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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第四章 魔法王の森
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四十六 ウィロー

「うぎゃーっ! さっ、寒いわっ!」

『シルヴィア、うるさい!』


 西の森は大陸の中南部に位置しており、冬でも雪が降ることは珍しい。

 だが、上空となると話は別である。

 宿舎での話し合いが終わった後、シルヴィアはカー君とともに空に上がっていた。

 寂寥山脈の地中では十分にできなかった、飛行訓練である。


 シルヴィアの身体をカー君の背中に固定する装着具は、まだドワーフたちが製作中で、いま使っているのは試作品を借りてきたものだ。

 遮るもののない空中では風圧が凄まじく、彼女は外套を着込んでいたのだが、衣服のあらゆる隙間から冷気が侵入してきた。

 剥き出しの顔に当たる風で、あっという間に皮膚感覚がなくなり、唇から血の気が失せた。

 目が乾いて痛くなり、肌は水分を失って突っ張っている。


『これは絶対に美容に悪い!』

 ドワーフの里に寄ったら、早急にこの問題を解決しなくてはならない――シルヴィアはそう決意していた。

 彼女はロック鳥で何度か空を飛んだことがあるが、その時は山小屋風の輸送籠の中にいたから、空中で外気にさらされる厳しさが理解できていなかった。

 はっきり言って舐めていたのだ。


 ロック鳥の召喚主であるアラン・クリスト少佐は、分厚い革の飛行服の上下にブーツ、そして飛行帽を身に着け、ゴーグルとマフラーで顔を覆っていた。

 どう見ても軍の支給品とは思えず、恐らくアラン少佐が特注であつらえた物なのだろう。


 地上に下りたらエイナにも協力してもらって、あの飛行服をできるだけ詳しく絵図に起こしてみよう。

 それをもとに、ドワーフに製作を依頼すれば、職人集団である彼らは何とかしてくれるだろう。

 それと、エルフたちに何かよい化粧水や乳液がないか、訊いてみることにしよう。


 シルヴィアが忙しく頭を回転させていると、それに気づいたカー君が不満そうな声を上げた。

『ずるいよシルヴィア。自分のことばっかり考えてる!

 僕の飛行技術についても、いささか関心を持ってほしいものだね。

 なかなか見事なもんでしょう?』

「はいはい、とっても上達したわよ。これで高度はどのくらいかしら?」


 シルヴィアは叫ぼうとしたが、口を開いただけで風が入ってきて、最後まで喋れなかった。

『飛行中は脳内会話じゃないと、どうにもならないわね!』――これも発見だ。


 ドワーフが地中に掘り広げた空洞は、適度な温度に保たれて風もなかった。

 こうして実際に空を飛ぶと、気づくことばかりである。

 彼女はもう一度、頭の中でカー君にさっきの質問を繰り返した。


『う~ん、上空二百メートルってとこかな?』

『アラン少佐に聞いた話では、測量の時には二千メートル以上の高空を飛ぶそうよ。

 カー君はどのくらいまで上がれそう?』


『試してみる? 多分、上がるほど寒くなると思うけど』

『やってみて。我慢できなかったら、ちゃんと伝えるから』


『了解!』


 シルヴィアが腰かけている鞍の左右で、カー君の翼が忙しく羽ばたいた。

 途端に〝ずん!〟という重力が下半身に伝わり、高度がぐんぐん上がって眼下に広がる森が離れていく。

 カー君が予言したとおり、肌を突き刺す風がますます冷たくなってきた。


 彼女は手袋をした右手で手綱をしっかりと握り、空いた左手で襟元をぎゅっと掴んだ。

 少しでも風の侵入を防ぐためだ。

 だが、風は襟だけでなく、袖口や衣服の縫い目からも入り込み、全身に鳥肌が広がる。

 乳首が硬く立ってコルセットにこすれ、ひどく痛かった。


『もう限界! 高度を落として!』

 シルヴィアは弱音を吐こうとしたが、その前にカー君は上昇を止め、ゆっくりと旋回しながら高度を落としていった。


『どうしたの? あたしに気を遣ったのなら、余計なお世話よ!』(完全に強がりである。)

『そうじゃないよ。どうやら僕の方が限界みたい。

 あんまり高度を上げると、精気が薄くなって吸収できなくなるんだ』


『そうかぁ、飛行は精気を大量に消費するんだったよね。

 今ので高度はどのくらい?』

『え~と、よく分かんないけど、八百メートルくらいまで昇ったかな?

