十四 演習開始
魔導院の生徒たちを後に残し、第一軍の兵士たちは演習陣地に向かっていた。
それぞれの部隊の担当部署は、朝の事前説明で指定されていたのだ。
第二師団の面々は、本部席からそう遠くない地点に掘られた塹壕へ、次々に入っていった。
帝国側を演じるのは第一師団の役割で、兵士たちは軍服の右腕に敵方の目印となる赤い布を巻きつけていた。
彼らは手を挙げて第二師団の戦友たちに挨拶を送り、そのまま先を急いだ。
目的地である帝国軍の陣地は、王国の塹壕より二百メートルほど先に設定されていた。
国境のボルゾ川を渡河して侵攻してきた帝国軍を、都市郊外に構築した塹壕陣地で迎え撃つ――という台本である。
侵略側の第一師団には、王国側のような幾重にも構築された縦深防御塹壕ではなく、身体をどうにか隠す程度、にわかに掘られた一列の塹壕しか用意されていない。
大した防御機能は期待できず、その場に留まっていては敵の長弓で狙い撃ちにされるだけであるから、機動的な動きで敵の防衛線を突破する作戦を取らざるを得ない。
もちろん、がむしゃらに突っ込むのは、被害を増やすばかりの愚策である。
そこで帝国軍の切り札となるのが、魔導士の存在であった。
魔導士たちは、後方から圧倒的な火力で敵の防御を叩き潰すのみならず、あらゆる攻撃を無効化する防御障壁を盾として、突撃の尖兵ともなり得る。
その役割を果たすため、今回は王国全軍から希少な魔導士たちが搔き集められていた。
とはいえ、王立魔導院に新設された魔法科が、初めての卒業生を輩出したのがやっと二年前、それもわずか一クラスのみであった。
次年に卒業した者を合わせても、現在王国軍に配属された魔導士は二十四名に過ぎない。
卒業生自体はもっと多いのだが、軍の基準を満たす実力を備えた者(一級魔導士)が、それしかいなかったのである。
* *
攻撃する帝国側で最右翼を担当するケストナー中隊長(大尉)は、持ち場に到着すると、指揮所に近い小さな丘に登って、全体の状況を再確認していた。
その最中に、馬に乗った二人の若者が到着した。軍服の肩に短いマントを着けていることから、師団本部から派遣されてきた魔導士だと知れた。
彼らは馬から降りると、ケストナーの前で敬礼をした。
「着任を申告! 第四軍所属、テイラー魔導少尉であります!」
「同じく、第二軍所属、ジェムソン魔導准尉であります。
高名な第一軍の訓練への参加を許可いただき、光栄であります!」
「うむ、遠い所をご苦労であった」
ケストナーは答礼を返し、二人の若者の顔を見た。
まだ若い。テイラーは二十歳、ジェムソンは十九歳だろう。彼らの顔にはまだ少年の面影が残っていた。
それでも現場でそれなりに揉まれてきたのだろう。まずまずの面構えだった。
「君たちは中隊付き魔導士として、俺の直接指揮下に入ってもらう。
作戦計画は頭に叩き込んでいるだろうが、今一度確認するように。
行け!」
「はっ!」
二人の魔導士は再び敬礼し、駆け足で塹壕内にある中隊の指揮所へと向かっていった。
その後ろ姿を微笑ましく眺めていると、後ろから声がかかった。
「中隊長殿!」
振り返ると、第四小隊のブラント少尉だった。
彼の小隊は、部隊の最右翼を担当させたはずである。
「どうした? 配置についたのではなかったのか」
「はぁ、それが……陣地の様子が事前の説明とは違っております」
「どういうことだ?」
「計画では自分たちの担当区域が最右翼で、その先には何もないと聞いておりましたが、簡易塹壕が続いているのです。
長さはおよそ五十メートル、しかも別の部隊がすでに配置に付いております」
