四十三 歓迎
シルヴィアはカー君からの連絡を、今か今かと待っていた。
だが、一行に敵発見の報は入ってこない。
彼女はじれて、自分の方から呼びかけてみた。
『カー君、今どこ?』
少し間があって、カー君の声が聞こえてきた。
『えーと、まだ森の中なんだけど……』
『はぁ? あたしの話を聞いてなかったの!
さっさと飛んで――』
『ちょ、ちょっと待って!
実はオオカミたちに作戦を説明したんだけど、ほっとけって言われたんだよ』
『何それ、ちゃんと状況は説明したの?』
『もちろんだよ。って言うか、オオカミたちもユニを通して事態は把握してるみたいなんだ。
でも、心配ないから余計なことはするなって、逆に怒られちゃったの』
頭の中で、カー君の情けなさそうな声が響くのと同時に、耳に乾いた音が届いた。
ゆっくりと手を打つ音だ。
シルヴィアは危険も忘れ、木の影から顔を覗かせた。
ユニが無防備に身体をさらし、拍手をしている。彼女は頭上に向かって、大きな声で呼びかけた。
「あなたの見事な腕前には感心したわ!
もういいでしょう? 姿を現してちょうだい」
シルヴィアが唖然としていると、ユニの前にふわりと長身の男が降り立った。
慌てて上を仰ぐと、男が飛び降りた大枝は、地上から七、八メートルの高さがある。
それなのに軽やかな着地で、音もほとんど聞こえなかった。
身体が反射的に動いた。シルヴィアは剣の柄に手をかけ、低い姿勢で飛び出した。
『ユニさんが襲われる前に、斬りかかる!』
――のつもりだったが、その足が突然止まり、勢い余ってたたらを踏んだ。
ユニと男が握手を交わしたのだ。
シルヴィアは事態が理解できず、呆けたようにその様子を見詰めていた。
ユニはシルヴィアの間抜け顔に気づき、思わず吹き出した。
「何て顔してるのよ、シルヴィア。
心配いらないから、こっちへいらっしゃい。
エイナもその辺に隠れてるんでしょ? 出てきなさい」
がさがさと枝を掻き分ける音がして、茂みの中から葉っぱまみれのエイナが立ち上がった。
二人ともキツネにつままれたような表情で、ユニのもとに近寄ってきた。
「紹介するわ。この人は青森族のエルフ、〝見張りの人〟よ。
この呼び方でいいかしら?」
ユニは背の高いエルフの顔を見上げた。
「それで構わない。君たちに私の名が発音できないことは知っているからね」
エルフの許可を得たユニはうなずき、今度はシルヴィアとエイナを紹介する。
「金髪で背の高い方がシルヴィア。あたしと同じリスト王国の召喚士よ。
彼女の幻獣はカーバンクルでね、もうじき戻ってくるわ。
黒髪の子はエイナ。彼女は魔導士ね」
エルフの男はエイナに軽く頭を下げ、シルヴィアに対しては覗き込むように顔を近づけた。かなり興味を惹かれたらしい。
「人間がカーバンクルを召喚したのか? それは凄いな。
私は千年近く生きているが、あの種族を見たのは一度だけだ」
男の言葉はきれいな中原語(大陸標準語)だった。
ほっそりとした端正な顔立ちに、切れ長の落ち着いた眼差し、エルフの特徴である長く尖った耳をしていた。
光の加減で色が変わる淡い緑色の服を着ており、肩には弓と矢筒をかけている。
相手に敵意がないと理解すると同時に、シルヴィアはエルフの男に喰ってかかった。
「なぜ攻撃したのですか!
ドワーフたちは、私たちが森に入ることを伝えると約束していました。何日も前の話です!