 下でエイナが見ているはずだから、戻ったら訊いてみようよ。

 あのは測量が得意だから、多分正確な数値を教えてくれると思うな』


 魔導士は距離・高度・方角などを、目視で正確に測定する技能を持っている。

 シルヴィアは召喚士なので、そうした訓練を受けていなかった。

『カー君が空を飛べるようになったからには、あたしたちにも観測任務が与えられるかもしれないわ。

 これは、ちゃんとした測位や測量術の講義を受ける必要があるわね……』


 カー君は上昇試験前の高度に戻り、水平飛行に移って移動を開始した。

 低空だとかなり速度が出せるようで、眼下の森が流れるように移り変わっていく。

 あまり正確ではないのだろうが、時速にして五十キロ以上出ているのではないかと思われた。


 そのまま数時間飛び続けてみたが、カー君は疲労を訴えなかった。

 エルフが言ったように、森全体が精気に満ち溢れており、いくらでも補充ができるためらしい。


 水平飛行に移ってからのカー君は、思い出したようにしか翼を動かさなかった。

 見た目では風に乗った滑空状態のように見えたが、本人の弁では、ちゃんと翼から精気を推進エネルギーとして放出しているらしい。


 やはり、鳥とは飛行原理がまったく違うのだ。

 カーバンクルは幻獣世界の住人であるから、シルヴィアたち人間世界の常識が通じないのは当然とも言える。

 シルヴィアは赤城の召喚の間で謁見した、赤龍の姿を思い出していた。

 あの巨大な龍も、翼は頼りないくらいに小さかった。

 恐らく、龍もカー君も、同じような仕組みで空を飛んでいるのだろう。


 考えに沈んでいると、不意に眼下の景色が一変した。

 濃密な森が切れ、緑がまばらな荒涼とした大地が広がったのだ。

 同時に、快調に飛んでいたカー君の速度ががくんと落ちた。


『なに、何が起こったの!』

『エルフの森を抜けたみたい。突然精気が薄くなって、速度が出ない!』


『すぐに戻って! 調子に乗り過ぎたわ! ばんやりしている間にどれだけ飛んだのかしら?