「馬鹿な、そんな連絡は受けていないぞ?」
「ですよね。それで中隊長殿にご足労いただきたいのです」
「分かった」
ケストナーは顔をしかめ、ブラントの後についていった。
演習の開始まであまり時間がないのである。不機嫌にならない方がおかしい。
彼は前を急ぐ部下に聞こえないよう、小声で悪態をついた。
「くそっ、何の不手際か知らないが、魔女の婆さんに喰われちまえ!」
現場に着いてみると、小隊長の言ったとおりだった。
簡易塹壕の脇に立っている大きなカエデの木に、目印となる白い布が巻かれているから、ここが陣地の終点で間違いなかった。
しかし、その先に塹壕が続いており、中では兵たちが配置についている。およそ二十五、六人、二小隊といったところだろう。
ただ、遠くの者は分からないが、少なくともその辺にいるのは、見覚えのない顔ばかりだった。
「どこの部隊か確かめたか?」
ケストナーは小声でブラントに訊ねた。
「いえ」
部隊同士で縄張りを巡る揉め事を起こすとやっかいなことになるので、こうした場合は上官を呼ぶのが常識である。ブラント少尉の判断は間違っていなかった。
ケストナーはずかずかと歩いていき、一番手近にいる兵士に塹壕の上から声をかけた。
「そこの者、貴様はどこの所属だ?」
驚いたように上を見上げた兵士の顔はまだ若かった。襟章は無線に星が二つで、一等兵であることを示していた。
兵士はケストナーが大尉であることにすぐに気づき、慌てて気をつけの姿勢を取り敬礼をした。
「はっ、自分は第四師団第三大隊第二中隊の所属、マクマホン一等兵であります、大尉殿!」
「そうか。私は第一師団第二大隊の第四中隊長ケストナーである。
すまんが君の部隊の指揮官と話をしたい」
「はっ、ただいま呼んでまいります!」
兵士は慌てて狭い塹壕の中を、奥の方へと走っていった。
そして、すぐに士官らしい男を連れて戻ってきた。
士官は塹壕にかけられた梯子を登って地表に出ると、ケストナーの前に立って敬礼をした。
「第四師団第三大隊第二中隊のワイト中尉であります。
この戦区は中隊の第一、第二小隊が担当で、自分が指揮官を務めております」
「変だな。この区域では我々の中隊が最右翼のはずだ。塹壕が延長されたという連絡は受けていない。
しかも、貴官の所属する第四師団は現在訓練期間中のはずだ。この演習にほかの師団が参加するなど聞いていないぞ?」
王国軍は第一から第四までの、四つの軍団によって構成されている。
各軍団は約一万人の規模だが、平常時に軍務に就いているのはその三分の一に過ぎない。
それ以外の三分の一には休暇が与えられ(ただしこの間は無給)、休暇明けの残る三分の一は四か月の訓練期間(俸給はあるが減額される)に入る。
戦争などの非常時は別だが、平常時の軍隊には警備や治安維持以外にさしたる仕事がないため、国はこの三交替制で経費を削減しているのである。
「実は、塹壕掘りを依頼した業者が図面を読み間違えて、予定より多く掘ってしまったそうです。
分かったのが一昨日のことで、掘ってしまったものは仕方がないからと、訓練中の我々が急遽放り込まれたというわけです。文字どおり〝穴埋め〟というやつですね。
こちらも寝耳に水でありました」
「そいつは酷い話だな。
それで、君の部隊は何をすることになっているのだ?」
「はい。我々は当面何もしなくてよいと言われております。
ある程度時間が経過して、混戦状態になったところで遊撃部隊として出撃、第二師団の側面を急襲せよとの命令を受けております。