あなたはそれを知らなかったのですか?」
「ちょっとシルヴィア、よしなさい」
ユニが止めに入ったが、エルフはシルヴィアの激昂を意に介さなかった。
「君たちのことは、もちろん聞かされた。
私は見張りだからね」
「では、なぜ!」
「私が見張りだからだ。
見張りは侵入者が誰であろうと、まず警告をしなくてはならない」
「敵ではないと分かっていてもですか?」
「そうだ。それが見張りの役目だ」
「話にならないわ!」
シルヴィアは子どものように地団太を踏んだ。
「まぁまぁ、その辺にしておきなさい。
彼は見張りの人だから、自分の役目を果たしただけなの。
ドワーフが予告していたから、あたしたちは無事なのよ。
そうでなかったら、エルフが的を外すわけがないでしょう?」
「あたしたちが敵じゃないと知っているのに、警告する必要があるのですか?」
「もう、どう言ったら分かるのかしら。
これは一種の挨拶って言うか、儀式なのよ」
「儀式……ですか?」
「そう。
訪問者に対して弓の腕前を披露して、自分の存在とその庇護下にあることを知らせたのよ。
何もせずにいきなり姿を現したら、相手を驚かすし、失礼だと考えるわけ」
「いやいや、いきなり矢を射かけるほうが驚きますけど」
「相手の実力を推し量る意味もあるんだけどね。多分、シルヴィアとエイナの反応は合格だったんじゃないかしら。
あたしも毎回これをやられているわ。まぁ、古式ゆかしい様式美よね」
ユニは肩をすくめると、エルフの方に向き直った。
「ドワーフたちから聞いていると思うけど、この二人はリスト王国の君主、レテイシア様からの正式な使者です。
アッシュに会いたいの。案内を頼めるかしら?」
見張りのエルフは無表情でうなずいた。
「無論だ。だが、私はここを離れることができない。
だから代わりの者を呼んでいる」
彼は頭上を見上げて「▲♪◎¥=&」と呼びかけた。
複雑な和音で構成された歌のようで、一人でそんな音が出せるのが信じられないが、それがエルフの言葉らしい。
そしてお約束のように、エイナたちの目の前にエルフが降ってきた。
今度のエルフは小柄な少女だった。
短めの薄物を身につけ、触れたら折れてしまいそうな細い胴に、すらりと伸びた手足を惜しげもなく晒している。
幼そうな顔立ちで、胸もほとんど膨れていなかった。
ユニは彼女と顔見知りらしく、嬉しそうに軽い抱擁を交わした。
「久し振りね、メルエル。また会えて嬉しいわ」
「何を言う。ついこの間会ったばかりだろう?」
「人間にとっての七年は、十分に昔なのよ。
どうせ樹の上で聞いていたんでしょうけど、この娘たちはエイナとシルヴィアよ」
少女は二人に軽くうなずいてみせた。
「メルエルだ……と言っても、これはユニが勝手につけた名前だがな。
君たちもそう呼んでくれて構わないよ」
彼女の言葉遣いは、その容姿に反してかなり大人びている。
エルフは長命種なので、見た目以上の歳なのだろう。
シルヴィアが儀礼的な挨拶を返すが、彼女は無表情で聞いている。
見張りの男もそうだが、エルフはあまり感情を表に出さないらしい。
続いてエイナが似たような挨拶を始めると、メルエルのきれいな銀髪を押しのけ、長い耳がぴょこんと立った。
素っ気なかった少女の表情がくるりと変わり、愛らしい笑みが浮かぶ。
茂みの間から、オオカミとカー君が出てきたのだ。
オオカミたちは尻尾を振りながらエルフを取り囲み、『お~、エルフだエルフだ』と言いながら、盛んに匂いを嗅ぎまくる。
カー君はその輪に入らなかったが、やはり嬉しそうだった。長い尻尾が蛇のようにうねり、ぱたんと地面を叩く。
『わぁ、本当にエルフだ!』
二人のエルフは、ひとしきりオオカミたちの首や喉を掻いたり、鼻をつけあったりして挨拶をしたが、やがて彼らを押しのけてカー君に近寄った。
「これは見事な……もう翼まで生えているではないか!」
「ええ、もう幼生中期といったところですね。
カーバンクルさん、あなたのお名前を教えてちょうだい」
『えっと、僕のことはカー君と呼んでください。
この世界でエルフの方々にお会いするのは初めてで、とても嬉しいです』
「まぁ、きちんと言葉も伝えられるのですね。
どれほど魔石を取り込んだのですか?」
『黄色いのと白いのです。
白いのはドワーフたちから貰ったんだけど、まだ食べてから三日しか経っていないの』
「そうですか。
私たちは残念ながら魔石を持っていませんが、王は外の世界をたくさん見てきた人ですから、何か情報をお持ちかもしれませんよ」
「翼を得たということは、飛べるようになったのですね?