 でも、飛行中は気を抜けないって、学べてよかった。やっぱり、一度アラン少佐に教えを請うべきだわ』


 戻れと言われても、空を飛んでいるカー君は急停止ができない。

 彼は大きな弧を描いて回頭し、緑豊かな森へと戻っていった。カー君の速度は再び上がり、飛行も安定する。

 やはりエルフの森上空は、カー君にとっては絶好の訓練場だということだ。


『そう言えば西の森って、全体に強力な結界が張られているのよね。

 何でカー君は結界に引っかからなかったの?』

『ああ、結界は上空にまで及んでいないみたいだね。

 結界の存在は気配で分かったし、それを飛び越したことにも気づいていたよ。

 多分、地上から百メートルくらいまでしか、効果が及ばないんじゃないかな』


『へえ~、あたし、結界ってドームみたいなもんだと思っていたわ』

『普通はそうなんだけどね。これだけ広範囲に強い結界を張るには、相当の魔力が必要だから、エルフといえども節約が必要なんだよ、きっと。

 イメージとしては、この結界は壁とかカーテンみたいな感じだね。

 幻獣界と違って、この世界じゃ空を飛べるのは鳥くらいのもんだから、蓋をする必要がないんだと思うよ。

 エルフは抜群の視力と弓矢の腕を持った天性の狩人だから、もし上空から侵入しようとしても、あっという間に射殺されるって考えているのかな』


『なるほどね~。あんた賢いじゃない! 戻ったらアッシュ様に確認してみるわ。

 そろそろ帰らないと、晩御飯に遅れちゃう。急ぎましょう!』


      *       *


 その翌日も、特にすることのない三人は、思い思いに時を過ごした。

 シルヴィアとカー君は、二日続けて飛行訓練で空に上がり、森の上空を飛び回っていた。

 ちなみに、森の結界についてはカー君の予想どおりであった。


 エルフたちの説明では、結界の力場は壁状に張り巡らされ、高さはおおよそ地上五十メートル、地下三メートルの範囲内で効力を発揮するとのことだった。

 その理由が魔力の節約というのも当たっていて、実際それで千年以上、一人の侵入者も許していないということだった。


 エイナはエルフたちに魔法を教わっていた。

 彼女の魔法修行は、主として魔力の扱い方、呪文詠唱の効率化といった、技術的なことに関する指導だった。魔法そのものは、エルフ語が使えない人間に教えようがないからである。


 エルフたちはエイナが実際に呪文を唱え、魔法を発動してみせると、すぐにその欠点を指摘することができた。

 彼らの指導は極めて合理的かつ実戦的で、エイナは初めて魔法を教わった時のような、わくわくする興奮を感じていた。


 特に、多重詠唱(エルフの発音を真似た高速化技術)を披露すると、彼らはその稚拙さが見るに堪えないといった反応を示した。

 その一方で、人間が肉体的な制約を乗り越えて、独自の工夫を編み出していたことには驚き、素直に感心するのだった。


 ユニはといえば、もっぱらアッシュと秘蔵の焼酎を酌み交わし、二人だけでさまざまと積る話に興じていた。

 その話の中には、エイナがたびたび俎上に上がることとなった。

 エイナが薄いとはいえ吸血鬼の血を引いていることは、すでにユニがアッシュに伝えていたからである。


 もちろん、吸血鬼はエルフが忌み嫌う闇の一族である。

 それでも、アッシュはエイナを普通の人間として遇していたし、エルフたちが魔法の指導をすることを止めなかったのは、何か思うところがあったのだろう。


      *       *


 さらに次の日を迎えた。

 三人が遅い朝食を摂り、まったりとお茶をしているところに、ノックの音がした。

 扉は枝で編んだ簾のようなものだから、柱を叩いたのだろう。

 エイナが応対に出て簾を上げると、見知らぬエルフの女性が、にこにこしながら立っていた。


「あら、ウィローじゃない!」

 ユニが叫び声を上げて駆け寄り、そのエルフと抱き合ったので、エイナは脇に寄って呆然としているほかない。


「紹介するわ、アッシュのお母さま、ウィローよ!」

 ユニがエルフの腰を抱いたまま、笑顔を向ける。

 アッシュの母親が今日帰ってくるとは聞いていたが、これほど早く訪ねてくるとは誰も予想していなかった。


 シルヴィアも慌てて席を立って入口まで迎えに出た。

 そして、どぎまぎしているエイナのお尻をつねり、何とか自己紹介を済ました。


「アッシュ様のお母上様に、わざわざ足を運んでいただいた上に、このようなみっともない姿をお見せして、お恥ずかしい限りです」

 如才ないシルヴィアが言い繕おうとすると、ユニにウィローと呼ばれた女性は、いきなり両手を広げて二人を抱き寄せた。


「あらあら、何て可愛らしいお嬢さんたちだこと!」


 エイナもシルヴィアも面食らった。

 女性はエルフらしく、比較的背が高くほっそりとした体つきであったが、二人の頬に押し当てられた彼女の乳房は、思いのほか豊かであった。


 エルフは男女とも細身の者が多く、女性はその分、胸も控えめである。

 ところが、ウィローは胸だけでなく、全体の肉付きもふっくらとしている。それでいてスタイルは細身なのだから、二人が混乱したのも無理はない。


 おまけに、成人した娘がいる母親にしては、あまりに見た目が若かった。頬はふっくらとした薔薇色で、顔には皺ひとつない。

 さすがにアッシュよりは年上だと分かるが、人間の目からすると、若い娘にしか見えない。

 黒く艶やかな髪や目が大きいところは娘とそっくりだったが、ウィローの方がより愛嬌がある。


「えと、あの……お母様はとてもお若く見えるのですが、おいくつなのですか?」

 エイナが思わず口に出したのも、無理からぬことだった。


 ウィローは微笑むばかりで答えないので、ユニが代わりに口を開いた。

「確か、六百歳の半ばを少し超したくらいですよね?