自分たちは少人数の部隊ですが、予定にない伏兵に襲われた際の対処を見たいというのが、上層部の意向ではないかと愚考いたします」
「なるほどな……」
ケストナーは考え込んだ。
塹壕を予定より長く掘ったのなら、余分は無視すればいいはずだ。
それを訓練期間中の部隊まで引っ張り出し、想定外の事態を引き起こしてやろうとは、いかにも上が考えそうな嫌らしい作戦である。
「了解した。そちらも準備で忙しところを、邪魔をしてすまなかった。
貴官の部隊の奮闘を祈る!」
「はっ、ありがとうございます!」
二人の指揮官は互いに敬礼を交わし、その場を離れた。
塹壕の中に戻ったワイト中尉は、自分を呼びにきたマクマホン一等兵の腕を、すれ違いざまにぽんと叩いて声をかけた。
「なかなか巧い芝居だったぞ」
一等兵はにやりと笑い返した。
「そちらこそ、さすがです。奴ら、まったく疑っていませんでしたね」
* *
王国側を担当する第二師団、その最左翼の塹壕に飛び込んだシルヴィアは、手近にいた兵士に勢い込んで申告した。
「魔導院のシルヴィア・グレンダモア召喚士候補生です。
この部隊の指揮下に入るよう命令されました。指揮官殿にお引き合わせください」
彼女の後ろには巨大な白いオオカミが控え、少女を守るように周囲を睥睨していた。
いきなり現れ、目の前で見事な敬礼をしてみせた金髪の美少女を見て、兵士はひゅうと口笛を吹いた。
「ほう、えらい別嬪さんの配属だな。
クレイ小隊長ならあそこだ。あんたと同じ魔導院の生徒と話をしている。見えるだろう?」
兵士が顎で差した方向を見ると、若い士官が見覚えのある少女に、何やら指示を与えている姿が見えた。
シルヴィアは兵士に礼を述べ、狭い塹壕の中を移動した。
その後を、のそりとロキがついていく。
兵士はすれ違いざまに、オオカミの胴を親し気にぽんと叩いた。本当はシルヴィアの尻を叩きたいところだったが、オオカミに噛まれそうな雰囲気だった。
「ひよっこのお守とは、お前も大変だな」
シルヴィアは少尉の徽章を着けた士官に対し、敬礼をして着任の申告を繰り返した。
小隊指揮官であるクレイ少尉は答礼を返してうなずくと、手短に指示を下した。
「作戦の詳細はたった今、フローリー魔導士候補生に説明したから、彼女から聞きたまえ。
午前のうちは候補生同士の連携の習熟に専念してもらう。我々の手駒として働いてもらうのは午後からだ。したがって、お前たちは当面自由に動いてよい。
だが、くれぐれも手柄欲しさに突出するなよ。周囲の状況を冷静に判断して、時には退く勇気を忘れるな。必要だと思ったら指示を仰ぐのも大事なことだ。
分かったら行け!」
「はっ!」
小隊長の簡潔な指示に、シルヴィアとエイナは同時に答えた。
先に到着して少尉から指示を受けていた少女は、同室のエイナだったのだ。
他の兵士の邪魔にならない場所に駆け込むと、シルヴィアは息を弾ませてエイナに笑いかけた。
「あなたが相方だったのね! エイナはあたしと組むって知っていたの?」
「まさか! シルヴィアとロキが塹壕の中を走ってきたから、びっくりして叫びそうになったわ」
シルヴィアはきょとんとした顔で訊き返す。
「どうしてエイナがオオカミの名前を知ってるの?」
「ユニさんと一緒に蒼城市に行った時に、ロキがあたしを乗せてくれたの。
また会えて嬉しいわ!」
エイナはそう言って、頭を下げて顔を近づけてくるロキを抱きしめた。
オオカミの方も彼女の匂いを覚えていたのか、嬉しそうに尻尾を振った。
* *
軍隊同士の戦闘の始まりは、弓矢の応酬と昔から相場が決まっている。
演習開始を告げる大きな白旗が振られると、まず王国軍側の陣地から一斉に長弓の矢が放たれた。