この森は精気に溢れています。滞在の間に飛行に馴れるとよいでしょう」
メルエルは優しくカー君の頭を撫でてから、ユニたちの方に向き直った。
「それでは、アッシュ様のもとへご案内します。
オオカミたちの足なら、四日もあれば十分でしょう」
エイナとシルヴィアは顔を見合わせた。そこまで日数がかかるとは思っていなかったのだ。
ユニだけは当然のこととして受け取っている。
「メルエルもうちのオオカミに乗っていく?」
「そうさせてください。
私としては、樹上を行く方が早いのですが、それでは案内になりませんからね」
* *
かくしてエルフの森の旅が始まった。
メルエルはユニと一緒にライガの背に乗ったが、巨大なオオカミは乗り手が増えても、まったく苦にしなかった。
カー君は飛行訓練も兼ねて、上空を飛ぶことになった。
エルフの言うとおり、森は上空まで精気に満ちており、地中の空洞で飛んだ時のような疲労は感じない。
生い茂る樹木に隠れて一行を見失っても、シルヴィアの意識をたどれば簡単に位置が掴める。
そのため、カー君は高度や速度の限界を試しながら、上空を自由に舞い続けた。
旅の間は、ほかのエルフに出会うことはなかったが、エイナもシルヴィアも、自分たちが常に監視されていることを、はっきりと感じていた。
よく管理された森は、また多くの生き物の気配で溢れていた。オオカミたちは休憩のたび、地面に残る足跡を嗅ぐので忙しい。
メルエルの話では、危険な肉食獣も棲息しているらしいが、姿を見せないエルフの護衛のせいで、まったく危険は感じなかった。
野営も快適なものだった。メイリンがたっぷりと食糧を持たせてくれたからだ。
メルエルは食べられる野草や木の実を集めてきてくれたし、きれいな水のありかも熟知していた。
王国を出てから最も楽な旅であったが、同時に退屈な日々でもあった。
とにかく、どこまで進んでも、周囲の景色がまったく変わらないのだ。
エイナとシルヴィアがそんな感想を洩らすと、エルメルは深い溜め息をついた。
エルフにしてみれば森は変化に満ちており、その景色は刻々と変わっていく。
それが分からない人間とは、どうしようもなく哀れなのだそうだ。
西の森に入って四日目の午後、ようやく人間にもそれと分かる変化が訪れた。
突然に開けた場所が現れたのだ。
直径二百メートルほどの円形の広場には一本の立木もなく、全体が柔らかな芝生で覆われていた。
そして、広場を囲む巨木の大枝には、そこかしこに小屋のようなものがかけられていた。
枝の上には何人かのエルフが行き交う姿も見える。
メルエルの説明では、森の中にはこうした広場がいくつかあり、エルフの集会場となっているのだそうだ。
その中で、寂寥山脈に一番近いこの場所が、人間の使者を歓迎する会場として選ばれたのだという。
一行は二人のエルフの女性に出迎えられた。どちらもメルエルと比べると、ずっと落ち着いた大人の雰囲気を漂わせている。
彼女たちは、広場の外れに建てられた、簡素だが清潔な小屋へ案内してくれた。ここが滞在中の宿泊所になるという。
エルフは樹上で暮らすのだが、それでは人間は落ち着かないだろうと、わざわざ建ててくれたものだそうだ。
小屋の骨組みと床は木製だったが、壁や扉は草や蔦で編んだ簾のようなものでできていた。
一見すると隙間風が入って寒そうだったが、実際に中に入ってみると意外に暖かい。どこにも火の気がなかったので、何らかの魔法がかかっているのだろう。