 ウィローは四百歳ちょっとで結婚して、割とすぐにアッシュを産んだんだけど、それってエルフとしてはもの凄く早婚なんだって。

 まぁ、ウィローはいろいろと変わっているのよ。あ、でも、とてもいい人だからね!」

「はぁ……。それで、ウィローっていうお名前は、ひょっとしてユニさんが付けたんですか?」


「そうよ。だって、人間に発音できないんだから、呼べる名前がなきゃ困るでしょ。

 別に変な名前じゃないし」

「そうですね。確かにウィロー(柳)って名前は〝細くてしなやか〟っていうイメージですから、納得できますね」


「そうなのよ!」

 エルフが嬉しそうに話に割って入ってきた。


「あたし、この名前がとても気に入っててね、だからエイナちゃんもシルヴィアちゃんも、お母様じゃなくてウィローって呼んでくれたら嬉しいわ!」

 エルフはエイナの腕をとり、柔らかな胸を押しつけながら、顔を間近に寄せてくる。

 ふわっと花のようなよい香りがして、女同士なのにエイナは頬が赤くなってしまう。


 エイナもシルヴィアも、この森に入ってから、何人ものエルフと言葉を交わしているが、いずれも言葉遣いが堅苦しいという点は共通していた。悪く言えば〝偉そう〟でもある。

 ところが、このウィローという女性は、それこそ人間の若い娘のように、くだけて人懐っこい喋り方をするのも不思議だった。


 彼女は古くからの友人のように、エイナとシルヴィアの胴に手を回して一緒にテーブルへと向かい、二人を椅子に座らせた。

 そして、自分はさっと身を翻し、宿舎の小さなキッチンでお茶の缶に手を伸ばした。

 エイナたちは慌てて立ち上がって、予想外の振る舞いを制止しようとしたが、彼女があまりにも手際よく支度を整えてしまったので、半ば呆然として腰を落とした。

 何しろウィローの動きが早すぎて目が追いつかず、彼女が何をしているのかが理解できないのだ。


 気がつくと、エイナたちの前にあった飲み残しのカップが消えており、そこに真新しいカップが置かれていた。

 ウィローは踊るような仕草で一同にお茶を注いで周り、最後に自分の席に置いたカップに、たっぷりと香りのよい紅茶を淹れた。


 お客であり、女王の母親であるウィローに給仕をさせるなど、言語道断の行儀である。

 エイナはおろおろとして泣きそうになるし、シルヴィアは溜め息とともにぼそりと感想を洩らした。

「何だか、実家にいる乳母を思い出しました」


 ユニがそれを聞いて思わず吹き出した。

「でしょう? ウィローは家事の天才なのよ。

 あたしは前に彼女の家にやっかいになったけど、〝甘やかされる〟っていう言葉の意味を初めて知ったわよ」


 そして、エルフに向かっては笑いながら顔をしかめてみせた。

「でもウィロー、今のは二人を驚かせるために、わざとやったでしょう?」


 ウィローは小さな舌をぺろりと出した。

「あら、バレちゃった? まぁ、いいじゃない。お茶を飲みながらお喋りをしましょうよ。アッシュちゃんの話だと、あたしのお兄さまのことを聞きたいのよね?

 それだったら、いくらでも話せるもの!

 まずはお菓子をつまみましょう。これ、さっき焼いたばかりなのよ」


 言われたエイナたちは目を疑った。

 彼女たちの前には、可愛らしい花柄の小皿がそれぞれ置かれ、そこによい香りのするビスケットがのっていたのだ。

 誓ってもいいが、数秒前までそこにはお茶のカップしか存在しなかったはずである。これは何かの魔法か、手品の類に違いない。


 そしてウィローはくすくす笑いながら、少女のような声でこう言った。


「何しろお兄さまは、あたし以上にエルフらしくない、変わり者でしたもの!」

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