王国の長弓は、有名なケルトニア連合国のロングボウより一回り小さいが、射程の長い強力な弓である。
演習場における敵味方の距離は二百メートルほどであるから、弓隊は上空から矢の雨を降らせる曲射で攻撃を開始した。
もちろん演習であるから、鏃は球状の鉛が付けられた訓練用のもので、当たっても死ぬことはない。
それでも、直撃されると物凄く痛い。兜の装着は必須であった。
帝国歩兵が主に使用するのは、小型の携帯用クロスボウ(ボウガン、石弓、弩など、さまざまに呼ばれる)で、強力だがあまり射程は長くない。
当然、腰を据えた射ち合いをするわけがなく、盾を頭上に掲げて敵の矢を防ぎつつ、陣地を飛び出して突撃に移るタイミングを計っていた。
同時に王国側の弓隊に対しては、魔導士による反撃が始まった。
相手が塹壕に籠って撃ってきているのは分かっているから、直線的な魔法攻撃は無駄弾となってしまう。
そのため帝国側の魔導士は、長弓同様にマジックアローと呼ばれる魔法で、放物線を描く曲射で敵の塹壕への攻撃を敢行した。
当然のことだが、これも本物の攻撃魔法ではない。
帝国魔導士の役で集められた魔導院魔法科の卒業生たちは、事前の打ち合わせどおり、閃光魔法という訓練用の術を使っていた。
初級魔法である〝明かりの魔法〟よりも二段階ほど進んだもので、明るく輝く光球を遠くへ飛ばすことができる。
何かにぶつかるとそのまま消滅するが、その際に強い閃光を放つ。
この魔法は命中判定のしやすさもあって、魔導士が加わる演習が行われるようになってからは、当たり前に使われていた。
帝国側の陣地から、虹のような軌道を描いて光の球が一斉に撃ち上げられた。
弓隊の兵士たちは上空の光を確認すると、全力で左右に移動した。同じ場所にいては、魔法の餌食となるから当然である。
魔法の光は、上空から直角に思えるような急角度で落下して、地面は激しい閃光に包まれた。
塹壕を直撃したのは半分以下で、運悪く殺傷判定を受けた兵士はごくわずかだった。
攻撃側の魔導士にとって、塹壕の位置を目算で測定して魔法を撃つこと自体はさほど難しくはない。
だが、放物線を描く曲射で正確に命中させるのは至難の業だった。
直線状に飛ばす魔法と違って、ほんのわずかな角度のずれでも、着弾地点は数メートルも動いてしまう。
測距が正確でも、野外だと気象条件、特に風の影響がやっかいだった。
もちろん、風速・風向は体感で素早く判断して誤差修正をすることになる。
しかし風は一定ではない。魔法を撃った後に風向きや風速が変わると、もうお手上げであった。
そして、首尾よく塹壕に撃ち込めたとしても、そこに敵兵がいるかどうかは運次第で、魔導士にとって塹壕とは、実に相性の悪い代物であった。
魔導士を主戦力とするイゾルデル帝国によって、各戦線で押され続けてきた大国ケルトニアは、この塹壕戦略を生み出したことで息を吹き返したのだ。
味方の弓隊が沈黙し、敵陣からの魔法攻撃が始まると、塹壕の中に腹に響く太鼓の低音が聞こえてきた。
ドーン、ドーン、ドンという長・長・短のリズムは、配置についた王国側魔導士候補生に対する反撃の指示だった。
エイナは塹壕からわずかに頭を出し、敵の位置を再度確認する。
矢の雨が止んだことで、敵兵は陣地を飛び出して一斉に向かってきている。
距離と敵の速度を素早く計算して術式を構築すると、エイナは早口で呪文を唱え始めた。
その背中を、ばんとシルヴィアが叩く。
呪文を唱えながら、思わず振り返ったエイナに、金髪の美少女はにやりと笑いかけた。
「まずはお手並みを拝見するわ!」