それほど広い小屋ではないが、干し草を積んだ三人分のベッド、テーブルと椅子が置かれ、壁際の小さな棚には茶器が収められていた。
ちなみに、こうした家具や茶器は、すべてドワーフ製である。
ユニたちはエルフの女性に礼を言って、オオカミたちが運んでくれた荷物を運び入れた。
ゆっくりと休んでいる余裕はなかった。着いたからにはまずエルフの女王に謁見して挨拶をしなくてはならない。
エイナとシルヴィアは正式な国の使者であるから、失礼がないよう身支度をしなくてはならない。
ありがたいことに、小屋の裏には風呂桶も用意されていた。
桶にはきれいなお湯が張られ、周囲には目隠しの葦簀が回されていた。
風呂好きな女たちが、大いに喜んだことは言うまでもない。
さっぱりとして小屋に戻ると、新しい下着に替え、持参してきた第一種礼装を身に着ける。
通常着用する軍服は、女性であっても下はズボンである。
スカートを着用するのは事務系、あるいは秘書など内勤の者だけで、その場合はひざ丈のタイトスカートとなる。
しかし、王族の前に出る時などに着用する〝第一種礼装〟は、足をまったく見せないロングスカートであった。
冬服は黒い厚手の生地(夏服は白)で、金モールの刺繍と金ボタンで装飾された上着にシンプルなスカートを合わせる。
白いブラウスに黒いリボンタイが襟元を引き締める。もちろん帽子もセットであった。
エイナとシルヴィアは、めったに着ない礼装に悪戦苦闘しつつ、どうにか着替えを済ませた。
ユニは軍人ではないし、立場としては単なる案内人なので、いつもの狩人のような恰好のままである。
一応、シルヴィアが正使、エイナが副使ということになっている。
したがって、レテイシア女王からの親書はシルヴィアが、贈答品はエイナが持つこととなった。
二時間近く要した準備が整うと、二人は外で辛抱強く待っていてくれたエルフにその旨を伝えた。
礼儀正しいエルフの女性たちは、シルヴィアたちの礼服姿を褒めるのを忘れなかった。
そして、エルフ側の用意ができたら呼びにくると約束し、去っていった。
小屋の中で待つ間、二人は緊張で落ち着かなかった。
そのため、自分は関係ないという顔をしているユニに、アッシュ女王の人物像を訊き出すことで気を紛らわした。
「そうねえ、年齢はメルエルと同じくらいかしら。
見た目は少女だけど、ちゃんと成人はしているわよ」
「成人って、ドワーフは五十歳でしたよね。エルフは何歳なんですか?」
「三百歳よ。アッシュは三百十歳を少し超したくらいのはずだわ。
エイナと同じ黒髪で、シルヴィアよりも美人ね。
これは正式な会見だから、彼女も正装してくると思うけど、あんまりジロジロ見ちゃ駄目よ」
「そんな失礼なことしませんよ!」
シルヴィアが口を尖らせた。エルフの女王の方が美人だと言われて傷ついたらしい。
二人は自分たちが準備に時間をかけたので、きっとしばらく待たされるのだろうと思ったが、エルフの女性たちは案外早くに戻ってきた。
彼女たちは小屋の中に顔を出し、式典の準備が整ったことを知らせてくれた。
エイナとシルヴィアは、緊張の面持ちで小屋の入口にかかった簾を撥ね上げ、外に出た。
だが、彼女たちは小屋の前で立ちすくんでしまった。
二人の目の前には、予想もしなかった光景が広がっていたのだ。