつけず、すぐに見張りのエルフが姿を見せてくれた。
森に入った時と同じ人である。
「そなたがドワーフ国に向かったことは、すでに連絡を受けている。だが、少し驚いたぞ。予想よりだいぶ早かったな?」
「急ぎ……ました……から」
エイナは苦しい息の下から、どうにか言葉を絞り出した。
どんな手段で見張りにエイナのことを伝えたのか、今は考える余裕がない。
「ドワーフの門衛にも話は通してある。あまり無理をするな」
エイナの耳にその言葉が届いた時には、すでに見張りの姿は消えていた。
隧道の入口は、エルフの幻術がかけられ、ただの岩肌にしか見えなかった。
しかしロキの鋭敏な嗅覚は、数日前に自分たちが通った痕跡を逃さなかった。彼は迷うことなく幻影の中に突っ込み、難なく隧道に入ることができた。
門番のドワーフたちは扉を開き、エイナとロキを迎え入れてくれた。
そして数時間後、ノックの音に扉を開けたイーリンとエーリンの姉妹は、よろよろになって倒れ込んでくるエイナに、悲鳴を上げた。
イーリンが自分よりずっと背の高いエイナを軽々と抱きとめ、エーリンが大慌てで母親を呼びにいく。
エイナは腫れ上がった目蓋で糸のようになった目を、若いドワーフ娘の髭面に向けた。
「外にロキが……オオカミがいるわ。彼に水と、何か食べ物をあげて……ちょうだい。
あと、グリンさんが帰ってきたら、私を起こして……」
痰混じりのがらがら声でそれだけ言うと、エイナは気を失ってしまった。
* *
魔龍騒動がエイナたちの活躍で終結してからというもの、各工房は通常の運営に戻っていた。
その日、武器工房長であるグリンは定時で仕事を終え、夜の七時前には帰ってきた。
双子の姉妹は爆睡しているエイナを起こすべきか、ずいぶん躊躇ったが、事情を聞いた父親の命令で、恐るおそる彼女を揺り起こした。
エイナはすぐに目を開くと布団を撥ね退け、がばっと起き上がった。
椅子の背にかけていた上着を引っ掴むと袖に腕を通し、すぐにリビングに入ってきた。
彼女が寝ていたのはわずか三時間ほどだったが、腫れた目蓋もひび割れていた唇も、すっかり治っていた。
双子はエイナの回復具合に目を丸くしたが、心配よりも好奇心の方がまさった。
なぜ彼女が突然、しかも一人で戻ってきたのか、死ぬほど知りたくて仕方がなかったのだ。
二人は父親に部屋を追い出されることを恐れ、できるだけ目立たないよう小さくなって椅子に座った。
「さて、何だってお前さんだけ戻ってきたんだ?」
グリンは開口一番、姉妹が一番知りたかった質問を発してくれた。さすが父ちゃんである。
エイナは手短に事情を説明し、エルフの先王であるネクタリウスに恩義を受け、彼のために働いたドワーフを探しに来たのだと打ち明けた。
「私はそのドワーフが、先王のために秘密の地下室を掘ったのではないかと睨んでいます。
誰か、心当たりはありませんか?」
グリンはエールが入った木のジョッキを一息で飲み干すと、長い顎髭をしごいてみせた。
エーリンが椅子から滑り降り、急いで空になったジョッキを掴んでお代わりを注ぎにいく。
「名前も知らん上に、ドワーフの顔の見分けもつかぬエルフ女の話だけでは、何とも言えんなぁ……。
だが、そのドワーフが二百年前に若者だったとすれば、俺と同じくらいの歳だろうが、そんな奴はいくらでもいる。片っ端から訊いていくのでは埒があくまい。
取りあえず、採掘工房長に相談してみたらどうだ?
エルフに見つからない地下室を掘れるだけの腕前なら、採掘工房の誰かだろう」
エイナは採掘工房長のことを覚えていた。確かストーリンという名で、工房長会議に出席していた人物だ。
彼が魔龍の目を覚ましたことに引け目を感じていたことと、長々とドワーフの歴史を語っていたことが印象に残っていた。
「じゃあ明日、あたいたちが工房まで案内するよ!」
台所から戻ったエーリンが元気よく請け合い、父親にエールの入ったジョッキを渡しながら「ねっ、父ちゃん?」と承諾を求める。
「ふむ、まぁいいだろう。その代わり、母ちゃんの手伝いをちゃんと済ませてからだぞ」
『もちろんだよ!』
双子が声を揃えて誓い、自分たちのジョッキ(父親のよりは小さい)をカツンと打ち合わせ、一息で飲み干した。
中身は当然エールである。
テーブルの上には誰も手をつけていない小振りのジョッキが置かれていた。多分、自分用だろうと思ったエイナは手を伸ばしてジョッキを持ち上げ、姉妹に「よろしくね」と言ってごくりと飲み込んだ。
ドワーフ父娘につられのもあったが、喉がひどく乾いていた。比較的度数の低いエールなら平気だろうと思ったのだ。
あっという間にエイナの顔が真っ赤になり、彼女はふらついて椅子ごとひっくり返った。
隣に座っていたイーリンが慌てて抱き起こし、エーリンが呆れた声を出す。
「うわぁ、エールでぶっ倒れる人、初めて見たわ」
介抱していたイーリンが、驚いて顔を上げる。
「うそ、あんたこのジョッキにもエールを注いだの?」
「そうだよ」
「それ、あたしが呑もうと思って、こっそり焼酎を入れてたのよ。それもうちで一番キツい奴」
「あはは、エールで割ったら効くわけだ」
姉妹の頭に、グリンの雷と拳骨が落ちたのは言うまでもない。